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「今の主の御言葉」を聞く耳を持つ ウエイド・テイラー 2月26日

「今の主の御言葉」を聞く耳を持つ

ウエイド・テイラー


「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。—キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」ピリピ3:12、14

私の聖書学校の先生(ウオルター・ビュートラー)は、しばしば「不満足な満足」ということを話されました。彼は主から受けたすべてのことを感謝し満足していました。しかしそれと同時にもっともっと得られるものが沢山あることを知っていたので不満足だったのです。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2:10

「良い行ない good works」とは、主がご自分の目的を果たすために私たちの人生の途上に置かれる物事や状況です。まず私たちが調えられる準備期間の間は、私たちの内側でそれがなされますが、次の段階では私たちを通して他の人々の益となるように行われます。「私たちが良い行ないに歩むように that we should walk in them」という部分の「should 歩むように」とは条件であり、 神が 召されている主の目的に沿う道を選択することに関しては私たちにも責任が掛かっているということです。正しい選択は普通、一番選びやすいものとか便宜がよいというものではありません。ですから私たちが正しい道を選びとることはこの上もなく重要なのです。

私への神の御心

聖書学校を卒業したとき、 次に何をすべきかを知るために私は主を熱心に求めました。それにも拘わらず、 一見主からの指示は与えられていないように思えました。一つの聖書学校が新たに始まることを私は知っていました。その学校の目標の一つは学生たちをイタリヤ語でミニストリーが出来るようにするというものでした。私はイタリヤ人ではないので関係がないと思いましたし、イタリヤ人へのミニストリーに召されているとも感じませんでした。

ですから、私がこの学校に対して感じた「惹き付けられる感覚」を 横に押しやって、私はフィラデルフィアの北の中心部にあるセントン通りに教会を始めようとしました。1959年7月4日に私は60マイルの距離をフィラデルフィアに向けて出発しました。一つの商店を教会のために借りて、自分が住むところも探そうと思っていました。南に向かって運転していると、自分は間違った方向に向かっているという思いがどんどん強くなってきました。

私は車を止め、この思いについて主に尋ねました。すると主は、私が新しい聖書学校に行くべきことを示してくださったのです。私は車をUターンして、反対方向に走りはじめました。私は卒業後にするべきことに関して随分と祈りました。しかし主は私が主に仕えるために実際に行動を起こすまでは何も答えずに待っておられました。そして 行動を起こしたときに私がおるべき場所に関して語ってくださったのです。

聖書学校に着いてゲストルームに落ち着くと、直ぐに私は静かに祈れる場所を探しました。そして、私はここには来たくなかったこと、しかし主からの最上のものを受けたいことを主に再び申し上げました。それに応答して主ははっきりと私の霊の奥深くに語ってくださいました。「わたしはあなたがフィラデルフィアに行くことも許します。そしてそこであなたにミニストリーを与え祝福もします。しかし、ここがわたしがあなたに居てほしい場所です。そして今のわたしのあなたへの御旨はここなのです。」

翌日、私は学生として受け入れられ入学しました。数ヶ月が過ぎたころ、私が祈っていると、突然私は天で神の御前に立っている自分を見出しました。神が私の直ぐ前の御座に座っておられることがわかりましたが、輝く栄光で目がくらみ神を見ることはできませんでした。言葉では表すことのできない聖さを感じました。

御座の前に立っていると、左の方から波のような強烈な栄光の流れが鮮明な色をして私の方にむかって流れてきて私の霊の深みに入っていきました。あたかも長い貨物列車が私の内に入ってきて沢山の荷を一台一台私の霊に中におろして行ったようでした。一つ一つ次々とそれらが私の中に入る度に、私はこの学校が建っている場所でミニストリーを立て上げるのだということがはっきりとわかってきました。私の身体のすべての細胞が感光する声帯になったようで、 主が御心のまま臨在し事をなすことができる「特別に聖別された場所」を望んでおられることを私は悟ったのでした。
私が天からもとの祈っていた場所に戻ったとき、天で経験した顕在の栄光で 非常に深く触れられていたので、以前通りの日常生活に携わりその中で機能することにとても困難を感じました。「普通」にもどったのはそれから2週間も経ってからでした。

「今の御言葉」を「聞く耳」を持つ

私が召されたこの「ミニストリー」は、主が私に送られる人々を調えることであることが次第にわかってきました。 彼らが主の御声を認識し、それに応答し、それを尊び、主の顕在の臨在に敏感になるように調えることです。これは即ち、終末の主の目的のために調えられて聖別される人々をさしています。

「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」黙示録19:7

この聖書学校はイタリヤ・アッセンブリー・オブ・ゴッドだったのですが、設立されて3年目に閉校となりました。その後6年間空屋となっていましたが、不思議な方法でそれが私に寄贈されたのでした。その待っている期間に、私が終末の「バプテスマのヨハネ」として用いられるために調えられていることを主は悟らせてくださいました。後に主はこれを聖書の中で最大のアイロニーを示す御言葉を通し確認させてくださいました。

「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」ルカ3:2

「アンナスとカヤパ」とは確立された宗教組織のリーダーと機能を表していますが、主はそれを回避(バイパス)されたのです。「荒野」とは、孤立した不毛の環境であり、主はヨハネをミニストリーの重要な時に調えるために荒野を用いられたのです。

宗教組織は十分に確立され機能していました。しかし主はその時宗教組織の中には主の「今のための」御言葉を与えることができる「聞く耳」を持ったものを見出すことができなかったのです。主は聖職者ではないものを選ばれ、 訓練のために彼を「荒野の体験」へと導かれたのです。

今日もなお、キリストのからだの中には主に己のすべてを捧げて、主からの新しい御言葉を受け取るために選ばれている人たちがいるのです。これは私たちが終末のバプテスマのヨハネとなる備えをするためには、絶対に「今の御言葉」を主から 受け取る必要があるということであり、それによって来るべき終末の時代に主の顕在の臨在の証人となれるのです。ですから、 このような証し (まず自分の内に、そして私たちを通して外にむかって)を完全に示すために、私たちは正しい選択をしなければならないのです。

当時の宗教的組織は(主はそれをバイパスされましたが)かつては神の栄光を経験し、主から直接啓示を受けました。しかし主が 彼らに今現在望んでおられることを理解するに当たっては、過去の経験だけに頼って理解しようとするようになってしまいました。過去において主が彼らの中で働かれたという事実は、彼らを現在の必要のために 調えるには十分ではなかったのです。彼らはもうすぐに来ようとしておられる「神の小羊」に関する「今の御言葉」を聞くことが出来なかったのです。

今の時には、間もなく現れる「ユダ族の獅子」のために 特別な召命を受けた者たちがいます。ですから、たとえ過去に多くの啓示を受け取っていたとしても、 「今主を求めるもの」が私たち一人ひとりの中に存在しなければなりません。昨日の啓示は今日の問題とプレッシャーに対応するために私たちを調えるには十分ではないのです。

真の聖霊のぶどう酒

私が聖書学校の学生だったとき(1956−1959)、主の偉大な訪れがあり、それは2週間続きました。私たちは毎日早朝から夜遅くまでチャペルに集っていました。初めのうち強烈な悔い改めと清めが起こり、その後で主の「顕在の栄光」が私たちの上に注がれました。それと共に「新しいぶどう酒の泉」が発見されました。そこから飲むものは誰でも聖霊に激しく満たされ大胆で力強くなりました。

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」エペソ5:18

「多く飲んで酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があります。」の意味は、聖霊による崇高な霊的力の分与にとって代わる、偽りの代用品のことを言っています。この代用品(ぶどう酒)は、サタンによって用いられ、数えきれないほどの人生や家族が破壊されてきました。ぶどう酒を飲むことによって「益」と見えるものは、実はすべて欺きであり結果としてひどい代価を払わせるものとなるのです。

「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。」エペソ5:18−19

これは聖霊の真のぶどう酒が持つ変革の成果です。それは私たちの能力以上の霊的大胆さと自由さへと私たちを解き放ち、神に栄光を帰し、私たちが大きな自由さと力をもって働くことが出来るようにするのです。

しかしその時の経験がいかにすごかったとしても、私たちは「過去の主の訪れ、ヴィジテイションの泉から飲む」ことにすがり続けてはいけないのです。私たちは新鮮で新しい超自然の領域に入るために、今主を求め始めることが緊急に必要とされています。初めて主と出会った場所を振り返っていてはいけないのです。又、「新たなもの」が自分の人生やミニストリーにどのように、いつ、どこで導入されるのかを、私たちが主に向かって要求するのでもありません。(私は車の向きを変えて、自分が受けた召しには適合していないと思える場所に向かいました。)

私たちは「不満足な満足」を持たねばなりません。即ち、自分が現在持っているものに対して感謝をすると同時に、「もっと更に」と主に積極的に求めるのです。コインには両面があります。コインの裏と表は違っていますが、その両方で完全な一つとなります。私たちの過去の経験と現在の経験を一つにして、自分が進んでいく未来への道を作らねばなりません。

ヨハネの証しは彼が「荒野で叫ぶ者の声」であるというものでした。彼は「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」(マルコ1:3)と叫び 、その時の緊急を要する必要をはっきりと認識したのでした。私の召命とミニストリー はヨハネが彼の時代に語ったように、今私たちが生かされている困難な時代に、主の目的のために今の「声」を語ることができる人を調えることなのです。

そしてそれは1959年7月4日に私がフィラデルフィアに向かっていた車を止め、主からの「今の言葉」に応答して反対方向に向きを変えたことによって生まれたのでした。振り返って見て、私はその時正しい選択をしたことを本当にうれしく思います。

1959年のその日から多くの年月が経ちました。それは栄光に満ちた年月であり、霊的分与を授けた年月、多くの人々が変革された年月でもありました。また間違いを犯してしまったこともありましたが、私はそれを悔い改め主から赦しを受けました。今現在、私はワシントンDCに住んでいて、主から「今の言葉」を受け取っています。そして召命の次のレベルの働きへと移行するために、私は再び「向きを変える」かもしれません。私のミニストリーは主が意図された目的と成就にむかって今進もうとしています。

皆さんも重要な決断をするときに、過去の霊的経験や現在の状況にだけ目を奪われるのではなく 正しい道を選び取られるようにとお祈りいたします。
(終わり)


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by walkwithgod | 2010-02-26 17:14 | アメリカからのメッセージ

トランスフォーメンションと神の恵み グラハム・クック 2月15日


トランスフォーメンションと神の恵み

グラハム・クック



成熟した心に愛が満ちるとき私たちは聖霊様との交わりへと導かれます。私たちは心を聖霊様に集中させねばなりません。パウロはコロサイ3:2で「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」と勧めているようにです。神を愛するためには、神のご性質について深く瞑想することが必要です。ですから主と親密な関係を保つためにはメディテイションが重要な鍵となります。 神との絶えざる交わりを保ちながら神がどのようなお方であるかを時間をかけてじっくり黙想することが重要です。


「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。」と第一テサロ二ケ5:18でパウロは言っています。主と親密であるとき、それは感謝の 言葉をもって表現されます。私たちは主への感謝を最大限 言葉に出して表す必要があるのです。主と真に親密であるならば、その事を秘密にしておくことはできません。なぜならば、それは物事や人を変革してゆく強い力だからです。あなたが主の臨在の中にとどまる方法を学ぶとき(ユダの手紙21節で「神の愛の内に自分自身を保ち」と表現されています)あなたは神の恵みの中に入れられ、そこでは預言の言葉が成就してゆくのです。恵みは私たちのために 神の心の中から 溢れ流れてきます。そして神は私たちを絶え間なく祝福が注がれる場所に置かれるのです。


神は私たちが主に似た者へと変革されることを望んでおられます。主が私たち一人ひとりの中に養われている善(goodness)は、この世に蔓延している悪に打ち勝つ力があります。神との親密さは私たちのうちに善を生み出し、その善はコミュ二ティ−全体に影響を及ぼすことができるのです。あなたの人生を覆う神の恵みが実際にあなたの住む地域や教会、そして町さえも覆うことができるとすればどうでしょうか? あなたの教会への神の恵みが非常に大きい故に、あなたの町の何千という人々がその恵みで覆われ祝福されるとしたらどうでしょうか? クリスチャンとして私たちが神の恵みの中で生活しないならば、 悪が私たちのまわりに栄えるのを私たちが許してしまうことになるのです。

神の恵みよって守られ堅固にされているコミュ二ティーを想像してみてください! それはクリスチャンたちがイエス様と恋に落ちて、主の善を彼らの周りの人々に解き放すことによって起こり始めます。「あなたがわたしの臨在で満ち満ちているので、あなたの周りの人はわたしの祝福から逃れることから出来ない」と神が宣言するとしたらどうですか? あなたが人生で果たす役目が、あなたが 出かけて行って出来るだけ多くの人々に祝福を与えることだとしたらどうでしょうか? あなたが主の祝福と親切をもって覆うべき領域に神が線を引いていたとしたらどうでしょうか? 私たちが今すでに うけている恵みを十分に用いることが大切です。私たちは自分の受けている恵みをどんどん使っていかねばなりません。 イエス様が神と人からますます愛され好意をもたれて成長されたように、私たちもこの両者から恵み(愛と好意)を受ける道を発見せねばなりません。神は私たちが まわりの人々にどんどん恵みを与えて、神の御国の領域を出来る限り拡張することを望んでおられます。


古代イスラエルの人々はこの法則を学ぶのに随分長い月日を費やしました。モーセが12人の斥候をカナンに送り込んだ時、神の恵みを自分たちのために用いようとしたのはカレブとヨシュアだけでした。他の者たちはカナンの町と軍隊を見て怯えてしまいました。民数記13:33には彼らが恐れで押しつぶされたことが書かれています。「そこで、私たちはネフィリウム人、ネフィリウム人のアナク人を見た。私たちは自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」 しかし、カレブとヨシュアは、自分たちが神からの恵みを受けていること、そしてここが約束の地だという預言をはっきり知っていたのでした。

カレブとヨシュアは、神は自分たちに必ず勝利を与えてくださると説得しましたが、イスラエル人は聞きいれませんでした。民数記14:7−10に次にように書かれています。「イスラエル人の全会衆に向かって次にように言った。『私たちが巡り歩いて探った地は、素晴らしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には乳と蜜が流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。』」しかし全会衆は彼らを石で打ち殺そうと言い出したのです。

イスラエル人に「『自分たちはいなごのようだ』と思いなさい」と命じた人は誰もいません。「自分たちはそのようにちっぽけな者だ」と彼ら自身が思ってしまったのです。その結果、神の恵みを出来る限り追求する用意のある新しい世代がイスラエルに現れるまで、 神は待たねばなりませんでした。神が私たちの前に巨人を置かれる理由は、神の恵みがどれほど大きいかを私たちが見ることが出来るようにするためです。私たちは巨人を見て怯えてはなりません。私たちは勝利を得るという期待で胸躍らせるべきなのです。

私たちの恵みは目の前にある障害物を克服することができます。 「 大きすぎてとても自分では克服できない」と私たちに見える問題が起きるのを、神はしばしば許されるでしょう。しかしこれは私たちが神の恵みを最大限用いるようにしむける神の方法なのです。ティーンエイジャーだったダビデがゴリアテに面したとき、彼が持っていたのは石投げと数個の石、そして彼がいつの日か王になるという預言的約束だけでした。ダビデはサウロ王がしていたように隠れていて、戦いは誰か他の者にやらせてもよかったのです。そもそもゴリアテはダビデが戦う相手ではなかったのですから。しかし、ダビデは神の恵みを用いたかったのです。一瞬にしてダビデは夢見る少年から戦士ヒーローになったのです。これこそ神の恵みの力です。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-02-15 07:00 | アメリカからのメッセージ

いのちの木に総てを委ねる生き方 坂  達 也  2月11日

いのちの木に総てを委ねる生き方

                                    坂  達 也


私たちの人生は神に気に入られるかどうかで大いに違ってきます。常に主に喜ばれることをしている時に、私たちは有り余るような主のご好意(祝福)にあずかれます。そうして神様の「お気に入り」になると、神は私たちのところに来て離れなくなられます。つまり明らかな神の臨在(英語でmanifest presence)が私たちの上に顕れて被うのです
そして神の祝福は周りの人たちにも及んでいきます。そうなったら人生、楽しくてしょうがなくなるのではないでしょうか。それでは、どうしたらそうなれるのでしょうか。
それは言うまでもなく、私たちが主イエスを愛して愛して、愛しぬくことです。

「イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』」 (ヨハネ 14:23)

 イエスが言われている意味は、わたしを愛する人はわたしと出来るだけ多くの時間を過ごし、わたしの言うことば(現在形)をいつも聞きたいと願う人であり、わたしのことばを聞くことを最上の喜びとする人であるから、そのような人は「わたしのことばを守ります。」、あるいは、「守れるようにわたしが力(めぐみ)を与える」と言われているのではないでしょうか。

いのちの木

 エデンの園の中央には「いのちの木」と「善悪の知識の木」が植えられていました。(創世記2:9)これはテスト・ツリーと言われますが、エバは悪魔の誘惑に負けて魅力的な「善悪の知識の木」の実を取って食べ、アダムにも勧め二人で食べてしまいました。テストに合格できなかったのです。その後生まれる人間は、皆「善悪の知識の木」の実を取って食べる、生まれながらの罪人としてこの世に生まれて来るようになりました。

「いのちの木」はイエス・キリストを指します。そして、イエスに総てを頼って生きる生き方を表しています。それはヨハネ15章でイエスがご自分をまことのぶどうの木に譬え、私たちはその枝であるといわれたことに通じます。 一方、「善悪の知識の木」とは自分で何でも判断して自分で生きる生き方を表しています。イエスはぶどうの木である「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われました。
確かに私たちが木にしっかりついた枝である限り、総ての養分は100%ぶどうの木であるイエスから与えられますが、問題は、私たちはどちらの木からも自由にその実を取れる状態でクリスチャンになったことです。

そのことに関して私は最近主から一つのテストを受けました。それはホノルルの私たちが属しているミニストリーで、今新しくミニストリーの集会を立ち上げようとしていますが、そのリーダーの人がコンピューターを必要としており、加えて、私のコンピューターがたまたま壊れてしまい、二人してすぐにも新しいコンピューターが必要となりました。そこでそのリーダーが3年ほど前から知っているという、ある有力者に頼もうという提案を受けました。その方はクリスチャン・ミニストリーに必要な機材を安く分けてくれる奉仕的団体(会社)の責任者で、そこからはかなり安くコンピューターとかカメラ、サウンド・システム、オフィス機具から集会用の椅子やテーブルまで分けてもらえる、しかも、ものによっては市価の一割位の値段で提供してくれると言うのです。そんなうまい話はないと、私もすかさず飛びつきました。

しかし、実際には、その責任者の人との連絡がなかなか取れず、取れたときは責任者が会社を辞任した後でした。そこで後任の人を紹介してもらったのですが、その人が多忙で、やっと一週間ほど前にその人と直接話をすることが出来て、助けてくれると言う確約を得たのですが、その後又なしのつぶて、この間3ヶ月近く経つのに未だに要領が得ないのです。

私はあまりに時間がかかるので、主に祈ってみました。実はそれまでは、出発時の教会を助けてくれるという相手ですから、当然主の御心と思い込み、主にはっきりとは尋ねてもみませんでした。すると「時間がかかるのを覚悟しなさい」、いや「これは全き主の御心ではない」 かもしれないという警告の声らしいものが聞こえてきました。私ははっと気が付き主の前で悔い改めました。

教会のリーダーと私は二人とも、一割で買えるのなら一番よいコンピューターにしようと言う欲が出て、アップルの最高クラスに近い2-3千ドル級のものに夢が膨らんでいたのです。支払いについては、私は元々コンピューターを買い換える時期に来ていたのでその積もりで予算を用意していたこともあり、いずれ資金がない教会の現状からして、一割で買えるのならリーダーの分も含めて二台分を私が支払うつもりでおりました。

しかし、本当に気が付かされたのです。私は、自分は「いのちの木」にだけつながっているつもりでいて、実際は「善悪を知る知識の木」の魅力に負けて、その木にも飛びつき、自分で買おうとしていたのです。この話が出たとき、それが主からのものかどうかを私は確かめなかったのです。

主は、大きなものから小さなものに至るまで私たちが必要とする一切のものを主ご自身が選ばれ、主の方法とタイミングで私たちに与えて下さる方であることをよく知っているはずなのに、私は今まで多くの場合に、勝手に安易に両方の木に手を出して来たということに気が付いたのです。

その辺りは実にいい加減で、時には勝手な理屈をつけては主の御心であると自分に言い含めて曖昧にごまかす、巧妙でずるい、とまで言える私の性格に気が付かされたのです。
もっとも正直な話、セールとか大バーゲンで値段が半額になっているものを『主の御心』と半分偽って時に慌てて飛びついてしまうのは私だけではないとは思いますが、だからといってそれは決して言い訳にはなりません。

神のご好意(祝福)を勝ち取ったヤコブ

 そのような策略を講ずる者の一人にヤコブがおりました。しかしイサクの子であるヤコブは、神の祝福を得ることにおいては誰にも負けない貪欲さと執拗さを持っておりました。ヤコブは父のイサクと双子の兄のエサウを騙してまでも長子の権利とその祝福を得ようと画策し、まんまと成功しました。

後になって、ヤコブは神のみ使いの訪れを受けたとき、夜明けまで格闘しました。彼はもものつがいをはずされても相手にしがみつき、神からの祝福を得るまでは絶対に離さないと、必死で神の祝福をせがみました。彼はどんな祝福を得よとしたのでしょうか。マービン・バイヤー師は、ヤコブは自分の名前ヤコブが意味する通りの「ずる賢く策略を講ずる者」という嫌な性格(=名前)を変えて欲しいと言う願いから神の祝福を迫ったと解釈していますが、私も同感です。
神はそのヤコブの願いを聞き入れ「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエル(神は勝つの意味)だ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)と言われました。

ヤコブの生来の「ずる賢さ」という悪い性格と名前を変えるご計画を初めから持っておられた神は、彼を伯父のラバンの元に送りました。ヤコブはそこで二十年の間、ヤコブに勝るとも劣らないラバンの「ずる賢さ」に出会わせ、家族と仕事の両面で厳しい試練を受けさせました。その結果、ヤコブは自分の性格の悪さに嫌気がさしたのでしょうか、そのような自分の性格(を象徴する名前)が完全に変えられることを何よりも望むようになったのであると思います。

私たちが何事においても、神に喜ばれるようなものを激しく求めて神に迫ることを神は大変喜ばれます。中でも特に、「神との深い交わり」、「神の顕著な臨在」、「神からのみ言葉を聞く」ことを激しく求めることを期待しておられます。なぜなら、これ等のものを神からいただくことこそ本当に神の至上の祝福だからです。
それに加えて、自分が主のような性格の人間に変えられたいという願望をヤコブの激しさで主に求めるのであれば、それは最高に神が喜ばれることです。それこそ私たちはどんなにしつこくても執拗に求めるべきです。

私は最近色々な自分のいやな性格とか、ぴしっとしていない曖昧でぬるま湯的な部分を神に指摘されて悔い改めています。特に「義righteousness」に対する甘い考え、灰色がかった「聖さ」のなさを神が取り扱って下さっていることを強く感じます。

私たちクリスチャン生活の最終目標は、主のために何か大きな仕事をすることではなく、それよりも、主に似た人格に成熟し、霊的な完成を目指すことにおいて、ヤコブのように激しく求める人間になることであると思います。そのことが下記のみ言葉に書かれております。

「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」 (エペソ4:13-15) (終わり)

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by walkwithgod | 2010-02-11 10:14 | 坂達也からの今月のメッセージ

アポロ13号   ビル・ヨント  2010年2月5日

アポロ13号
                        ビル・ヨント


  月に着陸するというミッションをもってアポロ13号は3人の宇宙飛行士を乗せて打ち上げられました。しかし、そこから突然、悲痛な叫び声で「ヒューストン、問題が発生しました!」と連絡があった時、世界は一瞬停止したかのようになり、テキサス州ヒューストンの宇宙局コントロールセンターにいた人たちは心臓が止まりそうになりました。酸素タンクが破裂したことが発見されたのでした。この報道の言葉が発せられた途端、この偉大なミッションのゴールは突然変更されたのです。月に到着することは最早意味をもたず、3人の宇宙飛行士をどのようにして無事地球に帰還させるかが人々の焦点となりました。

人生の試煉や悲劇が私たちを襲うとき、それまで大切だと思っていた 夢や目標、又何かを達成すること等よりも、単に呼吸をすることが突然に一番大切なことになるのは興味深いことです。聖書の中でも、又私たちの人生においても、神が私たちを高みに連れて行かれて主の素晴らしい夢を見せてくださるとき、その夢を地上に持ち帰り実行するためには大気圏の中に再突入せねばならず、それは非常に重大な危機的瞬間となります。

多くのミニストリーから「問題発生!」の泣き叫びの声を聞く

私の霊 は多くのミニストリーが発する泣き叫びの声を感じます。それは、最初彼らは主から高い召しを受けてミニストリーを打ち上げたのですが、何かよく分からない理由で現実に物事がうまくいかなくなってしまったときに発する叫びです。あたかも天の領域(天からの計画・目標・理想・夢)にいる私たちを、神が地上の領域(現実的問題・種々の試練)に戻るように命じておられるように思われるとき、私たちのプライオリティーは急に変るのです。

アポロ13号のミッションは、神から与えられたミッションや夢を追い求めている時でさえ、私たちがいかにもろく、攻撃・障害を受け易いものかということを私たちに教えてくれるものだと思います。これに関してはヨセフのことが思い浮かびます。 神から与えられた彼の夢は何度も中断させられました。神からの夢が高ければ高いほど、それを成就するためには、私たちはより深く地上の出来事(苦しみ)を経験せねばならないかのように思えます。ヨセフが穴に投げ込まれたとき、神から与えられた夢を成就するためには、彼が地球大気圏へ再突入して地上の多くの苦しみの中に突入させました。囚人として送った多くの年月は彼を更にへりくだらせ、捕われている者に同情することが出来る者に彼をしました。ですから彼の夢が実現したとき彼は捕われている者たちに、そして悪い兄弟たちにさえも、憐れみをもって接することを忘れませんでした。ヨセフは自分のことだけを夢見る者から、人々のことや彼らのより高いデステイニーを夢見る者へと変えられていったのです。

ヨセフの夢はもう消え失せたかのように彼には見えたことでしょう。彼が地上に戻ってくるのは簡単ではありませんでした。自分の夢に死に、他人のために夢を見なければならなかったのですから。 牢獄で共に暮らした男がパロにヨセフのことを告げたのでヨセフの運命はついに成就されることになりました。恐らく他の人々の成功のために夢を見ることができたことがヨセフを宮殿へと導いたのでしょう。宮殿に入った彼は直ぐに自分の家族が回復されることを夢見て、やがて彼らを回復することができました。彼はエジプトの繁栄を夢見て、その結果すべてのエジプト人を飢饉から助けたのです。

ミニストリーが暗礁に乗り上げたかと思われるようなとき、うまくいかない事態から私たちは学ぶ

アポロ13号のミッションは「成功した失敗」であると考えられています。乗組員が月に上陸できなかったという意味では、失敗でした。しかし不可能と思われる状況の中でどのように人々が協力し合って働けるかを示し得た故に、それは成功だったのです。
ケン・マッティングリーという宇宙飛行士は乗組員の一人としてアポロ13号に乗り込むはずだったのですが、医師たちは彼がはしかにかかった可能性があるとして乗船させなかったことは興味深いことです。彼は地上に残り、自分の夢に死にました。しかし、ケン・マッティングリーこそがアポロ13号の乗組員を安全に地球に生還させるための知識と知恵を与えるキイパーソンとなったのです。

神が私たちに一つの夢をくださるとき、 私たちが置き去りにする人が、多くの場合後になって私たちの夢が成就するのを助けてくれる人となり、私たちがなにか問題にぶつかるときに助けてくれるキイパーソンとなるのです。ところで、ケン・マッティングリーははしかにはなりませんでした。彼は後にアポロ16号のコマンド ・モジュール・パイロットとして飛行しました。それは月面着陸の5回目のミッション であり、乗組員が月面を歩いた唯一のミッションだったのです!

地上で多くの人たちがアポロ13号の生還を 祈っていました。ダクトテープと紐という全くありふれた物が、宇宙船の酸素の補給を保ち命を救うものとなったのです。実際、NASAからのすべての宇宙ミッションにはダクトテープが積み込まれています。


私は6年前に心臓発作を起こし救急病棟に横たわっていたのですが、その時多くの人々が世界中で 私のために祈ってくださったことをよく憶えています。私の心臓は実際止まっていたのです。その朝私は救急室で、サタンが手下の悪霊どもにむかって「彼のために祈っている人がすごく沢山いる。残念だが彼から手をひかねばならない!」と言っている声を聞きました。心臓発作を起こす前、私は神から高い召しを受けていましたが、その夢を実現するために私を地上に引き戻してくれたのは人々の祈りでした。

神はしばしばその人のミニストリーを断っても、人を主ご自身の元にひき戻される

何年も前のことですが、私は自分のミニストリーによって破滅しそうになりました。私は自分のミニストリーを主よりも愛してしまったのです。 ミニストリーというものは、気をつけないと私たちにとっての一番の敵となり得るのです! そしてそれは全く悪気もなく起こってしまいます。というのは私たちは神御自身が召してくださったことを愛するからです。主は私のミニストリーが進まないように、戸を閉ざし窓に鍵をかけられました。私の働きへの招きはぷっつり途絶え、私の周りにいるのは家族と神だけになっていました。3ヶ月間ほど私は神と閉じこもりました。あなたが神とゆっくり時を過ごしている間に、あなたがミニストリーを失ってしまうようなことはありません。勿論それがあなたのミニストリーでなければの話です。神のミニストリーであれば、あなたがいなくてもどんどんと進んでいくのです!

3ヶ月神と過ごしたときに、私のミニストリーは以前にはなかったように発展したのです。私がしたことといえば主と時を過ごしたというだけです。ある日私は主から愛の御腕で抱かれるのを感じました。私が主のために何もしないでただ主と共にいることを、主は大変喜んでおられるのを感じました。主は本当に私がいることがうれしかったのです。そして私たちは将来天国で主と共に過ごすだけでなく、この地上でも主と共にいるように造られたのだということを私は見出したのです。その3ヶ月間私は主に抱かれていましたが、ある時主が天使たちにこう言われるのを聞いたのです。「この息子のミニストリーを世界の隅々にまで届けなさい。わたしは彼を本当に喜んでいるから!」
私たちは現在していることをしばらく休んで、神が何年も前に自分を召された時と同じ召し(道)を今でもまだ召されているかどうかを確かめるべき時があるように私は思います。

十字架

十字架は私たちを天の夢へと送りだす発射台であり、又、十字架は神の夢を地上にもたらすために私たちが地球の大気圏にどのように再突入すればよいかを教えてくれるものです。イエスが十字架に架かるとき、弟子たちは自分たちの高邁な召しと夢は失われてしまったと思ったに違いありません。彼らはそのとき十字架が 地上に対する神のすべての夢が実現するための発射台になることを全く理解できませんでした。後に彼らは 、自分の十字架をかつぎ自分を否み、夢を与えその夢を神の方法で実現してくださるお方に従うことによってのみ、自分たちの夢は実現されることを学んだのでした。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-02-05 08:20