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時のしるしを見きわめる(第53回) リック・ジョイナー 10月27日

時のしるしを見きわめる(第53回)

リック・ジョイナー


 最近行われたアメリカの教会に関する調査結果を見ると、アメリカ人の65%が自分はボーンアゲインしたクリスチャンだと言っているにもかかわらず、キリスト教的世界観、即ち聖書的世界観を持っている人はわずか3%に過ぎないというショッキングな事実がわかります。キリスト教的世界観を持つという意味は、イエス•キリストと同じ視点で世界を見ることであり、又キリストの教えを知りそれに従うということです。

 ボーンアゲインしたと自認する人の数とキリストの基本的なものを反映した生き方をしている人、即ちキリストの視点で世界を見る人とのギャップがこのように大きいということは、私たちがキリストの(宣教)大命令をほとんど果たしていないことを示しています。私たちはただ人々を回心させるだけではなく、弟子を作リ彼らの主が命じられたことをすべて 教えるようにと命じられているのです。

 アメリカのキリスト教のこの基本的な失敗を正すにはどうすればよいのでしょうか。まずこの問題があることを認識することが第一歩でしょう。人々をキリストを信じる決心に導きボーンアゲインさせてから、教会が 彼らを「キリストに似る者」へと成長させることに失敗しているのは明らかであり、それは 弟子を作れという主の命令を悲劇的なほどに割り引いたものにしてしまっています。これは回心者を起こす働きをする伝道者への批判ではなく、そのような伝道者の働きをフォローすべき教会がその役目を果たしてないということです。


 使徒行伝を見てみると、一つの地方でリバイバルが起こると、そこに使徒がリーダーによって遣わされ、新しい信者がキリストの弟子として確立するようにフォローアップする働きをしました。明らかに今この記事を読んでおられるあなたは、キリストの弟子であり、主から学び、自分も主と同じ視点で世界を見たいと望んでおられる方だと思います。けれども、今の教会の様子から考えると、そのように決心された皆さんのほとんどは教会からそのように導かれたのではなく、ご自分でそのような道を選ばれたのだと思います。それはそれで素晴らしいことに違いないのですが、新しい信者たちは自分の教会からもっと助けを受ける必要があるのです。

 新生児は自分ではほとんど何も出来ず、基本的なことが出来るようになるまでには長い間いつも誰かに世話をしてもらう必要があります。私たちがボーンアゲインしたとき、ほとんどの者が霊的には同じようなレベルにあります。 霊的に自分を養うために何をすればよいのかわかりません。
 
 今日アメリカではほとんどの人は小さい時に教会には行っておらず、聖書に関して無知ですから、特にそうといえます。彼らはキリスト教に関する書籍、CD、DVDとか他にどのような助けがあるのかも教えてもらわねばわかりません。そういうものがあるとわかったとしても、何かを推薦してもらわねばどれから始めればいいのかわかりません。
 
 又、生まれたばかりの者がまだ弱い内に食い殺してしまうのがサタンの常とう手段なので、新しい信者を脱落させるための絶え間ない誘惑と攻撃が彼らにむけられます。幼子が無防備であるように新しい信者もサタンの策略に対して無防備ですから、彼らはしばらくは絶え間ない世話を必要とするのです。そしてこのように他の信者から世話を受けることによって築く関係こそが、新しい信者がキリストの身体と絆を結ぶきっかけとなるのです。


 私がこれをお話する理由は、教会が次の大リバイバルに入る前にこのことを改めないと、リバイバルによる実の多くが失われてしまうことになるからなのです。この実とは単にりんごとかオレンジとかではなくて、神ご自身の民であり、 弟子にせよと主が私たちに命じられた人々です。 これが教会と教会のリーダーたちに与えられた基本的な責任です。ヘブル13:17でこう言われています。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。」

 私たちが自分に委ねられている人々のために弁明するとは大変重大なことです。もし誰かに自分の子どもたちの世話を頼んで出かけ、帰ってきてみるとキチンと世話をされていなかったことを発見したならば、信頼して任せた人たちに対して私はよい感情は持たないでしょう。

 1970 年代の「ディサイプルシップ 弟子訓練」や「シェパーディング」のムーブメントの中にいた者の多くは、リーダーへの服従やリーダーによるコントロールを強調し過ぎました。その反動として次世代は弟子訓練に対し疑いを持つに至りました。しかしながら、そうだからといって 私たちに与えられている最も基本的な命令であり責任が、教会から取り除かれるままにしておくことはできません。

 真の弟子訓練はリーダーの支配力を増大して人々を縛るものではなく、人々を真理によって自由にし、キリストにあって成熟するのを助け、 私たちの助けを必要としなくなるまでに彼らを成長させることです。真の弟子訓練は、肉の家族よりも強い霊の家族の絆を築きますが、それはコントロールや支配によるものではなく愛と奉仕によるものです。

 「シェパーディング ムーブメント」に関わっていたリーダーの中で非常に間違ってしまった人たちを私は知っています。彼らは人を支配するような人とは思えませんでしたし、真の牧者として弟子作りをするには最もふさわしい人たちのようでした。しかし、そのシステムが何層にもなってくるにしたがい、一番上のレベルで教えられたことが下のレベルに行くにしたがって崩れて行ったのです。
 
 全員が十分の一献金を自分のシェパード(牧者)にしたので、明らかに多くの者はお金のために弟子を作ろうという動機を持ってしまいました。それだけが彼らの動機ではなかったかもしれませんが、それが少しでも混じっていたならば、地獄の大きな門は腐敗への扉を開いたのです。

 キリストにあってはマルチ・レベルの関係は私たちにはありません。聖書に神の孫という言葉はないことに気がつかれましたか。私たちはみんな神の一代目の息子、娘なのです。また、十分の一献金がシェパード(牧者)にいくとは書いてはありません。それは倉に納められて、シェパードや教会の諸々のミニストリー はその中から収入を得るべきなのです。
 私たちは神と人とに兼仕えることはできませんから、何であれ経済的動機でミニストリーをすることは絶対に避けねばなりません。

 勿論この問題に関しては一冊の本が書けるほどのことですが、私が言いたいのは、 教会に与えられている基本的な指令と責任である聖書的な弟子訓練を、私たちは回復せねばならないということです。教会が 聖書的世界観を持ち強くなるためには、このことは絶対に必要です。しかしそれ以上にこのことが大切な理由は、第一に神が求めておられる霊的家族としての関係をクリスチャンが持つためであり、次にすべての神の息子、娘たちの成熟を促すためです。

 この理由の故に、今の重要な「時のしるし」の一つは、キリストの身体による真の弟子訓練の回復を見ることにありましょう。過去における「シェパーディング ムーブメント」で多くの貴重な教訓を学んだのですから、今度は同じ間違いをしなくて済むのではないでしょうか。しかしもし又間違う人があるとしても、真の霊的な弟子訓練は、私たちに課せられている重要な聖書の命令なのですから今こそ真剣に行わねばならないのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-10-27 09:42 | アメリカからのメッセージ

下って行くな、そこに留まれ キャシー•ウオルター 10月19日

下って行くな、そこに留まれ

キャシー•ウオルター


飢饉

私の友人が数週間前にポルトガルから一つのメッセージを送ってくれ、それをきっかけとして主は創世記26章のイサクとその地の飢饉の話を通じて私に語り始められました。

私は皆さんを力づける意味で「下って行かないで、、」と申し上げたいのです。御説明しましょう。イサクは自分の町ではなく他国に住んでいました。彼はカナンに住んでいましたが、そこに飢饉が起こりました。人々は皆カナンから出ていきました。生きるためには食料のあるところに行かねばなりませんから、それを責めるわけにはいきません。

イサクも自分の故郷、メソポタミアに帰りたかったのです。しかし神が彼に「下っていくな。そこに留まれ。」と語られたのです。それは聞く者にフラストレーションを起こさせる言葉でした。それは丁度モーセが目の前に紅海があり、後ろには迫り来るパロとその軍隊がいて、その間に挟まれた時に似ています。神はモーセに「じっとしていなさい。」と言われたのです。えっ、何ですって? 私なら「助かりたいなら逃げろ!」と神が言われると思ったことでしょう。そしてモーセもイスラエルの民にそう叫びたかったに違いないと思うのです。

神はイサクに「下っていくな、そこに留まれ。」と言われたばかりか、「種をまけ。わたしはあなたを祝福するであろう。」と言われたのです。それでイサクはそこに留まりましたが、何も起こらないようでした。飢饉だったのですからどんな実りもあたりには見当たりませんでした。飢饉とは「極度の食料不足」ということです。イサクは自分の目に映るすべてのものよりも主の言葉を信じることを選びとらねばなりませんでした。

何も起こらないように見えました。何の匂いもしませんでした。何の音もしませんでした。飢饉だったのですから、何もなかったのです。しかしイサクは種を蒔き、あたかも畑は麗しく育っているかのように振る舞ったのです。彼に投げかけられた色々な言葉が聞こえるようではありませんか。

「一体何をやってるんだい?」「どうしてここから出て行かないんだ?」「食料をどうにかして得ようとなんでしないんだ?」「どうして自分の国に帰らないのだ? 気でも違ったのか? ここにはおれないぞ。」

でも、イサクは何事もないように平常通り暮らしたのです。どうしてかお分かりになりますか? それは彼が回りの状況から情報を得たのではないからです。彼は究極の情報家である聖霊から情報を得たのです。

あなたはなにか困難な状況の中を通ったことがありますか? 人々から否定的な言葉を投げつけられたことがありますか? もしあなたが盗人や強盗がいる町の近くにいるならば、私は「そこには行かないように」と言うでしょう。

最近私はオーストリアのパースという町の近くにいったのですが、一緒にいた婦人が「この地域は昼間はよい所だけれど、夜は危険だから来ては駄目ですよ。いろんな事件が起こるのよ。」と注意してくれました。それを知らされてあなたはそこに散歩に行きますか? 訪ねていったりしますか? 勿論行きませんね。

でも、時々あなたは古傷を訪ね、自分の古い否定的な感情に相談したり、決して自分のためにならないと知っている考え方と連絡をとったりするのです。あなたがもはや解放されたのなら、あなたの思いの中の昔よく行って親しんだ場所を訪れてはいけません。絶対にあなたの益にはなりません。聖霊という情報家の言う事を聞いてください。

イサクはこの地で栄えました。それはこの土地が飢饉と神の人の両方を一度に受け入れることは出来なかったからです。ですから飢饉は去らねばなりませんでした!イサクはますます栄え、羊の群れや牛の群れを持つようになりました。12節にはイサクは「その年に百倍の収穫を得た」と書かれています。ペリシテ人たちはイサクがあまりにも富んだので立腹し、彼にこの地から出て行くように要求しました。イサクは従いました。彼はゲラルの谷に古い井戸を見つけ、それを再び掘りました。最初の二つはゲラルの羊飼いたちと争わねばなりませんでしたが、三つ目は大丈夫でした。その井戸はレホボテ(争いがない)と呼ばれました。

イサクが去ったあと、ペリシテ人たちは自分たちの祝福の源を失ったことを知り、イサクに戻ってほしいと思いました。28節「私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。」と彼らは言いました。あなたの敵でさえ、神の御手があなたの人生の上に置かれていることがわかるのです。敵があなたを嫌っていたとしても、あなたの持っているものを欲しいと彼らは願うのです。

主の御声があなたの鍵

あなたの鍵となるのは主の御声です。主はいつ移動するべきか、いつ留まるべきかをご存知です。祝福する方に耳を傾けるとき、あなたは祝福されます。自分で見たり聞いたり感じたものによって行動するようにはあなたは召されていません。天の父があなたにするように告げられることをするようにと召されているのです。私たちは状況や事情によってではなく、神の御霊、御声によって導かれるのです。信仰によって私たちは生きるのです。

何年も前のことですが、私たちはフロリダ州のオーランドに住んでいましたが、その町を出るようにとのはっきりした主からの言葉を受け取りました。問題はその天からの御声は次にどこへ行けとは言われなかったことです。でもあなたが耳を傾ければ主ははっきりと指示を与えてくださることをご存知ですか? 私たちは「わかりました。ではこの町を出る事にします。でもいくつかのことを助けてもらわねばなりません。」と主に申し上げたのです。

例えば「どうやって家を売れはいいでしょうか?」ということです。それは厄介なことだったのです。というのは当時その地域は新築の家が余っていて、建築業者達はそれを格安に売り出していたので、私たちの家のようなものは売りにくい状況でした。聖霊が 「パッと明るい色の花を200ドル分買って家の前に植えなさい。’For Sale by Owner’(不動産屋を通さないで持ち主が直接売る)という看板を立てなさい。」と言われました。

数週間後にある男の人から 家を見に来たいという電話がありました。彼らが着たとき奥さんが「この地域で家を探していたんではないんですけど、この辺りを車で走るたびにこの花が目に入ったのよ。」と言うのです。彼らは花に惹かれてこの家に興味を持ちました。この件に関しては他にも沢山超自然的なことが起こりました。今それらをお話はしませんが、大事なことは次のことです。

聞きなさい。主があなたに言われることがなんであってもそれに従って実行しなさい。主はあなたがはっきりわからないままにほってはおかれません。主はあなたのお父さまであり、ご自分の子どもたちに話されるのです。あなたは主の御声を聞くことができます。アンテナをいつも掲げていてください。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-10-19 14:20 | アメリカからのメッセージ

常に喜ぶ グラハム•クック    2009年10月17日

常に喜ぶ

グラハム•クック



キリストの内に生きると、私たちはよく笑うようになります。 笑ったり笑わなかったりすることは私たちが 決めることである以上に、ハッピーであることはクリスチャンとして必須条件です。私たちの人生に対する神のご計画には、私たちがキリストにある愛と喜びを見つけその愛と喜びの中で生きることも含まれています。神はすばらしい福音です! 主の愛と臨在は私たちの人生を元気づけるために不可欠且つ完璧なものなのです。

イエスはヨハネ15:11で「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」と言われました。神が私たちに語られたりご自分の性質を啓示されるときは、喜びが常に伴います。主を見つめ主の似姿に変えられていくのは、主のパーティーに招待され主と共に大いにお祝いをすることです。神が私たちに語られるすべての言葉は私たちを喜びの中に引き入れるようにデザインされているのです。天の御国のものはすべて、うれしさ、喜び、幸せ、笑いに関することなのです。神は私たちがにっこりと微笑むのを見たいのです。


神は次に何が起こるかをご存知なので、喜んでおられるのです。主は最終的な試合結果を知っておられます。初めから終わりを知っていると、敵の邪悪な計画や悪巧みを見ると笑わずにはおれないのです。 最終的には必ず勝利することを 知っていると、敵の策略は私たちにとって全く力を持たないものとなります。キリストの内にある喜びが絶えず私たちの心の深い所に流れていて、何者もそれに触れることは出来ません。しかし、そのような喜びを手に入れるためには、すべてのことを喜ぶ方法を会得する必要があります。

私にとって喜びは防衛手段です。敵に対する盾です。敵が攻めてきたとき、私たちは敵の面前で笑うことができるのです。それはまず神が敵を笑われるからです。

以前私は自分が戦場にいる夢を見ました。こちらの軍隊は敵をどうにか振り払ったところでしたが、多くの勇士を失いました。生き残ったものは多くはありませんでした。正直なところ私たちは少数であわれな状態でした。傷を負っていないものはありませんでした。私自身も少なくとも12カ所くらいの刀傷を腕に負っていました。出血もひどく、全く疲労困憊していました。

突然トランペットが鳴り響き、もう一つの敵軍が私たちの前に迫っているのがわかりました。あたりを見ると私たちのための援軍はありません。敵軍は力を増しています。刻一刻、彼らの軍列はふくれあがって行きます。勝ち目がない戦いでしたが、私たち憔悴した生き残りの者たちは集り戦闘態勢をとりました。


私が足場を固めて敵の襲撃に備えて歯を食いしばって立っているとき、私の横にレストランのウエイターのような格好をした男がいるのに気がつきました。折り目正しい黒いズボンに蝶ネクタイ、糊のきいたワイシャツを着て腕には白いタオルをかけていました。

「 一体何をしているんですか?」と私は信じられない思いで尋ねました。
「メロンとスープとどちらになさいますか?」と彼は答えました。
「えっ、何だって?」と私は聞き返しました。
「メロンですか、スープですか?」と彼は言いました。
「こんな時に食べ物の話なんかどうしてできるんだ?」と私は問いただしました。

ウエイターは私を無視して、一人ひとりに「メロンになさいますか?スープですか?」と聞いてまわりました。
「気でも違ったのか? 今起こっていることがわからないのか? 地面は血だらけなのが見えないのか?
 あそこにいる敵が見えないのか? こんなときになんでランチのことなんか話せるんだ。」と私は言いました。
「えーと、メロンですか、スープですか?」と彼は答えました。
私はすっかり腹を立ててしまいました。「おまえは馬鹿かなんかか? こんな時に食べ物の話をしたいのか?」と私は金切り声で叫びました。

突然私は目をさまし、自分のベッドルームで「食べ物の話なんて!」と叫んでいる自分に気がつきました。その瞬間、私はパワフルな啓示を受けたのです。それは詩編23:5「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ」という箇所です。

私たちが戦場で敵からの次の襲撃をどうにかして乗り切ろうと構えているとき、神はメニューを考えておられるのです。主はあたりを見回して、「ここはなんとピクニックに最適な場所なんだろう! ソーセージパンやミートパイ、チーズサンドイッチがいいだろう。本当に最高だ。」と言われるのです。神はどのような敵をも打ち破ることがおできになり、ご自分の力を完全に確信し平安をもっておられるので、 たとえ私たちが人生の最悪の戦いのただ中にあっても食事を与えてくださることが出来るのです。そして私たちがそれを確信することこそ、人生で全き喜びを持つ源となるはずなのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-10-17 07:47 | 主と個人的に深い交わりを持つ

幻 (その2) ジェシカ•ジョーンズ 2009年10月11日

幻 (その2)


ジェシカ•ジョーンズ


創世記にはアベルの血が地から叫び、神はそれを聞かれたと書かれています。それは血が声を持っていたことを示しています。血が叫ぶためには声が必要だからです。

神がこの声をどのように聞かれるのかを少し深く調べたいと思います。神は一体何を聞かれるのでしょうか? 箴言15:29に「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。」とあります。

しかし詩編66:18には「もし私の心にいだく不義(iniquity)があるなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。

「不義 iniquity」という言葉は、邪悪、堕落、犯罪、不道徳等を意味する「’avon」という言葉に由来し、その語幹である「’avah」は曲げる、よじる、歪めるという意味を持っています。

もしもあなたが祈るときの動機が不純であり正しくないならば、それは即ち主が真理や正義を曲げ、よじり、歪めることを主に願っているのですから、それが聞き入れられることはありません。私たちの言葉の色彩を変えるのは私たちの心(動機)にある邪悪さです。それが私たちの言葉を汚して白くない(不義、不正、聖くない)ものにしてしまうのです。

詩編145:18「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求めるすべてに主は近くにあられる。」

誠実さと忠実さを持って主のみこころを求め従おうとするすべての者の近く(s空間的にも時間的にも) に主はおられるのです。主のみこころは私たちにとって常に良いものです。主はすべてのものを私たちの益となるように創られました。 私たちが自分や人々のために必ず益となる主のみこころと一致して祈るとき、私たちは花嫁としての自分の役割を果たすことができ、主と共に働いて良いものを造りだすことができます。この場合、 主のみこころと一つになっている故に私たちの祈りは白いのです。

ヨハネ9:31「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」

ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」

罪は罪です。私たちすべてが犯してしまうものです。 しかし、もしも私があなたに対して罪を犯したならば、敵に侵略する法的権利を与えないために私はその罪を告白せねばなりません。言い換えれば、もし私があなたに対する罪を告白するならば、もはや敵が私たちの間にくさびを打ち込み私たちの仲を裂き、怒り(それは罪です)を起こさせようと侵入する扉を閉じることができるのです。

罪を告白し悔い改めることは、人と人との間や神との間に一致をもたらします。告白と悔い改めだけが私たちが義とされる唯一の道なのです。この世のすべての祈りや施し、またすべての善行もあなたを義人にすることはできません。私たちに赦し、いやし、義、不朽や不死をもたらすのは、告白と悔い改めだけなのです。

主はまことをもって主を呼び求めるすべての者の声を聞いてくださるのです。それが解放と自由のための鍵です。私たちは真実でなければなりません。真実は告白と悔い改めであり、自分自身と神と人に対して正直であることです。してしまったことが恥なのではなく、それをそのままにしておくことが恥なのです。


父なる神よ、あなたは私たちがあなたの御顔を拝しあなたの声を聞く力を与えてくださいました。イエスはこのようなキングダム•ライフをすべての者に回復するために死んでくださいました。あなたは私たちにそのための機会、力、憐れみ、恵みをくださいました。あなたはすべてのものを創られました。あなたは私たちすべてを御手の中に持っておられ、私たちを愛する故にいつもあなたの目が届くところに私たちをおいておられます。

あなたは私たちの近くにいつもおられます。それは私たちが正しく聖なる者となる方法をやっと学び始めたからです。どうかあなたをいつも私たちの目の近くに置く事を教えてください。おお主よ、私たちは何が必要であるのか、敵の手から完全に自由になるにはどうすればよいのかを教えてください。私を解放してください、主よ。私が知るべきことを教えてください。私が創られた目的であるあなたの花嫁になるために解放を与えてください。イエスの名によって祈ります。アーメン


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by walkwithgod | 2009-10-11 16:58 | アメリカからのメッセージ

幻 (その1) ジェシカ•ジョーンズ 2009年10月4日

幻 (その1) 

ジェシカ•ジョーンズ

私の心は今にも破裂しそうにわくわくしていて、どこからお話したらいいのかわからないほどです。今私たちは本当にエクサイティングな時に生かされています。昨年神はすべての事柄をそれが本来あるべき場所に位置され、それによって私たちのこころとまわりの状況を整えられました。今年は主が今までに用意されていたものを実現される時です。 今年は私たちがずっと待っていたもの、ずっと祈っていたものの多くを見る年なのです。

でも私は待ちきれない気持ちです。今すべてが実現するのを見たいのです。待ちくたびれました。でも私にとって「一生の間」と思えることが主にとっては一瞬にすぎないのです。それをどうすれば私は悟ることができるのでしょうか? 私たちは主と同じように考えねばなりません。自分の人生の長さを計りの尺度にするのではなく永遠という時間の尺度で計るのです。そして神が一歩次のステップを踏み出されるためには、何億という人々をキチンと正しく整えねばならないことを思うとき、私は謙虚にされ畏れの念を持つのです。どうしてそのように多くの人々を整える必要があるのでしょうか? 

それは私たちが共同で働いているからです。私たち全員がキリストの花嫁であり、一つにつながれているのです。悲しいことに、ある人たち、いや人類の大部分は、花嫁としての座に着かないのですが、本来私たちはすべてその目的のために創造されたのです。私たちのまわりを見てみれば、神からの約束や相続を奪われて絶望という岩に乗り上げてしまっている破壊された人生を沢山見ることができます。それはサタンが花嫁に対して戦いを挑み、その成果上げてきたことの証拠に他なりません。

黙示録の中で花嫁はただ一つの声を持っています。私たちは今完全に一致して一つの声となるべきなのです。しかしまだ私たちはその一致に至ってはいません。

私たち皆が一致してはいません。クリスチャンはこの世と一致していません。この世の彼らもお互いに一致していません。私はクリスチャンがこの世と一致するべきだと言っているのではありません。しかし、この世もまた花嫁の一部となるようにと創造されているのです。ギャングやホームレス、麻薬を売買したり常用したりしている人たちも花嫁の一部となるようにと創造されたのです。しかし彼らは愚かな花嫁であり、十分な油を用意しなかったか、全く持っていなかったのです。

しかし、どのような考えであったとしても、すべての人は自分のいるべき位置についていなければなりません。私たち一人ひとりは自分が接触を持つ自分の周囲に影響を及ぼすだけではなく、間接的に世界にも影響を与え、また次の世代にも影響を与えます。私たちの世代は自分たちの将来だけではなく世界の将来も決めていくのです。今の世代が将来に影響を与えます。私たちは孤立しているどころか、決して一人で行動しているのではないのです。即ち私たちは自分が造り出している音(サウンド)のバイブレーション(振動)に責任を持たねばならないのです。

二人の人が合意するには(たとえうなずくだけであったとしても)、その問題を議論することによって言葉によって合意に達し、合意の条件を明確に宣言したわけです。それは音の力を必要とすることです。そうですね、 話合いをしなくても書かれた文章によって合意することも出来ます。しかし紙に書くとかコンピューターに打ち込むときにも音が出るのであり、やはり音を必要とします。私たちのすることはすべて音を発するのです。

「音の振動」Sound vibrationとは興味深い言葉です。 この言葉を書くや否や私はヴィジョンの中にいる自分を発見しました。それは私たちがみんな音を発するというヴィジョンです。すべてのものが音を出します。合唱をする人もしない人もいると思いますが、私の言う「音」とは私たちが音と普通考えるものとは本当はなんの関係もないものです。 

私は以前、音痴の人の横で歌うのはとても苦手でした。私は「人について歌う」人だったので音痴の人につられてしまうからでした。私は「嫌だなあ」と思いました。神様は彼らの歌をどうして我慢できるのかと思いました。とてもよい声の人もあるし、ひどい人もいます。神はすべてのものをとても美しく造られたのに、どうして音痴な人をそのままにしておかれるのでしょう? 「アメリカン•アイドル」(歌の勝ち抜きコンクール)という番組を見たことがありますか? 非常に下手な人たちの中には、自分はとても上手だと信じている人がいるのです。本当にそう信じているのです!しかし、神にとっては彼らの声は美しいのです。審査員のサイモン(厳しい批評をする人)がするように顔をしかめて「まったく聞くに耐えない!」とは神は言われないのです。違います、主は全く慈しみの笑みを浮かべて「あなたは本当に美しい、あなたの声は素晴らしい!もっと歌ってください。」と言われるのです。主にむかって愛を歌うすべての声を主は実際心から愛し喜ばれるのです。私たちが気にするように人々の歌声が上手か下手かは、主にとっては重要なことではないのです。

どうしてそうなのでしょうか? どうか怒らないでください。それは他のどのような技能・能力、絵を画くことやダンスや何であっても同じなのです。あるものは恐ろしく下手であり、あるものはまあまあであり(平均)、あるものは上手です。全員が上手ということはありませんし、全員が下手ということもありません。それは私たちと全くかかわりがないことであり、なぜならばそれは聖霊が思いのままに賜物をくださるからです。それによってある人が他より優れているとか劣っているとかではありません。ある人が他の人とは異なるということだけです。私の賜物を皆さんと分け合えば皆さんも豊かになります。皆さんの賜物を私に分けてくだされば、お互いがもっと完全になって神からの賜物の全部を楽しむことができます。

神は私たち一人ひとりをすべて同じように愛してくださいます。主の目には私たちはみんな素晴らしいのです。ある人によくない声を与えてその人が歌うのをお聞きになって辟易する、という主ではありません。又、ある人によくない耳を与えてその人がバイオリンを弾くのを聞くのが苦痛だと思われる主でもありません。私たちはそう思いますが、主はそうではありません。

私たちは本当にちっぽけな考え方をします。偏見と裁きの態度です。誰が格好いいか、誰が悪いかを決めます。 歌が巧いのは誰か、 下手なのは誰かを決めます。何がいいか悪いかを決めます。多分これが「善悪の知識の木」の最大の悪でしょう。つまり「神が創造したすべてのもの、すべての人は良い」ということを忘れて、何が良いか何が悪いかを決めるという性質です。それは 歪んだ偏見に満ちたものの見方、即ちすべてのものを自分の好みや意見に照らし合わせて見る見方を私たちにさせるので、世界を 数えきれないくらいのグループに分割し、それを各々の境界線の中に閉じ込めてしまったものなのです。
これが大虐殺やある民族を絶滅させようとする戦争が過去100年間に数多く起こった理由です。アルメニヤ、スレベナ、ボスニヤーヘルゼゴビナ、ルワンダ、ブルンデイ、カンボジア、バングラディッシュ等での戦いで、花嫁になるべきだった2千3百万人以上が死にました。それに付け加えたのですが、アメリカだけで花嫁の53、227、874人以上が堕胎によって1973年から殺されています。それも私たちが自ら何が良くて何が悪いかを決めたからなのです。


神がルシファーを創造されたとき、神は悪ではなく善を創られました。しかしながらルシファーが自らを醜く悪であるものに変えたのです。神がよき方であることを疑い始め、自分で善悪を決めたのはルシファーでした。実のところ悪こそが醜いのであり、才能や能力、見かけの美しさが無いことは醜いことではありません。

私は人と会ったときに最初に抱く直感的な思い(第一印象)―それは生まれつきのもの、あるいは生後に習得したものから来るものを含め―を常に点検する必要を持っています。昨日ショッピングセンターを歩いていたとき、かかとが11センチもある偽革のブーツをはいている若い女性とすれ違いました。すぐに私に頭に浮かんだことは、なんて格好悪いブーツなんだろうという思いでした。すると聖霊が私を直ぐにチェックし、いくつかのことを私に示されました。

まず、そのブーツをデザインした人はそれは最高のデザインだと思ったということです。次にこの若い女性はこのブーツは素晴らしいと思い、誇りをもってはいているのです。私が好きではないとか、絶対はくことはない(私は2センチのヒールでも転んでしまいますから)からといってそのブーツが不格好であるわけではないのです。神様は多くの種類を創られる神ですから、私たちはみんな違っていて好みも違うのです。私たちはそれぞれがユニークで違っていることを喜び、自分と違う人々や彼らがすることを批判することを止めなければなりません。

歌と音の振動に話を戻しましょう。最近ある学校のタレントショウで見たことに私は非常に怒りを覚えました。一人の女の子(多分16歳)が誇らしげに紹介されたのですが、彼女はすばらしい才能の持ち主で歌のチームにとっても彼女が入ったことは幸いということでした。司会者は数分間も彼女の音楽的才能を褒めそやしました。しかし、他の同年の子達と同じように無邪気であるべきこの少女は、官能をそそるような歌を歌い、声も身振りも非常に醜く人の心を乱させるものでした。確かに彼女の声はすばらしかったと思いますが、彼女の中の他のすべての声はそうではなく、それらの醜い音が私の耳に達したのです。
いい声か悪い声かは別にして、私たちは皆声を持っています。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったものなのです。この合わさった声が音の振動を作り、それが第一、第二、そして第三の天にまで届くのです。

この音の振動がすべての人、すべてのものから発せられているのが私には見えます。事実、創世記に書かれている創造の記事を信じるならば、すべてのものは物体ではなくて音なのです。そしてすべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、それは肉の目を通して見る色とは違います。私たちは普通皮膚の色とか目の色とかをみますが、音の色は見え方が違うのです。丁度様々な音が合わさって一つのメロディーとなるように、それは色が渦巻いて見えるのです。ヴァン•ゴッホは(彼は宣教師でした)この音を見る能力を持っていて、その音の「生きた」エネルギーで絵を描いたのです。友人が彼から去ったとき 絶望して自分の耳を半分きり落としたほどに彼を狂気においやった原因は多分それだと思います。彼はもう自分に聞こえてくる音を聞きたくなかったのでしょうか?

さて、この音の振動が発せられて、他の全ての人が発する音の振動と一緒になることを想像してみてください。その音の振動は(大きな)力 forceとなります。イエスは「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」と言われました。ふたりの人が一致するならば、言葉の大きな力 forceを生むのです。その音は神の御座にまでとどき、神はふたりの霊、心、思いの一致によって動いてくださいます。

一致の色は白です。白という色は実はすべての色が(一致して)合わさったものであり、反対に黒はすべての色が無い(一致した色の欠如)ものです。聖書でイエスが白い衣を着ておられ、全創造の御座に座しておられる父が白い衣を着ておられ、白い髪、白いひげであると描写しているわけはここにあります。白は私たちすべての心、魂、身体が三位一体の神と一致し調和している色なのです。白は義の衣の色です。それはこの世が見るような皮膚の色とは何の関係もありません。(今アフリカではしらこ(albino)の虐殺が行われています。それは人々はしらこの皮膚には大きな力が秘められていると信じられ彼らの骨が高額で売買されているからです。)

音があなたから発せられ他の人の音と一緒になって第三の天にまで上っていくのを想像してください。そしてこの力が何百、何千、何百万という人々の力と一緒になり、第三の天にまで広がってゆき、愛、崇拝、感謝、創造、、、の力となっていくのを思い描いてください。

全世界が一致した花嫁で満ちあふれ、すべての音の振動が第三の天まで届くことを想像してください。その効果はどんなに素晴らしいことでしょうか? 自然界のある第一の天ではいのちは幾倍にも豊富に増し加わるでしょう。第三の天では絶えることのない祈りと天使の働きにより平和があり、すべての民が絶えず喜んでいるので言葉で表すことが出来ないほどの喜びが満ちることでしょう。地獄のような第二の天では嘆きと歯がみがあるでしょう。深い穴では彼らは千年の投獄を終えて出てくるときに人類を攻撃するための計画を練っているでしょう。

この一致した音の振動はパワフルな力です。それは創造し、回復し、力を与えます。それは3つの天を通ってすごい力で駆け抜けるのです。
私たちは音によって創られました。すべての人は音から創られ、音により音から形創られました。創世記にはすべてのものが神の言葉によって創られたとあります。私たちが話したり歌ったりする言葉には力があるのです。しかし私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があるのです。(続く)

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by walkwithgod | 2009-10-04 13:34 | アメリカからのメッセージ