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「Torah律法に帰れ」   坂  達 也  2009年12月28日

「Torah律法に帰れ」
                           坂  達 也


 私たちは現在ホノルルで、メシアニック・ジューのミニストリーに参加しておりますが、今世界的な出来事として云われていることは、ユダヤ人の間で「Torah律法に帰れ」という呼びかけの声が高まっていて、それが現実に起こり始めているそうです。しかしここで重要なことは、救世主イエスを信じる異邦人クリスチャンもそれに無関係ではないことです。このことはモーセが終わりの時代に起こることとして次のように預言しております。

「あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。 あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。」【申命記30:8-10、新共同訳】

 上記にある「この律法の書に記されている戒めと掟」の律法の原語がTorahです。皆さんは律法と聞くと今更なんで律法が持ち出されねばならないのか?と訝しく思われるかもしれません。事実ロマ書10:4に「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」【新改訳】又ガラテヤ3:13には「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。・・・」とあり、加えて2コリント3:6には「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」【新共同訳】と書いてあり、この文字とは書かれた律法を意味しますから、新約のクリスチャンはキリストさえ信じていれば律法は守らなくてよいと誤解される方がおられてもやむを得ないかもしれません。

イエスとTorah

 しかし、これが誤解であることは、イエスご自身が、マタイ5:17-18で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われていることから明白です。
 イエスという方は律法を生涯を通じて完全に守りきりました。そうすることによって律法の本来の趣旨・目的を完全に成就し実現した唯一の人間であることにご注目ください。律法を守りきったことによってイエスの人格が完成され、守りきったがゆえに彼が唯一「罪のない人間」となり、私たち全ての罪人の身代わりとして十字架上で人間の罪の贖罪ができたのです。

 罪とは何でしょうか。罪とは「…律法に逆らうことなのです。」と1ヨハネ3:4に書かれています。罪のギリシャ語はNOMOSですが、ヘブル語ではkhaw•tawが主な語源です。それは元々「ミスする、逸する」という意味であるそうです。「罪とは的を外すこと」と言う定義をお聞きになったことはありませんか。標的に向って矢を放って、的に外れることが元々の由来であると云はれます。この的、標的が神の律法Torahであるのです。つまり、人間の言動において一つも的を外れないことが「罪のない」人です。Torahは、狭い意味で神の律法の書、一般的にモーセ五書を指しますが、広い意味では神のことばである聖書全体の教え、契約、いましめを含みます。

 神が元々造られた人間は、罪を犯す前のアダムでした。しかしアダムが罪を犯して以来、神はその罪だらけの人間を元々意図した罪のない人間に返すことを願われ、ご自身の一人子をこの世に人間として生まれさせました。これが第二のアダムと云われるキリスト・イエスです。イエスはこの世においては全くの人間でした。その人間になった神の子が一つも罪を犯さない人間として一生を通すことが出来るかどうかが神の全創造にとっての最大の課題でありました。何故なら、イエスが一つでも罪を犯す(律法に反する)ならば、十字架で死んで人間を救うことが出来なくなるからです。イエスはイスラエル人として唯一人このテストに合格しました。イエスは神の律法のすべてを守ることによって罪の全くない人間・第二のアダムになられたのであって、これは大変重要なことです。

 私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じ、その後を追い、この方をモデルとしてキリストに似た者になることが最大の目標です。と言うことは、私たちも厳密な意味ではTorah律法を守らなければならないことになります。さもなければ罪を犯すことになるからです。又、律法を守ろうとしたのはユダヤ人のイエスだけではありませんでした。イエスを信じる弟子たちは皆、ペテロもパウロもユダヤ人として律法を守り、彼らにとって律法を捨てることは思いもよらないことでした。ですから、将来においてもモーセはユダヤ人が律法に返る日が来ると上記のように預言しました。

 一方、異邦人の私たちは聖書ではユダヤ人とは違う取り扱いを受けることは確かです。そのことの一例が使徒行伝15:28章に書かれています。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな(律法を守る)重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」その他、異邦人は肉の割礼を受けなくてよいとも言われています。
 しかし、それはあくまで異邦人が「救われるための条件」としては「全ての律法を守らなくてよい」と言う意味であって、異邦人であっても救われた後の「聖化」のためには、と言うより、「聖化のためにこそ」律法に親しみ、神のみことばを注意深く何度も紐解いて確認する必要があると思います。

 勿論クリスチャンになった以上、基本的には「 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ2:6)、そして「 霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)が原則ですから、律法に縛られることはありません。そして、聖霊に導かれた生活をしている限り、実際には適用されるべき律法のほとんどを守っていることになるはずです。しかし私たちはイエスのように「罪のない」人間に
なることが目標であることを忘れてはならないのです。これで「Torahに返る」ことの大切さがご理解いただけると思います。

聖なる者となれ

 このところモラルの退廃、罪意識の欠落が嘆かれています。特にクリスチャン国アメリカではそれが目に余るほど顕著になって来ました。昔のアメリカでは、学校とか公共施設にモーセの十戒が掲げられていても全く問題ありませんでした。それは丁度社会全体が吸っている空気のようなものでした。その中に「罪意識と規律」がただよい浸透していて、社会がその空気を当然のように吸って育ち、その中で暮らすことに何の違和感もなかったのです。それが今では十戒どころか集まって祈ることすら違法と云われる国になり、モラルの基準が全く不在の世の中になってしまったのです。

 最近リック・ジョイナー師がしきりに嘆いています。それは、アメリカ人の65%が、尋ねられれば「私はボーンアゲイン・クリスチャンです」と答えるにも拘らず、実際にクリスチャンの世界観で生きている人は僅か3%に過ぎないと言うのです。これはまさに国民の中にモラルの原点、即ち罪の原点がはっきり把握されていない証拠です。日本でも同じことが言えないでしょうか。 
 ガラテヤ 5:19―21に「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。・・・」とありますが、今の時代はここに書かれた一つひとつにうなずかざるを得ないような、大変な不品行が横行している時代です。

 私はここで「昔はよかった」式の老人のぐちをこぼすつもりは毛頭ありません。今は主が私たちを用いるための訓練の総仕上げの時代に入らんとしており、訓練にいよいよ激しさが増し加わるでしょう。世界は年毎に厳しい情勢を迎えています。その中で2010年は、準備の出来た人たちの先陣部隊がいよいよ主の用意されたポジションに着く年になるか、あるいは一層その時期に近づく年でありましょう。主はそのような人たちに必要な多くのブレイク・スルーを起こされると期待します。
 
 さてそこで、今こそ、主が言われる「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した【主】であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ記11:45、新共同訳)に真剣に耳を貸す時であると申し上げたいのです。
 そのことをパウロは1テサロニケ4:3―8で「 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、・・・ 神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」と厳しく諭しています。

 新しい年は、主の御心に生きる人、「主の御声に聞き従う人」だけが主に用いられることがより鮮明にされ、いつまでも肉で生きているクリスチャンは脱落して行くことがますます顕著になる年であると私は信じています。それはクリスチャンがふるいにかけられ、全てに明暗がはっきりする時代に既に入っているからです。

 人間として真に「聖なる者」になるために、聖霊に満たされて聖霊に徹底的に従われたイエスですら神から与えられた律法を常に心にかけて口にされ、一つとして罪を犯さないことに細心の注意を払われました。私たちクリスチャンにとってはこの点こそイエスに見習うべきではないでしょうか。この際本当にへりくだって、常に罪を犯さないことへの霊的な決意を持つことが必要です。(イエスがなさったことは、ヨハネ5:19-30に書かれていますので改めてお読み下さることをお勧めします。)

 繰り返しますが、罪とは主の御心という標的に外れることです。その標的である「律法」は元々神が口(御声)で語られた御言葉であることを思い出してください。つまり聖書全体が主の御声と云っても間違いではありません。私たちはその御言葉の全てを霊に導かれて忠実に聞き従わないとすれば、それが罪であることをこの際再認識していただきたいのです。

 但し、ここが最も「肝心かなめ」なことなのですが、律法は守らねばならないから守るとか、聖書は読むべきだと言われるから読むのであってはならないことです。それでは単に肉で守り、肉で読むことになりかねません。それでは実行できないのです。

ダビデとダニエル

 私はここで旧約聖書の中で本当の信仰を持って律法を愛した人たちをご紹介したいと思います。先ずその一例を詩篇119章に見ることができます。この最も長い詩篇を書いた人は不明となっていますが、ダビデやダニエル等が候補者に上がっております。私が最初に気づいたことはこれを書いた人は、既に救いの恵みに与かった人、心から主を慕っている人であると言うことです。
 
詩篇119は「 幸いなことよ。全き道を行く人々、【主】のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」で始まり、最後は「私のくちびるに賛美がわきあふれるようにしてください。あなたが私にみおきてを教えてくださるから。 私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいから。あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。私はあなたの救いを慕っています。【主】よ。あなたのみおしえは私の喜びです。
私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように。そしてあなたのさばきが私の助けとなりますように。 私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。」(
171-176節)で終わっています。

 この間129-136節では「 あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。 私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。
御名を愛する者たちのためにあなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。 あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし、あなたのおきてを教えてください。私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです。」
と心から主に懇願しております。

 又、159-160節で「ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。【主】よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。」 164-167節では、「あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。私はあなたの救いを待ち望んでいます。【主】よ。私はあなたの仰せを行っています。私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。」と主に切実にうったえています。

 少々引用が長くなりましたが、私はこの詩の作者がダビデであってもダニエルであってもよいと思います。もしダビデとすれば、イエスを預言していることになるでしょうし、ダニエルであるとすれば、彼が熱烈な愛で主に従おうとした「聖なる者」であり、真のキリストの弟子の姿を思い起こさせます。
 ダニエルと言えば、彼の三人の友、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが火の燃える炉の中に投げ込まれても何も焦げず、火のにおいすら着かなかっただけでなく、ネブカネザル王が「火の中を歩いている四人の者が見える。第四の者の姿は神々の子のようだ。」と叫びました。(ダニエル書3章)これこそ終末に主が用いられる聖なる清い人の標本ではないでしょうか。 

 私たちは「とてもそれは無理!」と諦めてはいけません。主は私たちもこうなれると期待しておられるからです。勿論自分で努力してはとても無理です。しかし、主とみことばを熱烈に愛し、完全にへりくだって主と主の聖霊にお委ねすれば、主が私たちをも「律法の完成者」として下さると信じます。皆様、2010年に期待しましょう。(終わり)

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by walkwithgod | 2009-12-28 06:58 | 坂達也からの今月のメッセージ

2010年ブレークスルーの鍵 ポール•キース•デイビス 12月25日

2010年ブレークスルーの鍵

ポール•キース•デイビス


今私たちは疑いもなく活発な霊の働きの時、そして敵との対決の時に突入しています。2010年は今までとはかなり違う年になると私たちは信じます。それはレムナントとなる資格のある人達-神の御前にへりくだり、砕かれた魂をもち、神から御言葉をいただいておそれおののく人達-によって大きなブレークスルーが起こると信じているからです。

最近私はニュージーランドの集会を導いていたとき、この真理を更に強く示されました。というのは、著名な癒しの伝道者であるスミス・ウイグルワースの人生上の一つのエピソードを私はその時思い起こしたのです。そのエピソードには彼が神と歩んだ秘訣と彼を通して顕された神の力の秘訣が語られています。

1922年にウィグルワースは一連の癒し集会のためにニュージーランドに出かけました。当時彼はニュージーランドのクリスチャンリーダーたちには知られておりませんでしたが、数人の牧師が集会の成功を確信してウェリングトン公会堂を借りて準備をしました。主は御力をもって彼の集会に臨まれ、多くの人たちが救われ癒されたので、みんな大層喜びました。集会が大成功だったので、予定外の集会も行われ、どの集会も満員となりました。神は最も困難と思われる病気や疾患の多くを癒されたのです。

 すべての集会が終ってから、受け入れ牧師の一人がウィグルワースと海辺を散歩していた時、ウィグルワースに神の力を大きく顕すことができる秘訣は何であるのかと尋ねました。ウィグルワースは、「その質問は出来ればしてほしくなかったのですが、お尋ねですからお答えしましょう。私は心砕かれた者です。私の妻は私にとってすべてだったのですが、11年前に亡くなりました。葬儀がすんで、私は妻の墓に行きそこに横たわりました。そこで死にたかったのです。しかし神が 語られ私に立ち上がって歩きなさいと言われました。私は神が私に2倍の御霊(妻と私の分です)をくださるならば、福音を語りますと申し上げました。神は恵み深く私の願いを聞いてくださったのです。しかし私は大海原を一人で航海しているのです。私は孤独な者です。そして多くの場合、私に出来るのはただ泣きに泣くことだけなのです。」

悔いて砕かれた心こそがウィグルワースが神に用いられた秘密だったのです。それは詩編51:17に書かれています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

ニュージーランドの海辺を散歩しながら、ウィグルワースは自分が神に用いられていることは決して羨むべきことではないことを強調しました。そして彼は終末時代の最後の世代が見るものを羨むと言ったのです。彼は主から3回オープンヴィジョンを見たことを説明してくれました。そのうちの2つは1922年の集会において既に成就していました。しかし3つ目のものは自分が死んでから起こることだと言いました。「ああ、それは本当に驚くべきことです!本当にすごいことです!私は神の秘密を告げることはできませんが、私が言うことをあなたは覚えていることでしょう。私たちが経験した今回のリバイバルは、神がこれからされることに較べれば小さなものなのです。」

彼と会話をしたこの牧師は、ウィグルワースは主の再臨の前の世代に起こる聖霊の大傾注のことをさして言っていることがはっきり理解できたと記録しています。彼は「主がこられて教会を取り去られる直前に前代未聞の聖霊の大傾注が起こるという特別なヴィジョンを、この伝道者が恵みによって与えられたことはまさに明らかである。」と書いています。

より高いレベルに

明らかにウィグルワースは、今の時代に対する神のご計画を垣間見させていただいたのです。また、1936年に彼が南アフリカに居たときウィグルワースは、私たちがカリズマのリニューアルとして 知るところとなった聖霊のムーブメントに関して正確な預言をしています。彼やその他多くの先駆的な霊的チャンピオンたちは、私たちの世代が神から享受できる事柄を預言的に見て予告することを許されたのです。

ウィグルワースが大事な妻ポリーを亡くしたことは非常に悲しいことです。しかしながら、それが 一つの世代を変えるために神が用いられる何かを彼の中に造り出したのです。私たちは彼と全く同じような損失は経験しないかもしれませんが、私たちの究極的なゴールは、現在の自分の状態を知り、神のような性格に全く欠けているという遜りと砕かれた心をもって 神の御前に立つことです。神は決してこのような心を さげすまれず、御霊の顕れの力ある油注ぎを与えてくださるでしょう。

ニュージーランドでの集会のあと、私の人生に重大なチャレンジが与えられたことを深く感じました。そのチャレンジとは、神ご自身が導いて、私たちの聖めと、神への献身をより一層高いレベルに引き上げられようとしておられることでした。それを強く感じたのです。神は今まで私たちが自らを神に捧げてきた度合いよりもっと大きな献身を受け取る価値のある方です。勿論教会には神の御国が顕れるのを見るために多くの犠牲を捧げてきた人が大勢いました。そうではあっても、多くの場合、全体的に見て、私たちはもっと高いレベルの献身を目指さねばならないのです。

真のリーダーシップの必要

今、物事をはっきりとさせ、人々に進むべき方向を示し、神の知恵を与え、信頼に足る預言の声が出現することが必要とされています。神が治める御国が出現することがますます強調されて来ている今、それと同じだけ 終末の時代の世代への神の約束を、聖書的に理解し把握することが要求されています。御国を治める責任をとるべく訓練され整えられた人たちに分与される特別な霊的能力があります。エペソ1:17−19に約束されている知恵と啓示の霊が今ほど必要とされている時代はかつてありませんでした。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目ははっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

バビロンにいたダニエルと三人の仲間たちのように、私たちはあらゆる書き物を理解するための知恵と知識と知性を天から分与されることを非常に必要としています。私たちは夢やヴィジョンを洞察し解釈する力をどうしても必要としているのです。(ダニエル1:17)

すべての真の霊的リーダーシップは、主との友情関係から生まれるというのが私の見解です。主は昔弟子たちに、もはや彼らをしもべとは呼ばないで友と呼ぶと言われました。そのような親密な関係intimacyの中から神の奥義、秘密、はかりごとは分与され、父なる神のこの世代に対する思いや計画が伝えられるのです。ですから、私たちが最も求めねばならないものは、必ずしも霊的職務を受けることではなく、主イエスとの友情関係なのです。私たちがどのような者であり何に召されているかということは、私たちが御国の権威を受けエノクのように神と共に歩くときに明瞭に認識されるようになるのです。 

超自然の能力

私はダニエルの生涯についてしばしば研究し執筆してきました。彼は天において高く評価され大いに愛されている人です。 何年も前に主が私に、 ダニエルは、彼がヴィジョンで見た世代のための模範となるひな型であると言われました。多くの点においてダニエルと三人の仲間たちは、 終末の時代の特別な仕事のために主がご自分の民を整えられる方法を預言的に示しています。肉のイスラエルがバビロニアに捕囚されたことは、私たちの現在の状態と私たちがやがて解放されるという主の約束を予表しています。

ダニエル書1:17は、忠実な若者たちに分与された天からの特別な能力についてです。
「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」

主はインスピレーションによって、彼らに色々な文書を理解するための知能と啓示による知識とを与えられました。 霊の理解と天の知恵を悟り言葉に表す特別の才能を、主は彼らのうちに起こさせたのです。ダニエルには、あらゆる種類のヴィジョンと夢を超自然的に解く賜物が特別に与えられていました。

このパターンは、 従順で忠実な献身的心を持つ者を主が見つけ出されることにおいても、今の時代に適用されるものです。聖書や創造、科学、芸術、その他多くの事柄に関する啓示的洞察と超自然的な知識が巨大な倉庫に蓄えられていて、ダニエルと三人の仲間によって築かれたモデルに倣う聖人たちに与えられ委ねられようとされているのです。

私は数年前に預言的経験の中で、 ダニエル1:17と エペソ1:17は霊的に連なっていると主から告げられました。この二つの箇所は同じ約束が違う時代の中で語られているのです。一つは旧約の艱難時に神がどのように取り扱われたかだけではなく、将来人間社会に神が超自然的に介入されることをも指し示しています。もう一つは新しい契約の中ですべての世代の聖徒たちが受け継ぐべきものを表しています。

私たちはそれぞれに個人的な限界を持っているにも拘わらず、主はいのちを与える御霊であられます。主は私たちの死ぬべき身体に主の御霊によっていのちを与え、私たちに主にあるものとして啓示の御霊を与え、奥義、秘密、啓示的知識を与えてくださると約束してくださいました。

過去からのしるし

20世紀初頭にマリア・ウッドワース・エッターの集会に出た者の多くは、霊に取り上げられ、主のヴィジョンや啓示を経験しました。このときの出来事は正確に記録され証明されています。この時主との邂逅の中である者は宣教師として国外に出て行くようにとの召しを受け、ヴィジョンから覚めたときには彼が遣わされる国の言葉をすらすらと話せるようになっていました。

私たちに御国を顕し、主にしかできないすばらしい御業を行われることは父の喜びです。主にとってはアブラハムとサラの身体を若返らせて力を与えることは少しも難しいことではありませんでした。サラの死後、100歳をずっと超えた アブラハムは、全能の神エル・シャダイとの出会いによって与えられた力に満たされ続けていたので、妻ケトラによって更に多くの息子たちを得たのです。

それと同じように、使徒パウロに与えられたような超自然的な賜物をもって私たちを調え、主のうちに隠された想像もできない素晴らしい宝を得られるようにしてくださるのは主にとって容易い事です。また聖書がはっきりと約束しているように、 「御霊は深くて測りしれないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自分に光を宿す」のです。(ダニエル2:22)

神の奥義と秘密

使徒時代の初期に、今までに無かったことが起こりました。弟子たちは彼らの経験していることに聖書的裏付けを与えるために預言者たちが書いた預言を調べました。ペンテコステの日にこのような預言の成就が起こるとは誰も予測しておりませんでした。ペンテコステを指し示す聖書箇所は沢山ありましたが、今彼らの体験そのものが初期の教会に与えられた御国の奥義への啓示的洞察を解き放ちました。

神のお心の中に大切な考え、計画が秘められており、それらはある決められたときまで封印され保存されていました。しかしその決められた日が今訪れているのです。そして、主は霊の分与を解き放たれつつあり、それらのご計画をダイナミックに実現させようとしておられるのです。聖書の真理と御国の奥義が今まさに私たちの前にあり、16世紀初め、ドイツのヴィッテンブルグでマルチン•ルターが95か条のご誓文を打ち付けた時ように、今日大きな影響を与えようとしているのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-12-25 07:07 | アメリカからのメッセージ

心に明けの明星が上るとき フランシス・フランジペン 12月18日2009年

心に明けの明星が上るとき

フランシス・フランジペン



国のために戦うことは尊いことであり、悪に立ち向かうことは雄々しいことです。しかし、その戦いの遅々とした成果に絶望しないためには、私たちはもっと大きな視野で物を見る必要があります。すべての者が膝をかがめ、すべての口がイエス・キリストは主であると告白する日が来るのです。愛する皆さん、キリストの再臨の前であっても、父なる神は勝利の教会のために多くの霊的ブレイクスルーを備えていてくださいます。父はご自分の一人子イエスに、キリストのご性格と力を帯びた光り輝く教会を与えられるのです。


明けの明星

他のすべての日がそうであるように、主の日は突然始まるのではありません。5時59分に真っ暗だったのが突然次の瞬間輝く朝になるのではないのです。近づく光の中で 夜空の暗闇が次第に薄れていきます。夜から朝に移り変わる途上で、もう一つの事が起こります。暁の光が差す前に、明けの明星が東の水平線状に輝き始めます。それは来るべき新たな日を告げる忠実な先ぶれです。

この明けの明星というユニークな星は、実は金星という惑星です。朝、東の水平線上に 太陽を「見る」のに丁度よい時間に丁度よい場所に現れ、まだ暗闇にいる者たちにもうすぐ夜が明けることを告げ知らせます。明けの明星はやがて来ようとしている光を指し示す、小さいけれども明るく輝く予告なのです。

明けの明星は、神が終末の真の教会に対して望むことを表す非常に適切な聖書的イメージです。終末に関するペテロの言葉をよく聞いてください。

「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心のなかに上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」第二ペテロ1:19

ペテロの言葉は、終末の出来事の 劇的な場面の一つである神からのヴィジョンに関するものであり、意味深いものです。主が帰ってこられる前に神の民の心の中に「明けの明星」が現れ上るとペテロは言っています。明けの明星の重要性は、まだ夜のうちに先ぶれとして現れることにあることを忘れないでください。昼間は見えません。ここでペテロは、 千年王国という主の「一日」が明ける前に、キリストの再臨を期待する私たちの心の中に明けの明星が上ると言っているのです!

皆さん、この終末の時代に勝利を得る者たちに栄光がもたらされるのです。私が「栄光」と言うのは、私たちの内なるキリストの生ける臨在が、私たちを通してより豊かに顕れ出ることを意味しています。パウロが「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」と言っている通りです。(第二コリント4:11)

私はイエスのいのちそのものが実際に現実的に「私たちの死ぬべき肉体に明らかに顕わされる」と言っているのです。 中には自分自身の人生上の問題で精一杯の者もおります。しかし 私たちは、神が私たちを導き用いたいと望んでおられる神のヴィジョン から決して目を 離してはなりません。曲解されること承知の上で率直に言いますが、終末の時代には神は敢えて神の民を通してご自分を顕そうとしておられるのです。

ですから私たちが明けの明星について話すのは、なにかニューエイジの教義を話しているのではなく、実際に 神の臨在の霊的「ワット数」が増大することを言っているのです。そのような輝きは我々自身からから発せられるものではないことを私たちは知っています。それは私たちが主イエスと一つになることによってのみ発せられます。そしてそれは私たちがキリストの言葉に従いそれと完全に合致するように成長するときに、聖霊によって私たちの中で形成されていくのです。

しかし、ここで気を付けるべきことがあります。何度も何度もイエスは弟子たちに、この世を愛し(飲まれ)てはいけないこと、また、この世での色々な戦いに倦み疲れてはいけないことを警告されました。イエスが「彼に明けの明星を与えよう」と言われたのは、世に打ち勝つ勝利者に対してであることを忘れないようにしましょう。(黙示録2:28)それから主はご自身が「明けの明星」であると言われました。(黙示録22:16)

携挙の前、 イエス・キリストの再臨の前に、キリストに従う者たちが明けの明星のように適切な時に適切な位置に置かれる日が来ます。そして彼らがキリストの再臨の先ぶれとなるのです。彼らはすべての国民、部族、民族、国語のうちから現れて来るにも拘わらず、 一つになる、一つであるのです。それはキリストが彼らに主の栄光の輝きをお与えになるからです。(ヨハネ17:22)

私は我々が罪を犯さなくなると言っているのではありません。誘惑は常にこの世にあるでしょう。しかし、もしキリストに忠実であるならば、もしこの時代の様々な問題や心配事に飲み込まれてしまわないならば、主イエスの臨在が明けの明星のように私たちの上にとどまり、その輝きが人々の目に明らかになる時がやってくるのです。その時に、預言者イザヤの言葉が成就します。イザヤはこう言っています。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」イザヤ60:1−3
(終わり)


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by walkwithgod | 2009-12-18 07:30 | アメリカからのメッセージ

誘惑からの脱出の道 ビル・ケラー 2009年12月12日

誘惑からの脱出の道

ビル・ケラー


第一コリント10:1「あなたがたの会った試煉はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試煉に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試煉とともに、脱出の道も備えてくださいます。」


先日私は、人生の中で出会う戦いに勝利するためには、神から戦略を頂く必要があることを話しましたが、今日は私たちが毎日直面する誘惑について話したいと思います。
日々誘惑に負けていると、ついにはその問題の中に私たちは陥り、それと戦わねばならぬ羽目になってしまうのです。ですから、 誘惑が最初に来たとき、どのようにそれに打ち勝つかを把握することが重要な鍵であり、それによって 人生の貴重な時間の多くを自分の問題と戦うために費やしてしまう無駄を回避することができます。もし自分の時間を無駄に使うならば、神が私たちに望んでいる働きをする主のしもべになる道が阻まれます。

このポイントをよく聞いてください。サタンがあなたの魂を奪うことに失敗したとき次に狙うことは、あなたを自分自身の問題との戦いでいつも精一杯にさせておくことです。あなたが個人的な戦いに時間を費やせば費やすほど、神に仕える時間は少なくなります。これこそが誘惑に打ち勝つことがいかに重要であるかの理由なのです。

「邪悪」は私たちの心heartから出てくる事を聖書ははっきり教えています。邪悪さの 進み方は、まず私たちの心から出発し、次に思いmindへと移っていき、そして遂には行動に具現されます。「きよい心を造ること」がどれほど大切かという理由がここにあります。そのためには毎日主と 親密な深い交わりを持つことが大切です。きよい心を造れば、 心から出るものが純粋できよいものとなり、私たちの実際の言動もをそれによって決定されます。誘惑は私たちの心の中にある罪と邪悪さに端を発し、次に私たちの思いに入っていきます。

誘惑を成長させる肥沃な土地は私たちの思いの中にあります。私は「思いを一新する」ことの重要さ、自分の思いの中に毎日何を入れるかがいかに大切であるかを何度もお話ししてきました。誘惑が増大するのは私たちの思いの中であり、それが究極的には実際の行動として現れてくるのです。


今日の聖書箇所は、神からの特別な約束の一つです。神は常に私たちのために脱出の道を備えて下さると言っています。その脱出の道は、誘惑がまだ私たちの思いの中にある時に起こります。それが誘惑に打ち勝つべきタイミングなのです。もしそれが私たちの思いの中に巣食うのを許してしまうならば、その時さいはすでに投げられ、遂には反抗的な行動という結果を生むに至るのです。この記事を読んでおられる方のなかで、自分が誘惑されたとき神が脱出の道を備えて下さらなかったと言える人は一人もいないはずです。

問題は、あなたがそれを無視するところにあります。何度も主は私たちに逃れるチャンスを与えてくださるのですが、私たちは自分の前に置かれたストップサインや赤信号、柵を突きぬけて進んで行き、その結果、どうしてこんなにめちゃくちゃな事態になってしまったのだろうといぶかしく思うのです。誘惑に打ち勝つには、誘惑がまだあなたの思いの中にあるときに神が与えてくださる脱出の道を用いねばならないのです。誘惑から脱出する道を拒絶した途端、あなたが実際に反抗的行動をとってしまうのはもう時間の問題にすぎなくなるのです。


私はあなた方を心から愛しています。多くの人が毎日人生上の戦いを戦っておられることを知っています。大変困難な状況に置かれておられます 。私の目標は、あなた方がそのような困難な状況に打ち勝つのを助けるだけではなく、 これからはそのような状況に陥るのを避けられるようにすることです。
主イエスはあなたを大変愛しておられます。主は人としてこの地を歩まれたので、あなたの弱さを理解してくださり、人生の誘惑をあなたが避けられるように助けると約束してくださいました。日々主と親密な関係を持つことは、あなたを強めます。主への愛と主のために生きたいという願いを強く持つことによって、主が誘惑に打ち勝つために備えてくださる脱出の道をあなたは選び取ってゆくことが出来るのです。

毎日襲ってくる誘惑をあなたが認識し、勝利の生活をするために神が与えてくださっている道具を用いるようにと、私はあなたのために祈ります。絶えず自分の個人的な戦いだけに明け暮れるのではなく、私たちが主のために生き、主に仕えて生きるとき、どんなに素晴らしい平安、喜び、豊かさのあふれる人生になるかを考えてみてください。あなたが今度誘惑に直面するとき、あなたのために備えられた脱出の道を選び取り、キリストがカリバリ山で得た勝利の内に生きることを決意されますようにお祈りいたします。(終わり)


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by walkwithgod | 2009-12-12 09:29 | アメリカからのメッセージ

神からの約束は護られ保管されている ダグ・アディソン 12月4日

神からの約束は護られ保管されている

ダグ・アディソン


2009年9月、10月から開始され次の年にずっと引きつがれて行く「 新しいシーズン」が多くの人々にもたらされるという 啓示を、 過去数ヶ月間に私は数多く受け取りました。「今は新しい始まりであり、新しいチャンスの時である。」という神の言葉を何度も繰り返し私は聞いたのです。

子を孕むのに似ている

私たちの人生の中に神が何か新しいことを始められるのは、胎児が生まれるまでに9ヶ月お腹の中にいるのに似ています。神からの新しいものが私たちの人生の中で発達し成長するには時間を要するのです。自分の人生を振り返ってみても、 私の人生に変化がやってくることを神がはっきり語られるのを聞いたことが何度もありますが、その変化が実際に起こるのは、多くの場合およそ9ヶ月後でした。

私はノースキャロライナのモラビアンフォールズに住んでいたのですが、2008年の4月にカリフォルニア州の海岸沿いにあるいくつかの教会を回って話をしていました。その時神が、私の家族はこの地方に移り住むこと、そこで神が始められる新しい働きに参加することを明瞭に私に語られました。自分からは何もしなかったのですが、一連の出来事の結果として私たちは9ヶ月後の2009年1月にカリフォルニアのサンタマリアに引っ越しました。サンタマリアに移ってから特に何も起こらないように見えました。しかし9ヶ月後の9月に、私は天使から2度の訪問を受け 、 それによって私たちが引っ越した理由である神のご計画と次にするべきことをもっと明確に知らされたのでした。9ヶ月の妊娠期間の間、赤ちゃんが隠されているように、 神は往々にしてある一つのシーズンの間、私たちを隠されることがあるのです。

神の新しい動きの前にサタンが来る

多くの人が見落としてしまうのですが、聖書に書かれている原則の一つに神が私たちの人生の中で何か新しいことをされようとする時、サタンがその寸前にやって来て、私たちを落胆させ、神からのブレイクスルーが起こる前にあきらめさせようとするのです。ダビデはイスラエルの王になるようにサムエルによって油注がれましたが、そのあとサウロに追われ殺されそうになりました。イエスは地上でのミニストリーを始めるにあたって聖霊を受けられましたが、その直後荒野に導かれサタンに誘惑されました。サウロ(使徒パウロ)はダマスカス途上で劇的な回心を遂げたあと、命を狙われるまでに迫害されました。このテーマは聖書全体を通してあらわされているのであって、これらはその中のほんの数例にすぎません。

神はしばしば私たちを何か新しい事に召されます。するとたちまち地獄の口が開いたかと思われるほどに、神が語られたこととは逆に見えることが起こり始めます。神があなたに語られたそもそもの理由は、私たちが嵐の中を通り抜けられるように私たちを強め、どのような状況の中にあっても主が共におられることを私たちが知るためなのです。

「今年の9月以降、 多くの人々に過激的に斬新なことが起こる」と神が語られました。私は9月中ずっと神からの素晴らしい啓示と訪れを受けました。ところが10月に入ると、すべてのことが全く逆の様相を呈してきました。私はこのようなパターンをずっと経験してきたので、ひどく驚くことはありませんでした。このような時に 対処する一番よい方法は、神があなたに最後に語られたことに忠実に従って歩み続け、サタンからの妨害には目を留めない事です。

新しい計画、作戦、ミニストリー、賜物、油注ぎ、奇跡、ビジネス、関係等、これらが今あなたに来ようとしています。大切なことは決してあきらめないことです。サタンや暗闇の勢力は、あなたにそれを手に入れてほしくないのです。あなたが求めているものをあなたは受けられるのです。もしあなたが「新しいものをください」と神に願い求め、嵐に耐え抜くならば、それは必ずあなたの人生に起こってきます。もしあなたが疑い始めて、神があなたに約束されたことをあきらめるならば、神が計画された高いレベル(次元)ではことが起こらなかったり、その実現が遅れたりすることになる可能性が高いでしょう。

イエスは私たちへの神の約束を護られる

私は11月17日に一つの夢を見ました。それは、神が私や他の多くの人々にされた約束を盗もうとして敵がやって来るという夢でした。私は海辺にむかって逃げましたが、そこに着いてみると、魚や海藻は生きているのですが水は干上がっていてありませんでした。どうしようと戸惑いながら私がそこに立っていると、紫と紅の衣をまとったイエスが私のほうに歩いて来られました。私は主に敵が神の約束を盗もうとしていることを 話しました。

主は何も言われずに、右手で私の内の深いところからあるものを取り出し、バスケットボールくらいの大きさの古びた丸い鉄の鳥かごのような物の中にそれを入れました。主は籠に鍵を掛け、鍵はご自分が持ち、籠を数メートル先の 砂の上に投げました。 せめてもう少しうまく隠せばいいのに、と私は心の中で思っていました。見ると、そこら中に ボール型の同じような籠が沢山転がっていました。それら一つ一つが人々に与えられている約束であり、主イエスがそれを護るために一番適切な場所に保管されているのだということを私は理解しました。


この夢は神が私たちに約束してくださったものは必ず実現するというコンファメーションです。海が干上がっているように見えたにも拘わらずそこには生命があったという事は、今はまだ来ていないけれど確実に近づいてきている神のムーブメントを象徴しているものであり、生命のない荒野ではなかったのです。

神から私たちに与えられている約束は安全な所に保管されていて、聖霊の次の波が来た時に実現化されるのです。それは丁度チェスのようです。神は次のシーズンへの準備としてご自分の戦術に従って私たちをそれぞれの適所に配置されるのです。

イザヤ41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(終わり)


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by walkwithgod | 2009-12-04 16:14 | アメリカからのメッセージ