BPのオイル流出に関する   ジョン•シールスキー   6月18日

BPのオイル流出に関する夢

ジョン•シールスキー


日曜日の早朝、主は私にメキシコ湾のオイル流出についての夢を見せてくださいました。主はそれを聖書の中の長血の女にたとえられたのです。興味深いことに、彼女は12年間長血をわずらっていました。12というのは神の使徒的完成の数であり、神の秩序、神の統治の数です。私たちは現在、 地上における神の統治の代理人であり、神の大使です。(私はこのオイル流出が12年間続くと言っているのでは決してありません。これはシンボルとしてのイメージです。)

長血の女と同じように、教会はその密やかな場所から今もなお血を流し続けているのです。しかし私たちは今までそれを認めようとはしてきませんでした。この「出血」を止めることができる唯一のものは祈りであり、それは即ち主との真の親密さ intimacy です。親密さの目的の一つは(人生のすべての面においてですが)産み出すこと、繁殖、再生、再現であるという事実を私たちは見失ってしまっています。
神は私たちのうちに 御子イエスの命を再生 reproduction することを願っておられます。ところが私たちは、他人にどう思われるかということを恐れてこの「重荷」を負って来ませんでした。その結果、責任を取らないが故に権威がなくなり、権威がなくなったが故に私たちには力がないのです!

どのように共に祈り、天から聞き、天にとどき、天と一致すればよいのか

 聖書には、この長血の女は手を伸ばしてイエスの衣のふさに触れたと書かれています。当時その衣は人が祈るときに頭から被るものでした。イエスが「祈るときは奥まった部屋に入り戸を閉めなさい」と言われたのはこのことでした。ラビ達が衣を被って祈る時、彼らは外の世界を遮断し、邪魔されずに祈ることができ、父なる神の臨在の「密やかな場所」である「祈りの衣」の下で一人になることができたのです。

 神の家は常に「祈りの家」としての役割を持っています。これは最も重要な中心的課題と取り扱われるべきであり、私たちが実際に実行すべきことです。これまで私たちはそれについて議論したり、神学的に取り扱ったりはしてきましたが、キリストの身体とし実際にそれを実践することはほとんどありませんでした。私たちは、祈りとは「そのような召しを受けた」とりなし手たちのグループだけがするものだと感じています。しかし、そうではないのです! 教会はこのような現状なので流れ出す血が止まらないのです。

長血の女がイエスの衣のふさに触れたとき、彼女は実際に永遠の命に触れ、それと一つになったのです。永遠の命とは、即ちイエスが持っておられた御父との個人的な霊的交わりであり親密な関係です。(ヨハネ17:3参照)その時、彼女の血の源はすぐに止まったのです。

同じように、祈りについてイエスは次にように教えておられます。「まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19、20)

 私たちが共に祈り天から聞くことを始め、天が語り天が願っていることに関して一致するならば、神は、メキシコ湾の現在の事態の当事者たちの心と思いの中に、超自然的な知恵と理解を解き放って、オイルの流出を止める方法がわかるようにしてくださる、と主が言われているように私は感じたのです。

見方を変える:神の慈しみと憐れみのうちの希望

 今まで私たちが感じてきた一つの大きなジレンマは、すべての出来事を地球に対する「神の裁き」であると解釈していたことにあります。起こっていることはすべて神の裁きだという見方をするならば 、祈ろうと考えることさえ神の御こころに反する非生産的なことのよう思えます。
 それは愛と信仰を相殺して(二つの電流を)ショートさせることになり、私たちを 弱く無力で希望のない気持ちにさせます。しかしよい知らせがあります! キリストが私やあなたの中に生きておられる限り、神の栄光を見る希望も私たち一人ひとりの中にあるのです!私たちを通して全世界が希望を見る事ができるように、この希望を解き放たねばなりません!

もし私たちがそうすれば、この事態に対処する力のある人たちに素早く解決策が与えられるばかりではなく、今後このような大事故を阻止する発明や技術に関する新しいアイデアが天から解放されると私は信じます。この問題を解決する創造的アイデアは、悪いものを良いものに変えるという意味において最高のものです。ですからそのように祈ろうではありませんか!

もう一つ皆さんに祈ってほしいことがあります。それはこの事故に関連したすべての人たちが適正に裁かれるだけでなく、主の光の前に導かれることです。皆さん、私たちにはこのような権威が与えられているのです! 今はつぶやいたり不平をいうのを止めて、権威の中に歩むときです! しかし先ず私たちはその中での自分の役割、或いは責任を負わねばなりません。そうです、私たちが御国の住人となったのは「この時のため(エステル4:14)」なのです!

私たちの「長血」とは?

私たちの長血の問題とは、つまるところイエスの血潮と、それによって表された御父の愛を私たちが本当に理解し受け取っているかどうかの問題であると私は思います。 このような大きな愛を、私たちは自分の心やおもいの中にまだ完全には受け入れることができないでいます。その結果、私たちの見るものはすべて曲がったり歪んだりしてしまうのです。それは 御父との真の交わり、親密さを私たちが経験することを望んでおられる御父の思いまでも歪めてしまっています。あわれみは常に裁きに打ち勝ち、最後に勝利するのです!

メキシコ湾のオイル流出は私たちの密やかな場所からの血の流出と平行しています。私たちは「初めの愛」から離れてしまったのです! 私たちみんなが 、祈りと一致により「イエスの衣のふさ」に手を伸ばして触れることを始めるならば、私たち自身の血の流出が止まるだけではなく、メキシコ湾の環境大惨事も解決されることでしょう。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-06-18 17:34 | アメリカからのメッセージ

主の言葉を聞くことの飢饉 ボブ・ジョーンズ 2010年6月8日

主の言葉を聞くことの飢饉

ボブ・ジョーンズ 2010年6月14日


「見よ。その日が来る。—神である主の御告げ。—その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見出させない。」アモス8:11−12

これは預言者アモスの言葉ですが、現在のアメリカの教会に直接当てはめることができるものです。教会は神に対して不従順を続けてきた結果として、知覚麻痺、無感覚の霊に支配されているのです。

この地の飢饉とは、御言葉を聞くことを妨げている霊がキリストのからだなる教会を毛布のように覆ってしまっていることです。 今の世はめまぐるしいスピードで動いていて、御言葉を聞くための手段も数多く提供されています。 テレビ、書籍、CD、DVDなどです。ですから御言葉の不足が問題なのではなく、御言葉をどのように聞くかということに問題があるのです。それは、御言葉があたかも聞こえない耳にむかって発せられているようで、 その結果、「語られる御言葉であるイエス」を人々が理解することに混乱を招いているようです。丁度エデンの園で蛇が 神の語られた御言葉をねじ曲げてエバに告げたようなものです。

「こう書いている通りです。『神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。』」ローマ11:8


メキシコ湾のオイルの流出は、この国がこれから迎えようとしている問題のほんの始まりにすぎません。アメリカのただ一つの希望(確信のある期待)は、現在の霊的麻痺あるいは無感覚状態から目を覚まして神に叫び求めることです。教会が膝まずいて祈り神に憐れみを乞い求める時、神は正しい者の祈りを聞いて地を(そして海も)癒してくださいます。

この国の救いは神をおいて他にはありません。私たちはメキシコ湾のオイルのパイプを塞いでくださいと神に叫び求めねばなりません。塞ぐことが出来るのは神お一人だからです!そして神は教会が叫び求めた時にその事をしてくださるのです。

神の民への約束

「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。(共同訳)」第二歴代誌7:14

これは 教会にとって(ノン・クリスチャンにとってではありません)力強い御言葉です。これは、「わたしの名をもって呼ばれているもの」、即ち神の民への約束なのです。クリスチャンはキリストの権威と力の中に歩む者です。私たちが叫び求めるとき神はそれを聞き、応答してくださるのです。

アメリカの教会が目を覚まして神に叫ぶならば、神が私たちに大きな裁きを与えないですむような選択を、私たちが神に与えることになるのです。私たちに今残されている唯一の解決方法は、神がご自分の民の祈りに答えて下さることだけです。人々が無感覚から目を覚まして、天からの声を聞き始めるように、どうか神に叫び求めてください。

この国を覆う無感覚、無関心、麻痺の霊が打ち破られるように祈ってください。御言葉が不足しているのではありません。人々が本当に霊で聞いていないのです。そして御言葉を聞いたならば、従ってください! 天は第二歴代誌7:14にある通りの応答をしようとして聖徒たちの祈りを待っているのです。聖徒たちは今ひざまずいて祈らねばなりません!

端的に言うならば、主にあがなわれた者がそういうのを神は待っておられるのです!(終わり)

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# by WALKWITHGOD | 2010-06-14 15:10 | アメリカからのメッセージ

新しいサウンドの到来  レイ・ヒュウズ  6月7日

新しいサウンドの到来

レイ・ヒュウズ


(2010年5月24日 モーニングスターミニストリ−ズでの話の一部 )


今日はダビデの幕屋について話したいと思います。この話は、いつもはワーシップに関わるミュージシャンたちに対して話すのですが、今日は牧会者、リーダーの立場にある人たちに対してお話したいと思います。というのは、私はリーダーたちがこのことを理解するのが今非常に重要だと感じるからです。それは現在御国 (キリストのからだなる教会)の中で劇的なシフトが起こっていて、今まで聞いたことのないサウンドが始まろうとしているからです。今は新しいサウンド、新しい歌へと移行する時です。

ダビデの時代には詩編は「150編」からなっていたのではありません。詩編全体がダビデの幕屋で32年間の間、24/7で、絶えることなく歌われていた一続きの音楽の表現だったのです。
詩編の番号というものは後の時代になって付けられたものです。番号以外にも多くのことが後になって付け加えられたのですが、それによってダビデの幕屋の時代にあった美しさと力、権威が取り去られてしまいました。

「 praise(賛美せよ)」という言葉は詩編には存在しません。「praise」という英語に訳されている言葉は、ヘブル語では7つの異なった言葉があります。私たちは英語の「praise」という言葉を見ると、みんな同じことを表しているのだと思ってしまうのですが、そうではないのです。まずこのことを知っていただきたいと思います。

7つのヘブル語はそれぞれ、私たちが主にむかって身体を用いて行う全く異なる行為を指しています。それは32年間のその時その時に、人々がどのように生き行動すればよいか指し示したのです。
24組の音楽隊が交代で絶えず仕えていました。そして 新しい理解、新しい預言的言葉、新しい言葉使いが、常に新しい音楽的表現が、新しい楽器、新しいリズム等によって表わされ、それが丁度映画音楽のように、神の御こころのサウンドトラックとして使われたのです。即ち、神がその瞬間に語って おられることを表現したのです。映画のサウンドトラックのように、その時の神の言葉、御思いを強調してその効果を高め、聞く人々や回りの霊的環境への影響力を非常に強めたのです。 今、神の御国に新しいサウンドが解放されようとしていますから、このことを学び、理解し、親しんでおくことが非常に大切なのです。

詩編33編を見てみたいと思います。
「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。」とあります。真に正しくないものが喜ぶということは出来ません。正しい者(righteous)な者だけが主にあって喜ぶことが出来るのです。即ち、人がもし父なる神と正しい関係にないならば、喜ぶことはできないのです。この「喜ぶ(rejoice)」という言葉は大変素晴らしい言葉で、実はコマ独楽のようにくるくる回るという意味なのです。

神は私たちのために喜んで独楽のようにくるくる回っていると言われます。ゼパニヤ3:17に「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎをあたえる。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」とあります。

それは神が激しい感情をもってくるくると 私たちの回りで回ることを表しています。神は私たちに歌を歌ってくださると共に、丁度地球が軸を中心にして回るようにくるくると回られるのです。 しかも情熱的な愛情に満ちあふれて神はご自分と正しく結ばれている者たちの回りでくるくると回られるのです。
勇士であられる神が、あなたがたのただ中でそうされるのです。

ちょっと言い換えてみますと、「私のただ中におられる主なる私の神は勇士だ。神は私に歌い、私を喜ばれる。」ということです。ですから私たちのうちからほとばしり出るサウンドは、神が私のただ中におられるのですから、神の権威と創造とに直接的に関与しているのです。詩編全体を通じて多次元的な表現があり、絶えず動きがあり、絶えずサウンドがあり、その日の神の言葉に対する応答があるのはそのためです。

ワーシップチームがステージに上がってダビデの幕屋式に演奏を始めるとしましょう。仮に私がダビデだとして、私が「さあ、この歌を土曜日の4時まで歌いましょう。」と言ったとします。今(月曜日)から土曜日の4時までこの詩によって歌い、それを回りの霊的環境に絶えず解き放っていきます。するとついには歌っていることがその時に現実となり、神が「事は完了した」と言われるのです。

第一歴代誌16:42に「へマンとエドトンの手には、歌う者たちのためにラッパとシンバルがあり」と書かれていますが、ラッパとシンバルの響きは今までの歌を止めてチェンジせよ、という合図でした。その合図があると、今までの歌を止めることが許可され、今新しく神が言われ、されていることに移るのです。これが即ち「新しい歌が解き放たれた」ということです。

次に「主を賛美せよ」と言う言葉があると、新たな賛美が神の民の中で起こり始めますが、それは今までしていた賛美の表現とは異なるものになるのです。それは新しい歌であり、神が新しく民のただ中で「今」しておられることに関する賛美になります。歌い手たちが賛美の召命と油注ぎを受けている人たちであり、これらの事をよく理解し、訓練された人たちだったということは明らかです。

彼らは自由で安全な環境の中で、思う存分に創造的に表現することを許されていたのです。それは治世に関わることであり、又、霊的なことでもありました。ですから彼らはギリシャ的な音楽(言ってみれば、それは数学、科学、幾何学と楽器とを絡ませていろんな音符、記号をつけたもの)という枠の中には閉じ込められていませんでした。彼らの音楽はギリシャ的な音楽を越えたものでした。それは彼らの心からほとばしる情熱であり、神の臨在の中で完全に表現されたのでした。

ダビデが「主を賛美せよ!」と言う時、その「賛美」という言葉はヘブル語の「ハラウ」だったかもしれません。ハラウとは、「馬鹿げた、気が違ったような、輝く、叫ぶ」というような意味を持っています。「ハラウ(賛美) ヤ(神)」は、即ち「ハレルヤ」です。又、ハラウは 澄んだはっきりした音であり、「輝く」とはそのことを指しています。それは音よりもむしろ光と関係があって、音と光の架け橋となるものと言えるでしょう。つまりハラウとは、音楽、サウンドによって神の栄光を人々の上に輝きださせるということなのです。

第一歴代誌15:22に「ケナヌヤはレビ人の楽長で、音楽(songs)に通じていたので、これを指揮した。(口語訳)」とあります。ここで「song」と言っているのは、今私たちが考える歌とは全く違うのです。「song」とは音楽隊に与えられるサウンドですが、それには神からの霊的な重み、神の油注ぎのマントルがあるのです。このサウンドが解き放たれると、今だけではなく過去にも未来にも影響を及ぼす力が放出されます。音楽隊はこのような油注ぎを担えるように訓練されています。

サムエル記上10:5で、サムエルはサウロ王が楽器を奏でる預言者の一団に出あうことを告げています。丘から下ってきた楽隊の奏でていた歌は、サウロを新しい人に変える力を持っていたのです。それは、早さとか高さで人々の気持ちを高揚させるような人工的なものではありませんでした。楽隊の奏でる音によって、神の力や栄光、濃厚な油注ぎをその時そこに顕すものであり、それは政治的空気や経済機構も変える力があったのです。新しい歌、新しいサウンドが解き放たれました。

7つのヘブル語の賛美という言葉(バラク、ヤダ、トダ、シャバ、ハラウ、ゼマー、タヒラ)は、一つ一つ違う賛美の仕方を示しているのであって、私たちから違う行動、違う行為をそれぞれ要求しています。ワーシップは私たちの神への霊的応答です。

「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。」とあるのを見たとき、これはダビデの幕屋式に喜び歌うことを言っていることを忘れてはなりません。次に「賛美は心のすぐな人たちにふさわしい(comely, beautiful)」とありますが、ここで使われているの「賛美」という言葉はヘブル語でタヒラという言葉です。これは多次元的な賛美の表現です。タヒラは即興的な霊の歌であり、詩編22:3で「イスラエルの賛美を住まいとされる」と言われた賛美はこの賛美(タヒラ)だけなのです。確かに主は私たちのすべての賛美に応答されて、王座に着いてくださいますが、「住まわれる」と言われたのはこのタヒラの賛美なのです。タヒラというヘブル語は 数々のうるわしいことを表しています。霊の歌、霊の祈りです。神はその中で王座に着かれ住まわれるだけではなく、その賛美の霊的環境と結婚されると言われています。

その意味は永遠の契約を神がされるということです。神が民の賛美のただ中で王座に着かれるならば、その影響は何代にもわたって続くのです。そのような霊的環境になったとき、ダビデは時として命令をくだしました。「主を賛美せよ!」と。そのときの賛美を表すヘブル語は「シャバ」という言葉だったかもしれません。これは「叫べ shout」ということです。

神が人々の賛美に中に住まわれるときの霊的環境、霊の油注ぎ、濃厚な主の臨在を、私たちは今非常に必要としています。新しい歌、新しいサウンドを解き放って、御国をシフトさせ、すべてのものを変えねばならないのです。

詩編33、96、98、149などに「新しい歌を主に歌え」という言葉があります。詩編33編を見ると、「賛美(タヒラ)は心の直ぐな人にふさわしい。立琴をもって主に感謝せよ。(ヤダ=手を上げて賛美せよ)」とあり、次に「十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。」と続き、そして「新しい歌を主に向かって歌え。」という重要な言葉があります。明らかに神は私たちに歌をチェンジしてほしいのです。

私が信じて口から出した言葉が私の歌になります。私が今までの人生で信じて口に出した私の歌は、必ずしも神がのぞまれた歌ではありませんでした。敵が私たちに関して言うことを信じるならば、それが私たちの歌になってしまうのです。私たちについて神が言われることに同意するならば(個人としても、共同体としても)それが私たちの歌となるのです。

朝起きたとき、ばかばかしい歌が頭の中で聞こえていることがありますか。あなたはその歌をお昼まで歌ってしまうことになったりします。それがどうしても頭から離れないのです。あなたはそれを午後2時までずっと歌っていたりするのです。その歌を忘れるためには、新しい歌を歌うしかありません。どうしてかお分かりでしょうか。それは新しい歌が古いサイクルを打ち破るからです。

教会の音楽システムもサイクルになってしまって、ぐるぐる同じことをするサイクルにはまってしまっています。それは打ち破られなければならないのです。そして新しい歌が入る余地をあたえなければなりません。そうでないと、私たちは古いサイクルを歩き続けることになって、新しい歌が霊の力をもって事をなしとげることを出来なくしてしまいます。神がかつて言われたことを繰り返すだけになってしまうのです。

確かに5年前には今のワーシップでうまく行っていたでしょう。しかしそのまま続けると、牧師はワーシップに携わる人たちにフラストレーションを与えることになります。彼らは古いサイクルにはまってしまって、制限され型を押し付けられて、いつものような日曜礼拝を続けることだけしか出来なくなるのです。

しかし彼らはそのようには造られていないのです。私たちは「今日の礼拝はよかったね。よい日曜日だった。ワーシップチームもよくやった」などと言うのです。でも私たちはただ「すてきな日曜日」であれは良いのではないはずです。

神様はそれ以上のことをなさりたいのです。神は御臨在の力を解き放つようなことをなされたいのです。人々の中の隔ての壁を取払い、境界のない恵み、無制限な創造性を望まれているのです。これこそ神が今、教会に解き放ちたいと思っておられる新しい歌が出来ることなのです。私たちの考えは同じところをぐるぐるまわるサイクルにはまってしまっています。

新しい人が来て、ちょっと変ったサウンド、ちょっと変ったメロディーを奏でるとそれを歓迎し、少しの間はそれで満足します。音楽に新しさを求める人々の必要性がそれで満たされるからです。けれども神はそのようなものをずっと越えたものを私たちに与えたのです。即ち霊の力の領域に入り、神の「今」の言葉を表すようなサウンドです。そういう新しい歌が歌われるようになると、私たちの間に真の解放が起こり始めます。 暗闇にいた人々も立ち上がってデスティニーにむかって進みはじめるのです。(終り)


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# by walkwithgod | 2010-06-07 13:11 | アメリカからのメッセージ

「神の子」と「人の子」  坂  達 也 6月3日

「神の子」と「人の子」

                坂  達 也


皆さんはクリスチャンとして、自分が「神の子ども」であると同時に「人の子」であることを、どれほどはっきり自覚しておられるでしょうか。
「神の子ども」であると言うことは、文字通り「全知全能の創造主の子ども」と言う意味であり、「自分はそのような力と権威がある神の家族の一員で後継者」であることをしっかりと自覚していると言うことです。

勿論、私がそのように「身構えた」質問をすれば、皆さんも「身構えて」 神学的な建前として「そうです」とお答えになる方も多くおられるでしょう。しかし実質的な話として本当にそれを自覚して毎日を生活しておられるでしょうか。
何故今更そんな質問をするかと言いますと、今、これが真剣に問われる時代に来ていると思うからです。

私たちクリスチャンは,既に神の御子イエス・キリストを信じ、霊に生まれ変わることによって神の子どもになりました。しかしそれはどう言う意味でしょうか。
 先ず「神の子」と言う名称についてですが、英語の場合は単数形の子(息子)である Son of God と書かれます。この単数形の「神の子」は三位一体の神【父と子と聖霊】の二人目の神としての「子」であるイエス・キリストを指しますが、新約聖書ではその意味で37回使われています。通常この呼び名は神としての「ご性質」を表し、父なる神と同等であることを意味すると言われます。

人間は元々アダムにおいて「神のかたちに神に似せて造られた」と書かれていますが、神は人間を少しだけ神に似るように造られたのか、それとも全部似るように造られたのでしょうか。創世記1:26 -27に下記のように書かれています。

「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身の形として創造された。」
 
神は元々人間を造るに際して、大真面目で本当に「自分の子供」を造る思いで造られました。ですからアダムを神に似せて造られたのは当然と言えば全く当然です。
アダムがどれほどの権威と力を持ち、どれほど創造者の神に似ていたか、生まれながらの罪人である今の我々には想像もつかないことであると思います。しかし、そのすばらしい力の一端を知る資料として創世記2:19、20があります。

「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが...」

動物とか鳥に「名前を付ける」と言うことがどれほど重要な仕事であるかご存知でしょうか。これこそ三位一体の創造者の神がなさった創造そのものに参加すると言っても差し支えないことであるのです。
被造物を創造するにあたって、神である「子」は、「父」の意図を汲み取り、造るものの全ての特性から遺伝形質とか性格に至まで、その動物の特質の全てを 言い表す言葉で命令し、それを受けて「聖霊」なる神が具体的に必要な細部の構成分子とか原子を組み立てて具体的な「創造」が行われました。

ヘブライ語で表されるユダヤ人の名前はその人の性格とか「人となり」を象徴的に表します。従って名前を付けると言うことは、その人なり動物の性質にぴったりの名前でなければなりません。名前によってどんな性質かが公表されるのです。

三位一体の神は恐らく固唾を飲んでアダムがどんな名前を付けるかを見守ったことでしょう。アダムは「子」であるキリストが創造した動物の性質そのものを象徴するような名前を付けねばなりません。これがうまく出来るかどうかは、最初の人間アダムの出来具合いをテストする重要な機会であったのです。

アダムは的確な名前を付けるために、創造者その人であるキリストがそれぞれの動物をどのような性質に造ったのかを聞いて知る必要がありました。そこでアダムは全てをうかがい、それに対して主キリストは的確に答えて教えられたことでしょう。この霊による質疑応答のコミュニケーションは心と心が密接に通じ合う親密な間柄の人間関係においてなされます。主とそのような関係にあったアダムは神の意向を全て理解した上で、それぞれに適切な名前を付けて発表しました。

父と子と聖霊の神は、恐らく顔を見合わせて満足され喜ばれたことでしょう。アダムはテストに合格したのです。それと同時に、総ての動物は最初の顔見せにおいて、アダムに従属する主従関係にあることを理解しました。この儀式によってアダムは地球上の全ての被造物の上に君臨する権威とリーダーシップを確立したことになります。

ここで非常に重要なことが分かります。それは、最初の人間であるアダムは確かに被造物ではありますが、むしろ創造者側に属する「創造者」でもあると言うことです。「名前を付けて見なさい」と言われ、それが出来たのですから、アダムは神の「仲間」に加えられたのです。名を付けると言うことは創造的行為です。つまりは、人間は創造者になるように造られた唯一の被造者であると言うことです。

それに関連してもう一つ重要なことがあります。それは三位一体の神は、三人で一人の神と言われますが、何故そうかと言えば、御三人の心と行動がものの見事にいつも一致しているからです。お互いの意志と思いがいつもピッタリ通じ合っているのです。私はこれが、神の神たる最も重要なご性質、あるいは特質であると思います。
従って神に属し、神に似る(仲間入りをする)ように造られている人間は、その心と行動において、何としてでも神と一致し、同じでなければならないと言うことになるのです。神が人間に対して徹底的に「神への従順」を要求する理由はここにあります。当然ではないでしょうか。

ところがそれ程神に似ていたアダムが、神に背いて罪を犯してしまいました。その結果として、神との関係が断たれてしまい、「神のかたちとして、神に似せて造られた」性質と特権を失ったのでした。

神学者のアーサー・カスタンス氏によれば「神のかたちに」の「かたち」は英語で image と訳されていますが、この言葉 image は主に同種・同族の「属する関係」を表すと言い、又「神に似る」の「似る」は、英語の likeness で、同じ性質を持つと言う意味であると言っております。

それはちょうどイエスがカイザルの肖像が付いたコインを持って来させ、「これはだれの肖像 image か、だれの銘か。」と聞きました。人々が「カイザルのです。」と答えると「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」と言われた通り、人間には元々神のイメージが付いたスタンプが押されていたのです。(マタイ22:19−21)

そうであるなら人間は神に属する「子ども」として造られ、しかも性質も似ていると言うのですから、人間は本当にただ者ではないのです。
それを今のように無力で、むしろ全く神に似つかわしくない悪い性格になり下がってしまったのは、アダムが罪を犯した後、総ての人間がサタンの言いなりになって来たからです。

ですから神は、初めから人間が罪を犯すことを見越して、創造の前から「子」であるイエス・キリストを十字架に付けて罪に堕ちた人間を救出ることを計画しておられたのです。そしてイエス・キリストは罪の無い人間「第二のアダム」としてこの世に来られ、十字架の御業によって人間と神との関係(押されたスタンプ)を回復されました。

そのイエスを信じることによって私たちは神の子どもとして復縁し、性質が神に似るようになるために、神から今厳しい愛の訓練を受けております。私たちには、神の子どもと呼ばれる権利とそうならねばならない責任が戻って来たのです。
まさに「私たちが神の子どもと呼ばれるために、———事実、いま私たちは神の子どもです。御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(1ヨハネ3:1)です。ハレルヤ! 

処で、救世主イエスは「神の子」Son of god であると共に「人の子」Son of Man とも呼ばれています。特に新約聖書では43回もイエスを指してこの「人の子」と言うタイトルが使われています。その意味は、主イエスの「ご性質」が、神の造られた最初の人間、罪を犯す前のアダムが持っていた「完全な人間」の性質であると言うことです。少なくとも私はイエスを「人の子」と呼ぶ意味をそのように解釈しております。

イエス・キリストは第二のアダムと言われますが(1コリント15:45−48) それを裏付ける聖書箇所としてルカ3:38があります。そこでは「アダムは神の子である」と、イエス以外の人間としてアダムだけが一度だけ単数形で「神の子」と書かれています。
罪を犯したアダムを救い出すために、キリストが第二のアダムとしてこの世に来られたのです。従って、第一と第二のアダム、つまり人間と人となられたキリスト・イエスは同族・同種であると言えます。

私たち人間は、今はまだまだ罪の影響が残る弱い人間でしかありませんが、元々意図されたパワフルな「神の子供たち」に本当になれるのです。いや、そうなるようにこの世に生まれて来たのですから、それが私たちのゴールです。

いつも主の御声を聞いて、主を見上げ、主に従う毎日を送ることは、私たちクリスチャンが名実共に「キリストの花嫁」となって、真の「神の一族」に加わると言うデスティニーであるのです。(終わり)

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# by walkwithgod | 2010-06-03 06:50 | 坂達也からの今月のメッセージ

デスティニーを選び取る ジョアン・マクファター 6月1日

デスティニーを選び取る

ジョアン・マクファター



「次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』」エレミヤ1:4、5

「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」詩編139:16

エレミヤとダビデは、彼らが母の胎内に入る前に神からの召命を受けていましたが、 すべて生まれてくる人間は、男も女も、彼らと全く同じなのです。しかし神は人間に自由意志を与えられることによって、その召しを実際に受けとって生きるかどうかという選択を私たち各自に委ねられたのです。イエスも次のように言っておられます。

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」マタイ22:14

私たちの選択は、自分が満ち満ちた主の栄光がとどまる器となるかどうかという決断によってなされます。私たちが主の栄光を持ち運ぶようにまだ調えられていないときに、主はそのような栄光を私たちの上に注がれる事はありません。そんなことをしたら私たちはそれによって滅びることになるからです。デスティニーは私たちすべてを招いていますが、その招きがどういう結果になるかは、私たちの自由意志の使い方によって決まります。

私たちの心が創造主の声に対して絶えず「私はあなたを選びとります!すべてのものにまさり私はあなたを選びとります!」と応答していくならば、私たちは自分のデスティ二—の道をつき進んで行っているのです。

デスティニーは目的地そのものではなく、そこに行き着くまでの旅である

主が私たちの始めであり、又 私たちのデスティニーです。私たちはこの世が始まる前から主の中にいました。そして又主の中に住まうために帰っていくのです。私たちは今すでに主の中にいるのです。それは、私たちが主の流された血潮の赦しの恵みを信じ、それを受け取っているならば、です。

主の書物の中に書かれた自分のためにあらかじめ定められた日々をそのように生きて行く(そのコースを走る)ことが私たちの旅です。それは一日ずつ忠実に生きて行くと言うレースであり、何よりも主を選びとって行くという決断を一つずつ続けるレースです。毎日の生活の中で出会うすべての分岐点で主を選びとって走り、意識的に「主を選びとる」という決断をしていくことによって、私たちは デスティニーの真ん中にいる事ができるのです。何故ならデスティニーとは主のうちにだけ見出すことができるものだからです。

「神はひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。」使徒17:26−28

私たちの西洋的考え方では、 自分が目指しているある目的や仕事、或いは地位に到達することがデスティニーを達成することだと考えます。それは自分が作り出した自分の希望の型であり、例えば歌手とか牧師、或いは銀行家になりたいとかいうものです。でも神が考えておられたのはそんなことではないように思います。自分でデスティニーだと思っていることに到達する望みが、毎年遠のいていくように思える人が多いのは、その所為かもしれません。私たちは一つの型(体制・環境)を自分のために作って、その中で自分を機能させようとします。まず型があり次に機能が来るという考え方は、私たちの文化に大きな影響を与えたギリシャ的思考の結果です。

私たちの真のデスティニーは、主が私たちのために造られた日々を「実際に日々生きる」ということの中に秘められているのであって、自分の肩書きとか職業のためにではないのです。それは「自分は預言者である」から預言をするということではなく、主の御声を聞き、 御父の心で愛をもってそれを預言する(人に伝える)ことを毎日学ぶ、その日々のプロセスそのものがデステイニーです。預言者としてそのように機能するとき、私たちは真に自分のデスティニーを見出すのであり、それは即ち主に似た者となるということです。

それはどのような仕事やミニストリーについていても同じことが言えます。主の書物には、私たちそれぞれが日々違う人生を生きるように書かれています。しかし、その中で私たちがどのように生きればよいかを学んで行くことが、自分のデスティニーを日々歩むことであり、それはすべての人にとって同じプロセスなのです。即ち、それは主のようになる事であり、主と一つとなるというプロセスです。

デスティニーは終りに達することではなく、そこに至るまでの「旅路」であり、主ご自身が主の書物に書かれた日々を私たちが忠実に生きていくことです。一日一日を主の中で生きるという人生こそが私たちの真のデスティニーであり、その中で私たちはもっと主と似るものとされていくのです。それが行われる型、つまり先生とか伝道者、あるいはパン屋とかいうことは、毎日のプロセスに較べれば二義的なことです。もしかして私たちは肩書きや名声を手に入れることに焦点を当ててしまっていて、この「旅路」の喜びを失っているのではないでしょうか。私たちが今日まで生きてきた日々、その中でしたすべての間違い、すべての失敗、すべての成功から私たちのデスティニーはなっているのです。


デスティニーは動詞であり、デスティニーは一人のお方である


私たちが「デスティニーは名詞である」と考えるのが 間違いのもとかもしれません。実は神にあってデスティニーは名詞であると同じくらいに動詞であるのです。 「それは一人のお方である」と言ったほうが或いはもっと正確かもしれません。即ち、それはイエス・キリストというお方と一つになるというプロセスです。何の仕事をしているかに拘わらず、このプロセスは全く同じです。自分の召命に応答しその中で成長して行くプロセスが、私たちの本当のデスティニーなのです。それは私たちすべての者にとって同じです。

ですから私たちは、人生の中を、良いこと、悪いこと、醜いこと、血みどろの戦いや栄光などすべてを通り抜けていくときに、「小さな始まりをさげすんではいけない」とか 「それをこの上もない喜びと思いなさい」と励まされているのです。気づいていてもいなくても、あなたは今デスティニーのただ中にいます。
人生の一日一日の集計が主にあって私たちがどのような者になるかを決めるのです。舞台裏で人目につかずに黙々と働いた人々の日々の重要性が、人々の前で目立って活躍した人たちの日々に比べて決して劣るとは言えないのです。

すべての事がデスティニーの成就のために相働いているということを知って、私はとても励まされます。失望や心痛、裏切られた時に私たちが何を選択するかということが、神との一致、愛 の場所へと私たちを連れて行くのです。

私たちは「自分はなんてかわいそうなんだろう」と思うことを選択することもできますし、自分の置かれた場所や、いつまでもそこに置かれていることに対して不平を言ったり、運の悪さ(実際にはそれが悪い方向に行くのを阻止してくれたのかもしれないのですが)を嘆いたりすることもできます。でももう一方の選択は、主を見つめて「私はあなたを選びとります!どんなに悪く見えようと、どんなに長くかかろうと、自分や他のものではなく私はあなたを選びとります!」と言うことです。

それは又、私たちがどのように自分の昇進、恩顧、繁栄を取り扱うかということでもあります。それらを得たというのが大切なのではなく、 その地位であなたがどのように人々を統率し治めるかということが重要なのです。自分のためにだけその地位を用いるのでしょか、それとも人々に尽くすために用いるのでしょうか?私たちは自分が受けた恩顧を、人々が彼らの召命の中で強められ引き上げられる(自分より上にさえも)ために用いるでしょうか?私たちに与えられたすべての特権の中にあっても、私たちの内からは常に「主よ、私はあなたを選びとります!あなたは私の受ける分、私のデスティニーです!」という叫びが起こっているでしょうか?
雅歌の中でそれが巧く表されています。

「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」雅歌8:6−7


主こそ デスティニー

私たちがこの世を去るときの質問とは次のようなものでしょう。「私たちは主に似ているでしょうか?」「愛することを学んだだろうか?」「日々自分に死んで、私が生きるのではなく私の中のキリストが生きてくださったか?」
私たちの真のデスティニーは、召命が何であろうと「主の中」であり、「主のようになること」です。どのような仕事や召命であっても、そのことにおいて私たちは主の御前で同じレベルに置かれているのです。私たちはキリストの花嫁として花婿と同じ性質を持つべきであり、主が生きられたように人生を生きるべきです。主に似る者となり、主のように行動し、主のように応答し、主の内に一つとなることこそ私たちのデスティニーであり、 型とは関係ありません。主が私たちのデスティニーです!

「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」エペソ1:10−11

「 ついに時が満ちる時」に近づいている今、この理解をもって働く人たちが集められています。私たちは主が愛されるように愛す者にならねばなりません。それはあたかも愛そのものが歩いているかのようになり、自分の命を捨てる用意が出来ていて、自分より他人を先にするということです。それは今という時の私たちのデスティニーです。私たちの人生がどのような形をとっていようとも、目的は私たちが主のようになり主と一つとなることであり、無私の愛で働くことなのです。このような高レベルの成熟、自分に死ぬ事が主の臨在をもたらします。(終わり)

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# by WALKWITHGOD | 2010-06-01 14:55 | アメリカからのメッセージ

御国の領域で生きる ジェシカ•ジョーンズ 5月23日

御国の領域で生きる

ジェシカ•ジョーンズ



御国に生きる生き方というのは、実はとても簡単なのです。それにもかかわらず、それはクリスチャンにずっと今まで手のとどかない世界のことになってしまっています。でも長ったらしい方程式など何もないのです。それはただあなたの人生の一分一分、一つ一つの状況を神の御手、即ち霊的な御国の領域に委ねるということです。

イエスはそうされました。使徒たちもそうしました。そしてそれは私たちの人生上のあらゆることにおいても非常に素晴らしく効果があることなのです。初期のクリスチャンたちはユダヤ人でした。彼らは皆、何千年にもわたって伝えられてきた神を畏れる生き方の契約を把握していました。すべてのユダヤ人家庭の一部となっていたその理解を、私たちは失ってしまいました。それは4世紀のコンスタンチヌスの治世で起こったユダヤ人に対する迫害によって、クリスチャンとユダヤ人が分たれてしまったからです。

「朝起きてあなたの足がベッドから床につく前に、あなたの一日をわたしの権威の下に委ねなさい。」と主は私に言われました。

初めてそのようにした時、それは実際どんな意味なのかを私は主にお訊きしてみました。

「父なる神様、私はこの日を、今日のすべての活動を、問題を、状況を、決断を、すべてを、一分一分をあなたの御手の中に、あなたの権威の下に置きます。私に関するすべての事に 、どのような方法ででもあなたが介入する許可を差し上げます。それは今日一日があなたにとって益となり、御心に適うものとなるようにすべてのことが相働くためです。イエスの御名によって祈ります。アーメン」

この祈りをする理由は、私たちの一日を地上の領域から切り離して、神の領域、神の御手の中に置くためです。あなたの一日をこの世の空中の力であるルシファーの権威の下から、神の領域へと移すのです。神があなたの為にあなたの人生に介入されることを許可する祈りです。神とその他のもろもろの霊にむかって、あなたはルシファーやその手下どもとではなく、ただ神とだけ共に働いているのであり、神に完全にコントロール権があることを宣言するものです。あなたは神を信頼し、自分(それは即ちこの世の力)がコントロールするのではなく、神にすべてのコントロールを明け渡すことを宣言するものです。

私は今までに何度もこれと同じ祈りをしてきましたが、それがどれほど意味深いものであるかを今のようには理解していませんでした。「主よ、決して私を離さないでください。あなたが望まれる事とか私がするべきことがあったならば、いつでも私がしようとしている事を変更することをあなたに許可いたします。」私が17歳のときに実はまさにこのことを意味する祈りの歌を与えられたのでした(曲に合わせるともっといいのですが)。そして私は何年もそれを歌って来ましたし、今でもギターを手に持つと歌います。実際のところ、ギターがない時でもこの歌のヴィジョンが 頭の中を度々よぎります。

私はいろんなことを言ったりしたりしていますが、本当に私は人生のすべてを主にお捧げし、主の御手に中にお委ねしました。
確かに私は言うべきでないことを言い、するべきでないことを度々してしまします。 主が必要と思われたならばいつでも私の人生に介入し干渉してください、という許可を主に与えたにも拘わらず、 私は自分の人生を主の御手の中から取りもどし、自分で生きてしまってばかりいるので、そのような情けない結果になるのです。

これはどういうことでしょうか? 自分の人生を本当に主の御手の中に置く時、私は自分の人生を御国の領域に置いたことになるのです。しかし、それをまた取り戻して自分でコントロールするならば、私は自分を御国で生きる状態から取り出してしまい、またぞろルシファーの権威の下に置いてしまうことになるのです。そうです、クリスチャンでも自分の人生をルシファーの統治下に置いてしまえるのです。というのは今ルシファーがこの世の君だからです。ですから、もし私たちが御国で生きることから抜け出してこの世の肉の領域に入るならば、私たちは神の御国から出てルシファーの王国へと入るのです。

私が母に関して一番憶えていることの一つは、彼女があることを私に教えようとした時のことです。母は部屋の戸口に立ち、片方の足だけを部屋の中に入れ「 入ることも出来るけど…」と言い、次にもう片方の 足を部屋の外におろして「出て行くことも出来る..」と言うのです。母は同じことを言いながら戸口でこれを数回したので まるでダンスをしているようでした。そして母は部屋の外に出て行ってしまいました。

私たちは同じことを神に対して何度もするのです。一時片足を神の王国に入れて「入ることも出来るけど…」と言い、すぐにまたこの世に戻って「出て行くことも出来る…」と言うのです。そして残念なことに私たちは母がしたように向きを変えて外に出て行ってしまうことが多いのです。

私たちは心配事を十字架のもとに持って行き嘆願したかと思うと、またその心配事を拾って家に持ち帰るのです、、そして自分の解決法を探すのです。

私たちが十字架の下に行く時、霊的御国の生き方の中に入るのです。そしてその自分の愛玩物を拾い上げて家に帰るときは、 ルシファーの王国に再び入るのです。

次の祈りは今日聞いたばかりのものですが、とても素晴らしいので皆さんにお分ちしたいと思います。オクラホマ州のダビデの家というミニストリーのカーティス・ランドリーさんから来たものです。

父なる神よ、主イエスの御名によって私はこの 問題(経済的か、病気、子供の事かなど、はっきり言う)をあなたに差し出し、十字架の下に置きます。父よ、イエスの御名により、私はこの問題の結果とのいかなる魂的肉的な絆を断ち切ります。

イエスの御名により、私は私の思い、意志、感情、またあらゆる空しい想像がこの問題に関して駆け巡り働くことを許しません 。主よ、私はあなたに感謝します。私がこの問題に関して感情的ではなく、又いかなる恐怖も抱いていないことを。主よ、御言葉にはあなたが私に恐れの霊ではなく健全な思慮深い霊を下さったと書かれています。

私はキリストの健全な思慮深い思いを受け取ります。私は今私の中にキリストの健全な思いを受け取ります。それが私の栄光の望みです。私はすべての魂的肉的な絆を断ち切り、私の魂が良いこと、純粋で清いことにのみを心に思うことを命じます。

私はダビデのように祈ります。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」父よ、私はこの問題(今あなたが祈っている問題、状況をきちんと言い表す)を自分の手の中に持つことを選びません。主よ、あなたに感謝します。あなたの御言葉に「主は決して正しい者を平安と信仰の場所からゆるがされるようにはなされない。」とあることを。私はそれを自分のこととして今宣言します。私はそれを自分のこととして今信じます。私はそれを自分のこととして今受け取ります。イエスの御名において、アーメン

詩編55:22「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」
第二テモテ1:7「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」


イエスは人の子 Son of Man でした。彼は人でした。勿論彼が神の子 Son of God であったことを私は知っていますが、 人であったイエスについて私はあなたに話したいのです。

イエスは絶えず祈られました。主が何を祈っておられたか考えたことがありますか? パウロも絶えず祈りました。彼は何について祈っていたのでしょうか? 私も絶えず祈ろうとしたことがありましたが、その試みはわずか数分で終ってしまいました。

私たちは、祈りとは何かをお願いすることだと考えています。それが人々のためであっても、やはり物事や人のためにお願いをしているわけです。私自身はお願いすることをそんなに沢山思いつきません。いくつくらいの事をイエスは神にお願いしたと思いますか?主は家を持っていませんでした。


着るものやサンダルもあまり持っていたとは思えません。所有物はありませんでした。 遺書に書き記すようなものは何もなかったのです。ただヨハネに母の世話を頼んだだけでした。たった一つの衣はローマのくじに使われました。つまり、彼はこの世の領域では何一つ誇るものは持っていなかったのです。

では、一体イエスは何を祈ったのでしょうか?
パウロも無一物でした。ですからパウロは一体何のために祈ったのでしょうか?

私はイエスとパウロは二人とも同じことを祈っていたのではないかと思うのです。彼らは自分の人生の一分一分が神の御手の中でしっかり守られていることを願ったのです。二人はすべての呼吸が確実に神のコントロール下にあるようにと絶えず祈り、彼らのために介入する許可を神に与えていたのです。

そして祈りは一方通行ではありません。二人は人生すべてのことに関して神の語られる言葉を聞くために耳を傾けていたのです。

これはどういうことでしょうか?

パウロはルステラで石打ちにあいました。人々は彼を死んだものと思い町の外に引きずりだしました。彼は瀕死で横たわりながら、結果がどのようになろうともその時を神の御手に委ねたのだと私は思います。神はパウロのために介入する許可を与えられていましたし、使徒がもう一人死ぬということよりもっと良い計画を持っておられたので、パウロを生き返らせルステラにもどって福音を語らせたのでした。


ちょっと今考えてみてください。パウロの頭に石が一つか二つ当たったとしましょう。というのは人を石打ちにする時に一番効果的なのは頭だからです。石が当たって地面に倒れたあとは
人々はその人の身体全体をめがけて石をなげ、もっと苦痛を与えようとするでしょう。

パウロは頭に数カ所傷を受け、多分頭蓋骨が割れ、骨も大分砕かれていたでしょう。確実に死に至るような石打ちを受けていたのです。

私は石打ちにあった人々がどのように死を迎えるかについて調べたことがあります。20分ほどで死に至り、それは蹴られたり打叩かれて死ぬのと似ていて、 激しい痛みの伴う残酷な死に方です。

しかし、パウロの命は父なる神の御手の中にありました。父は彼を生き返らせ、町にもどって福音を語らせました。彼はぼろぼろになった泥まみれ血まみれの服を着て町に入っていきました。彼は 足を引きずることもなく完全に癒された姿でユダヤ人に彼らが歴史の中で聞いていた神について躊躇することなく語ったのでした。

一方イエスは、会堂の人々によってガリラヤの町の外にある丘の上に追いやられました。人々は主を崖から突き落とそうとしたのです。しかし、イエス(人としての)は、群衆の中を通り抜け誰にも見られずに去ってしまわれました。人々はすでにそこにはいない人を突き落とそうと群がっていたのです。

この話を以前にも聞いたことはありませんか? ラベンズブルックの強制収容所に入れられたコーリー・テンブームの話はどうでしょうか。彼女は扉のところに立っていた看守の厳しい目を通り抜けて聖書を持ち込むことが出来たのです。

神がある人のためにされたことは、他の人にもして下さるのです。神は人をかたより見る方ではありません。そして奇跡は滅多におこらないと考えるべきではありません。私たちの世界で滅多にないとか奇跡的だと考えられることは、御国の領域の生活では普通のことなのです。そして霊の領域がこの世の領域に取って変るならば、ここでもそれは起こるのです。言葉を変えれば、私たちが人生を神の御手に委ねて、神が私たちの領域を神の領域に置き換えてくださるのを許可するならば、奇跡は私たちの生活の中で当たり前の事となるのです。(終わり)

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# by walkwithgod | 2010-05-23 14:58 | アメリカからのメッセージ

奇蹟の道を築け キース•ミラー 2010年5月16日

奇蹟の道を築け

キース•ミラー



ダイナマイトが必要だ!

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力(デュナミス:ダイナマイトの驚異的な力、勢力、強さ、聖霊による力)を受けます。」使徒の働き1:8

デュナミスには変革する力がありますー信じてください! それは爆竹のように小さいものではなく、 ダイナミックで地を揺るがすような激動的な力であり、その力が私たちの上に臨むと不可能なことは何もなくなり、すべてが可能になるほどの力なのです。それは地球を揺るがし無限で止む事のない継続的であり終りのないメガワットの神の力であり、あなたの周りの世界を揺り動かさずにはおかない力なのです。

今までにあなたの人生の中で、地を揺り動かし影響を与え物事を動かし変革させるような力を経験したことはありますか? もしあなたが次の代や後世に霊的遺産を残したいと願うならば、あなたにはこのような力が必要です。

どのくらいで満足するのか

もしあなたがそのような力をまだ経験したことがないならば、それは神が貴い聖霊によってずっとあなたに与えようと用意されているものよりずっと小さなことで、あなたが満足してしまっているからかもしれません。私たちの多くは自分の考えに枠をはめてしまい、その結果部分的な勝利で満足してしまっているのです。本来ならば私たちクリスチャンが部屋に入るだけで、そこにいる人々はイエス様のことを知りたいと懇願するはずなのです! 地域社会、職場、政治的指導者、そして王や大統領さえも、重要な事柄に関する知恵と策を教えてくれと私たちに頼むはずなのです。私たちの中からもっと多くの人が、メディヤの世界、ハリウッド、政界や実業界で影響力のある地位についているべきです。

確かに人々はイエスの救いの力を知るようになってきていますし、奇跡がそこここに起こり、祝福が私たちに注がれています。しかし、私たちはもっと偉大な神の力の顕れを見ていませんし、もっと大きな神の栄光が与えられて私たちから流れ出し、その力によって真に驚くべき変革が起こるのもまだ見てはいません。

歴史上に残る素晴らしい御業のハイウェイを築くために神が取られた方法は、使徒パウロが言っている「神の栄光の豊かな宝」を流れ込ませることによってでした。その豊かな宝は 神ご自身の満ち満ちたさまにまで私たちを満たすものであり(エペソ3:16、19参照)それはすべてのことを可能にする素晴らしいデュナミスの力を与えるものです。神の御霊と力とは決して切り離しては考えられません。

イエスのミニストリーの秘密

それは秘密ではない!

黙示録3:1を見ると、イエスは神の七つの霊を持っていたことがわかりますが、イザヤ11:2を見るとそれが更に詳しく書かれています。イザヤは聖霊ご自身がイエスの上にとどまられたと書いています。聖霊により知恵と悟り、はかりごとと能力、主を知る知識と主を恐れる霊が注がれたのです。そして聖書にはイエスは無限に神の御霊が注がれたと書かれています。(ヨハネ3:34)

イエスは制限というフタを吹き飛ばされたのです。それはイエスが「ある程度」とか「制限付き」のものでは決して満足されなかったからです。人間の知性、知恵、能力には限界があります。 主は歴史の流れを革新的に変えられましたが、それをするために主は、神の満ち満ちた 御霊の知恵、悟り、はかりごと、能力、知識を求めそれにより頼まれたのでした。 満ち満ちた無限な神の御霊だけがイエスを満足させたのです。 豊かな宝がそそがれ、満ち満ちた御霊の顕れが御自分の心から流れ出すまでは1インチなりとも動かれなかったのです。その結果、主の臨在はすべてのことにおいて顕れ出たのでした。

イエスは言われました。
「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川(rivers of living water)が流れ出るようになる。)これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』ヨハネ7:37−39

ここで「川 rivers」が複数なのに注目してください。それは貴い聖霊の流れが複数あることを示しています。一つの御霊、そしてその七つの機能、顕れがあなた方を通して働くのです。それは私たちが日ごとに聖霊の深みと自分の深みとの間の親密な交わりをすることにより、 神の力により私たちが主のご性質にあずかる者へと変えられていくということです。(第二ペテロ1:3、4)

貴い聖霊の素晴らしい流れの一つ一つは、すべてのクリスチャンが与ることができるものであり、それは 私たちがこの世を主の栄光のために変革しようとしていくとき、常に前進し発展して進めるように助けてくれます。 神の七つの御霊のすべての機能、顕れが私たちの中に流れ込み、流れ出して、それによって完全に神の御国が現実となり勝利が得られるのを私たちに見てほしいと神は願っておられます。聖霊の七つの顕れは御国の深い奥義をあらわし、私たちに偉大なることをする力を与えてくれます。そしてあなたを通して働く主の偉大な力によって、主が栄光と誉れを受けることになるのです。

結論

町を一日で改革する、あなたの放蕩息子を家に帰らせる、政府を変える、大勢の人がいっぺんに癒される、あなたのミニストリーや人生が進展するというようなことのために必要なのは、主の絶えることのない臨在があなたの上にあることであり、知恵、悟り、力、知識、主を畏れるこころによってあなたを通して主の満ち満ちた様が働いていることです。これが即ち、制限や限界を取り除くと決意したすべての人が受け取ることができる「無限の油注ぎ」です。

もし聖霊が神の満ち満ちた様であり、神が永遠—絶えることのないものーであるならば、聖霊のすべての特性もそうであるはずです。主はこの絶え間ない生ける水の川(rivers)をあなたの中に流れ込ませ、 流れ出させ、あなたの人生が毎日聖霊の力ある流れを顕し、主の力によってこの地に主の栄光をもたらすことができるのです。部分的な勝利では歴史は作れないことを忘れないでください!(終わり)

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# by walkwithgod | 2010-05-16 14:38 | アメリカからのメッセージ

水嵩が増している!ペンテコステにむかって動き続づけよ!チャック・ピヤス 5月6日

水嵩が増している!ペンテコステにむかって動きつづけよ!

チャック・ピヤス
 

主が言われます。「わたしの民のうちにある川を今わたしは涌き立たせています。わたしの民のうちの川が涌き上がり今 溢れ流れます。あなたたちの川の多くは瓦礫やゴミで一杯になっています。これから数週間にわたってわたしはあなたを清めます。清められねばならない恵みがあります。清められねばならない窓があります。わたしがあなたを清める時があるのです。なぜならばE-コライ(O157)のようなバクテリヤがあなたの腸に入ってしまったので、わたしはきれいな大腸を造りはじめます。将来のためにわたしが用意しているものをあなたの胃が消化できるようにわたしはします。わたしの清めの川が流れ始めます。」

ペンテコステにむかって動き続けよ!

ペンテコステに近づいている今、私たちは思いと考え方を「収穫」にむけてシフトしなければなりません。新しい道への扉が形造られるのを注意して見守ってください!「形造られる」という意味は、ある事に形やアウトラインが出来てくることとか、或いはある物に意味や特質、性質が与えられてくるということです。

形造られる時を見るもう一つの方法は、何かが将来なるべき形に次第になってくる時がそうであるということです。これには将来その事を実行するための備えとして私たちの心とからだを整えることも含まれます。形造られるシーズンに起こることは、心にそのことへの思いを抱くこととか、それへの訓練、鍛錬を含みます。このシーズンはその事に特有の形を与えるパーツを揃える時です。

ペンテコステの鍵となる箇所は第一コリント16:8です。ここでパウロはペンテコステまでエペソにとどまろうとしています。というのは彼にとってよい働きが出来る扉がエペソで開いたからです。この形造られている扉の背後には多くの敵もいます。しかし主はこう言われます。

「このシーズンにはあなたの敵に焦点をあててはいけません。ドアが形造られるのを注意して見つめ、この新しく与えられたチャンスの中に入っていく準備を整えていなさい。わたしはあなたが敵に打ち勝つようにあなたに恵みを与えます。わたしはあなたに新しい仕事(招命)を与えるので、あなたは新しいミッションの場へと出ていくのです。」

暗闇を恐れるな

神は神の民の中のある者たちを暗い構造の中に遣わします。暗闇を恐れてはいけません。神はあなたに「夜のヴィジョン」(夜の暗やみで物が見える双眼鏡のたぐい)を与え、どのような不義の構造の中でも義の道が見えるようにしてくださいます。これは普通の海流の中でメキシコ湾流 Gulf Stream に乗って動くようなものです。メキシコ湾流はメキシコ湾で出来た暖かい海流で、フロリダ海峡を通り大西洋の冷たい水の中に流れ込みます。神は水を分けておられるのです! 今までいろいろな地域でイエスの大宣教命令を遂行するのを阻んでいた暗闇の霊どもが、今や収穫の門を明け渡すのです。

第一コリント16:9には「というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大勢いるからです。」と書かれていますが、これが今のシーズンに現実のものとなるでしょう。神の御言葉なるイエスが、今まで心を閉ざし神によって解放されることを拒んでいた人たちのグループや場所にも入って行かれるでしょう。悪魔の軍勢は紅海のように両側に分けられ、神の子供たちが、そこを通り新しい任務に着くまで両側にとどめられているでしょう。

収穫の時!

私たちのほとんどは収穫の時に関する知識があまりありませんが、今は穂束を揺り動かして捧げる期間なのです。聖書には私たちは毎日最上の穀物を揺り動かして捧げながらペンテコステを迎え、そして新しい収穫の時に入ると書かれています。 今私たちは複雑な社会生活を送っていて、自分の食料が実際に生産される場所からはかけ離れて暮らしをしていますが、収穫の季節は人々にとって最も大切なシーズンでした。(創世記8:22、45:6)収穫の時期に多くの出来事が起こりました。(創世記30:14、ヨシュア3:15、士師記15:1、ルツ1:22、2:23、第一サムエル21:9、23:13)

収穫にはプロセスがあることを私たちは知る必要があります

1.冬が終るころ種を蒔き地中に埋める。
2.初めと終わりの雨のために祈る。(ゼカリヤ10)
3.穂を掴んで鎌で刈る。(申命記16:9、マルコ4:29)
4.穂を集めて束にする
5.穂束を脱穀場に運ぶ
6.道具を使って脱穀する。あなたはその道具を持っている。
7.殻粒を空中に放り上げて取り除く。風が吹いてあなたのもみがらを吹き飛ばすように。
8.穀物を篩いにかける。(アモス9:9)あなた方の幾人かはこのプロセスに入っている。
9.穀物を蔵にしまう。あなたの穀物蔵を見つけなさい。

さて、 収穫にはいくつかの大きな敵があるので、それらから収穫を守らねばなりません。

1.旱魃 あなたのすべての干涸びのもとになるものを明確にし、それらを打ち破るように主に願いなさい。
2.イナゴの襲来 あなたの収穫を食い尽くす物を取り除くように主に願いなさい。
3.稲の病気(カビ、うどん粉病など)あなたの人生のカビを取り去ってくださいと主に願いなさい。
4.熱く焼けつく風 害を与えるような風が来ないように主に願いなさい。
5.戦い 敵はあなたの地に入り込んでその地の産物を食べていた。そのあなたの地の収穫を食べていた敵に対してあなたの地から出て行くように宣言しなさい。

初穂:祝福の鍵

ペンテコステは「初穂の日」(民数記28:26)と呼ばれました。それは人々が初穂の捧げものを持ってくる日だったからです。これは収穫の季節が終了した感謝と喜びのお祝いでした。そしてこれらの捧げものは「揺り動かす捧げ物」として人々のために捧げられました。初なりの果物、ぶどう、穀物、油、ぶどう酒、そして最初の羊毛が捧げものとして必要でした。(出エジプト22:29;レビ記2:12−16;民数記18:12;申命記18:4;第二歴代誌31:5;ネへミヤ10:35、37、39;箴言3:9;エレミヤ2:3;ローマ11:16)

この時期の雨と豊穣の源は主であると言われていました(エレミヤ5:24)新約の時代にはペンテコステに聖霊が弟子たちに下りました。(使徒2:1−4)国々からユダヤ人たちがこの恒例の祭りを祝うためにエルサレムに来ていました。ペンテコステと仮庵の祭りの間が初穂のささげ物をする期間でした。

あなたが捧げるべき初穂を主に願いなさい。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-05-07 11:28 | アメリカからのメッセージ

「時をあがないなさい」坂 達也 2010年5月2日

「時をあがないなさい」

坂 達也



 エペソ5:16「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」
コロサイ4:5「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」というみ言葉があります。どちらも同じ原語から「機会を十分に生かして用いなさい。」と訳されておりますが、それを直訳すれば「時をあがないなさい」です。英語では redeem the time、ギリシャ語ではexagorazo kairos です。(Kairos=カイロスの時)

私はアメリカでクリスチャンになり、英語の聖書から読み始めたものですからこの語句 redeem the timeの意味が、一般に解釈されている訳とか意味ではもう一つ合点が行かず、頭を傾げながら30年余が過ぎて来ました。ところが、最近「永遠の時とは何か」と言うことを学んでいた時に、主に改めてこの redeem the timeの意味を問うたところ、今朝主がその答えを下さいましたのでご参考までにお分ちする次第です。

英語の聖書では日本語の聖書の意訳(上記)と違って、そのまま素直に直訳の redeem the time と書いてありますから「時をあがないなさい。」です。一体「時をあがなう」とはどういうことなのか、字づらの意味は簡単ですが、その意味するところが理解出来ずに考え込んでしまっていたのです。

この redeem「あがなう(贖う)」という言葉はクリスチャンなら誰でも知っている、そして最も重要なイエスキリストによる「罪のあがない=贖罪の救い」を表す言葉です。その意味は、

1 代価を払って買い取る、買い戻すこと
2 枠がはめられ、窮屈で、苦しめられていたもの、何か益にならないもの、あるいは捕われていた状態から、代価(身代)を払って解放する(救い出す)こと
3 罪の結果とその報いから解放する
4 悪い影響(例えば借金でがんじがらめになっている状態)に対してそれを解消するだけの支払いをして相殺にする

です。つまり redeem the timeとは、代価を払って「時」を買い取って時を無くする、あるいは、時と言う窮屈な「たが」「制約」から解放され timeless 時のない状態になる、もどる、と言う意味です。

ご存知のように、元々神は全く時に縛られない「時のない」世界におられ、今もその世界に存在されている方です。時の無い世界の経験が無い人間には適当な言葉がないため、やむを得ず「永遠」と言う言葉で表しましたが、聖書で言う「永遠」とは「時が永遠に続く」ということではなく、「はじめも終わりもない状態、永遠の今が無限に存在する」と言うことです。
従って、時の移り変わりのない神は絶対に変わらない、「イエスキリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブル13:8)と言われます。

神の創造は、時が存在しなかった有史以前に神の心の中で、神のいのちの一部として完成されていました。そして、その後も絶対に変わらないのは神が時の無い方であるからです。「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何をつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神はそれをなさる。人は神を恐れなければならない。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。…」
(伝道者の書3;14,15)

時とは神が宇宙(天と地)を創造した時点で加えられた「被造物」の一つです。天地創造をされて以来、この宇宙は時の一方向の流れに乗って(縛られて)いますが、神の国、天では「時」はあっても、それに縛られることはないのです。(難しいことを言ってすみませんがご理解いただけると信じます。)

その意味で厳密に言えば、神は元々、全く時を超越した存在ですが、天地を創造した後、 現在は「時のある天国」におられる。その天国の時とは、自由自在に過去とか未来に行ける、しかも流れている「時」も存在する、といった世界であって、地上の「一方向の時という枠にはめられた状態」とは違うようです。
ややこしい話で、私もよく分からないのですが、これを区別する意味で、神は最も高次元の世界を持っておられる方、天は4次元+時間の「霊の」世界、そして地球上は3次元+時の自然界の世界と言うことにしたいと思います。

何故こんなあまり要領を得ない話を私が敢えてするかと言うと、実はこの「永遠の次元で生きる」ことがこれからの私たちクリスチャンの生き方として最も重要な鍵になるからです。

イエスキリストは肉の人間に生まれて来ましたが、「第二の人は天から出た者です。」(1コリント15:47)とパウロが言うように、天の人でもあります。(Son of God で Son of Manと言われる)
と言うことは、イエスは肉の3次元世界と霊の4次元世界の両方に同時に住んでいる方であると言うことです。

そのイエスが「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子(Son of Man)の上を上り下りするのを、あなたがたは今に見ます。」(ヨハネ1:51)と言われました。これで思い出すのはヤコブが見た夢で「一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」(創世記28:12)ですが、イエスキリストは天と地にはしごをかけて行き来する、どちらにも存在している人(人の子)であるのです。

そして、私たち人間もそうであるべきだと言うことをくどい程強調しているのがヨハネ伝を書いたヨハネです。彼がしきりに言う「永遠のいのち」がそれです。永遠のいのちとは時間に制約されない4次元の力が自由に使える状態を指し、そのような人を御使いは常に助けてくれるのです。
ヨハネ自身がその二つの次元に生きていて主イエスを最も理解していた弟子であることがヨハネ伝からうかがえますし、またこの福音書が他の三つと違うユニークな書であるゆえんであると思います。
その一つの例をあげれば、ヨハネは「真の礼拝者たちが霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と言いました。(ヨハネ4:23、24)彼の言わんとすることは、礼拝とは時間の長さとか量ではなく、時間の無い「永遠の今」という私たちの過ごす時間のどこを切っても常に「父を礼拝する真心」しか出て来ない状態を言っていると信じます。

ところで、「時間の無い」と言うのはどんな世界であると思われますか。考えてみれば実にやりきれないような気がします。例えば、あなたが誰かに腹を立てて、絶対に赦せない気持ちになったとしましょう。それが永遠に続くとしたらどうでしょうか? 一日に一回腹を立てたとして、それが一年間分積もれば、人間は誰でも気が狂うでしょう。遺恨がたまれば人間関係なんか皆吹っ飛ぶし、勿論夫婦でなんかいられません。
時間はその点、神が人間に与えた最も大きな祝福の一つであると思います。何故なら、時が経つと腹が立ったことも、憎いことも忘れるか薄らいで行くからです。一方、時間の無い世界では、時間の流れの下では通り過ぎて行く一切のものが去らずに、逆に濃縮されていくと言う恐ろしいことが起こるのです。

時間のない世界で、少しでも敵意、争い、そねみ、ねたみ、憤り、党派心、分裂、分派、不品行、好色、どん欲、むさぼり、汚れ、遺恨を持つ者が集まれば、 それはまさに「地獄の沙汰」です。
一方、時間のない世界で楽しく暮らすには、そこにいる人は皆常に愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和で、自制心と人を赦す心を持つ人たちでなければならないと言うことになります。その上、自分中心の人間では絶対に勤まりません。だから神は私たちが純粋で聖くなければならないことを強調します。

神が絶対に変わらない愛と言うご性質をお持ちなのも、時の無い方であるからです。性質と言うものは時間を超越した「不変な質」そのものでありましょう。その変わらないよい性質を持てるように、神は人間を一時この世と言う3次元の世界に送って、試練の中を通させて性格の「霊的成長」をさせて下さっておられます。

イエスは「御子を信じる者は永遠の命を持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)と言いました。「永遠のいのち」とは、単にこの世を終えて天国で永久に住める命をもらうことと考えている方は、この際考え方を根本的に変えていただきたいのです。私たちクリスチャンは、永遠に生きておられるイエスの力によって、超自然の4次元の世界で生きることを『今』期待しておられるのです。

ニコデモが「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(ヨハネ3:2)と言いましたが、その通りです。私たちには「永遠の今」と言う時に「神が共におられる」のです。

私たちは今、「永遠のいのち」であるイエスキリストが私たちのために十字架上で支払われた代価に基づいて、そのイエスの名によって、私たち自身を時間の縛りとその「力の無さ」を「買い取り」それから解放され、イエスと同じ次元で、主がなさったのと同じ、いや、さらに大きなわざを行う時が来たのです。それが「時をあがないなさい」の意味であると信じます。

主は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ14:12−14)と言われ、私たちがこれからの終末の時に大いに主に用いられ、父の栄光をあらわすことを望んでおられます。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-05-02 06:54 | 坂達也からの今月のメッセージ

車輪の中の車輪になる ウエイド・テイラー 4月28日

車輪の中の車輪になる

ウエイド・テイラー




イエスが最初に地上に来られた時に、ご自分一人のからだを通してへりくだりをもってなされたすべての業を、今度は集合体である「キリストのからだ」を通して再びされようと主はしておられます。これは再臨の時に備えるためです。

この「集合体であるキリストのからだ」の一部とされる人たちは、 顕現の栄光をもって働けるようにと現在「整えられつつ」あります。それは彼らが「生きたまま殉教している者」、即ち 人々が彼らを見るときにそこにただイエスの姿しか見えない者とされるということです。イエスがこれらの「勝利者(聖徒)」のところに来られて栄光を受けられる時が迫ってきています。

「 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。 その日に、主イエスは来られて、ご自の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の──そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです──感嘆の的となられます。」(第二テサロ二ケ1:7−10)


この箇所は、 この目的のために主が整えられた人々を通して顕される「栄光」について書かれています。


「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。 」 エゼキエル1:4


これは集合体としてのキリストのからだが終末の栄光の中で働いている姿であり、その働きによって神の支配される千年王国が地上に確立されるのです。


 「それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。」
エゼキエル1:16

  私たちは今「六日目」が終ろうとしている時に生きています。それはイエスの終末の目的に用いられる「勝利者たち」を整えるために、主が顕在の栄光を顕し始められるときなのです。それが「車輪の中にある車輪」であり、私たちの命が主の命と合体し、主の命を表現するものとなり、国々やすべての人類に大きな影響を及ぼす力となるのです。

「わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。」エゼキエル1:15

これは私たちの生き方がイエスに「完全に服従し」、聖徒たちのうちにおいて栄光を受けられるイエスと一つ(地の上の一つの車輪)となって 「動いている」ことを表現しています。ですから車輪と神の御心とは同義であると考えられ、私たちが栄光と調和と従順のうちに主と共に動いていることを表しています。

この栄光は動いている栄光であって、その中で私たちは 栄光溢れる主の顕現の臨在に気づいて溢れるのであり、またその中で私たちはこのような高いレベルの油注ぎと、それによって可能ならしめる終末の力を受けた時にどのように働けばよいのかを学ぶのです。


「またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。
それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
:9 翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。」
エゼキエル1:5−6、9

「彼らはおのおの四つの顔を持ち」とは、主との関係における私たちの四つのアイデンティティーを表しています。即ち、勝利者、花嫁、息子、男の子 man-child (黙示録12:5)の四つです。私たち一人ひとりはこの「車輪」の中の違う部分であり、それぞれ違う働きをしています。「四つともよく似ている(16節)」とは、私たちの命が主に全く服従している故に「主の命」を表すものとされていて、集合体としてのイエスのからだとして機能していることを表しています。

「(おのおの)四つの翼を持っていた」とは、私たちはそれぞれが 御霊の領域で動ける能力を自分のうちに培われていたということです。

「しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」イザヤ 40:31

「彼らが進むときには向きを変えなかった。」この従順なる服従は私たち(車輪)のうちからはじまり、そして、外側にむかって私たち自身(車輪の中の車輪)から広がっていき、ついには地上全体を満たすのです。

 「そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。」エゼ キエル 1:14

これは心を一つにした完全な服従と従順を表すと共に、「霊による瞬間移動」のことを言っています。終末においてこれは次第に頻繁に起こるようになります。

 「生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。」エゼキエル 1:13


  私たちは栄光の中で 洗い清められる(イザヤ6:5)だけではなく、「栄光から栄光へと」変えられつつあるのです。私たちの姿が「燃える炭」のようであるというのは、私たちが非常に濃い油注ぎの中で神の七つの御霊を知り、それを通して機能することによって、他の者たちが見えない事や理解できない事を見て理解するという鮮明な霊的感知力と目的を持っている状態を表しています。

 「そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。」詩篇 132:17

  主は地球上にいくつかの特定の場所を選び、そこを「ホットスポット/熱い場所」として特別に確立されつつあります。これらの場所においては主の栄光が顕現され、強烈な聖霊の火による御業が起こるのです。 終末の主の目的に参加するように整えられている者たちは、これらの「特別に選ばれた場所」を認識することができ、そこに集まってきます。そして強烈な油注ぎと力をもって世界へと遣わされて行きます。

 「私が見ていると、幾つかの御座が備えられ、年を経た方が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、」ダニエル 7:9

「火は御前に先立って行き主を取り囲む敵を焼き尽くす。主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。」  詩編97:3−4


これは「事を成し遂げる言葉」のことを言っており、私たちが顕現の栄光の中におられる主と共に働き、聖霊の火によって「鉄の杖」で統治することです。そのような働きをするためには高いレベルの霊的耳と従順が要求されます。

「それらは霊が行かせる方向に、霊が行かせる所にはどこにでも進み、車輪もまた、共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。生き物が進むときには車輪も進み、生き物が止まるときには車輪も止まった。また、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も共に引き上げられた。生き物の霊が、車輪の中にあったからである。」   エゼキエル1:20-21


「車輪」は栄光のうちに来られる主(かしら)であり、車輪の中にある車輪—主の命の中にある私たちの命ーを通して主はご自身を顕現されるのです。 主が終末に来られる時、多くのものが救われ、艱難時における裁きがなされ、千年王国が確立されるという三つの御計画を、主は私たちを通して達成されるのです。その結果「すべての目が彼を見る(黙示録1:7)」ようになります。

 「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。 」 2テサロニケ 1:10


「車輪の中にある車輪」とは私たちの命の中に神が介入され、主が主権をもって来られることを表しています。主は私たちを通して働かれ、終末における主の目的を達成されるのです。これは私たちが持っている信仰とか能力を完全に超越するものです。これは非常に高度な召命なので、他の者たちに要求されるものを越えた完全な服従と清さを持つことが必要です。

 「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」
イザヤ60:1−3


これは、ある一つの神の介入(主の再臨の一環としての) を通して私たちが主の顕現の栄光へと引き上げられ、神の目的のためにその権威をもって働く能力が与えられることを語っています。私たちは今、終わりの時、即ち最後の準備の時に生きています。主の召しに応答するものは完全に一致した高いレベルの集合体へと導かれ全く一つとなるので(イエスとの一致、互いとの一致)、主の命とミニストリーそのものを表すものとされます。

今までに経験したことのない最大の主の訪れヴィジテイションは、二重の目的を持って起こります。第一の目的は人々を終末の主との集合的な関係へと召し出すことです。第二の目的は国々を裁くことであり、それはこの「車輪の中の車輪」という集合体の働きによって行われます。


現在、主は「 先駆けとなる者たち」を主の臨在の中へと引き上げ始められています。彼らはこれから来る時代の「味見」を経験し始めています。

 「神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、」ヘブル書 6:5

先駆者として主の召しに正しく応じるならば、私たちは力をもって働くことが出来るようにされ、御国の権威が事を達成していく(前もって味見する)味を味わうことができるのです。


 「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。」  黙示録2:26-27

これはこの「車輪の中の車輪」が主の顕在の栄光の中で働き、地上で神の千年王国を確立することを言っています。

 「生き物が移動するとき、傍らの車輪も進み、生き物が地上から引き上げられるとき、車輪も引き上げられた。」   エゼキエル1:19

「太陽(sun=son御子)を着ている」集合体の花嫁を主は今整えられています。その花嫁は、主から直接受ける啓示により上に「挙げられて」、千年王国を前に人類に来ようとしているヴィジテイションと裁きに参加するのです。

 「 また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。」
黙示録12:1−2

  彼女が「みごもっていて産みの苦しみ」をしていたというのは、とりなしの祈りのことです。マリヤがイエスによる私たちの救いを産み出すためにみごもったと同じように、今日もこれからの時代の進展 transition(終末における神の介入)を産み出すために「みごもらされた」とりなし手たちがいるのです。マリヤがそうであったように私たちも「どのようにして」とか「どうして」とかを理解する必要はありません。ただ「私たちのからだを生きた供え物としてささげて」従えばよいのです。

私たちは一晩祈っただけではこのようにはなりません。高いレベルのとりなしへと導かれる過程があるのです。私たちがするべきことは自分をささげ、私たちの中で出産が生み出されていくのを見ていればいいのです。この出産による成果は経験を積むにしたがって増し加わっていきます。

 「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」  黙示録12:5


  聖書には「男の子 man-child」と「勝利者たち overcomers 」がどちらも「鉄の杖」で国々を治めると書かれています。両者は同一のものを指しており、それはエゼキエルによって「車輪の中に車輪があり、四方に向かって動いた」と言われているものです。

  この「四つの側面 」 は調和と一致をもって働きます。 私は「勝利者」としての資格が認承されます。「花嫁」として完全に主に服従しています。「息子」として主の目的を果たすために主と共に働く関係に入ります。「男の子」として与えられた権威をもって働きます。キリストのからだのなかには性別はないので、これはすべての者を表す言葉です。

主が力をもって臨まれる日に「(マリヤのように)心から喜んで従う」人たちの上に主の御心は注がれています。彼らは「とりなし手(集合体としてのマリヤ)」として地上での 主の目的を産み出す人たちです。主は常に人間を通して働かれてご自分の目的を達成されるのです。

私たちは実際に自分の体験として 神の働きによって次第に 勝利者としてこの「車輪の中の車輪」へと挙げられるように整えられる過程を経なければなりません。
その時に初めて主はこのように言われるでしょう。

 「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」マタイ 25:23  (終わり)


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# by walkwithgod | 2010-04-28 07:51 | アメリカからのメッセージ

時に備える #16 リック・ジョイナー 4月20日

時に備える #16

リック・ジョイナー



  今の時代を理解し把握するために、私は すべての物事を常にその根源まで掘り下げ、 神の御手がそこにあるかどうかを調べるようにしています。詩編90:17には「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」とあります。私はこの祈りをしばしば祈ります。というのは私は単に忙しく働くのではなく、「父なる神の仕事」をしていたいからです。私がしていることが本当に神の仕事かどうか、又、私が調べていることが神の目的のためかどうかを私ははっきりと知りたいのです。多くのことが私の興味を惹きはしますが、私は自分を楽しませるために生きているわけではありません。私は主の御心を行うために生きているのであり、自分のしていることが本当に御心かどうかをはっきりと知りたいのです。

 私たちのミニストリーには 預言的な人が沢山来るので、そのミニストリーのリダーとして 私はここ何十年か預言というものを理解しようと努めてきました。そして聖書のどこを探しても主がご自分の預言を確認のためにもう一度言われるという箇所がないことがわかりました。イスラエルの歴史の中で最も義(ただ)しい王の一人であったヨシヤの例を見てみると、彼は主が全く思いもよらない者の口を通して語られた時その声に従わず、それ故に死を迎えました。その言葉はただ一度語られただけでした。物事を証拠もないのに思い込むことは危険です。特に聖書の中で確立していない事を「法則」であると教えることは大変危険です。

 またある事が聖書に一度書かれているからそれが法則であるということもできません。しかしもし一度書かれているのなら、それは起こりうることであるとは言えます。私が信じる健全な神学の基本は、聖書全体がある一つのことを言っていたとして、ある一節とか一例がそれと違うことを言っているときには、自分の神学を一つの例外に判断の基礎を置かないで、聖書全体が言っていることに基礎を置くべきであるということです。勿論、例外と見えることも理解するように努めるべきですが、それが理解できるまではそれを自分の神学の基礎としたり、それについて人に教えたりすべきではありません。


 確かに主が人々に繰り返して語られた事はあるにはあるのですが、それはむしろ例外です。ほとんどの場合、主は一度だけ語られました。そして主は私たちが一度聞いたらすぐ従うようにと期待しておられるのです。
親が子供にいつも何度も言うくせがついているので、子供はしつこく言われるまで従わないとか、親がいらいらして大声を出すまで従わないということがよくありますが、主はそのような親とは違います。主は「『はい。』は『はい。』『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」と 言われました。(マタイ5:37) 主はご自分の子供たちに一度言われたらすぐに従うように教えておられるのではないでしょうか。一度目の言葉で主の御心は全部わかるはずです。

 私は自分の子供たちにも同じように教えようとしています。私が言うことを口答えしないで一回目ですぐに聞き従うことです。勿論、彼らが私の言ったことがはっきりわからなかったときは別です。そのような時はもう一度訊ねることは勿論かまいません。しかし特別私が意見を変えねばならないような大きなことがない限り、私の言いつけに子供たちが反論することを私は許しません。このことを私は軍隊やパイロットの訓練で学びました。歩兵隊の演習の時、 もし私が命令に従わなければ多分死ぬであろうし、私の部下も多分死ぬであろう、そして恐らくそれによって全軍を危険にさらすことになるであろう、と教えられました。どうしてでしょうか? 味方の軍隊が誰も送りこんでいない場所から弾が飛んできたら、それは敵からだと思うでしょう。状況が危機的であればあるほど、命令をはっきり聞いてすぐに従わないことは非常に危険なのです。

 パイロットとして私がもしある高度と方向を保つようにと言われたのにそれを聞かず従わないならば、私は他の飛行機と同時に同じスペースにいることになるかもしれません。それは勿論望ましいことではありません。空撃飛行の時、もし命令された方向と高度にいないならば、あなたは敵機だと思われて味方に撃墜されてしまうかもしれません。言いつけに従わなかった歩兵と同じです。

 終末に近づいている今、主の御声を聞いて従うことがますます重要になってきていますし、やがてそれが生死を分けることとなることでしょう 。私たちのミニストリーは出発当初から主の御声を知ることを重視して来ました。従って何十年も主の御声をもっとよく知ることを探し求めてきたのですから、私が知っている他のミニストリーと同じくらいには学んできたと思います。しかし、これは私が主から繰り返し聞くことなのですが、来るべき時代に備えるために私たちはもっともっと主の御声を今よりもはっきり聞く必要があるのです。(終わり)

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# by walkwithgod | 2010-04-20 16:33 | アメリカからのメッセージ

潮の満ち引き グラハム・クック 2010年4月13日

潮の満ち干き

グラハム・クック



  これは神の御性質のパラドックの一つですが、神は常に不変である方であると同時に、その時々のシーズンを持っておられます。私たち人間にとってこのような概念はとても理解しにくく、どう扱っていいかわかりません。しかし永遠なる神がなさるすべてのことにはシーズンがあるのです。自然界において神は4つのシーズンを造られ、種まきと刈り取り、労働と休息というように地球の活動を営ませています。これと同じことが霊的な領域でも言えるのです。
しかし何故かほとんどの教会は、 完全なバランスを見つけてそれを常に同じように保とうと必死になっています。彼らは 教え(説教も含め)とワーシップとのバランスや、御言葉と御霊とのバランスを常に保とうとしているのです。

 しかしながら神はそのようなバランスという考えを拒否されます。神の御霊は私たちの人生の中で潮のように満ちたり退いたりするのです。私たちは神の御言葉によって満たされ導かれるときもあり、また、御霊によって満たされ導かれるときもあります。私たちのするべきことは神が今何をされているのかを見て、その中で神に応答し行動をとることです。
 神がもし御言葉を通して奥義を啓示されているのなら、私たちは当然聖書に焦点を当てねばなりません。もし神が聖霊の賜物や御業(啓示も含む)を通して物事を明らかにされているのならば、そちらにどんどん進んでいかねばなりません。

私たちは絶え間ない御霊の流れの中で生きることはできません。それは不自然なことなのです。満ち潮になったならば、必ずその後には引き潮があります。私たちが御霊の引き潮になったとき、神は 御言葉の不変性へと私たちを導いてくださるのです。そしてその御言葉が 次に来る御霊のシーズンをしっかり下から支えるものとなるのです。

神は御霊の引き潮のシーズンを次のブレークスルーについて私たちに教えるために用いられます。ですから御霊の引き潮の時に私たちが何をするかということが、次に神が私たちをその中に導かれようとしている(満ち潮の)流れのために大変に重要なのです。 満ち潮と引き潮の両方を神は私たちを導くために用いられます。

神のシーズンは規則的に必ず又巡ってくるものであることを、クリスチャンはまずしっかり把握し信じなければなりません。もし神が当初にあなたに何も語られない場合は、いつかは必ず語ってくださいます。その御言葉が来るまで、私たちは主の内にじっと安息することを学ばねばなりません。私たちはしっかり「確立すること」と「探し求めること」という両方を同時に行うことは絶対に不可能です。

このようなパラドックスをバランスよく保つという能力を私たちは神から与えられておりません。その代わりに私たちは、神がそのシーズンに何をされているかによってこの二つの両極端の間を行ったり来たりするのです。ある時には私たちは全く確立されて神の御言葉にしっかりと結び付けられています。またある時には、私たちは深い旅に出て御霊の奥義を探索します。

御言葉の絶え間ない流れの中にだけ常にとどまることは、神を知的な思考の中に閉じ込めることになってしまいます。その結果、私たちは神を「知性をつくして」だけ愛することになるでしょう。しかし 探し求め探索するとき、私たちは神を「力をつくして」愛し始めるようになり、神により頼むのです。私たちの人生は御言葉の素晴らしい冬のシーズンと御霊の燃えるような夏のシーズンのどちらをも経験しなければならないのです。

 神の満ち潮、引き潮をちゃんと理解している教会を想像してみてください。御霊が動いておられるときは、人々は自由に探索し最高のかたちの賛美をもってワーシップをするように解放されます。夜の集会はただ神を賛美するだけとなることでしょう。神の力の顕れや働きが毎日起こることでしょう。
http://www.exblog.jp/myblog/entry/new/?eid=a0051378#
 そしてその同じ教会は十分成熟しているので、神が彼らを御言葉に引き戻される時にはそれを察知できます。このような教会はダイナミックな教え(テイーチング)と真理の場所となることでしょう。彼らは神の御言葉(神の子供たちの心に与えられた御言葉)が御霊を深く探り求めるときに必ず共にあることを信頼します。人々は教師や牧師が、次に来るべき御霊の偉大なる満ち潮のために彼らを備えてくれることを知っているので、彼らの周りに喜んで集まってくることでしょう。

御言葉と御霊は 素晴らしい関係で結ばれているのです。両者は決して衝突したり矛盾したりしません。お互いに譲りあう時を知っています。満ちるべきとき、退くべきときを知っているのです。(終わり)

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# by walkwithgod | 2010-04-13 16:26 | アメリカからのメッセージ

神に完全に占有される キャル・ピヤース   4月7日

神に完全に占有される(英語でpossess)

キャル・ピヤース




(3月20日、ホノルルでの「ヒーリング・ルーム」集会におけるメッセージの収録テープより)

神は、自分だけの思考にとどまらずにもっと主のお考えを聞きたいと熱心に求め続ける人には誰でも、喜んでキリストの思いの内をダウンロードしてくださいます。

 ところで、私たちは自分の脳を一割という僅かな部分しか使っていません。その理由は、神を知らない人がそれ以上頭脳を使ったら死んでしまうからなのですが、 本当に神に100%囚われたい、占有されたいと願う人には、残りの9割 を主の思いと考えで満たして下り、神の持つ知識と能力を私たちが使えるようにして下さるのです。但し私たちの元々の頭で使っている一割の部分は、十一献金の形で主に差し出し、自分が100%主の持ち物になる決心をしなければなりません。

重要なことは、神は単に私たちを整え装備しようとされているのではなく、私たちを丸ごと占拠し、完全に自分のものとされようとしておられることです。今夜私は、私たちキリストの花嫁に対して神が持っておられる目的(ゴール)についてお話ししたいと思っております。

それは、私たちがどうすれば限度(リミテーション)の全くない神の最大限の収容能力(キャパシテイー)になれるかということです。神にとっての限度(制限するもの)とは私たち人間です。ですから私たちは神を制限しないで、神のすべてが放出(リリース)されるような者にならねばなりません。


 私たちはブレーク・スルー(打ち破り・突破)を求めていますが、神はブレーク・アウト(包囲突破して外に出る)を求めています。それは汚臭を放つちっぽけで古びた私たちのマインド・セット(考え方)から私たち自身が出ること、人間の宗教を抜け出して神の啓示で生きる生き方へとブレーク・アウトすることです。

神はどのような人たちをこれから神の王国で起こそうとされるのでしょうか。創世記1:26に「神はわれわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と言われました。これが神のゴールです。「われわれに似る(同じイメージを持つ)」のは「神を代表するため」であり、「われわれのかたちに(似る)」とは「神の思いを持つ」ということです。
この神から与えられた資質を最初のアダムは失い、第二のアダムであるキリストがそれを元通りに回復されました。あなたは神ではありません。しかし元々神に似た資質を持ち、キリストによって新たに造り替えられたのです。その目的は、神がその造り替えられた人を完全に占有し、神が満ち溢れている「神のような人」をこれから起こすためです。

そのような人は聖霊に完全に従い「キリストの心があるのです。」(1コリント2:16) そのような人は自分が死んでいるので、もはや自分で考える必要は全くなくなり、キリストの心で行動します。そのような人は神が持つすべてに満たされていますから、 何の制限もなく神が満たしたものをフルに用いることが出来る器とされ 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」(ピリピ4:13)人になります。

そのような人はすべての制約から解放され、神の霊に満たされて、神の領域で生き、突然に奇跡を行うことが出来る人となり、突然に、すべてのことが神のためにあることに気が付きます。すべてが自分のためではなくなります。私たちがただ読んでいた聖書も、突然、 それによって私たちが生きる聖書となります。

その人のすべてを神が占有していますから、その人にとって悪魔は既に完全に敗北している存在であり、全く問題ではなく、悪魔がする事は何も気にならなくなります。何故なら、私は主の体であり、主が私の頭であるからです。私は既に狭い箱から出ている者であり、この地に焦点を当てて生きるのではなく、天に焦点を当てて生きます。そこからすべてのものが来るからです。そこに源があるからです。サイン&ワンダーと奇跡のすべては神から来ます。


「自分は弱い器で何も出来ない」と思われるかもしれませんが、そうではありません。2コリント12:9で主は「わたしの力は弱さのうちに(あなたが弱い時に)完全に現れる。」と言われた通り、神の力はあなたの弱さにおいて その力が発揮されます。あなた自身がどれほど弱いかを全く気にすることはありません。ただ弱い自分を自覚して、主に自分を明け渡せばよいのです。

あなたが神の現れを待つのではなく、神があなたを待っておられるのです。何故なら、あなたは既に主の体、主の持ち物であるにもかかわらず、あなた自身の身分証明(アイデンティテイー)を堅持し、神の持ち物というアイデンティテイーを認めたがらないからです。あなたは自分の名義で、自分で自分の人生を生きようとしています。だからいつも疲れて弱いのです。
ですから私たちを愛する神は、私たち自身のために、自分で生きる権利を完全に放棄し、「すべてが神のためであり、神がすべてをなさる」ことをこの際はっきりと決意することをあなたに求めておられるのです。

主は御国の鍵を私たちに下さいました。それは占拠駐留(OCUPATION)という名の鍵です。 主が人々を占有することです。端的に言って、主はあなたの意志 WILLのすべてが欲しい、あなたの意志の代わりに主の意志であなたを満たし、あなたが100%主の御心で行動することを願っておられます。人が神を持つのではなく、神が人を持つのです。つまり、誰があなたを所有し、あなたの人生を経営するかということであり、更に言えば、あなたを造った製造者(創造者)があなたという人間の所有権を持つということです。これが「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2コリント5:17)の意味です。

神は宇宙を造られました。そしてその神があなたの中におられますから、あなたもこの地球の創造者になれるのです。あなたは神の人であり、神のようになる人です。そして霊である神によって造られているのですから、あなたは肉に属している人のようにではなく(1コリント3:3)御霊に属する人(3:1)のように歩くのです。

御霊の人とは超自然の人であるということです。何故なら、あなたの中には超自然の神がおられるからです。私たちの肉の体に霊が宿っているので、私たちは天と地の間をとりなすことが出来る、神に属する神のような男、あるいは女であるのです。

私がこのような話をすると宗教的な人たちは脅かされているように感じます。彼らは私の言うようなことを信じようともしませんから、私の話を嫌います。しかし、それを信じる私たちは、信仰でその中を歩みます。宗教は私たちが神から離れていることを要求します。宗教は、神は天に、そしてあなたは地上にいて、霊にボーンアゲインした後も、一生を悪魔に打ちひしがれて生きることを求めます。

あなたはロマ書8:29で 「神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」と言われているように、御子のかたちと同じ姿になるように定められているのですから、あなたは神のようになるのです。ということは、神が完全にあなたを所有されるのです。神にあなたのすべてをとらえられ所有されたら、この世で何も恐れるものはありません。あなたがフルタイムで神になれば悪魔の必要は全くなくなります。

これらのことが起こるためには、あなたは自分の意志を完全に主に明け渡し、完全に神に従属することが前提です。自分の意志を完全に神に渡した時、あなたは主の体になるのです。そしてやがてあなたはトータルに神を所有し、又トータルに神に所有されます。
神のような人は「神が私を完全に所有している」と言い、又、「私はあなたが私の中に来られたように、私もあなたの中に移り住みたいのです。」と言う人です。そのような人は「私はあなたが行けと言うまで行かず、あなたが話しなさいと言われるまで話しません。」とも言うでしょう。よみがえりの力で完全に満たされていますから、どこへ行くにも、神はその人の前を行き、又後ろも守られるでしょう。
そして私たち自分自身の能力から解放され、神の能力の中に解き放たれます。このような神の人が奇跡を起こす人になるのです。

あなたの体は霊の神によって造られたので、霊の体です。しかし私たちの体は、常識として、あるいは宗教的な人たちからは「肉の体である」と教えられて来たためそう信じていますが、実際には超自然の体です。ですからあなたがキリストによって買い取られた時、あなたは「新しく造られた者」となり、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった」のです。

アダムはいつも神の臨在と共にあり、神と話していましたが、罪を犯した時に神から離れました。しかしその「神との離別」はキリストの血によって覆われ、私たちは元の義の関係に回復されました。1コリント6:20で「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」と言われている通り、私たちは内におられる神の栄光を現すことが出来るのです。神の霊が人間の霊を動かす時、私たちの肉の体は正しい秩序の中にあるのです。

1コリント15:44で「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」と言われているように、肉の体があり、又霊の体があります。しかし、あなたの肉の体は神の霊によって占有され、神の意志によってあなたの体が動かされているのであれば、あなたの体は霊の体と言えるのであり、あなたの体によって神の地上における目的が達成され、それが私たちにとっても最良のことであるのです。
とすれば簡単です。神が望まれる通り、私たちが自分の意志と能力を捨て、神の意志と能力のみで生きることに同意すればよいのです。こうして初めてあなたは神と同じ種類の人(God’s kind of man)となり、あなたは神と同じものを見、同じ考えになります。

神は常に、イエスの血を通して買い戻された回復された姿の私たちを見ておられますから、私たちを見られる時、私たちを通して神の目的が達成される将来の姿(結果)を見ておられるのです。つまり、神は私たちの問題を見ているのではなく、キリストの血によって得られる問題の答え(達成された結果)を見ておられるのです。
と言うことは、神(聖霊)に満たされ、神に「所有されたあなた」が神と共に歩き始める時、私たちは主にあって何かが欠けている問題を見ているのではなく、いつも問題の答えと結果を見ることが出来るのです。言い換えれば、主は「手が欠けている」状態を見ているのではなく、その「欠けている手」そのもの(答え)を見ておられるのですから、私たちも同じことが見えるのです。

あなたが神と同じものを見る時、あなたは完全な信仰で歩んでいるのです。何故なら、あなたは問題も見ていますが、それ以上に、その答えと神の目的が完成された形を見ているのですから、完成に達することが現実なものとなっているからです。
こうして私たちは主にあって「・・・どんなことでもできる」(ピリピ4:13)人になれます。

そうなると、主から何かをしなさいと言われる時、それが実現するまでのプロセスの困難さは全く問題にはならなくなります。ただ主が言われることだけが重要なことであり、主が言われた瞬間に、それを聞いたあなたは既にそれを完成した形で所有しているのです。つまり結果は最初に得ています。勝利は最初に決まっているのであり、戦った結果で決まるのではありません。この世では最後の結果で決まりますが、神の王国では、勝利はレースが始まる時に確立されます。

「神が花嫁であるあなたを完全に所有する能力がある」ということ(真理)をあなたが明確に理解する時に、あなたは真に自由になり、解放されます。(終わり)






{訳者注}キャル・ピヤース師は、元々カリフォルニア州レデイング市にあるベテル・アッセンブリー教会(ビル・ジョンソン師の父親の時代からの教会)に所属していましたが、1997年に導かれワシントン州スポケーン市に移住しました。その地は癒しのリバイバルが起きたことで著名なジョン・G・レイク師の本拠地で、80年前の同じ場所でレイク師の後を継ぐ形でキャル・ピヤース師による「ヒーリング・ルーム・ミニストリー」が興されました。その後このヒーリング・ルーム・ミニストリーは世界に広がり、ピヤース夫妻は現在世界中のヒーリング・ルームと各地の教会、カンファレンスの講師として廻っておられます。


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# by walkwithgod | 2010-04-07 11:33 | アメリカからのメッセージ

井の中の蛙、大海を知らず  坂 達也  3月31日

井の中の蛙、大海を知らず

                               坂 達也(/font>


私たち人間は、神を知らない人だけでなく、知っているはずのクリスチャンですら、ほとんどの人が、所詮「井の中の蛙」であることに気がついていないようです。そこでクリスチャンが「井の中の蛙である」可能性を二つの観点から考えてみたいと思います。一つは人間の持つ「自由意志」の観点から。二つ目は信仰の面からです。この二つは相互に深く関係しています。

 創造者なる神が人間を神に似せて造り、神の最もすばらしい特質である「自由意志」を人間に与えた理由と意図は何だったのでしょうか。それは人間が最大限に自由意志・意欲を発揮して、すべてに「自分の中にある最高の可能性を追求する」ことを期待しておられたからであると思うのです。少なくともクリスチャンは、神から自由意志なるものを与えられていることにもっと責任を持つべきではないでしょうか。
人間は自分の「自由意志」が脅かされるとき、つまり、自分が好き勝手に生きることが制約されそうになると、自分の「自由」を主張する傾向があるようです。それでいて、本当の自由とは何であるかをよくは知らないのです。自分の小さな狭い井戸の中で自分の好きなように泳いでいる限り、それが自由であると思い込んで、満足して暮らしています。大海があることを知らず、又特に知ろうともしないのです。

私はクリスチャンの話をしているのです。クリスチャンであっても、なぜそうなるのかと言えば、人間は元来「自分中心」で「自分には甘く」簡単に「自己満足」し、その上始末の悪いことに、自分の考えに頑固に固執する「プライド」だけは大きいのです。これは人間の生まれ付きの罪の性質ですが、クリスチャンになってもそのライフ・スタイルを捨てようとしないからです。
クリスチャンは、信仰を得た最初の出発点である洗礼式で、「自分に死に、よみがえって霊の世界に生まれ変わる」ことに同意したにもかかわらず、何故それを真面目に実行しようとしないのでしょうか。その「死んで生き返る」ことが「井戸を出て、大海に入ること」であることに本当には気づいていないのです。

「新生」しないて、罪の人間のままでは大海に出て真の自由を探求することは出来ません。最初の人間アダムとエバは自らの意志で神に背く罪を犯し、それ以来人間は皆罪人になりました。しかしそれは最初からの神のご計画でした。「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を(先ず)不従順(=罪)のうちに閉じ込められた」(ロマ書11:32)のです。そして、その中から、自分の意志で主キリストを信じるめぐみを得た者だけが、神への不従順という罪から解放され、自由に神の世界(霊の世界)に入って、神と共に自分の無限の可能性を追求して楽しめるのです。

神は、聖書を通して徹頭徹尾初めから終わりまで「自分に死ね」と言っておられます。それは「自分に死ぬ」ことが霊の世界という大海に出て真の自由を獲得する最初のステップであるからです。にもかかわらずクリスチャンは「すべて主に従う」ことがまるで自分の自由意志が損なわれるとでも思うのでしょうか、心からそうしようと思わない人が大半です。

考えてもみて下さい。人間の持つ自由(意志)とは何と小さくて限られたものでしょうか。人間の思考の世界がいかに小さく偏ったものであるかは、子供を例にとれば明らかです。人間は赤ん坊でも自由意志を持っています。しかし、生まれたては、お腹がすいた時とお尻がむずがゆくなる時に泣くことしか知らないのです。それが彼らの持つ自由意志の限度です。
そこで親は子供の意志を尊重しながらも、足らないところを親の意志(良識)で補いつつ子供の面倒をみないでしょうか。天の父も同じです。全知全能で最高の愛の持ち主である神なる父は、子供である私たちをいつも愛し、私たちの自由意志が一番よい形で発揮できるように助けて下さろうとしておられるのであって、私たちの自由と自由意志を損なおうなどとは全く考えてはおられません。

それが証拠に父なる神は、最愛の一人子を罪だらけの私たちの身代わりとして死なせ、そのキリスト・イエスを信じた人に、もう一人の助け主である聖霊を「永遠の後見役」として送り、その人の内に住まわせて下さっているのです。この内住の聖霊が私たちを狭い井戸から、無限の可能性を追求できる自由意志の大海に連れ出して下さるのです。つまり、内なる聖霊が私たちの大海です。


真理はあなたを自由にし、大海に解放する

上記で申し上げて来たことが神の真理の真髄であると私は思います。こうして自分の浅はかな考えで生きることが愚の骨頂であることに気が付き、そんな自分に死んで、神に自分の人生の一切を委ねて生きることこそ、自分の自由意志を最大に発揮することになることが納得ゆくはずです。パウロはこの生き方を次のように言いました。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)

そうと決まれば、私たちの人生は常に聖霊に従って生きることに徹すればよい、という結論になります。それは取りも直さず、毎日「神の御声を聞いて従いつつ生きる」ことです。そして、この生き方が、あなたのこれからの人生における最も重要な課題となるはずです。この真理を知ることがあなたを自由にします。

「・・・わたし(イエス)は真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:37)

「・・・もしあなたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたを自由にします。」(ヨハネ8:31−32)

「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。・・・・神から出た者は、神のことばに聞き従います。・・・」(ヨハネ8:43、47)


大海の信仰

クリスチャンは自分の持っている信仰が、やはり井戸の中の蛙で、大海の信仰ではないことに気づくべきです。
先日ハワイの集会に来られたカル・ピヤース師が言っていましたが、人間の脳は通常全体の一割しか使われていないそうです。なぜそうなのかご存知でしょうか。ピヤース師は、神は人間の脳の9割を無駄にするようには造ってはおられない、その未使用の部分は神の御心と思いが入るスペースで、神の思いがその人の思いとして用いられるためにある、そして、今使われている一割は人間自身の思考であり、神に差し出すべき十一献金のようなものであると言われたのです。

 これからの時代は、「キリストの思いが私たちの思いに」(1コリント2:16)ならねばならないのです。そのようなクリスチャンが中心となって、主の多くの終末のご計画が実行されて行くでしょう。そのためには私たちの今持っている信仰は抜本的に変えられなければならず、まさにロマ書12:1−2が実現される必要があるのです。

私たちがもし弱い信仰しか持っていなければ、人間の常識を外れるようなこと、すなわち超自然の奇跡が日常茶飯事で起こることは考えられません。超自然の世界とは霊の世界で普通に起こることなのですから、私たちが霊に生まれ変わった以上、当然その霊の世界での現象が自由に自分のものに出来るはずです。主は今それを私たちに期待しておられます。

しかし現実には、それがなかなか実現していません。その最大の原因は、結局のところ「自分に死ねない」ことにあるように思えます。自分に死ねないから「キリストの思いが私たちの思いに」ならないのです。それは、根本的に「自由意志」に対する私たちの考え方に原因があると私は思います。

皆さんはクリスチャンが「霊的に成熟する」ことをどのようにお考えでしょうか。
「私たちが早く霊的に成熟する目的は、丁度子供が大人に成長して自立するように、早く自分で少しでも多く神の御心が行えるようになることである」とお考えになっていないでしょうか。

もしそうであるとすれば、それは「律法的な生き方」であると思いませんか。この生き方は「自分で出来るだけ御心にそって生きる努力をしてみますが、うまく行かない時は助けて下さい。」という考え方に立脚しています。ほとんどのクリスチャンは、大なり小なりこの考えで「何も悪くない」と思って頑張って生きているのではないでしょうか。その結果自分がぴんぴん生きています。それが人間に自由意志が与えられた理由であると思っておられませんか。

私たちが霊的に成熟することとは、パウロがピリピ3:7−9、その他のところで言うように「イエスキリストを個人的に知ることと主の信仰で生きることのすばらしさに比べたら、肉の自分の一切のこと(自分の名声も考えも、それで生きることも)全く何の価値もない。」という境地に先ず到達することであると思います。そのような「自分で生きる」などとは思いもよらないというへりくだりの境地に達した時、イエスが「わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに・・・・」(ヨハネ8:28)と言われる父への愛と従順にとりつかれた情熱で生きる姿になれるのであると思います。まさに「あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるため」(1コリント2:5) にあるのです。このような生き方だけが主の期待しておられる「霊的成熟」であると信じますが、いかがでしょうか。さもなければ、神は私たち人間の中に聖霊ご自身が住まわれ、自分にトータルに死になさいなどとは決しておっしゃらないはずです。

主と共に大海に出る信仰を目標に掲げ、主にそれを毎日願い、自分の自由意志で「自分で生きる権利」を放棄することを宣言し、毎日私たちが主を見上げ、主の御声を聞いて従う、主の御心で生きる努力をし続ける時に、たとえそれが今は不完全であっても、主はあわれみをもって私たちに力を与え、信仰を引き上げて下さると確信します。やがてはそのような私たちを、神は超自然の奇跡を起こされるべき器に育て上げ、大いに用いられることを信じて疑いません。そのようなクリスチャンを今主は求めておられます。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-03-31 11:40 | 坂達也からの今月のメッセージ

まず神が愛された故に グラハム・クック 3月28日 


まず神が愛された故に

グラハム・クック 



  神が私たちに求められるものは、すべてまず最初に神が私たちに与えられます。 キリストによって私たちの内にすでに与えられているものでなければ、神は決して私たちに要求されません。私たちの持ついかなる啓示もそもそもは神によって与えられたものです。私たちが神に捧げるワーシップも、神が私たちの内に置かれたものです。神に捧げる私たちの愛はすべて、神がまず私たちを愛してくださった故に存在するのです。私たちが神に捧げる栄光はすべてもともと神から来たものです 。私たちがすることは、神がすでに与えてくださったものをそのまま神にお返しするだけなのです。

このように御霊のうちに生きることは、直感的、直覚的なことです。私たちが神に頼って生きることに喜びを持つようになると、 常に期待し待ち望むという姿勢で生きることができます。クリスチャンは決しておどおどと人生を恐れて生きるようであってはなりません。常にイエスに夢中で魅了されっぱなしの人生を送るべきです。


私は期待感でわくわくしながら人生を過ごしたいのです。 周りで起こっている様々な状況に脅かされることなく、神ご自身と神がなさることにいつも魅了されて生きることを私は今学んでいます。 私は自分の人生の毎日の出来事、問題、課題の中に神を見出したいのです。神は毎日四六時中、何かを計画されておられることを私は知っています。私はそのご計画に参画したいのです。私が毎日置かれている状況の中で、神がご自身(の性格)をもっと私に教え、あらわしてくださることを知りたいのです。私はローマ人への手紙8:28の「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という法則をしっかり信じて実践したいのです。

私たちが幼な子のようなシンプルさで生きるならば、私たちを打ち負かせるものは何もありません。「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とローマ8:37でパウロは言っています。勝利者とは、自分一人が解放されるだけではなく、他の人々をも自分と同じライフスタイルで生きる自由さへと解放することです。

まだクリスチャンになっていない人に「伝道しよう」とすることは、私たちができることの中で最低、最悪のことです。神は私たちに「伝道する」ことを要求されてはおりません。そうではなく、私たちの周りの人たちが、私たちの中にある神のご性質のよさを見て興味をそそられるような生き方をすることこそ、神が望んでおられることだと私は思います。そして人々が神に関して、あるいは私たちを見て感じることについて何か質問された時には、いつでも答える用意が出来ていなければならないと思います。私たちは常に神がしておられることを見張っていて、神のその時のご計画に従って神と共に歩いて行かねばなりません。これこそイエスが神の愛を人々に伝えた時に用いられた方法であり、主はヨハネ5:19で次にように説明されておられます。「まことにまことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」

神がある一人の人をあなたに示されて、その人に何か特別のことをしなさいとか又は言いなさいと告げられるときは、神はすでに私たちがその人に与えようとするものを私たちの心に与えておられるのです。それをその人に伝えることによってその人の心が変えられる、その心と私たちの従順さが神のもとに返されるのです。マタイ10:8でイエスは「あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい。」と言っておられます。伝道とは、神がある人の人生の中に始めたいと思われるサイクル(コミュニケーション)の一端を担うことです。


  神にすべてを頼り委ねる生き方の喜びとは、どのような状況も私たちの内の神の働きを止めることは出来ないということです。イザヤ54:17に「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。」とあります。私たちの内にある神の力は、それだけで何事をも克服することができるのです。 私たちが神の真の偉大さを見るとき、 驚嘆の思いに満たされるとき、 幼な子にようになるとき、私たちは神が見られるように自分自身を見ることが出来るようになります。即ち、 誰も止めることができない(神の)慈愛と善の推進力として自分を見るようになるのです。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-03-28 08:04 | アメリカからのメッセージ

あなたを熱く追い求める神 ライアン・ワイアット 2010年3月23日





あなたを熱く追い求める神

ライアン・ワイアット




 2010年に入ってから、神が御自分の民に特別な呼びかけをしておられることを私は感じています。「今この時」が恵みのシーズンであることを私は強く確信しています。私たちが生かされている「今」と言う時は、神のご計画の中で教会がそのデスティニーに向かってさらに突き進んで行く シーズンであると私は確信しています。今こそ神が勝利を明らかに顕され、私たちの人生を前進させてくださるシーズンです。

しかし勝利し前進するためには、 条件が一つあることも私は感じています。前のシーズン、そして過去数年間は多くのクリスチャンにとって波乱に満ちた困難な時でしたし、また世の中においてもそうでした。ここではっきり申し上げたいのですが、このような激動や苦難がこれで終わりを告げるとは私は考えていません。実際多くの場面でこの傾向は更に増加すると思います。

それはそうなのですが、 今は神の民が前進する時であることには間違いないのです。今は神の民が、意気消沈、絶望、失望、無関心、自己満足から抜け出し立ち上がる時です。今は神の民が 新たな希望、新たな期待、新たな大胆さと勇気をもって勝利のうちに立ち上がる時なのです。今こそ神の民が敵に奪われてしまっていたものを取り返す時です。再び信じる時です!

向きを変え道をそれて火に入れ

今年勝利をもって立ち上がるためには一つの条件があります。神は「向きを変え道をそれて火の中に入れ」と言われています。私はテネシー州のノックスビルでハビテイションという教会を導いています。2010年の初めから、教会の人々の間に大いなる心の高まりがあり、 神の臨在とブレークスルーの感覚が一週一週どんどんと強くなっていくのを実際に感じてきました。これはノックスビルだけに起こっていることではありません。カンサス・シティーのIHOP(国際祈りの家)やノースカロライナ州シャーロットのモーニングスター・ミニストリー、その他世界中の多くの場所で神の霊の覚醒、鼓舞、奮起、傾注が起こっていることをすでに多くの方はご存知でしょう。何かが起こっているのです!

そしてこのところ神は、出エジプト記3:1−5にあるモーセの話から私に語られています。



モーセがいつも通りに仕事をしていたとき、何かを感じ何かを見たのです。彼は燃えているのに燃え尽きない柴を見ました。モーセが「なぜ柴が燃えていないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」と言った事実に神は私のために光を当ててくださいました。 聖書ではその次に「主は彼が道を横切って(道をそれてー新共同訳)見にくるのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。」と書かれています。神はモーセに召命を与えたいと思われました。しかし聖書によると、 モーセが燃えている柴の方に道をそれて行こうと決心したのを見るまでは、主はモーセに語りかけられませんでした。

今、リバイバルの音が霊の中に響いています! 今、覚醒の音が霊に中に響いているのです! この招きを感じている人、この高まりを感じている人、そしてこのシーズンに「道をそれる」意志のある人を神は探し求めておられるのだと私は信じます。神は何をしておられるのでしょうか? 主は私たちが向きを変え道をそれて主の炎の中に入るようにと私たちを招いておられるのです。

非常に多くのクリスチャンがこれまでのシーズンでは幻滅を感じたり失望したりしてきました。非常に多くのクリスチャンが冷たくなり希望を失いました。非常に多くのクリスチャンがヴィジョンを失い、無気力で自己満足に陥っていました。神は私たちが今までの決まりきった日常から向きを変えるようにと招いておられるのです。日常の生活という道からそれるようにと招いておられるのです。今まで私たちを阻んできたものから離れるようにと招いておられるのです。向きを変えて主の炎の中へと入るようにと招いておられるのです!


あなたが今のシーズンで向きを変え始めると、神はあなたの心を暖め溶かしてくださいます。あなたが向きを変え始めると、神はあなたの渇いた土の心に浸透し、あなたを目覚めさせて新しい情熱を与え、 主を炎のように熱く求めるようにしてくださいます!これはあなたが自分で自分を奮い立たせるということではありません。今シーズン主があなたに求めておられることは、ただ向きを変えて主の臨在の炎の中で時を過ごすということだけです。神の炎がことをなしてくださいます。神の火のような臨在があなたの心に広がり、あなたを呼び覚まし生き返らせてくださるのです。

神はあなたを熱く求めておられる

今神が私に強く示してくださっているもう一つの箇所は、ルカ24:13−34です。二人の弟子がエマオへの道を歩いていたときに復活されたイエスが彼らの横に来られました。弟子たちは復活された主が誰なのかわかりませんでしたが、一緒に歩くうちに自分たちの心が内に燃やされ始めたのを感じました。夕暮れになり町に近づいたとき、聖書にはイエスがそのまま 先に行かれる御様子だったと書かれています。二人の弟子は強く願って 主が「向きを変え道をそれ」その夜一緒に泊まられるように頼みました。彼らの強い願いの故に、イエスは彼らの家に入られ、食卓につきパンを裂かれました。その時、弟子たちの目が開かれ、この方が復活の栄光の姿のイエスであることがわかりました。


これを書いている今でさえ、私は神の臨在が私を覆うのを強く感じています。 御自分の民に「今あなたが進んでいる道をそれ、そしてよく見なさい。」と強く招いておられる神の御心を私は感じるのです。あなたがひどく渇いていたとしても 、自分が餓え渇いていることを認めて神の臨在を求めるという決意をするならば、あなたの心は再び生き生きと潤い始めるでしょう。すべての失望を捨て去ることを選びとってください 。すべての落胆を捨て去ることを選びとってください。もう一度信じることを選びとってください。もう一度希望を持つことを選びとってください。神の慈愛と火のような臨在があなたを再び目覚めさすことを期待することを選びとってください。


神はもっと多くのことを語っておられますが、今日は次の言葉をもって終わりにしたいと思います。あなたが神を求めるよりももっと神はあなたに飢え渇き情熱をもってあなたを求めておられます。神はあなたを熱く追い求めておられるのです!あなたが主の臨在の炎で燃え上がることを主は望んでおられます。最近あなたを阻んでいたすべてのものから完全に自由になることを神は望んでおられます。今日自分を神とアラインさせることを選びとってください。今日「向きを変えて」神の臨在の炎の中に入ることを選びとり、今シーズンのための新たな希望、新たな勇気、新たなヴィジョン、新たなエネルギー、新たな油注ぎを受け取ってください!(終わり)

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# by walkwithgod | 2010-03-23 13:01 | アメリカからのメッセージ

時に備える リック・ジョイナー 2010年3月16日

時に備える

リック・ジョイナー
 


私たちのミニストリーにおける肩書きは、自分のミニストリーを理解してもらうのに確かに役立つときがあります。しかし最近では霊的肩書きの濫用や不適切な使用が霊的価値をひどくひき下げてしまう結果となっています。ミニストリーをしている人々のうちには、自分は使徒であるとか、ビショップ、又は 預言者であるという人たちが大勢いるのです。そういう人に あまりにも頻繁に会うので、「私は牧師です」とシンプルに言う人に会うと、その謙虚さの故にだけでも その人に尊敬と信頼の念を抱くのです。

しかしながら今私たちはそれらのミニストリーが教会に回復されてきている時代に生きているのであり、そのことを期待しないというのでは主のご計画を見失うことになってしまいます。私たちはそれらの人々を認め受け入れることをしていかねばなりません。私たちが預言者を預言者だとして受け入れるならば、私たちも預言者の受ける報酬を受けるのです。しかし預言者をただ教師として受け入れるならば、私たちは教えだけしか受けとることができません。 これはすべてのミニストリーにおいて同じことが言えます。もし使徒を教師としてだけ受け入れるならば、私たちはその人から教えだけしか受け取れません。しかしながら、もし 教師を使徒として受け入れてしまうならば、私たちは恐らく 間違った悪いリーダーシップを受けることに なってしまうでしょう。ですから、ミニストリーの責任者には「自分たちの中で働く者をよく知る」責任があるのです。

パウロは自分が使徒であることを声を大にして弁明しました。確かにミニストリーの肩書きはそれを使うべき時や必要性がある時もありますが、パウロの弁明は自分のためではなく人々のためのものでした。彼の弁明は自分を売り込もうとか大言壮語するというのではなく、 パウロの子供たちを教える父親としての心から出たものでした。それは恵みと威厳、崇高な知恵に満ちていました。そしてそれらの徳は王なるイエスに遣わされた真のメッセンジャーとしての品質保証であることを私たちは知ることになりました。

それと同じように、主からの啓示や夢、ヴィジョンにはそのような恵みと威厳が備わっています。今の時代、主は 命令されるのではなく 招かれることによって 私たちを導かれています。主はご自分が願われることを実行する権威をもっておられますが、黙示録3:20にあるように、主はご自分の教会の外に立って戸を叩かれ、それを聞いて戸を開く者があるかどうかを待っておられるのです。その理由は、今は主と共に共同相続人となる者たちを主が探しておられる時だからです。共同相続人とはただ強制されて従う者ではなく、真理を愛するが故に主に従う者たちです。ですから、私たちがある真実な預言的啓示を受けたとしても、 それを直ぐに行動に移さねばならないというプレッシャーを決して感じるべきではなく、むしろそれは主からの招き(召し)であると感じるべきです。何かに対する警告を主から受け直ぐに行動を起こさねばならない時もありますが、それも必ず主の恵みと威厳も伴ってくるはずです。それはヤコブ書3章にあるように、プレッシャーとしてではなく私たちがそれに応答することを招いているものなのです。

何かを急いでするようにとせき立てられているように感じるとき、それは主からのものではなく、その時私が取ってしまう行動は大抵大きな間違いとなるということを私は学びました。主は始めから結末を見ておられるので、私たちにあわてて何かせよとせき立てる必要を感じられることは決してないのです。聖書には「主を待ち望め、忍耐せよ」という勧めは沢山ありますが、あわてて何かをせよと言っている箇所は一つも知りません。私は多くの経験をし、多くの間違いをしてきたので、本当に主が語られ導かれるときはどのようにであるかという事を学ぶことができました。


  さて、真のミニストリーには 重要な必須条件が一つありますが、これは私たちがミニストリーのやり方として普通考えているものとはかなり異なると思います。それは、聖霊は「助け手 The Helper」であり「実行者 The Doer」ではないということです。「私たちのミニストリー には自分たちが混じってはいない、すべて主です」と人々が言うとすれば、それが 真のミニストリーであるならば、彼らは誤解しているのです。そのミニストリーの人たちが「混じっている」ことは悪いことではないばかりか、必要なことです。 主がすべてのミニストリーに私たちを全く混じ入れさせないで100%主がなさると思われたのであるならば、主はこの世を去りはしなかったでしょうし、誰にも何もさせなかったでしょう。

ルカ10章において主は弟子たちを二人ずつ遣わし、福音を語り、病人を癒し、悪霊を追い出させました。弟子たちは非常に素晴らしい成果をあげたので、彼らが戻ってきたとき主は 「わたしはサタンがいなづまのように天から落ちるのを見た」と言われました。しかし弟子たちがイエスに祈り方を教えてほしいと頼んだのは次の11章になってからの事でした。彼らはこれらすべての業が出来たにも拘わらず、まだ祈り方さえ知らなかったのです。

主が弟子を信頼しものすごい権威をお与えになったとき、彼らが 完全ではなく成熟もしていなかったことは明白です。しかし、彼らに癒された人や解放された人、 御国が来るという福音を聞いた人たちの中にそのことで不平を言った者はなかったと思います。イエスが十字架に架かられる直前でさえ、 誰が一番偉いかと言う事で弟子たちは言い争っていたのです。そして その数週間後には教会が形成され始めるという最も大切な時代のリーダーに彼らがなろうとしていたのです。それから何年も経ってからさえ、弟子のうちにはまだ大きな失敗を犯している者もいました。 ペテロはアンテオケにおいて一番若い使徒から「彼に非難すべきことがあったので」と叱責されねばなりませんでした。

ミニストリーやリーダーリーダーシップに対して(それがいかに成熟しているものであっても)完全を求めるのは愚かなことです。私たちは「土の器」に希望をおくのではなく、器の中にある「宝—聖霊」にこそ希望をおくべきなのです。もし私たちが正しく聖霊を信頼するならば、 人々に頼りすぎたり失望させられたりはしないでしょう。ミニストリーやリーダーたちが真に主のしもべであるならば、 自分が信頼されることを求めないで、人々が主にこそ信頼することを望むでしょう。 イエス御自身が崩れることのない土台なのです。もし 人々が主にではなく自分に信頼するようにしむけてしまうならば、私たちは失敗者でありその土台も崩れるでしょう。なぜならば主より他に そのような重荷を負うことのできるものは誰一人いないからです。

それは完全主義者のメンタリティーであり、主よりも自分自身に信頼する思いがその元となっています。このメンタリティーこそが、多くの者が自分の召命やミニストリーに(信仰で)踏み出していこうとするのを妨げているのですから、これは重大な問題です。私たちは完全になってから主に用いられるのではなく、主に用いられることによって完全にされていくのです。 (終わり)

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# by walkwithgod | 2010-03-16 16:21 | アメリカからのメッセージ

あなた自身の脂肪を燃やせ!チャック・ピアス 2010年3月6日

あなた自身の脂肪を燃やせ!

チャック・ピアス 



私たちは新しい 栄光 の 領域 へと入ろうとしています。今は非常に重要な時であり、主は 私たちが「主の栄光を見るように」と 召しておられます。 私たちは今 、新しいシーズンのために 新しい 自分のアイデンティティーを築き上げつつあるのです。私たちは栄光を着るのです。そのためには新しい預言を求め、それを実行するに必要なより高レベルの供給が与えられることを主に願ってください。富と栄光は切り離せません。この一週間、主は私たちが前進するために助けとなるいくつかのパターンを私に示してくださいました。私たちは現在自分が立っている場所をしっかり把握 し、それより更に進んで行かねばなりません。


先週の集会で主は次のように語られました。「あなたは今までいた所よりも更に進んでいきます。一つのシーズンにおいてあなたは火を持っていましたが、今はそれを越えて、あなた自身が次のシーズンの火となるのです。あなたは弓を引いて、今までに行った場所を越えた所に矢を放ちます。あなたは浅瀬や渦を巻いているところを渡りながら水の中に入っていくでしょう。あなたは水嵩が増してもひるまず、どんどん進んでいくのです!」

私には見えます。あなたはまるで吹雪の中で道を失い、どうにかしてそこから抜け出したいと懸命になっている人のようです。もうすぐ深い森から出られそうなのですが 、あなたは疲れ果てて横になって眠ってしまいたいと感じています。私は主が言われるのが聞こえます。「あなたの中に火がやってきて、今のシーズンにあなたを眠らせようとしているものを溶かし去るでしょう。あなたは『魂の活力』を失いました。しかし、わたしはあなたの魂を再び燃え上がらせさせます。なぜならばあなたの中には 今のシーズンに燃える熱い火というアイデンティティーがあるからです。その炎の門を通って、あなたは加速の勢いがつくのです。その勢いの瞬間を掴みさえすれば、あなたが今までずっと待ち望んできた事を実現に持って行く ことができるでしょう。あなたは過去に『その事が私から逃げて行く』と言いました。しかし、 わたしが 今 あなたの魂に火をつけて爆発させ 、そこで眠ってしまっていた起こされるべきわたしの栄光を呼び覚ます瞬間を捕らえなさい。

「あなたの魂は渇ききり叫び求めていました。しかし今日あなたの魂の中に勢いよく水が流れる音が起こり、それがあなたの魂を癒すだけではなく、目が見えるようにします。あなたは自分の魂の奥底を見ることができ、それによって自分のアイデンティティーがはっきりあらわされるでしょう。わたしの御座から川が流れ出て あなたの魂に流れ込むのを止めないようにしなさい。そうすればあなたの魂は前進していくための新しいエネルギーを受けて、わたしの中で生き生きと生き返るでしょう。あなたの魂は今こそ見えるようになるのです!  あなたの奥深くにある願いを映し出す自分のアイデンティティーを今まであなたは見た事がありませんでした。しかしわたしは川を流してあなたが今まで見たことのないものが映し出されるようにします。」


「地上にいるわたしの民のアイデンティティーは今変わりつつあり、彼らが未来へと渡って行くときには異なるアイデンティティーを持つようになるでしょう。わたしを映し出さない(わたしのものでない)ものは取り除きなさい。過去においてあなたがわたしの言葉を消化するのを妨害するいろいろな言葉が発せられてきました。それらの言葉によってあなたは恐れを抱き、わたしがあなたに進んで行けといった場所に進むことができませんでした。しかし、妨害の言葉は今やあなたの中の川と火によって押し出されていくので、あなたは大胆さをもって「今のシーズン、私はこのような者だ」ということが出来るようになります。


かつて燃えていた(生け贄を焼く)火が再び燃え始めたので、わたしが求めている生け贄の香りがわたしの民から立ち上っています 。あなたは過去に燃える香りは嗅いだことがありますが、火を見たことはありませんでした。燃える匂いを嗅いでじっと見ていなさい。わたしが火の上に息を吹きかけているから、今火が燃え上がろうとしているからです。あなたには燃えた匂いがついているが、今や あなた自身の中に火があかあかと燃え上がるでしょう。わたしの民の中に新しい火が起こされねばならないのです。わたしにその火の門を開けてくださいと願いなさい。そして今まで数ヶ月間あなたを清めるために燃えてきた匂いが今新しく燃え上がる火となるようにとわたしに願いなさい。

脂肪が火の中に入れられようとしています!  今まであなたは肉の力で自分の体重を減らそうとしてきました。あなたは重さをなくそうとしてきましたーそれは身体のことだけではなく霊的な重さもですー 今、その脂肪が火の中に入っていきます。天の火の門が 開かれ、今脂肪が火の中に入っていきます!あなたは川に向かって 川を越えるべく進んで行き、今までのシーズンにあなたがいた水嵩を越えて 更なる深みへと進んでいきます。

集会にいたレアン・スクイヤが次にように言いました。「脂肪に関する一つのことは、すべての毒素がそこに貯まることです。神がすべての脂肪を火に投げ込みなさいと言われたのはすばらしいことです。私はパウロが蛇に咬まれたときそれを火の中に振り落としたことも思いました。主は言っておられます。『今までのシーズンであなたに貯まってしまった脂肪 の中には様々なものがあり、あなたはそれをわたしに捧げなければならないとわたしは言います。なぜならば、その中には蛇(複数)がいるからです。わたしがそれをわたしの祭壇の上のわたしの火によって焼き尽くせるように、それを振り落とすことをわたしはあなたに願っています。』」

「わたしに生け贄を持ってきなさい。そして今まであなたがいた所を越えて前進しなさい。あなた自身を生け贄としてわたしに持ってきなさい。あなた自身を生け贄として捧げる時、今まであなたを抑えていたもの(あなたの中でもやもやしていたもの)があなたから出て行き、あなたに解放がやってくるでしょう。わたしがあなたに立ってほしいとずっと願ってきた場所に自分がしっかり立っているのをあなたは発見するでしょう。解放の業が今や始まったのです。洪水の門、解放の火の門、が今開かれ、解放がわたしの民の間に起こっているのです。彼らはわたしに新しい方法で生け贄を捧げています。わたしがあなたの中に火を付ける瞬間をじっと見守りなさい!」(おわり)


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# by walkwithgod | 2010-03-06 13:04 | アメリカからのメッセージ

「今の主の御言葉」を聞く耳を持つ ウエイド・テイラー 2月26日

「今の主の御言葉」を聞く耳を持つ

ウエイド・テイラー


「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。—キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」ピリピ3:12、14

私の聖書学校の先生(ウオルター・ビュートラー)は、しばしば「不満足な満足」ということを話されました。彼は主から受けたすべてのことを感謝し満足していました。しかしそれと同時にもっともっと得られるものが沢山あることを知っていたので不満足だったのです。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2:10

「良い行ない good works」とは、主がご自分の目的を果たすために私たちの人生の途上に置かれる物事や状況です。まず私たちが調えられる準備期間の間は、私たちの内側でそれがなされますが、次の段階では私たちを通して他の人々の益となるように行われます。「私たちが良い行ないに歩むように that we should walk in them」という部分の「should 歩むように」とは条件であり、 神が 召されている主の目的に沿う道を選択することに関しては私たちにも責任が掛かっているということです。正しい選択は普通、一番選びやすいものとか便宜がよいというものではありません。ですから私たちが正しい道を選びとることはこの上もなく重要なのです。

私への神の御心

聖書学校を卒業したとき、 次に何をすべきかを知るために私は主を熱心に求めました。それにも拘わらず、 一見主からの指示は与えられていないように思えました。一つの聖書学校が新たに始まることを私は知っていました。その学校の目標の一つは学生たちをイタリヤ語でミニストリーが出来るようにするというものでした。私はイタリヤ人ではないので関係がないと思いましたし、イタリヤ人へのミニストリーに召されているとも感じませんでした。

ですから、私がこの学校に対して感じた「惹き付けられる感覚」を 横に押しやって、私はフィラデルフィアの北の中心部にあるセントン通りに教会を始めようとしました。1959年7月4日に私は60マイルの距離をフィラデルフィアに向けて出発しました。一つの商店を教会のために借りて、自分が住むところも探そうと思っていました。南に向かって運転していると、自分は間違った方向に向かっているという思いがどんどん強くなってきました。

私は車を止め、この思いについて主に尋ねました。すると主は、私が新しい聖書学校に行くべきことを示してくださったのです。私は車をUターンして、反対方向に走りはじめました。私は卒業後にするべきことに関して随分と祈りました。しかし主は私が主に仕えるために実際に行動を起こすまでは何も答えずに待っておられました。そして 行動を起こしたときに私がおるべき場所に関して語ってくださったのです。

聖書学校に着いてゲストルームに落ち着くと、直ぐに私は静かに祈れる場所を探しました。そして、私はここには来たくなかったこと、しかし主からの最上のものを受けたいことを主に再び申し上げました。それに応答して主ははっきりと私の霊の奥深くに語ってくださいました。「わたしはあなたがフィラデルフィアに行くことも許します。そしてそこであなたにミニストリーを与え祝福もします。しかし、ここがわたしがあなたに居てほしい場所です。そして今のわたしのあなたへの御旨はここなのです。」

翌日、私は学生として受け入れられ入学しました。数ヶ月が過ぎたころ、私が祈っていると、突然私は天で神の御前に立っている自分を見出しました。神が私の直ぐ前の御座に座っておられることがわかりましたが、輝く栄光で目がくらみ神を見ることはできませんでした。言葉では表すことのできない聖さを感じました。

御座の前に立っていると、左の方から波のような強烈な栄光の流れが鮮明な色をして私の方にむかって流れてきて私の霊の深みに入っていきました。あたかも長い貨物列車が私の内に入ってきて沢山の荷を一台一台私の霊に中におろして行ったようでした。一つ一つ次々とそれらが私の中に入る度に、私はこの学校が建っている場所でミニストリーを立て上げるのだということがはっきりとわかってきました。私の身体のすべての細胞が感光する声帯になったようで、 主が御心のまま臨在し事をなすことができる「特別に聖別された場所」を望んでおられることを私は悟ったのでした。
私が天からもとの祈っていた場所に戻ったとき、天で経験した顕在の栄光で 非常に深く触れられていたので、以前通りの日常生活に携わりその中で機能することにとても困難を感じました。「普通」にもどったのはそれから2週間も経ってからでした。

「今の御言葉」を「聞く耳」を持つ

私が召されたこの「ミニストリー」は、主が私に送られる人々を調えることであることが次第にわかってきました。 彼らが主の御声を認識し、それに応答し、それを尊び、主の顕在の臨在に敏感になるように調えることです。これは即ち、終末の主の目的のために調えられて聖別される人々をさしています。

「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」黙示録19:7

この聖書学校はイタリヤ・アッセンブリー・オブ・ゴッドだったのですが、設立されて3年目に閉校となりました。その後6年間空屋となっていましたが、不思議な方法でそれが私に寄贈されたのでした。その待っている期間に、私が終末の「バプテスマのヨハネ」として用いられるために調えられていることを主は悟らせてくださいました。後に主はこれを聖書の中で最大のアイロニーを示す御言葉を通し確認させてくださいました。

「アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」ルカ3:2

「アンナスとカヤパ」とは確立された宗教組織のリーダーと機能を表していますが、主はそれを回避(バイパス)されたのです。「荒野」とは、孤立した不毛の環境であり、主はヨハネをミニストリーの重要な時に調えるために荒野を用いられたのです。

宗教組織は十分に確立され機能していました。しかし主はその時宗教組織の中には主の「今のための」御言葉を与えることができる「聞く耳」を持ったものを見出すことができなかったのです。主は聖職者ではないものを選ばれ、 訓練のために彼を「荒野の体験」へと導かれたのです。

今日もなお、キリストのからだの中には主に己のすべてを捧げて、主からの新しい御言葉を受け取るために選ばれている人たちがいるのです。これは私たちが終末のバプテスマのヨハネとなる備えをするためには、絶対に「今の御言葉」を主から 受け取る必要があるということであり、それによって来るべき終末の時代に主の顕在の臨在の証人となれるのです。ですから、 このような証し (まず自分の内に、そして私たちを通して外にむかって)を完全に示すために、私たちは正しい選択をしなければならないのです。

当時の宗教的組織は(主はそれをバイパスされましたが)かつては神の栄光を経験し、主から直接啓示を受けました。しかし主が 彼らに今現在望んでおられることを理解するに当たっては、過去の経験だけに頼って理解しようとするようになってしまいました。過去において主が彼らの中で働かれたという事実は、彼らを現在の必要のために 調えるには十分ではなかったのです。彼らはもうすぐに来ようとしておられる「神の小羊」に関する「今の御言葉」を聞くことが出来なかったのです。

今の時には、間もなく現れる「ユダ族の獅子」のために 特別な召命を受けた者たちがいます。ですから、たとえ過去に多くの啓示を受け取っていたとしても、 「今主を求めるもの」が私たち一人ひとりの中に存在しなければなりません。昨日の啓示は今日の問題とプレッシャーに対応するために私たちを調えるには十分ではないのです。

真の聖霊のぶどう酒

私が聖書学校の学生だったとき(1956−1959)、主の偉大な訪れがあり、それは2週間続きました。私たちは毎日早朝から夜遅くまでチャペルに集っていました。初めのうち強烈な悔い改めと清めが起こり、その後で主の「顕在の栄光」が私たちの上に注がれました。それと共に「新しいぶどう酒の泉」が発見されました。そこから飲むものは誰でも聖霊に激しく満たされ大胆で力強くなりました。

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」エペソ5:18

「多く飲んで酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があります。」の意味は、聖霊による崇高な霊的力の分与にとって代わる、偽りの代用品のことを言っています。この代用品(ぶどう酒)は、サタンによって用いられ、数えきれないほどの人生や家族が破壊されてきました。ぶどう酒を飲むことによって「益」と見えるものは、実はすべて欺きであり結果としてひどい代価を払わせるものとなるのです。

「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。」エペソ5:18−19

これは聖霊の真のぶどう酒が持つ変革の成果です。それは私たちの能力以上の霊的大胆さと自由さへと私たちを解き放ち、神に栄光を帰し、私たちが大きな自由さと力をもって働くことが出来るようにするのです。

しかしその時の経験がいかにすごかったとしても、私たちは「過去の主の訪れ、ヴィジテイションの泉から飲む」ことにすがり続けてはいけないのです。私たちは新鮮で新しい超自然の領域に入るために、今主を求め始めることが緊急に必要とされています。初めて主と出会った場所を振り返っていてはいけないのです。又、「新たなもの」が自分の人生やミニストリーにどのように、いつ、どこで導入されるのかを、私たちが主に向かって要求するのでもありません。(私は車の向きを変えて、自分が受けた召しには適合していないと思える場所に向かいました。)

私たちは「不満足な満足」を持たねばなりません。即ち、自分が現在持っているものに対して感謝をすると同時に、「もっと更に」と主に積極的に求めるのです。コインには両面があります。コインの裏と表は違っていますが、その両方で完全な一つとなります。私たちの過去の経験と現在の経験を一つにして、自分が進んでいく未来への道を作らねばなりません。

ヨハネの証しは彼が「荒野で叫ぶ者の声」であるというものでした。彼は「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」(マルコ1:3)と叫び 、その時の緊急を要する必要をはっきりと認識したのでした。私の召命とミニストリー はヨハネが彼の時代に語ったように、今私たちが生かされている困難な時代に、主の目的のために今の「声」を語ることができる人を調えることなのです。

そしてそれは1959年7月4日に私がフィラデルフィアに向かっていた車を止め、主からの「今の言葉」に応答して反対方向に向きを変えたことによって生まれたのでした。振り返って見て、私はその時正しい選択をしたことを本当にうれしく思います。

1959年のその日から多くの年月が経ちました。それは栄光に満ちた年月であり、霊的分与を授けた年月、多くの人々が変革された年月でもありました。また間違いを犯してしまったこともありましたが、私はそれを悔い改め主から赦しを受けました。今現在、私はワシントンDCに住んでいて、主から「今の言葉」を受け取っています。そして召命の次のレベルの働きへと移行するために、私は再び「向きを変える」かもしれません。私のミニストリーは主が意図された目的と成就にむかって今進もうとしています。

皆さんも重要な決断をするときに、過去の霊的経験や現在の状況にだけ目を奪われるのではなく 正しい道を選び取られるようにとお祈りいたします。
(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-02-26 17:14 | アメリカからのメッセージ

トランスフォーメンションと神の恵み グラハム・クック 2月15日


トランスフォーメンションと神の恵み

グラハム・クック



成熟した心に愛が満ちるとき私たちは聖霊様との交わりへと導かれます。私たちは心を聖霊様に集中させねばなりません。パウロはコロサイ3:2で「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」と勧めているようにです。神を愛するためには、神のご性質について深く瞑想することが必要です。ですから主と親密な関係を保つためにはメディテイションが重要な鍵となります。 神との絶えざる交わりを保ちながら神がどのようなお方であるかを時間をかけてじっくり黙想することが重要です。


「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。」と第一テサロ二ケ5:18でパウロは言っています。主と親密であるとき、それは感謝の 言葉をもって表現されます。私たちは主への感謝を最大限 言葉に出して表す必要があるのです。主と真に親密であるならば、その事を秘密にしておくことはできません。なぜならば、それは物事や人を変革してゆく強い力だからです。あなたが主の臨在の中にとどまる方法を学ぶとき(ユダの手紙21節で「神の愛の内に自分自身を保ち」と表現されています)あなたは神の恵みの中に入れられ、そこでは預言の言葉が成就してゆくのです。恵みは私たちのために 神の心の中から 溢れ流れてきます。そして神は私たちを絶え間なく祝福が注がれる場所に置かれるのです。


神は私たちが主に似た者へと変革されることを望んでおられます。主が私たち一人ひとりの中に養われている善(goodness)は、この世に蔓延している悪に打ち勝つ力があります。神との親密さは私たちのうちに善を生み出し、その善はコミュ二ティ−全体に影響を及ぼすことができるのです。あなたの人生を覆う神の恵みが実際にあなたの住む地域や教会、そして町さえも覆うことができるとすればどうでしょうか? あなたの教会への神の恵みが非常に大きい故に、あなたの町の何千という人々がその恵みで覆われ祝福されるとしたらどうでしょうか? クリスチャンとして私たちが神の恵みの中で生活しないならば、 悪が私たちのまわりに栄えるのを私たちが許してしまうことになるのです。

神の恵みよって守られ堅固にされているコミュ二ティーを想像してみてください! それはクリスチャンたちがイエス様と恋に落ちて、主の善を彼らの周りの人々に解き放すことによって起こり始めます。「あなたがわたしの臨在で満ち満ちているので、あなたの周りの人はわたしの祝福から逃れることから出来ない」と神が宣言するとしたらどうですか? あなたが人生で果たす役目が、あなたが 出かけて行って出来るだけ多くの人々に祝福を与えることだとしたらどうでしょうか? あなたが主の祝福と親切をもって覆うべき領域に神が線を引いていたとしたらどうでしょうか? 私たちが今すでに うけている恵みを十分に用いることが大切です。私たちは自分の受けている恵みをどんどん使っていかねばなりません。 イエス様が神と人からますます愛され好意をもたれて成長されたように、私たちもこの両者から恵み(愛と好意)を受ける道を発見せねばなりません。神は私たちが まわりの人々にどんどん恵みを与えて、神の御国の領域を出来る限り拡張することを望んでおられます。


古代イスラエルの人々はこの法則を学ぶのに随分長い月日を費やしました。モーセが12人の斥候をカナンに送り込んだ時、神の恵みを自分たちのために用いようとしたのはカレブとヨシュアだけでした。他の者たちはカナンの町と軍隊を見て怯えてしまいました。民数記13:33には彼らが恐れで押しつぶされたことが書かれています。「そこで、私たちはネフィリウム人、ネフィリウム人のアナク人を見た。私たちは自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」 しかし、カレブとヨシュアは、自分たちが神からの恵みを受けていること、そしてここが約束の地だという預言をはっきり知っていたのでした。

カレブとヨシュアは、神は自分たちに必ず勝利を与えてくださると説得しましたが、イスラエル人は聞きいれませんでした。民数記14:7−10に次にように書かれています。「イスラエル人の全会衆に向かって次にように言った。『私たちが巡り歩いて探った地は、素晴らしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には乳と蜜が流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。』」しかし全会衆は彼らを石で打ち殺そうと言い出したのです。

イスラエル人に「『自分たちはいなごのようだ』と思いなさい」と命じた人は誰もいません。「自分たちはそのようにちっぽけな者だ」と彼ら自身が思ってしまったのです。その結果、神の恵みを出来る限り追求する用意のある新しい世代がイスラエルに現れるまで、 神は待たねばなりませんでした。神が私たちの前に巨人を置かれる理由は、神の恵みがどれほど大きいかを私たちが見ることが出来るようにするためです。私たちは巨人を見て怯えてはなりません。私たちは勝利を得るという期待で胸躍らせるべきなのです。

私たちの恵みは目の前にある障害物を克服することができます。 「 大きすぎてとても自分では克服できない」と私たちに見える問題が起きるのを、神はしばしば許されるでしょう。しかしこれは私たちが神の恵みを最大限用いるようにしむける神の方法なのです。ティーンエイジャーだったダビデがゴリアテに面したとき、彼が持っていたのは石投げと数個の石、そして彼がいつの日か王になるという預言的約束だけでした。ダビデはサウロ王がしていたように隠れていて、戦いは誰か他の者にやらせてもよかったのです。そもそもゴリアテはダビデが戦う相手ではなかったのですから。しかし、ダビデは神の恵みを用いたかったのです。一瞬にしてダビデは夢見る少年から戦士ヒーローになったのです。これこそ神の恵みの力です。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-02-15 07:00 | アメリカからのメッセージ