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御国の領域で生きる ジェシカ•ジョーンズ 5月23日

御国の領域で生きる

ジェシカ•ジョーンズ



御国に生きる生き方というのは、実はとても簡単なのです。それにもかかわらず、それはクリスチャンにずっと今まで手のとどかない世界のことになってしまっています。でも長ったらしい方程式など何もないのです。それはただあなたの人生の一分一分、一つ一つの状況を神の御手、即ち霊的な御国の領域に委ねるということです。

イエスはそうされました。使徒たちもそうしました。そしてそれは私たちの人生上のあらゆることにおいても非常に素晴らしく効果があることなのです。初期のクリスチャンたちはユダヤ人でした。彼らは皆、何千年にもわたって伝えられてきた神を畏れる生き方の契約を把握していました。すべてのユダヤ人家庭の一部となっていたその理解を、私たちは失ってしまいました。それは4世紀のコンスタンチヌスの治世で起こったユダヤ人に対する迫害によって、クリスチャンとユダヤ人が分たれてしまったからです。

「朝起きてあなたの足がベッドから床につく前に、あなたの一日をわたしの権威の下に委ねなさい。」と主は私に言われました。

初めてそのようにした時、それは実際どんな意味なのかを私は主にお訊きしてみました。

「父なる神様、私はこの日を、今日のすべての活動を、問題を、状況を、決断を、すべてを、一分一分をあなたの御手の中に、あなたの権威の下に置きます。私に関するすべての事に 、どのような方法ででもあなたが介入する許可を差し上げます。それは今日一日があなたにとって益となり、御心に適うものとなるようにすべてのことが相働くためです。イエスの御名によって祈ります。アーメン」

この祈りをする理由は、私たちの一日を地上の領域から切り離して、神の領域、神の御手の中に置くためです。あなたの一日をこの世の空中の力であるルシファーの権威の下から、神の領域へと移すのです。神があなたの為にあなたの人生に介入されることを許可する祈りです。神とその他のもろもろの霊にむかって、あなたはルシファーやその手下どもとではなく、ただ神とだけ共に働いているのであり、神に完全にコントロール権があることを宣言するものです。あなたは神を信頼し、自分(それは即ちこの世の力)がコントロールするのではなく、神にすべてのコントロールを明け渡すことを宣言するものです。

私は今までに何度もこれと同じ祈りをしてきましたが、それがどれほど意味深いものであるかを今のようには理解していませんでした。「主よ、決して私を離さないでください。あなたが望まれる事とか私がするべきことがあったならば、いつでも私がしようとしている事を変更することをあなたに許可いたします。」私が17歳のときに実はまさにこのことを意味する祈りの歌を与えられたのでした(曲に合わせるともっといいのですが)。そして私は何年もそれを歌って来ましたし、今でもギターを手に持つと歌います。実際のところ、ギターがない時でもこの歌のヴィジョンが 頭の中を度々よぎります。

私はいろんなことを言ったりしたりしていますが、本当に私は人生のすべてを主にお捧げし、主の御手に中にお委ねしました。
確かに私は言うべきでないことを言い、するべきでないことを度々してしまします。 主が必要と思われたならばいつでも私の人生に介入し干渉してください、という許可を主に与えたにも拘わらず、 私は自分の人生を主の御手の中から取りもどし、自分で生きてしまってばかりいるので、そのような情けない結果になるのです。

これはどういうことでしょうか? 自分の人生を本当に主の御手の中に置く時、私は自分の人生を御国の領域に置いたことになるのです。しかし、それをまた取り戻して自分でコントロールするならば、私は自分を御国で生きる状態から取り出してしまい、またぞろルシファーの権威の下に置いてしまうことになるのです。そうです、クリスチャンでも自分の人生をルシファーの統治下に置いてしまえるのです。というのは今ルシファーがこの世の君だからです。ですから、もし私たちが御国で生きることから抜け出してこの世の肉の領域に入るならば、私たちは神の御国から出てルシファーの王国へと入るのです。

私が母に関して一番憶えていることの一つは、彼女があることを私に教えようとした時のことです。母は部屋の戸口に立ち、片方の足だけを部屋の中に入れ「 入ることも出来るけど…」と言い、次にもう片方の 足を部屋の外におろして「出て行くことも出来る..」と言うのです。母は同じことを言いながら戸口でこれを数回したので まるでダンスをしているようでした。そして母は部屋の外に出て行ってしまいました。

私たちは同じことを神に対して何度もするのです。一時片足を神の王国に入れて「入ることも出来るけど…」と言い、すぐにまたこの世に戻って「出て行くことも出来る…」と言うのです。そして残念なことに私たちは母がしたように向きを変えて外に出て行ってしまうことが多いのです。

私たちは心配事を十字架のもとに持って行き嘆願したかと思うと、またその心配事を拾って家に持ち帰るのです、、そして自分の解決法を探すのです。

私たちが十字架の下に行く時、霊的御国の生き方の中に入るのです。そしてその自分の愛玩物を拾い上げて家に帰るときは、 ルシファーの王国に再び入るのです。

次の祈りは今日聞いたばかりのものですが、とても素晴らしいので皆さんにお分ちしたいと思います。オクラホマ州のダビデの家というミニストリーのカーティス・ランドリーさんから来たものです。

父なる神よ、主イエスの御名によって私はこの 問題(経済的か、病気、子供の事かなど、はっきり言う)をあなたに差し出し、十字架の下に置きます。父よ、イエスの御名により、私はこの問題の結果とのいかなる魂的肉的な絆を断ち切ります。

イエスの御名により、私は私の思い、意志、感情、またあらゆる空しい想像がこの問題に関して駆け巡り働くことを許しません 。主よ、私はあなたに感謝します。私がこの問題に関して感情的ではなく、又いかなる恐怖も抱いていないことを。主よ、御言葉にはあなたが私に恐れの霊ではなく健全な思慮深い霊を下さったと書かれています。

私はキリストの健全な思慮深い思いを受け取ります。私は今私の中にキリストの健全な思いを受け取ります。それが私の栄光の望みです。私はすべての魂的肉的な絆を断ち切り、私の魂が良いこと、純粋で清いことにのみを心に思うことを命じます。

私はダビデのように祈ります。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」父よ、私はこの問題(今あなたが祈っている問題、状況をきちんと言い表す)を自分の手の中に持つことを選びません。主よ、あなたに感謝します。あなたの御言葉に「主は決して正しい者を平安と信仰の場所からゆるがされるようにはなされない。」とあることを。私はそれを自分のこととして今宣言します。私はそれを自分のこととして今信じます。私はそれを自分のこととして今受け取ります。イエスの御名において、アーメン

詩編55:22「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
第二テモテ1:7「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」


イエスは人の子 Son of Man でした。彼は人でした。勿論彼が神の子 Son of God であったことを私は知っていますが、 人であったイエスについて私はあなたに話したいのです。

イエスは絶えず祈られました。主が何を祈っておられたか考えたことがありますか? パウロも絶えず祈りました。彼は何について祈っていたのでしょうか? 私も絶えず祈ろうとしたことがありましたが、その試みはわずか数分で終ってしまいました。

私たちは、祈りとは何かをお願いすることだと考えています。それが人々のためであっても、やはり物事や人のためにお願いをしているわけです。私自身はお願いすることをそんなに沢山思いつきません。いくつくらいの事をイエスは神にお願いしたと思いますか?主は家を持っていませんでした。


着るものやサンダルもあまり持っていたとは思えません。所有物はありませんでした。 遺書に書き記すようなものは何もなかったのです。ただヨハネに母の世話を頼んだだけでした。たった一つの衣はローマのくじに使われました。つまり、彼はこの世の領域では何一つ誇るものは持っていなかったのです。

では、一体イエスは何を祈ったのでしょうか?
パウロも無一物でした。ですからパウロは一体何のために祈ったのでしょうか?

私はイエスとパウロは二人とも同じことを祈っていたのではないかと思うのです。彼らは自分の人生の一分一分が神の御手の中でしっかり守られていることを願ったのです。二人はすべての呼吸が確実に神のコントロール下にあるようにと絶えず祈り、彼らのために介入する許可を神に与えていたのです。

そして祈りは一方通行ではありません。二人は人生すべてのことに関して神の語られる言葉を聞くために耳を傾けていたのです。

これはどういうことでしょうか?

パウロはルステラで石打ちにあいました。人々は彼を死んだものと思い町の外に引きずりだしました。彼は瀕死で横たわりながら、結果がどのようになろうともその時を神の御手に委ねたのだと私は思います。神はパウロのために介入する許可を与えられていましたし、使徒がもう一人死ぬということよりもっと良い計画を持っておられたので、パウロを生き返らせルステラにもどって福音を語らせたのでした。


ちょっと今考えてみてください。パウロの頭に石が一つか二つ当たったとしましょう。というのは人を石打ちにする時に一番効果的なのは頭だからです。石が当たって地面に倒れたあとは
人々はその人の身体全体をめがけて石をなげ、もっと苦痛を与えようとするでしょう。

パウロは頭に数カ所傷を受け、多分頭蓋骨が割れ、骨も大分砕かれていたでしょう。確実に死に至るような石打ちを受けていたのです。

私は石打ちにあった人々がどのように死を迎えるかについて調べたことがあります。20分ほどで死に至り、それは蹴られたり打叩かれて死ぬのと似ていて、 激しい痛みの伴う残酷な死に方です。

しかし、パウロの命は父なる神の御手の中にありました。父は彼を生き返らせ、町にもどって福音を語らせました。彼はぼろぼろになった泥まみれ血まみれの服を着て町に入っていきました。彼は 足を引きずることもなく完全に癒された姿でユダヤ人に彼らが歴史の中で聞いていた神について躊躇することなく語ったのでした。

一方イエスは、会堂の人々によってガリラヤの町の外にある丘の上に追いやられました。人々は主を崖から突き落とそうとしたのです。しかし、イエス(人としての)は、群衆の中を通り抜け誰にも見られずに去ってしまわれました。人々はすでにそこにはいない人を突き落とそうと群がっていたのです。

この話を以前にも聞いたことはありませんか? ラベンズブルックの強制収容所に入れられたコーリー・テンブームの話はどうでしょうか。彼女は扉のところに立っていた看守の厳しい目を通り抜けて聖書を持ち込むことが出来たのです。

神がある人のためにされたことは、他の人にもして下さるのです。神は人をかたより見る方ではありません。そして奇跡は滅多におこらないと考えるべきではありません。私たちの世界で滅多にないとか奇跡的だと考えられることは、御国の領域の生活では普通のことなのです。そして霊の領域がこの世の領域に取って変るならば、ここでもそれは起こるのです。言葉を変えれば、私たちが人生を神の御手に委ねて、神が私たちの領域を神の領域に置き換えてくださるのを許可するならば、奇跡は私たちの生活の中で当たり前の事となるのです。(終わり)

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by walkwithgod | 2010-05-23 14:58 | アメリカからのメッセージ

奇蹟の道を築け キース•ミラー 2010年5月16日

奇蹟の道を築け

キース•ミラー



ダイナマイトが必要だ!

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力(デュナミス:ダイナマイトの驚異的な力、勢力、強さ、聖霊による力)を受けます。」使徒の働き1:8

デュナミスには変革する力がありますー信じてください! それは爆竹のように小さいものではなく、 ダイナミックで地を揺るがすような激動的な力であり、その力が私たちの上に臨むと不可能なことは何もなくなり、すべてが可能になるほどの力なのです。それは地球を揺るがし無限で止む事のない継続的であり終りのないメガワットの神の力であり、あなたの周りの世界を揺り動かさずにはおかない力なのです。

今までにあなたの人生の中で、地を揺り動かし影響を与え物事を動かし変革させるような力を経験したことはありますか? もしあなたが次の代や後世に霊的遺産を残したいと願うならば、あなたにはこのような力が必要です。

どのくらいで満足するのか

もしあなたがそのような力をまだ経験したことがないならば、それは神が貴い聖霊によってずっとあなたに与えようと用意されているものよりずっと小さなことで、あなたが満足してしまっているからかもしれません。私たちの多くは自分の考えに枠をはめてしまい、その結果部分的な勝利で満足してしまっているのです。本来ならば私たちクリスチャンが部屋に入るだけで、そこにいる人々はイエス様のことを知りたいと懇願するはずなのです! 地域社会、職場、政治的指導者、そして王や大統領さえも、重要な事柄に関する知恵と策を教えてくれと私たちに頼むはずなのです。私たちの中からもっと多くの人が、メディヤの世界、ハリウッド、政界や実業界で影響力のある地位についているべきです。

確かに人々はイエスの救いの力を知るようになってきていますし、奇跡がそこここに起こり、祝福が私たちに注がれています。しかし、私たちはもっと偉大な神の力の顕れを見ていませんし、もっと大きな神の栄光が与えられて私たちから流れ出し、その力によって真に驚くべき変革が起こるのもまだ見てはいません。

歴史上に残る素晴らしい御業のハイウェイを築くために神が取られた方法は、使徒パウロが言っている「神の栄光の豊かな宝」を流れ込ませることによってでした。その豊かな宝は 神ご自身の満ち満ちたさまにまで私たちを満たすものであり(エペソ3:16、19参照)それはすべてのことを可能にする素晴らしいデュナミスの力を与えるものです。神の御霊と力とは決して切り離しては考えられません。

イエスのミニストリーの秘密

それは秘密ではない!

黙示録3:1を見ると、イエスは神の七つの霊を持っていたことがわかりますが、イザヤ11:2を見るとそれが更に詳しく書かれています。イザヤは聖霊ご自身がイエスの上にとどまられたと書いています。聖霊により知恵と悟り、はかりごとと能力、主を知る知識と主を恐れる霊が注がれたのです。そして聖書にはイエスは無限に神の御霊が注がれたと書かれています。(ヨハネ3:34)

イエスは制限というフタを吹き飛ばされたのです。それはイエスが「ある程度」とか「制限付き」のものでは決して満足されなかったからです。人間の知性、知恵、能力には限界があります。 主は歴史の流れを革新的に変えられましたが、それをするために主は、神の満ち満ちた 御霊の知恵、悟り、はかりごと、能力、知識を求めそれにより頼まれたのでした。 満ち満ちた無限な神の御霊だけがイエスを満足させたのです。 豊かな宝がそそがれ、満ち満ちた御霊の顕れが御自分の心から流れ出すまでは1インチなりとも動かれなかったのです。その結果、主の臨在はすべてのことにおいて顕れ出たのでした。

イエスは言われました。
「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川(rivers of living water)が流れ出るようになる。)これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』ヨハネ7:37−39

ここで「川 rivers」が複数なのに注目してください。それは貴い聖霊の流れが複数あることを示しています。一つの御霊、そしてその七つの機能、顕れがあなた方を通して働くのです。それは私たちが日ごとに聖霊の深みと自分の深みとの間の親密な交わりをすることにより、 神の力により私たちが主のご性質にあずかる者へと変えられていくということです。(第二ペテロ1:3、4)

貴い聖霊の素晴らしい流れの一つ一つは、すべてのクリスチャンが与ることができるものであり、それは 私たちがこの世を主の栄光のために変革しようとしていくとき、常に前進し発展して進めるように助けてくれます。 神の七つの御霊のすべての機能、顕れが私たちの中に流れ込み、流れ出して、それによって完全に神の御国が現実となり勝利が得られるのを私たちに見てほしいと神は願っておられます。聖霊の七つの顕れは御国の深い奥義をあらわし、私たちに偉大なることをする力を与えてくれます。そしてあなたを通して働く主の偉大な力によって、主が栄光と誉れを受けることになるのです。

結論

町を一日で改革する、あなたの放蕩息子を家に帰らせる、政府を変える、大勢の人がいっぺんに癒される、あなたのミニストリーや人生が進展するというようなことのために必要なのは、主の絶えることのない臨在があなたの上にあることであり、知恵、悟り、力、知識、主を畏れるこころによってあなたを通して主の満ち満ちた様が働いていることです。これが即ち、制限や限界を取り除くと決意したすべての人が受け取ることができる「無限の油注ぎ」です。

もし聖霊が神の満ち満ちた様であり、神が永遠—絶えることのないものーであるならば、聖霊のすべての特性もそうであるはずです。主はこの絶え間ない生ける水の川(rivers)をあなたの中に流れ込ませ、 流れ出させ、あなたの人生が毎日聖霊の力ある流れを顕し、主の力によってこの地に主の栄光をもたらすことができるのです。部分的な勝利では歴史は作れないことを忘れないでください!(終わり)

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by walkwithgod | 2010-05-16 14:38 | アメリカからのメッセージ

水嵩が増している!ペンテコステにむかって動き続づけよ!チャック・ピヤス 5月6日

水嵩が増している!ペンテコステにむかって動きつづけよ!

チャック・ピヤス
 

主が言われます。「わたしの民のうちにある川を今わたしは涌き立たせています。わたしの民のうちの川が涌き上がり今 溢れ流れます。あなたたちの川の多くは瓦礫やゴミで一杯になっています。これから数週間にわたってわたしはあなたを清めます。清められねばならない恵みがあります。清められねばならない窓があります。わたしがあなたを清める時があるのです。なぜならばE-コライ(O157)のようなバクテリヤがあなたの腸に入ってしまったので、わたしはきれいな大腸を造りはじめます。将来のためにわたしが用意しているものをあなたの胃が消化できるようにわたしはします。わたしの清めの川が流れ始めます。」

ペンテコステにむかって動き続けよ!

ペンテコステに近づいている今、私たちは思いと考え方を「収穫」にむけてシフトしなければなりません。新しい道への扉が形造られるのを注意して見守ってください!「形造られる」という意味は、ある事に形やアウトラインが出来てくることとか、或いはある物に意味や特質、性質が与えられてくるということです。

形造られる時を見るもう一つの方法は、何かが将来なるべき形に次第になってくる時がそうであるということです。これには将来その事を実行するための備えとして私たちの心とからだを整えることも含まれます。形造られるシーズンに起こることは、心にそのことへの思いを抱くこととか、それへの訓練、鍛錬を含みます。このシーズンはその事に特有の形を与えるパーツを揃える時です。

ペンテコステの鍵となる箇所は第一コリント16:8です。ここでパウロはペンテコステまでエペソにとどまろうとしています。というのは彼にとってよい働きが出来る扉がエペソで開いたからです。この形造られている扉の背後には多くの敵もいます。しかし主はこう言われます。

「このシーズンにはあなたの敵に焦点をあててはいけません。ドアが形造られるのを注意して見つめ、この新しく与えられたチャンスの中に入っていく準備を整えていなさい。わたしはあなたが敵に打ち勝つようにあなたに恵みを与えます。わたしはあなたに新しい仕事(招命)を与えるので、あなたは新しいミッションの場へと出ていくのです。」

暗闇を恐れるな

神は神の民の中のある者たちを暗い構造の中に遣わします。暗闇を恐れてはいけません。神はあなたに「夜のヴィジョン」(夜の暗やみで物が見える双眼鏡のたぐい)を与え、どのような不義の構造の中でも義の道が見えるようにしてくださいます。これは普通の海流の中でメキシコ湾流 Gulf Stream に乗って動くようなものです。メキシコ湾流はメキシコ湾で出来た暖かい海流で、フロリダ海峡を通り大西洋の冷たい水の中に流れ込みます。神は水を分けておられるのです! 今までいろいろな地域でイエスの大宣教命令を遂行するのを阻んでいた暗闇の霊どもが、今や収穫の門を明け渡すのです。

第一コリント16:9には「というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大勢いるからです。」と書かれていますが、これが今のシーズンに現実のものとなるでしょう。神の御言葉なるイエスが、今まで心を閉ざし神によって解放されることを拒んでいた人たちのグループや場所にも入って行かれるでしょう。悪魔の軍勢は紅海のように両側に分けられ、神の子供たちが、そこを通り新しい任務に着くまで両側にとどめられているでしょう。

収穫の時!

私たちのほとんどは収穫の時に関する知識があまりありませんが、今は穂束を揺り動かして捧げる期間なのです。聖書には私たちは毎日最上の穀物を揺り動かして捧げながらペンテコステを迎え、そして新しい収穫の時に入ると書かれています。 今私たちは複雑な社会生活を送っていて、自分の食料が実際に生産される場所からはかけ離れて暮らしをしていますが、収穫の季節は人々にとって最も大切なシーズンでした。(創世記8:22、45:6)収穫の時期に多くの出来事が起こりました。(創世記30:14、ヨシュア3:15、士師記15:1、ルツ1:22、2:23、第一サムエル21:9、23:13)

収穫にはプロセスがあることを私たちは知る必要があります

1.冬が終るころ種を蒔き地中に埋める。
2.初めと終わりの雨のために祈る。(ゼカリヤ10)
3.穂を掴んで鎌で刈る。(申命記16:9、マルコ4:29)
4.穂を集めて束にする
5.穂束を脱穀場に運ぶ
6.道具を使って脱穀する。あなたはその道具を持っている。
7.殻粒を空中に放り上げて取り除く。風が吹いてあなたのもみがらを吹き飛ばすように。
8.穀物を篩いにかける。(アモス9:9)あなた方の幾人かはこのプロセスに入っている。
9.穀物を蔵にしまう。あなたの穀物蔵を見つけなさい。

さて、 収穫にはいくつかの大きな敵があるので、それらから収穫を守らねばなりません。

1.旱魃 あなたのすべての干涸びのもとになるものを明確にし、それらを打ち破るように主に願いなさい。
2.イナゴの襲来 あなたの収穫を食い尽くす物を取り除くように主に願いなさい。
3.稲の病気(カビ、うどん粉病など)あなたの人生のカビを取り去ってくださいと主に願いなさい。
4.熱く焼けつく風 害を与えるような風が来ないように主に願いなさい。
5.戦い 敵はあなたの地に入り込んでその地の産物を食べていた。そのあなたの地の収穫を食べていた敵に対してあなたの地から出て行くように宣言しなさい。

初穂:祝福の鍵

ペンテコステは「初穂の日」(民数記28:26)と呼ばれました。それは人々が初穂の捧げものを持ってくる日だったからです。これは収穫の季節が終了した感謝と喜びのお祝いでした。そしてこれらの捧げものは「揺り動かす捧げ物」として人々のために捧げられました。初なりの果物、ぶどう、穀物、油、ぶどう酒、そして最初の羊毛が捧げものとして必要でした。(出エジプト22:29;レビ記2:12−16;民数記18:12;申命記18:4;第二歴代誌31:5;ネへミヤ10:35、37、39;箴言3:9;エレミヤ2:3;ローマ11:16)

この時期の雨と豊穣の源は主であると言われていました(エレミヤ5:24)新約の時代にはペンテコステに聖霊が弟子たちに下りました。(使徒2:1−4)国々からユダヤ人たちがこの恒例の祭りを祝うためにエルサレムに来ていました。ペンテコステと仮庵の祭りの間が初穂のささげ物をする期間でした。

あなたが捧げるべき初穂を主に願いなさい。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-05-07 11:28 | アメリカからのメッセージ

「時をあがないなさい」坂 達也 2010年5月2日

「時をあがないなさい」

坂 達也



 エペソ5:16「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」
コロサイ4:5「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」というみ言葉があります。どちらも同じ原語から「機会を十分に生かして用いなさい。」と訳されておりますが、それを直訳すれば「時をあがないなさい」です。英語では redeem the time、ギリシャ語ではexagorazo kairos です。(Kairos=カイロスの時)

私はアメリカでクリスチャンになり、英語の聖書から読み始めたものですからこの語句 redeem the timeの意味が、一般に解釈されている訳とか意味ではもう一つ合点が行かず、頭を傾げながら30年余が過ぎて来ました。ところが、最近「永遠の時とは何か」と言うことを学んでいた時に、主に改めてこの redeem the timeの意味を問うたところ、今朝主がその答えを下さいましたのでご参考までにお分ちする次第です。

英語の聖書では日本語の聖書の意訳(上記)と違って、そのまま素直に直訳の redeem the time と書いてありますから「時をあがないなさい。」です。一体「時をあがなう」とはどういうことなのか、字づらの意味は簡単ですが、その意味するところが理解出来ずに考え込んでしまっていたのです。

この redeem「あがなう(贖う)」という言葉はクリスチャンなら誰でも知っている、そして最も重要なイエスキリストによる「罪のあがない=贖罪の救い」を表す言葉です。その意味は、

1 代価を払って買い取る、買い戻すこと
2 枠がはめられ、窮屈で、苦しめられていたもの、何か益にならないもの、あるいは捕われていた状態から、代価(身代)を払って解放する(救い出す)こと
3 罪の結果とその報いから解放する
4 悪い影響(例えば借金でがんじがらめになっている状態)に対してそれを解消するだけの支払いをして相殺にする

です。つまり redeem the timeとは、代価を払って「時」を買い取って時を無くする、あるいは、時と言う窮屈な「たが」「制約」から解放され timeless 時のない状態になる、もどる、と言う意味です。

ご存知のように、元々神は全く時に縛られない「時のない」世界におられ、今もその世界に存在されている方です。時の無い世界の経験が無い人間には適当な言葉がないため、やむを得ず「永遠」と言う言葉で表しましたが、聖書で言う「永遠」とは「時が永遠に続く」ということではなく、「はじめも終わりもない状態、永遠の今が無限に存在する」と言うことです。
従って、時の移り変わりのない神は絶対に変わらない、「イエスキリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブル13:8)と言われます。

神の創造は、時が存在しなかった有史以前に神の心の中で、神のいのちの一部として完成されていました。そして、その後も絶対に変わらないのは神が時の無い方であるからです。「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何をつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神はそれをなさる。人は神を恐れなければならない。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。…」
(伝道者の書3;14,15)

時とは神が宇宙(天と地)を創造した時点で加えられた「被造物」の一つです。天地創造をされて以来、この宇宙は時の一方向の流れに乗って(縛られて)いますが、神の国、天では「時」はあっても、それに縛られることはないのです。(難しいことを言ってすみませんがご理解いただけると信じます。)

その意味で厳密に言えば、神は元々、全く時を超越した存在ですが、天地を創造した後、 現在は「時のある天国」におられる。その天国の時とは、自由自在に過去とか未来に行ける、しかも流れている「時」も存在する、といった世界であって、地上の「一方向の時という枠にはめられた状態」とは違うようです。
ややこしい話で、私もよく分からないのですが、これを区別する意味で、神は最も高次元の世界を持っておられる方、天は4次元+時間の「霊の」世界、そして地球上は3次元+時の自然界の世界と言うことにしたいと思います。

何故こんなあまり要領を得ない話を私が敢えてするかと言うと、実はこの「永遠の次元で生きる」ことがこれからの私たちクリスチャンの生き方として最も重要な鍵になるからです。

イエスキリストは肉の人間に生まれて来ましたが、「第二の人は天から出た者です。」(1コリント15:47)とパウロが言うように、天の人でもあります。(Son of God で Son of Manと言われる)
と言うことは、イエスは肉の3次元世界と霊の4次元世界の両方に同時に住んでいる方であると言うことです。

そのイエスが「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子(Son of Man)の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます。」(ヨハネ1:51)と言われました。これで思い出すのはヤコブが見た夢で「一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」(創世記28:12)ですが、イエスキリストは天と地にはしごをかけて行き来する、どちらにも存在している人(人の子)であるのです。

そして、私たち人間もそうであるべきだと言うことをくどい程強調しているのがヨハネ伝を書いたヨハネです。彼がしきりに言う「永遠のいのち」がそれです。永遠のいのちとは時間に制約されない4次元の力が自由に使える状態を指し、そのような人を御使いは常に助けてくれるのです。
ヨハネ自身がその二つの次元に生きていて主イエスを最も理解していた弟子であることがヨハネ伝からうかがえますし、またこの福音書が他の三つと違うユニークな書であるゆえんであると思います。
その一つの例をあげれば、ヨハネは「真の礼拝者たちが霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と言いました。(ヨハネ4:23、24)彼の言わんとすることは、礼拝とは時間の長さとか量ではなく、時間の無い「永遠の今」という私たちの過ごす時間のどこを切っても常に「父を礼拝する真心」しか出て来ない状態を言っていると信じます。

ところで、「時間の無い」と言うのはどんな世界であると思われますか。考えてみれば実にやりきれないような気がします。例えば、あなたが誰かに腹を立てて、絶対に赦せない気持ちになったとしましょう。それが永遠に続くとしたらどうでしょうか? 一日に一回腹を立てたとして、それが一年間分積もれば、人間は誰でも気が狂うでしょう。遺恨がたまれば人間関係なんか皆吹っ飛ぶし、勿論夫婦でなんかいられません。
時間はその点、神が人間に与えた最も大きな祝福の一つであると思います。何故なら、時が経つと腹が立ったことも、憎いことも忘れるか薄らいで行くからです。一方、時間の無い世界では、時間の流れの下では通り過ぎて行く一切のものが去らずに、逆に濃縮されていくと言う恐ろしいことが起こるのです。

時間のない世界で、少しでも敵意、争い、そねみ、ねたみ、憤り、党派心、分裂、分派、不品行、好色、どん欲、むさぼり、汚れ、遺恨を持つ者が集まれば、 それはまさに「地獄の沙汰」です。
一方、時間のない世界で楽しく暮らすには、そこにいる人は皆常に愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和で、自制心と人を赦す心を持つ人たちでなければならないと言うことになります。その上、自分中心の人間では絶対に勤まりません。だから神は私たちが純粋で聖くなければならないことを強調します。

神が絶対に変わらない愛と言うご性質をお持ちなのも、時の無い方であるからです。性質と言うものは時間を超越した「不変な質」そのものでありましょう。その変わらないよい性質を持てるように、神は人間を一時この世と言う3次元の世界に送って、試練の中を通させて性格の「霊的成長」をさせて下さっておられます。

イエスは「御子を信じる者は永遠の命を持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)と言いました。「永遠のいのち」とは、単にこの世を終えて天国で永久に住める命をもらうことと考えている方は、この際考え方を根本的に変えていただきたいのです。私たちクリスチャンは、永遠に生きておられるイエスの力によって、超自然の4次元の世界で生きることを『今』期待しておられるのです。

ニコデモが「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(ヨハネ3:2)と言いましたが、その通りです。私たちには「永遠の今」と言う時に「神が共におられる」のです。

私たちは今、「永遠のいのち」であるイエスキリストが私たちのために十字架上で支払われた代価に基づいて、そのイエスの名によって、私たち自身を時間の縛りとその「力の無さ」を「買い取り」それから解放され、イエスと同じ次元で、主がなさったのと同じ、いや、さらに大きなわざを行う時が来たのです。それが「時をあがないなさい」の意味であると信じます。

主は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ14:12−14)と言われ、私たちがこれからの終末の時に大いに主に用いられ、父の栄光をあらわすことを望んでおられます。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-05-02 06:54 | 坂達也からの今月のメッセージ