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まことの愛は私たちをあるべき姿に完成する グラハム・クック  9月29日

まことの愛は私たちをあるべき姿に完成する

グラハム・クック


まことの愛の真髄は、人々を自由に解放することにあります。愛と自由に関してのまことの知恵は「あなたが何かを愛するならば、それに自由を与えなさい。(開放しなさい)もしそれがあなたに戻ってこなかったならば、初めからそれはあなたのものではなかったのです。」ということです。愛は自由を求めます。また、信頼される必要があります。 私たちが恐れずオープンに愛することを学ばなければ、私たちの愛の対象は私たちとの関係に問題(プレッシャー等の)を感じ苦しむでしょう。

愛は人々が彼らの人生とそのアイデンティティーを見つけるための冒険、探検に出かける許可を与え、その途上で間違いを犯すことをも許可するのです。私たちが何かを初めてする時には、それをしたことがないのですから、失敗したとしてもそれは間違いではありません。私たちはすでに起こったことからしか学ぶことができないからです。失敗したとき、私たちはそれから学んだことを自分に適応させ、もう一度やって見るのです。

もし学んだことを自分に適応しないで、同じ事を繰り返し同じ結果になったとすれば、それは明らかに間違いを犯したことになります。もし同じ事をし続けるならば、そこに一つの行動パターンが出来てきます。そのパターンを繰り返すならば、私たちにはあがなわれなければならない歴史が出来上がってきます。その歴史と行動パターンとは違うものです。行動パターンは原因であり、歴史はその結果です。人間関係において、行動パターンは間違いを犯した者の責任ですが、それが作り出した歴史をどのように処理するかは被害者がコントロールすることができます。

人を赦すことは私たち自身のブレークスルーにとって大変重要な部分です。ですからまず第一に私たちは自分のために人を赦さねばなりません。しかし私たちは無理矢理その人を赦すように強要されるべきではありません。多くの場合、赦しはそれ自体が一つのプロセスとしてやってきます。赦しなくしては信頼関係もなく真の愛の表現も不可能です。 しかし赦さなければ恥となると云ってまでその人に赦しを強要するべきではありません。もし赦すことがすぐに出来ないならば、それは傷ついた側に癒される必要があり、それを目的とした(そのための)プロセスであるということです。愛はその人のすべてが癒され、あるべき完全な姿に回復することを望むからです。

時には(間違いが積み重なる)その歴史は比較的簡単に赦すことができるかもしれませんが、私たちはその人の行動パターンが変るまではそれにつきあって暮さねばなりません。もしそれが変らなければ、歴史は繰り返され、その人との人間関係はまた振り出しにもどります。人がその行動パターンを変えるためのステップを確かに踏み出さないならば、信頼関係が失われます。

信頼には、「与えられる信頼」と「 自ら取得する(勝ち取る)信頼」とがあります。「与えられる信頼」とは傷つけられた人が傷つけた人に与える(ことができる)信頼です。「取得する信頼」とは傷つけた者が、良心の呵責の重荷により(悔い改めに導かれ)その後の行動を変えることによって自ら勝ち取る信頼です。どちらが先かは問題ではありません。その状況の中で「自分はどのような人間になりたいか」ということは両者に委ねられていて、それに対してはそれぞれが自分で責任を負わねばなりません。両者が同じ時点から出発する必要はありませんが、両者がそれぞれに成長したあかつきには、やがてもう一度結びつくことが可能です。 すべて人間の状況は一つとして同じということはありません。

私たちが自分の行動パターンを変えるのは、ただ誰かを取り戻すためだけのためではありません。それは私たち自身が変えられた人間になることを選びとるからです。つまりこの変化は先ず第一に自分自身のためでなければなりません。そうでなければ長続きはしませんし、よい態度とその継続が試されるテストに合格することもできないでしょう。すべての人間関係は、様々な出来事によってテストされますが、それこそ私たちが 愛、忍耐、慈しみ、忠実、信頼において成長する道なのです。

私たちが自分の行動を改めていくためには、 次のような愛をもってなされる質問が助けになります。ですからこれは自分にも又、他の人にも聞いてみるべき質問です。

あなたの中の何がこのような行動をあなたに取らせると思いますか?
私(彼、彼女、彼ら)の中の何があなたにこのように行動してもよいのだと思わせるのですか?
あなたに自分の行動は正当だと感じさせるのは、私(彼、彼女、彼ら)をどのような人間だと思っているからなのですか?
この関係においてあなたはどうやって信頼関係を回復しようと考えているのですか?

ある人が自分自身を破滅させ、又、他人を傷つけるような言動を深く考えもしないでする場合、私たちはそれを止めさせ回復させるために動き始めねばなりません。 森の木を伐採して空き地を作るように適切な質問をすることによって一息つけるスペースを与え、その人が新しい方向、道を見出す可能性を与えることができます。

勿論、私たちもこのような言動に陥らないように気をつけねばなりませんし、同時に、そのような行動パターンが止められることを望みます。愛は自由を求めます。もし私たちが誰かの行動パターンの被害者であるならば、私たちは正しく愛される自由を求めねばなりませんし、又、その時の私たちの態度も愛に基づくものでなければなりません。その時に作られる「息の出来るスペース」で、私たちは愛が(初めからではなくてもいずれは)回復されるのを許す空間を確立させねばなりません。それは感情という銀行口座にどのくらい「信頼」が貯蓄されていたかがポイントとなるでしょう。

私たちはその人の行動は是認しなくてもその人を受け入れることはできます。神は始終そうされています。神でさえ私たちを変革させるためにプロセス、段階を用いられます。第一段階は 神のみこころにかなった自分に対する嘆きの心を持つことであり、それが私たちを悔い改めに導きます。自分の考え方を変え、その新しい考えに添って行動すること、それが悔い改めの始まりです。そして悔い改めの完成は、信頼が回復され、変革が達成されたときに起こります。これはかなり長いプロセスであり、和解(与えられる信頼)と、関係の回復(勝ち取られた信頼 )とが含まれるのです。

悔い改めには結末が必要です。そうでなければ完全ではありません。悔い改めの初めはただの出発点にすぎません。最後まで到達しなければブレークスルーは起こりません。多くの人は最終的結果や悔い改めへの願いは持っていますが、それを確かなものとするプロセスを大切にしていません。「希望」と「達成」との間にあるギャップは、一歩ずつの進展によってしか埋めることはできません。「与えられる信頼」は和解への道の一端を担うことはできます。しかし、「勝ち取られた信頼」だけが、回復に不可欠な悔い改めを完成することができるのです。

あなたがその人の行動いかんに拘わらず彼を愛していることを告げることは、時として彼が向きを変えるきっかけとなります。(絶対にそうなるという保証はありませんが。)愛は人に踏みつけられるだけのドアマットでは決してありません。愛のゆえに犠牲になることを私たちが選んだとしても、それによって私たちが「犠牲者」となっては絶対いけません。私たちを完全なものにしない愛は、愛ではないのです。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-09-29 16:21 | アメリカからのメッセージ

自己憐憫(2)  チャック・ピヤース  9月20日

自己憐憫(2)

チャック・ピヤース


自己憐憫は自分の権利を主張する!

自己憐憫は自分の権利を主張します!私たちの自我が支配してしまうとき、 自分のやり方と権利を要求してそれによって何かを確保しようとします! 自分に与えられた分を感謝して受けることが出来ないと、自分が受けるべきでない分まで受けるべきであるかのように私たちは感じてしまうのです。「権利がある(entitle))とは、即ち「タイトルを付ける」ということです。タイトルとは「それは自分の所有である」という証拠ですから、「 entitle」とは「所有する権利を主張する」という意味になります。私たちの肉の性質に同調する悪魔によって、多くの家族やミニストリーが分裂させられてきました。権利の主張は自己憐憫と共に働いて「それは私のものであるはずだ」と要求するのです。

ヒューストンに私たちは親しい友人がおります。彼女は非常に多くの賜物を持っている人ですが、また、自分自身を深く知るために力を尽くす人です。彼女は自分自身を知ろうと願うばかりではなく、どうして神は自分を造られ、神が一見黙しておられるときに自分が神に対して不満を持つのは何故なのかを知りたいと思っています。彼女は自分の反射的な行動(リアクト)は何故起こるのか、そして神が彼女にどのようにリアクトするのかをキチンと理解することが、彼女が求める人生の探求のすべてなのです。彼女は「自分には権利がある」と感じることに関しての理解を求めているとき、次のような手紙をくれました。

最近、私は自分が「権利主張」という言葉をよく言っているのに気がつきました。(それは勿論自分に関することではなく、他の人に関してですが..)私はこの問題で悩んでいる人たちのことを心配していたのです。ですが勿論、主は私自身にもその問題があることを示してくださいました。 この問題が私の人生の中で醜い頭をもたげてきたのを感じていたので、このことに興味を持っていた事も確かです。いつも私をいらつかせる食べ過ぎの問題をどう対処すればよいのかを友人と話していた時に、彼が「それは、自分は食べる権利があると思う感情と関係があるのだ」と言いました。全くその通り! 彼がその言葉を口に出した途端に彼がこの問題の的を射ていたことがわかりました。
また、昨日はいろいろな請求書の支払いをする日でしたが、お金を管理するのが私にとってどうしてこんなに難しいのかを考えていました。するとまた「権利 」という言葉が心に響きました。私は、自分はお金を使う権利があると思っているのです。そのことを私は心の隅ではわかっていたと思いますが、それを正面から見つめたことはありませんでした。一体私は何の権利があるというのでしょうか? それは私の人生で当然起こるべきことが起きなかったこと)に対する払い戻しです。

何と悪魔的なことでしょうか! 払い戻し? 私は生ける神の子、キリストの花嫁、契約の子、神の友なのです。そして私に払い戻しを受ける権利があるですって? 勿論、そんなことはありません。実際、私は何が起こってもすべてのことに「主よ、感謝します」と感謝に満ちた人生を送るべきです。キリストと共に生きる人生では、以前のようには出来なくなったことが多くあります。例えば、以前楽しんでいた事が、今はしずらくなり、昔していた事や昔の習慣をむさぼるかわりに、 本当には悪くないことー食べることとかーということをするようになります。 昔していた事がもう出来ないので、食べることくらいはする権利が自分にはあると感じるのです。そして過度に自分を甘やかす結果、ほどほどにすべきという一線を越えてしまうことになるのです。

律法によってではなく、恵みによって生きなさい! 愛は自分の利益を求めません!豊かに受けたのだから豊かに与えなさい!

「私のものだ! 私のものだ!」 社会における問題の根!

最近、 孫のクローが一週間泊まりにきたので、 ずっと2つのものだけを見ていました。「自動車」と「ファインディング・ニモ」の映画です。12回目に見たときでも私は両方とも大変楽しみました。

「ファインディング・ニモ」 では、ニモがお父さんに従わなかったので危険な目に会います。彼は海から出てしまってオーストラリアのシドニーの歯医者の水槽に入ってしまいます。お父さんと友達は彼を探しに出かけます。彼らはニモを見つけ、住んでいた家に戻ろうとします。しかしカモメがいたのです。カモメは魚が好物です!映画の中では、カモメ達が獲物を見つけるたびに「私のだ!私のだ!私のだ!」と叫んで争奪戦を繰り広げます。‘

肉的、物質的な世界において、私たちはそれと同じことをしています。 賞を取るために努力をするのではなく、ただ賞の取り合い競い合いをするのです! 自分が欲しいものを手にいれる権利 があると思うので、互いに闘争し戦うのです。ペニー・ジャクソンさんが「権利」ということに関して次のことを話してくれました。

お金の使い方に関しては私の状況はよく似ています。私が一線を越えてしまって借金ができてしまわなければ、お金を使うこと自体は別に悪いことではありません。しかし ショッピングをしているとき、私は自分が欲しいものを買うことは全く正当だと感じます。それは自分が当然 持っているべきだと思うもの(人生における権利として)を持っていないのだから、欲しいものを買う権利はあると思うからです。そこで、この自分の権利主張の問題をよく見極めて、その中の偽りを見つけることが私の重大な課題となりました。実にこれ(権利主張)は地獄の臭いがする「考え方」です。

それでは 私たちに権利を主張させるものは何なのでしょうか? アメリカ人は生まれたときから自分の権利を主張するのが当然なこととして育っていると思いますが、そのことがこういう考えの入口になっているのかもしれません。 アメリカに住んでいるのだから、私たちの人生はこうあるべきだ、というある期待を持っているのです。そしてそのうちに私たちアメリカ人は、自分は優しい夫、又は妻を持ち、言う事をよく聞く子供たちと木立のある住宅地に素敵な家をもつ権利があるという考えを持ってしまっているのではないでしょうか。

どうでしょうか。もしかしたら、テレビが白黒だったときにやっていたホームドラマの遺産でしょうか。「パパは何でも知っている」とか「ビーバーにおまかせ」を考えてください。自分の親がドラマの中のような人物ではなかったので、私はがっかりしたものでした。親はあのように完全なはずではなかったのでしょうか?しかし、そのようなロマンチックで非現実的な親に誰がなれるというのでしょうか。


今、私は50歳になっていますが、夫は今のところ現れる様子はなく、子供も(いい子は勿論のこと悪い子さえ)ありません。両親はドラマの親とは違っていたし、使い放題できるお金もありません(世界で一番豊かに国に住んでいるのに)。私は当然持つべきものを持っていないのだから、私がしたいことは何でもして良いはずだ、と私の奥深くにあるものが私を説得し納得させるのです。「子供時代に恵まれなかったかのだから、私は食べたければ食べたいものを食べてもいいのだ。持つべきはずだった夫や子供がいないのだから、自分で買えるものは買ってもいいし、お金を無責任に浪費していい。みんな私に借りがあるのだ!」と言う風に。本当に馬鹿みたいです。でも私の奥底にはそのような思いがあるのです。それが非現実的な考えであることは分かっていてもです。世界は完全ではありません。多分あなたは「まさか、そんな風に考える人なんかいないでしょう。」と思われるかもしれません。でもあなたの心の奥底を探ってみてごらんなさい。「自分はカクカクシカジカの人生を送っているはずだった」(自分が成した事の故ではなく、だた地球に人間として存在しているというだけで)とあなたが思っていることが多かれ少なかれあるのではないでしょうか。

私たちは神を賛美して人生を送るように造られたのですが、この「自分の権利を主張する」という思いが、期待に胸を膨らまして生きるのではなく、当然起こるべきものとして予期する思いで生きるように私たちをさせてしまいます(期待と予期は全く違うことです)。 そればかりか、私たちを感謝の気持ちの正反対、即ち、感謝をしない不満だらけの心、という結果へと 連れていくのです。そして私たちの内に「どうしてあの人たちだけもらって、私にはもらえないの? 不公平だわ!」という子供じみた叫びを起こさせるのです。

使徒パウロは貧しさの中でも豊かさの中でも、どのような境遇のなかでも満ち足りることを学んだと言っています。(ピリピ4:12)私たちはすべてのことにおいて感謝をするべきなのです。私たちはクリスチャンとしてそうしたいと本当に願い、そうしようと努力していると思います。しかし、限りなく恵み深い主は、 いくら感謝したいと思ってもそれをとても難しくする「偽り」に私たちが落ち込むことを、時として許されます。 それは、私たちが自分でも理解できないような衝動的な行動を取るときのいらだちや不満の原因を私たちがはっきり見るようにと、主は考えておられるためではないかと私は思うのです。

私たちが権利を主張することを正面から見据えて、それが何であるのかを知ることなしには、それに対処することはできません。権利を主張する思いと非現実的な考えに同調するところから私たちが抜け出し、自分が持つべきであると感じている人生よりも優れた計画が私たちのために実は用意されていることを知るまでは、私たちは自分の境遇を歪んだフィルターを通して見てしまうでしょう。
しかし、私たちがこれが偽りであることを正直に見つめてみれば、 素晴らしい喜びと感謝の念が内側からふつふつと涌き上がり、私たちの人生は変えられるのです。なぜならば、私たちは慈しみ深い神に 仕えているのであり、主は私たちの心の願いをかなえてくださる方だからです。主は私たちに豊かな命を与えるために来られたのであり、それは私たちが望む以上、また想像する以上に豊かであるからです。

辞書に「entitle 権利がある」のもう一つ別の定義がありました。それは「資格がある、適当な資格を持って要求する」というものです。イエスの血潮により、主を自分の主であり救い主であると信じることにより、私たちは 主が下さっているすばらしい約束を要求する資格があるのです。そしてこの約束とは「はい、その通りです。 Yes and amen」なのです。その(信仰による)権利を私たちは確かに持っています。神を賛美します!(終わり)


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by walkwithgod | 2010-09-20 15:39 | アメリカからのメッセージ

神の臨在(続) -ブラザー・ローレンスのこと 坂 達也 9月20日

神の臨在(続) - ブラザー・ローレンスのこと

坂 達也



 先回書きましたように、私は久し振りにブラザー・ローレンスの本を手にする機会にめぐまれました。英文で95ページほどのこの高価な宝石のような小冊子を一度手にするとそれを簡単に下すことができません。惹き入られて読み進むうちに、再びぜひご紹介したい箇所がありましたので下記に訳してみました。

「ブラザー・ローレンスは、彼の霊的生活の基盤となるものは、神(の存在)を最も高揚された地位の方として心から(愛をもって)崇拝する彼の信仰にあることを私に打ち明けてくれました。このことが彼のこころの奥深くに確立されてからは、彼は日常のすべての行動を、ただ神への愛のために行うことが楽にできるようになりました。神に対する彼のこのような確固(熱烈)たる信仰は神に大きな栄誉をもたらすことであり、主が彼の祈りに答え、より多くの祝福を与えるためのドアをより大きく開くことになりました。」

 ブラザー・ローレンスは「クリスチャンが、心のあまりこもらない日ごろの小さな祈りを機械的に繰り返し祈ることで毎日を過ごすとすれば、それは未だ弱い信仰である」と言います。そして、彼の言う確固たる信仰とは一日中一切を主に委ね切ることであると下記のように云っています。

 「もし誰かが、自分自身と自分のすることのすべてを神にゆだね・ささげ・手渡す(surrender)なら〔それは神のためにすべてのことをすると決意することですが〕主はその人を、一切のまどわし、ごまかし、迷わすものdeception から守るであろうと言います。そして、主はそのような人が試練の苦しみに長く遭遇することを許さず、それに耐えることができるように脱出の道を備えてくださると言います。(1コリント10:13)」

 つまり、そのような毎日を主と共に過ごす人には、神はすべてのことにおいて神の御心で彼が生きれるように導き、守り、平安と喜びの人生が送れるようにされると言うのですからすばらしいではありませんか。
 そして、そうなるにはどうすればよいかについて、彼は「一日を通して、主のご臨在と共に過ごすためには、いつも主と話をする(主に話しかける)ことが必要である」とその秘訣を語ってくれます。この本ではブラザー・ローレンス自身が書いた部分と、彼の親友であるヨセフ・ド・ビューフォーが彼の云ったことを書いた部分がありますが、彼の友人はブラザーローレンスはこの「いつも主に親しく話しかける」ことの重要性を主張してやまなかったと言っております。

 確かに私たちクリスチャンのうちには主が内住して下さっている以上、私たちにとって最も大事な「お客さま」で「共同生活者」である主にいつも親しくお話をするのは礼儀としても当然です。私は「主と個人的に深い交わりを持つこと」とはまさにこのことであると信じます。

 私たちは「信仰が足らない、御声が聞こえない」と嘆くよりも、毎日傍におられる主ご自身に、本当に敬愛する親しい方として、何でも気が付いたことを気安く話しかけ、質問し、お願いする毎日を過ごすことを自己訓練することはそれ程難しいことではないと思います。勿論主に対する愛がなければできません。しかし後は堅苦しく考えないことです。

 私の経験から言えば、たとえば私の好きな大リーグの野球、特に松井秀樹選手の出るロスアンジェルス・エンジェルスのゲームをテレビで見たい時は、私は主をお誘いして一緒に見てもらいます。そして、私なりの試合のコメントを主にお話したりします。最も親しい家族の長である父親以上の方ですから一緒に野球を見ることは、時と場合をわきまえてさえいれば、悪いことでも、主に怒られることでもない、むしろ主に喜んでいただける、より親しくなることであると信じるからです。

 続いてブラザー・ローレンスの本を見てみましょう。 

 「ブラザー・ローレンスの心からのゴールは神以外に何も考えないことにあります。しかし、もし彼がある時間、神のことを考えないで時を過ごしていることに気が付いた時に、彼はそのことですぐ腹を立てないようにしました。そして時を待ち、神に自分の弱さを心から告白することによって、前よりももっと自信と喜びを持って神のところに返ることができました。又、その神の臨在から離れていた期間、彼自身が楽しく満足できる心の状態にいなかったことに気が付くのでした。
   又、もし彼にあまりよくない考えが頭に浮かんだり、彼がそれに誘惑されそうになるとき、彼は直ぐにはパニックになったり、あるいは誘惑に勝てない自分を不甲斐ないと思わないようにします。なぜなら、過去の経験から、神を呼ぶべき時間が来るまでは慌てないで待ち、正しいタイミングで神を呼ばわることが、忠実なる神の助けが得られることを彼は知っていたからです。その時が来て神に声をかけると、その悪い考えは直ぐに消えてなくなります、とブラザー・ローレンスは言います。

 神が一切の面倒をみてくれるという信頼のゆえに、ブラザー・ローレンスが外に出て(苦手で)慣れない商用をしなければならなくなったとき、彼は全く心配しませんでした。神は必要なときにどうすべきかを、刻銘に正しく鏡に映して見えるほど鮮明な絵にして見せてくれることを彼は経験していたからです。彼は前もって心配しなくても、神がいざという時には絵にして見せてくれることを既にかなりの間経験していたのです。このような経験を持つ前の彼は、自分自身の力で前もって対処方法をできるだけ細かく準備して出かけていました。
 今は彼のするすべてのことが(神の御心にそって平安のうちに)静かに起こり、それによって、彼はますます愛する主の臨在に近い関係になっていきました。

 この世の仕事を忙しくしている時であっても、神とのコミュニケーションを中断せずに神を意識し続ける習慣がついている彼が、たまに神から心が離れるような場合は、神から彼に注意信号の「呼びかけ」が届きます。それは、神が彼の心に神のイメージを溢れさせるのです。それによって彼は神が彼を呼んでいることに気が付かされるのでした。このようなときに彼の心は主の前で火のように燃え、喜びに満たされて、主に賛美の叫び声を上げて歌い、踊りたいような衝動にかられるのでした。
 ほとんどの人にとっては、日常生活の忙しい行動が神とのコミュニケーションの妨げとなるところを、ブラザー・ローレンスは、むしろそれを通してより神に親密になると感じていたのです。彼にとって考えられる最悪の事態とは、神の臨在の感覚をなくすることでした。」

 ブラザー・ローレンスが上記で言っていることは、あるいはイエスキリストが「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。...」(ヨハネ5:19-20)と言われたことに通じるのではないでしょうか。
 主は、ブラザー・ローレンスを通して、人間の私たちにもイエスご自身と同じ生き方が出来ることを示して下さったのであると信じます。
 
 私は創世記6章に出てくるエノクが「神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(6:24)と書かれていますが、神とエノクの関係はブラザー・ローレンスが神と持った親しい関係と同じかそれ以上のものであったと思います。そしてあまりにも親しく、いとおしいエノクを、神はもっと近くに来てもらいたくて天に挙げられたのでありましょう。私たちも神とそれ程の親しい関係になれるのです。そうすれば、私たちもサタンの治外法権の世界で神のみに従って生きる「神の子」となれるでしょう。(終わり)


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by walkwithgod | 2010-09-20 14:28 | 坂達也からの今月のメッセージ

自己憐憫(1)  チャック・ピアス 2010年9月17日

自己憐憫(1)

チャック・ピアス
 



確信を持ち自分の価値を認めることの反対は自己憐憫です。自己憐憫 は、本来自分が受けるべきものが与えられなかったときに起こる感情です。これは日常の生活の中でも、また霊的な分野でも起こることです。自己憐憫はその時の自分のあり方を決めていき、それはつまり大切な「自分の時」を見過ごしてしまうことになります。自分は祝福を権利があり当然受けるべきだと私たちが感じると、 自分の人生に祝福がこない場合に私たちは信仰をなくしてしまうのです。

最もよい自己憐憫の例の一つは、ベテスダの池にいた病気の男です。(ヨハネ5章参照)イエスは彼の状態をすべてご存知でしたが、彼に良くなりたいかと聞かれました。すると男はどうして自分は癒されないのかを説明し始めました。イエスは彼の自己憐憫の言葉を聞くのをやめられて、 彼を癒されました。

私たちは困難な状況に陥ると、すぐに神の約束を忘れてしまいます。私たちに与えられた預言的デスティニーを神が成就してくださるのを、私たちがしばしば見逃してしまうのはこのためです。キリストのからだが大きな試煉を通されるときでも、私たちは恐れたり希望を失ってはなりません。私たちが試煉の中にあるとき、敵はそれを用いて私たちを落胆させるという策略を使います。落胆は期待を長引かせ、期待が長引くとこころが病むのです。私たちの内に一定の失望がたまると、私たちは神に対する期待を失います。


「未来」と「期待」とは同義語です。私たちの未来は神が働いてくださるという期待と繫がっています。教会は今、神に期待するというレベルを新たな一段上のレベルへと上げる時に来ています。イザヤ59章、60章は、私たちの人生の中にこのことが起こるのを見るための素晴らしい祈りのガイドです。希望はそこから信仰へと進んでいかねばなりません。信仰は克服を生み出します。克服は神の力を顕し、神の約束を現実のものとします。


自己憐憫のサイクル

預言は私たちの未来の鍵を開けます。けれども ひとたび傷ついたり何かを失うと、私たちは未来への視野をなくしてしまいます。私たちが戦わねばならない最大の敵は自己憐憫です。自己憐憫は自分の損失にばかり気をとられるので、自分の人生に神の栄光が顕れるのを見る事ができなくなります。 損失がある時も私たちの人生のために神がずっと変らずに下さっている完全なご計画に目を向けるのではなくて、内なる自己がむくむくと起き上がって「私が失ったもののために私を哀れんでくれ。」という言葉を私たちに言わせるのです。
私たちが損失とか、トラウマ、傷、不公平等を被るときは、神は癒し、赦すことが出来ると信じる信仰によって生きるか、もしくは自分の思いが拒絶、自己防衛、自己憐憫になることを許してしまうかのどちらかの選択が常にできるのです。


傷つき損失を被ったとき、私たちは自分が経験しているトラウマに対して神を非難してしまいがちです。この非難、責めの力は一種の「父を失うみなしご」の霊へと私たちを陥れ、私たちは神の子どもになったという信仰の代わりに、見捨てられ失われた者のように感じるのです。 自己防衛は、権威に対する反抗心を生み出していきます。又、私たちは教えを聞かない、受け入れない者となっていきます。私たちの思いは「 私がどんなに辛いかを誰も理解してくれない」というようになるのです。

又、私たちは自分の抱えている問題を解決する道はない、と考えはじめます。 「もうどうしようもない。」と考えながら毎朝目をさますのです。そして癒しや回復の望みを失って無感動、無関心に落ち込みます。しかし私たちは神に従う人生を送るべきであると思っているので 、宗教的メカニズムが私たちにとっての慰めとなります。私たちは殉教者的心理になって「ああ、嘆かわしい。これが私の負うべき十字架だ。このひどく重い十字架を見てくれ。」と言うようになることさえあるのです。このような考えは、 私たちを戦うべきであるときに戦わせないようにします。戦って勝ち取り前進していく 代わりに、安逸と現状維持の奴隷となるのです。私たちはキリストの苦しみに与るようにと(それによって私たちの内に主の復活の力が顕れるのですが)召されていること忘れてしまいます。

神の愛が見えなくなると私たちは自分を見るようになってしまいます。神の愛は私たちの自己憐憫から出てくるこれらの考えを取り扱うようにと私たちを促します。私は今までの人生で十分に自由を経験したので、自由でない時は直ぐにわかります。信仰は愛によって働きます。ひとたび神の自由と愛を私たちが経験すると、自己が「憐れんでくれ」と叫ぶ声に負けることなく、期待が後退するのを打ち破ることができます。(続く)


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by walkwithgod | 2010-09-17 16:57 | アメリカからのメッセージ

<b>あなたはラッパだ! ジョン・ベルト </b> 9月4日

あなたはラッパだ!

ジョン・ベルト 


神は御霊を通して 戦うための強い武器を私たちに与えていてくださいます。暗やみの力を打ち砕くことができるように、神は私たちが言葉を話し、大声で叫び、音を出す能力を持つものとして創られました。私たちが神の臨在の中で清い心をもって生きるならば、神の栄光が私たちを通して顕されることを阻むものは何もないのです。

創造する力


神が創造されたものはすべてオリジナルであり、それぞれユニークなものです。私たちは神が創られものすべてを見るとき、全体としても、また一つ一つを見てもそこに美しさがあることがわかります。もし神が創られたものがすべて同じだったなら、どんなにつまらないことでしょうか。しかし神はすべてをご存知なのです。神は命の創始者、且つ創造者であられ、声を発することによってすべてを良きものに創られました。主の御声には すべてのものを目に見えるように実体化する力があるのです。

私たちは神に似せて創られているので、私たちも又、創造する力を持っています。私たちは私たちの内におられる聖霊の力によって、回りの霊的空気を変革し、言葉によって物事を実体化し、命を生みだす能力を持っているのです。私たちの舌は人間の身体の中で最も強い力をもっているものの一つです。

ヤコブ3:6「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」

人間の舌は「不義iniquityの世界」です。しかしイエスに関してはそうではなかったことを私たちは知っています。イエスが語られると「栄光の世界」が解き放たれました。イエスが語られると、神の栄光の世界が解き放たれ、いのちが輝き出たのでした。私たちの舌は強い力であり、サタンもそれをくつがえす力を持っていません。ヨハネが言っているように「神が話すと光が解き放たれ、やみはこれに打ち勝たなかった」のです。神の御国のためにすべてをささげきった器を通して放たれる「栄光の世界」に対抗して戦うことは、やみの勢力にはできないのです! 神の栄光の力はすべてそれに抵抗するものを払いのけるので、敵はくずおれて泣くしかなくなるのです。

清いClean器

私たちの舌が持つ力を本当に理解すると、私たちが義の御国と一致していることがどれほど重要かということを知る必要が出てきます。もし神の民が、愚かなことやゴシップ、陰口などを話すならば、それはやみの勢力に力を与えているのであり、罪を犯しているのであり、罪に縛られていることになるのです。敵の目指すことは、キリストのからだの中に分裂を起こすことです。他人のことを否定的に話すことは決して許されることではありません。私たちは人を敬うように召されているのです。これは私たちがすべての点においていつも他人と同意するということではありませんが、その場合でも私たちは口を閉じて何も言わない程のわきまえは持つべきです。

もし誰かがこのような罪を犯しているのがわかったならば、その解決法は「すぐに悔い改める」ということです。悔い改めは詫びるよりももっと力があります。私たちは「ごめんなさい」と一日中言っていることもできますが、それよりも 向きを変え生き方を変えるほうがよいのです。それが悔い改めの実です。イエスはいつも生きていてすべての聖徒のためにとりなしをしていてくださるのですから、私たちもそれに習うべきです。

ヘブル7:25「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

祭司としての生活

主の御前で、妥協せずに清さを保ことは私たちの祭司としての責任です。私たちは王である祭司ですから、心に「主のための聖なる者」という金の帯をつけねばなりません。この献身、決意、誠実が主の力の実体を私たちの内に、また私たちを通して世に解き放つのです。

私たちが主の祭司になれるのは、主の恵みによります。私たちが主の栄光を持ち運び、主の臨在の栄光を絶えず解き放つことを可能にするのは、私たちが清いpurityということです。私たちはもっと高くもっと深く進んでいかねばなりません。根が浅いままで高くなると、樹木は長く立っていられません。その木は倒れて枯れます。主の栄光も同じです。もし私たちが天に上るような経験をしたとしても、私たちの根が主の中に深く伸びていなければ、私たちは倒れてしまうのです。誠実Integrity、清さ、無私selflessの献身は私たちが気ままに選択することではありません。それは絶対に必要不可欠なことです。イエスは父を離れては何もできませんでした。イエスの父にたいする献身は清く全きものでした。

あなたはラッパだ!

民数記10:8−9「祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、主の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。」

祭司たちは戦いにおいてラッパを吹くようにと命じられました。それによって主は彼らに勝利を与えられたのです。私たちがラッパのように声を上げ、主が敵をぬぐい去るのを見るという祭司としての人生には力があります。私たちの身体はスピーカーとよく似たように造られています。ベース高声器(ウーファー)もあり、高音用スピーカー(ツイーター)もあります。声の力はウーファー、即ち腹部と胸部から出ます。ツイーターは鼻のところです。鼻には力はあまりありません。しかし、小さくても大切で必要なものです。私たちは霊の奥深いところから 闇の力を打ち破る響きを出すことができるのです。

詩編149:6「彼らの口には、神への称賛、彼らの手にはもろ刃の剣があるように。」

声を高く上げて神を称賛することは、あなたの存在そのものであるラッパを吹くようなものです。私たちの心と動機が清いとき、私たちがラッパのように声を高く上げるならば、栄光に満ちたものが解き放たれるのです!あなたの敵を、あなたを妨げていたものを、あなたが克服すべきものを、あなたが必要とするブレイクスルーを見なさい。あなたの声をラッパのように高くあげてこれらのものの上に神への賛美を降り注ぎなさい!

憚らずに、神のために大声を出して生きて行きましょう!(終わり)


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by walkwithgod | 2010-09-04 11:31 | アメリカからのメッセージ