いのちの木に総てを委ねる生き方 坂  達 也  2月11日

いのちの木に総てを委ねる生き方

                                    坂  達 也


私たちの人生は神に気に入られるかどうかで大いに違ってきます。常に主に喜ばれることをしている時に、私たちは有り余るような主のご好意(祝福)にあずかれます。そうして神様の「お気に入り」になると、神は私たちのところに来て離れなくなられます。つまり明らかな神の臨在(英語でmanifest presence)が私たちの上に顕れて被うのです
そして神の祝福は周りの人たちにも及んでいきます。そうなったら人生、楽しくてしょうがなくなるのではないでしょうか。それでは、どうしたらそうなれるのでしょうか。
それは言うまでもなく、私たちが主イエスを愛して愛して、愛しぬくことです。

「イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』」 (ヨハネ 14:23)

 イエスが言われている意味は、わたしを愛する人はわたしと出来るだけ多くの時間を過ごし、わたしの言うことば(現在形)をいつも聞きたいと願う人であり、わたしのことばを聞くことを最上の喜びとする人であるから、そのような人は「わたしのことばを守ります。」、あるいは、「守れるようにわたしが力(めぐみ)を与える」と言われているのではないでしょうか。

いのちの木

 エデンの園の中央には「いのちの木」と「善悪の知識の木」が植えられていました。(創世記2:9)これはテスト・ツリーと言われますが、エバは悪魔の誘惑に負けて魅力的な「善悪の知識の木」の実を取って食べ、アダムにも勧め二人で食べてしまいました。テストに合格できなかったのです。その後生まれる人間は、皆「善悪の知識の木」の実を取って食べる、生まれながらの罪人としてこの世に生まれて来るようになりました。

「いのちの木」はイエス・キリストを指します。そして、イエスに総てを頼って生きる生き方を表しています。それはヨハネ15章でイエスがご自分をまことのぶどうの木に譬え、私たちはその枝であるといわれたことに通じます。 一方、「善悪の知識の木」とは自分で何でも判断して自分で生きる生き方を表しています。イエスはぶどうの木である「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)と言われました。
確かに私たちが木にしっかりついた枝である限り、総ての養分は100%ぶどうの木であるイエスから与えられますが、問題は、私たちはどちらの木からも自由にその実を取れる状態でクリスチャンになったことです。

そのことに関して私は最近主から一つのテストを受けました。それはホノルルの私たちが属しているミニストリーで、今新しくミニストリーの集会を立ち上げようとしていますが、そのリーダーの人がコンピューターを必要としており、加えて、私のコンピューターがたまたま壊れてしまい、二人してすぐにも新しいコンピューターが必要となりました。そこでそのリーダーが3年ほど前から知っているという、ある有力者に頼もうという提案を受けました。その方はクリスチャン・ミニストリーに必要な機材を安く分けてくれる奉仕的団体(会社)の責任者で、そこからはかなり安くコンピューターとかカメラ、サウンド・システム、オフィス機具から集会用の椅子やテーブルまで分けてもらえる、しかも、ものによっては市価の一割位の値段で提供してくれると言うのです。そんなうまい話はないと、私もすかさず飛びつきました。

しかし、実際には、その責任者の人との連絡がなかなか取れず、取れたときは責任者が会社を辞任した後でした。そこで後任の人を紹介してもらったのですが、その人が多忙で、やっと一週間ほど前にその人と直接話をすることが出来て、助けてくれると言う確約を得たのですが、その後又なしのつぶて、この間3ヶ月近く経つのに未だに要領が得ないのです。

私はあまりに時間がかかるので、主に祈ってみました。実はそれまでは、出発時の教会を助けてくれるという相手ですから、当然主の御心と思い込み、主にはっきりとは尋ねてもみませんでした。すると「時間がかかるのを覚悟しなさい」、いや「これは全き主の御心ではない」 かもしれないという警告の声らしいものが聞こえてきました。私ははっと気が付き主の前で悔い改めました。

教会のリーダーと私は二人とも、一割で買えるのなら一番よいコンピューターにしようと言う欲が出て、アップルの最高クラスに近い2-3千ドル級のものに夢が膨らんでいたのです。支払いについては、私は元々コンピューターを買い換える時期に来ていたのでその積もりで予算を用意していたこともあり、いずれ資金がない教会の現状からして、一割で買えるのならリーダーの分も含めて二台分を私が支払うつもりでおりました。

しかし、本当に気が付かされたのです。私は、自分は「いのちの木」にだけつながっているつもりでいて、実際は「善悪を知る知識の木」の魅力に負けて、その木にも飛びつき、自分で買おうとしていたのです。この話が出たとき、それが主からのものかどうかを私は確かめなかったのです。

主は、大きなものから小さなものに至るまで私たちが必要とする一切のものを主ご自身が選ばれ、主の方法とタイミングで私たちに与えて下さる方であることをよく知っているはずなのに、私は今まで多くの場合に、勝手に安易に両方の木に手を出して来たということに気が付いたのです。

その辺りは実にいい加減で、時には勝手な理屈をつけては主の御心であると自分に言い含めて曖昧にごまかす、巧妙でずるい、とまで言える私の性格に気が付かされたのです。
もっとも正直な話、セールとか大バーゲンで値段が半額になっているものを『主の御心』と半分偽って時に慌てて飛びついてしまうのは私だけではないとは思いますが、だからといってそれは決して言い訳にはなりません。

神のご好意(祝福)を勝ち取ったヤコブ

 そのような策略を講ずる者の一人にヤコブがおりました。しかしイサクの子であるヤコブは、神の祝福を得ることにおいては誰にも負けない貪欲さと執拗さを持っておりました。ヤコブは父のイサクと双子の兄のエサウを騙してまでも長子の権利とその祝福を得ようと画策し、まんまと成功しました。

後になって、ヤコブは神のみ使いの訪れを受けたとき、夜明けまで格闘しました。彼はもものつがいをはずされても相手にしがみつき、神からの祝福を得るまでは絶対に離さないと、必死で神の祝福をせがみました。彼はどんな祝福を得よとしたのでしょうか。マービン・バイヤー師は、ヤコブは自分の名前ヤコブが意味する通りの「ずる賢く策略を講ずる者」という嫌な性格(=名前)を変えて欲しいと言う願いから神の祝福を迫ったと解釈していますが、私も同感です。
神はそのヤコブの願いを聞き入れ「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエル(神は勝つの意味)だ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)と言われました。

ヤコブの生来の「ずる賢さ」という悪い性格と名前を変えるご計画を初めから持っておられた神は、彼を伯父のラバンの元に送りました。ヤコブはそこで二十年の間、ヤコブに勝るとも劣らないラバンの「ずる賢さ」に出会わせ、家族と仕事の両面で厳しい試練を受けさせました。その結果、ヤコブは自分の性格の悪さに嫌気がさしたのでしょうか、そのような自分の性格(を象徴する名前)が完全に変えられることを何よりも望むようになったのであると思います。

私たちが何事においても、神に喜ばれるようなものを激しく求めて神に迫ることを神は大変喜ばれます。中でも特に、「神との深い交わり」、「神の顕著な臨在」、「神からのみ言葉を聞く」ことを激しく求めることを期待しておられます。なぜなら、これ等のものを神からいただくことこそ本当に神の至上の祝福だからです。
それに加えて、自分が主のような性格の人間に変えられたいという願望をヤコブの激しさで主に求めるのであれば、それは最高に神が喜ばれることです。それこそ私たちはどんなにしつこくても執拗に求めるべきです。

私は最近色々な自分のいやな性格とか、ぴしっとしていない曖昧でぬるま湯的な部分を神に指摘されて悔い改めています。特に「義righteousness」に対する甘い考え、灰色がかった「聖さ」のなさを神が取り扱って下さっていることを強く感じます。

私たちクリスチャン生活の最終目標は、主のために何か大きな仕事をすることではなく、それよりも、主に似た人格に成熟し、霊的な完成を目指すことにおいて、ヤコブのように激しく求める人間になることであると思います。そのことが下記のみ言葉に書かれております。

「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」 (エペソ4:13-15) (終わり)

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# by walkwithgod | 2010-02-11 10:14 | 坂達也からの今月のメッセージ

アポロ13号   ビル・ヨント  2010年2月5日

アポロ13号
                        ビル・ヨント


  月に着陸するというミッションをもってアポロ13号は3人の宇宙飛行士を乗せて打ち上げられました。しかし、そこから突然、悲痛な叫び声で「ヒューストン、問題が発生しました!」と連絡があった時、世界は一瞬停止したかのようになり、テキサス州ヒューストンの宇宙局コントロールセンターにいた人たちは心臓が止まりそうになりました。酸素タンクが破裂したことが発見されたのでした。この報道の言葉が発せられた途端、この偉大なミッションのゴールは突然変更されたのです。月に到着することは最早意味をもたず、3人の宇宙飛行士をどのようにして無事地球に帰還させるかが人々の焦点となりました。

人生の試煉や悲劇が私たちを襲うとき、それまで大切だと思っていた 夢や目標、又何かを達成すること等よりも、単に呼吸をすることが突然に一番大切なことになるのは興味深いことです。聖書の中でも、又私たちの人生においても、神が私たちを高みに連れて行かれて主の素晴らしい夢を見せてくださるとき、その夢を地上に持ち帰り実行するためには大気圏の中に再突入せねばならず、それは非常に重大な危機的瞬間となります。

多くのミニストリーから「問題発生!」の泣き叫びの声を聞く

私の霊 は多くのミニストリーが発する泣き叫びの声を感じます。それは、最初彼らは主から高い召しを受けてミニストリーを打ち上げたのですが、何かよく分からない理由で現実に物事がうまくいかなくなってしまったときに発する叫びです。あたかも天の領域(天からの計画・目標・理想・夢)にいる私たちを、神が地上の領域(現実的問題・種々の試練)に戻るように命じておられるように思われるとき、私たちのプライオリティーは急に変るのです。

アポロ13号のミッションは、神から与えられたミッションや夢を追い求めている時でさえ、私たちがいかにもろく、攻撃・障害を受け易いものかということを私たちに教えてくれるものだと思います。これに関してはヨセフのことが思い浮かびます。 神から与えられた彼の夢は何度も中断させられました。神からの夢が高ければ高いほど、それを成就するためには、私たちはより深く地上の出来事(苦しみ)を経験せねばならないかのように思えます。ヨセフが穴に投げ込まれたとき、神から与えられた夢を成就するためには、彼が地球大気圏へ再突入して地上の多くの苦しみの中に突入させました。囚人として送った多くの年月は彼を更にへりくだらせ、捕われている者に同情することが出来る者に彼をしました。ですから彼の夢が実現したとき彼は捕われている者たちに、そして悪い兄弟たちにさえも、憐れみをもって接することを忘れませんでした。ヨセフは自分のことだけを夢見る者から、人々のことや彼らのより高いデステイニーを夢見る者へと変えられていったのです。

ヨセフの夢はもう消え失せたかのように彼には見えたことでしょう。彼が地上に戻ってくるのは簡単ではありませんでした。自分の夢に死に、他人のために夢を見なければならなかったのですから。 牢獄で共に暮らした男がパロにヨセフのことを告げたのでヨセフの運命はついに成就されることになりました。恐らく他の人々の成功のために夢を見ることができたことがヨセフを宮殿へと導いたのでしょう。宮殿に入った彼は直ぐに自分の家族が回復されることを夢見て、やがて彼らを回復することができました。彼はエジプトの繁栄を夢見て、その結果すべてのエジプト人を飢饉から助けたのです。

ミニストリーが暗礁に乗り上げたかと思われるようなとき、うまくいかない事態から私たちは学ぶ

アポロ13号のミッションは「成功した失敗」であると考えられています。乗組員が月に上陸できなかったという意味では、失敗でした。しかし不可能と思われる状況の中でどのように人々が協力し合って働けるかを示し得た故に、それは成功だったのです。
ケン・マッティングリーという宇宙飛行士は乗組員の一人としてアポロ13号に乗り込むはずだったのですが、医師たちは彼がはしかにかかった可能性があるとして乗船させなかったことは興味深いことです。彼は地上に残り、自分の夢に死にました。しかし、ケン・マッティングリーこそがアポロ13号の乗組員を安全に地球に生還させるための知識と知恵を与えるキイパーソンとなったのです。

神が私たちに一つの夢をくださるとき、 私たちが置き去りにする人が、多くの場合後になって私たちの夢が成就するのを助けてくれる人となり、私たちがなにか問題にぶつかるときに助けてくれるキイパーソンとなるのです。ところで、ケン・マッティングリーははしかにはなりませんでした。彼は後にアポロ16号のコマンド ・モジュール・パイロットとして飛行しました。それは月面着陸の5回目のミッション であり、乗組員が月面を歩いた唯一のミッションだったのです!

地上で多くの人たちがアポロ13号の生還を 祈っていました。ダクトテープと紐という全くありふれた物が、宇宙船の酸素の補給を保ち命を救うものとなったのです。実際、NASAからのすべての宇宙ミッションにはダクトテープが積み込まれています。


私は6年前に心臓発作を起こし救急病棟に横たわっていたのですが、その時多くの人々が世界中で 私のために祈ってくださったことをよく憶えています。私の心臓は実際止まっていたのです。その朝私は救急室で、サタンが手下の悪霊どもにむかって「彼のために祈っている人がすごく沢山いる。残念だが彼から手をひかねばならない!」と言っている声を聞きました。心臓発作を起こす前、私は神から高い召しを受けていましたが、その夢を実現するために私を地上に引き戻してくれたのは人々の祈りでした。

神はしばしばその人のミニストリーを断っても、人を主ご自身の元にひき戻される

何年も前のことですが、私は自分のミニストリーによって破滅しそうになりました。私は自分のミニストリーを主よりも愛してしまったのです。 ミニストリーというものは、気をつけないと私たちにとっての一番の敵となり得るのです! そしてそれは全く悪気もなく起こってしまいます。というのは私たちは神御自身が召してくださったことを愛するからです。主は私のミニストリーが進まないように、戸を閉ざし窓に鍵をかけられました。私の働きへの招きはぷっつり途絶え、私の周りにいるのは家族と神だけになっていました。3ヶ月間ほど私は神と閉じこもりました。あなたが神とゆっくり時を過ごしている間に、あなたがミニストリーを失ってしまうようなことはありません。勿論それがあなたのミニストリーでなければの話です。神のミニストリーであれば、あなたがいなくてもどんどんと進んでいくのです!

3ヶ月神と過ごしたときに、私のミニストリーは以前にはなかったように発展したのです。私がしたことといえば主と時を過ごしたというだけです。ある日私は主から愛の御腕で抱かれるのを感じました。私が主のために何もしないでただ主と共にいることを、主は大変喜んでおられるのを感じました。主は本当に私がいることがうれしかったのです。そして私たちは将来天国で主と共に過ごすだけでなく、この地上でも主と共にいるように造られたのだということを私は見出したのです。その3ヶ月間私は主に抱かれていましたが、ある時主が天使たちにこう言われるのを聞いたのです。「この息子のミニストリーを世界の隅々にまで届けなさい。わたしは彼を本当に喜んでいるから!」
私たちは現在していることをしばらく休んで、神が何年も前に自分を召された時と同じ召し(道)を今でもまだ召されているかどうかを確かめるべき時があるように私は思います。

十字架

十字架は私たちを天の夢へと送りだす発射台であり、又、十字架は神の夢を地上にもたらすために私たちが地球の大気圏にどのように再突入すればよいかを教えてくれるものです。イエスが十字架に架かるとき、弟子たちは自分たちの高邁な召しと夢は失われてしまったと思ったに違いありません。彼らはそのとき十字架が 地上に対する神のすべての夢が実現するための発射台になることを全く理解できませんでした。後に彼らは 、自分の十字架をかつぎ自分を否み、夢を与えその夢を神の方法で実現してくださるお方に従うことによってのみ、自分たちの夢は実現されることを学んだのでした。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-02-05 08:20

これからの時に備える リック・ジョイナー  1月26日

これからの時に備える
 
リック・ジョイナー



最も(霊的に)高度なクリスチャン生活を送るためには、聖書の深い理解が必要であると共に、深いデボーション(主の御声を聞きもっと深く主を知る)がそれに伴っていなければなりません。私たちが今年学ぼうと決意したことはこの二つのことであり、この二つを達成できたならば2010年は非常に成功したといえるでしょう。

以前にも述べたように、書かれた神の御言葉と神から直接受けるメッセージや啓示との間には矛盾は決してないことを私たちは知っております。 神は偽りのない方であり、又、変ることがない方であると聖書は私たちに告げています。ですから書かれた神の御言葉(聖書)は、すべての預言を正しく判断するための基盤として私たちが信頼すべきものです。神からの預言やメッセージは決して聖書に書かれていることと矛盾はしないはずなのです。

西洋的な考え方は縦の論理を基本にしています。そして、それはしばしば私たちがすべての事に関して原則を作るように強く働きかけます。時にはそれは良いことであり有益ですが、しかし時にはそれがつまずきとなり私たちを 真理から遠ざけてしまうことがあります。勿論、基本的な原則の中には、 私たちが健全な聖書の信仰の道をはずさないように助け、また、私たちが聞いたものが 主の御声か、そうではないかを見分ける能力を与えてくれるものがあります。これに関してはまた詳しく述べたいと思いますが、真理を知り、神の御声を知るために一番大切なこととはそれらの原則(を知り、追うこと)ではないことも私たちは知るべきだと思います。(何故なら)真理とは「人、あるお方」であり、単に事実・真実ではないからです。

ちょっと考えてみてください。私がある人の声について説明したら、あなたはそれがどのようなものかを確実に知ることができますか? 例えば、私の妻の声がどんな声かを言葉で表現するには、何か誰にでも当てはまるような一般的な表現を使うしかないのですが、たとえそうして説明したとしてもとても難しいことであると思います。妻の声を聞いたことのない人が、私の説明する表現だけで彼女の声が分かってしまうことはとても考えられません。しかし大勢の人が話している中に妻がいたとしたら、私は彼女の声を直ぐに聞き分けられます。どのようにして? それは私が彼女とずっと長く暮らして来たからです。それと同じように、私たちが主の御声を本当に知る唯一の方法は主と共に時を過ごすことなのです。

他人を認識する方法は実のところ二つしかありません。顔か声です。特別変った特徴があれば別ですが、 ただ手や足を見るだけであなたが認識できる人が何人いますか? そうです、私たちは人を顔か声で認識するのです。ですから、聖書の御言葉は私たちが主の御顔を探し求め、主の御声を知ることを強く勧めているのです。


私は聖書を何度も読み、主がどのように人に話されたかを深く研究しました。しかし、私が主の御声を知ったのはその研究によるのではありません。私が神の声を認識するのは、 妻の声を聞き分ける時のように耳に聞こえる声のトーンによるのではなく、霊的なトーンによってですが、神の声は宇宙の中でユニークな霊的トーンを持っています。聖書が教えているように、宇宙には多くの声があり、それぞれがユニークです。それではどうやって主の御声を聞き分けることができるのでしょうか? それは主を知ることによってです。

勿論、主はご自分の声を他のものたちが決して真似ることができないような特出したものにすることはお出来になります。そうすれば私たちは主の御声を他のものの中からいつも認識できるわけですが、主は私たちのためにそうなさいませんでした。主の御声の霊的トーンを知るためには、私たちは主の御こころと御思いを知らねばなりません。主ご自身を(個人的に)知らねばならないのです。これは私たちが主を求め主との交わりが深まることによって知ることができるものです。真の弟子ではない人たち、つまり真に主を求めていない人たちは、主の御声を聞き分けることができません。

これが 「小(子供の)羊(lambs)は羊飼いの声を知っている」ではなく「(おとなの)羊(sheep)は羊飼いの声を知っている」と主が言われた理由です。子羊は自分で主の御声を十分に知り、他の声と区別が出来るようになるまでは、自分よりもっと成長している羊の後に付いて行く必要があるのです。

私は昔、ある人が中東地方の丘に座っていた時の話を読んだことがあります。彼は三人の羊飼いが水飲み場に、それぞれ自分の羊の群れを連れて違う方向からやって来るのを見ました。彼は羊の群れが同時に水を飲めば、みんな混じってしまって羊飼いたちはそれぞれの群れを区別することが出来ないだろうと思いました。思ったとおり、羊たちは水飲み場につくと混じりあい、どの群れに属するものかわからなくなってしまいました。

しかし、羊飼いたちは少しも心配する様子もなく、互いに話しをしていました。羊がみんな水を飲み終わると、羊飼いたちはそれぞれの道を進み始め、歩きながら歌を歌い始めました。沢山の羊の中で大混乱が起こりましたが、小さな羊の流れがそれぞれの羊飼いの後ろに付き始め、やがてすべての羊はそれぞれの群れに分かれていきました。すべての羊は羊飼いの声を知っていて他の声と区別ができたのです。どうしてでしょうか? それは羊たちは自分の羊飼いとずっと過ごしていて、彼が歌う声を聞いて きたからです。私たちも主の御声をこのように知り、この世にある他のすべての声と区別できねばならないのです。主と共にいることに代われることは何もありません。

今年のデポーションは、私たちの根をもっと深く聖書の中におろすことであり、主の真理を深く愛して求め続けることです。また、主にもっと近づくことによって主の御声を知ることを追い求めることです。私たちがこのことにずっと集中して求め続けるならば、この2010年は私たちの人生の中でもっとも重要な年の一つとなることでしょう。これからの時は、私たちが真の弟子として、こうした基本的な訓練をどれほど真剣に追い求めて来たかどうかに掛かっていると言って差し支えないでしょう。(終わり)

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# by walkwithgod | 2010-01-26 11:53

2010年 祝福の鍵  チャック•ピアス 2010年1月19日

2010年 祝福の鍵

チャック•ピアス
 


この預言をじっくりと読んでください。あなたの役割は重要です。あなたの奥深くまで手をさし入れてください。解き放たれるべき祝福があります。新しい年を始めるに当たって、私たちの鍵はここにあるのです。

神は言われます。「わたしはあなたの内にある非常にユニークなものをあなたのために組み立てています。あなたが造り出そうと試みたものをわたしが造っているのです。あなたは物事を完成させようと強く願ってきましたが、自分のパズルを自分だけでは組み立てることができないことがわかるでしょう。あなたは自分の回りにいる人たちや彼らのパズルをも完成させようと試みてきました。

しかし、わたしが彼らのために造ったパズルを完成するために必要でまだ見つかっていないパズルの一片は、わたしがまだ握っています。それが分かっていないあなたはうまく見つからないのでいらついていました。あなたは自分に必要なパズルの一片が見つからないまま、正しい一片ではないものを探しつづけ、また、他の人のパズルの見つからない一片をも探しつづけました。しかし、わたしが取り扱って来たのはあなた(自身の全体)だと言う事をあなたは今悟りました。そして今、わたしはあなたというパズルを完成させる最後の一片をあなたに見せましょう、それはあなたに必要な一片です。

今は、わたしがあなたというパズルで残された最後の未完成の一角に磨きをかけ始めるときです。あなたの一部である尖った角の鋭さが今丸く削られようとしています。そのための心の用意をしなさい、あなたの人生がわたしの計画通りに行くために必要な調節作業を、これから数週間のうちに、超自然的に起こるようにしているからです。わたしはそのための色々なしるしを既に天に送ってあり、わたしだけが総ての時(タイミング)をコントロールしているものであることをあなたが悟れるようにしました。あなたの内にわたしが始めたプロジェクトは必ず完成させるとわたしが決意していることを知りなさい。

配属されるのを待ちなさい。あなたの配置を待ちなさい。わたしはこの一片がぴったりとはまる場所を、あなたが自分の内から引き出すようにします。もしあなたが自分の奥深くに手を差し伸べ、わたしにしかその一片をぴたりとはめ込むことのできない場所を引き上げるならば、わたしはそれをはめましょう。
あなたがまだ解き放っていない祝福があります。わたしは言います、『その深いところにある祝福を引き上げなさい。あなたの奥深いところにそれはあります。その祝福があなたの口で形造られ(宣言して)出てくるならば、あなたがずっと待っていた祝福はあなたの上に注がれるでしょう。』

奥深くにある祝福を引き上げなさい。そして、あなたの敵を祝福せよ。

あなたが絶対に祝福できないと思っていた事さえも、あなたはその上に祝福を送ることができるのです。それはわたしが『あなたの敵を祝福しなさい』と言ったからです。 あなたの奥深くに祝福があり、あなたがそれを口で宣言するのを待っています。あなたがたは祝福を解き放つシーズンに入っているのですから、自分の奥深く入っていき、今まであなたの口からは出たことのない祝福をあらわしなさい。

あなたはあなたの敵をわたしがあなたの敵を見るようには見ていませんでした。あなたはあなたの過去を、わたしがあなたの過去を見るようには見てはいませんでした。だから奥深くにある祝福を引き上げてあなたの敵を祝福しなさい。あなたが敵を祝福するとき、わたしはあなたの頭を敵の頭より上にします。しかしあなたの口があなたの敵を祝福するまでは、あなたの頭を高く上げわたしがあなたに見せたいと願うものを見せることは出来ないのです。

わたしはあの大災害があなたの傍にくることを許しました。それはあなたが今までとは異なる成長を遂げるためです。あなたは成長して、今まで見えなかったものに目を開けて見るようになります。立ち上がって今まであなたを悲惨な目に遭わせようとして来ていたものを見なさい。大災難と困難を前にして、あなたがそれによって悪い姿に形造られないように、わたしがあなたを守ってきたのです。前のシーズンではあなたが見ることができなかったヴィジョンを、今あなたは見ることができるでしょう。」

集会の歌い手であるレアン・スクイヤが、以上の預言を聞いて 次のように歌いました。

「今まで見えなかったものが見えます。私の目の前で水が流れはじめました。今まで見えなかったものが見えます。あなたは私の前に道をもうけられました。」

彼女の歌に対する主の答えがきました。

「あなたはわたしが『今の時』を直そうとしていると思いました。でもそれは違うのです。わたしはあなたが行こうとしている未来を調えていたのです。わたしの目はただ『今の所、今の時』を見ているだけではありません。わたしの目はあなたの未来への道を見ていたのです。」

次に主が言われました。「わたしの目は未来へのあなたの道を見ていました。あなたが握りしめようとしていた道は、あなた自身が握りしめていたものであって、わたしが握っていたものではないことが今あなたにわかるでしょう。今あなたはそれをどうやって手放せばよいかがわかるでしょう。今あなたはわたしがあなたに掴んでほしいと願っているものが見えるようになるでしょう。あなたを見えなくしていたものがあなたの周りで砕かれました。あなたの頭をわたしの方に上げなさい。そうすればあなたは上から見下ろして今までは見えなかったものを見ることが出来るでしょう。

わたしは編み合わせリフォームする

わたしは一つの統治機関を今造っており、その各部署はすでに造られています。あなたはわたしが造っている整然と動く軍隊の中で鍵となる者です。ここに上がってきて下を見なさい。そうすればあなたは軍隊のムーブメントとその態勢、そしてあなたが配置される部署を見ることができるようになるでしょう。

あなたのパズルの一片はわたしにとって重要なのです。今わたしがそれをあなたの中にはめ込むのを見なさい。それは今まで欠けていた一片であり、それによって今や祝福を造り出し、その祝福があなたの心や思いの中に流れ始めるでしょう。そしてわたしはあなたを選んで、将来用いられる構成要素の中に配置するでしょう。

あなたの回りの者たちにわたしがしていることを裁いてはいけません。あなたが過去に裁いていた先入観念を基にして、早急に人々を裁いてはいけません。なぜならばわたしは今人々を編み上げてリフォームするプロセスをしているのです。あなたが早まって裁くならば、あなたはこれから現れて輝き始める器を見逃すことになるでしょう。錆びて使い物にならないように見えた者たちをわたしは今この世に顕すからです。わたしは今のシーズンに、多くの者がそれから飲む新しい器たちをわたしは用意しているのです。」(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-01-19 10:53 | アメリカからのメッセージ

霊的な礼拝とは  坂  達 也  2010年1月18日

霊的な礼拝とは

                                            坂  達 也

 
礼拝を含めた色々な集会において、濃厚な主の臨在を経験したことのないクリスチャンはほとんどいないと思います。しかし皆様は、主の臨在とは先ず個人的に毎日経験すべきものであるということを信じておられるでしょうか。

私の場合は、毎朝主とお会いしたくて一人で主の前に出ます。主の御前に出て静まり、主と共に時を過ごし始めると、主の平安と愛に包まれていきます。そして顕著な主の臨在が現れてくださることも多くあります。一昨日の朝がそうでしたが、主が来られてお傍近くで直々に親しくお会い出来たときは、本当にうれしくて感激と喜びで一杯になります。

勿論いつも主のはっきりとした臨在が来てくださる(感じる)とは限りません。しかし、たとえ顕著な主の臨在感がなくても、平和で平安な気持ちで満たされていれば、それは御霊の実の顕れですから、主の御霊がそこに臨在されている証拠です。
私たち御霊の内住を受けているクリスチャンは、いつも御霊の臨在と共にあり、その臨在の導きで歩んでいなければなりません。(ガラテヤ5:16)この霊的事実は信仰で受け取ることであり、私たちの肉の感情とは無関係のはずです。

最近の私にとっては毎朝御霊とお会いし、御霊に満たされること、それが大いなる楽しみとなっております。それは主の御声を聞くためというより、主と静かで楽しい時を過ごしたいという気持ちからです。 

ジョン・ベルトという人が詩篇23:2「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」を引用して、最近次のように語っています。「私たちは騒々しい音(音楽も含んでの意味であると思います。)の中で暮らすことにあまりにも慣れ過ぎているが、この騒音中毒症状を打ち破らねばならない。私はむしろ、神と共に過ごす「静かな時」を愛することのリバイバルが起こるべきであると願っている。私たちはこの神と共に過ごす「静けさ」にこそ中毒となるべきだ。神は私たちの心の奥深い場所に住まいたいと思っておられ、私たちに静かで平安の場所を約束して下さっている。この心の奥深い静かな場所において私たちは神を知り、親密な関係を築く。そこで主は神の栄光を私たちに顕わして下さる。」

「静かな時を愛するリバイバル」とはすばらしいではありませんか。実のところ、私は誰かがこれを言ってくれることを待っていたように思いました。

私はダビデによる詩篇23を読む時はいつでも、この詩だけが持つ独特の「音色」と言いましょうか、それはダビデの心そのものが溢れるように伝わって来ます。恐らくそう感じるのは私だけではないと思います。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」


 私はクリスチャンになった頃は英語の聖書に親しんでおりましたので、最初の二節The Lord is my shepherd;Ishall not want. He makes me to lie down in green pastures; he leads me beside the still waters.の方に今でも親しみが湧きます。特に1節でIshall not want は「乏しいことがありません」の意味で全く間違いではありませんが、むしろ「私は主が私の必要な総てを与えてくださるので心から満ち足りており、私自身は何も欲しくはありません。」という英語訳のニュアンスが好きです。又、2節を読みますと、水のほとりにある緑の牧場の光景が「神の平安」に包まれたすばらしい場所であると同時に、神にあっての「静けさ」が伝わって来ます。邦訳にある「いこいの水」とは、多くの英語の聖書で「静かな水still water」と訳されていますが、それは怖い急流でも、よどんで死んだような水たまりでもない、安全で静かな清流のほとりという意味でありましょう。

この詩篇は神をこよなく愛したダビデが、神と自分との関係を表した心からの主への愛の讃歌であり、主への信頼、感謝、喜びに満ち溢れたものです。このダビデの心はまさしく主キリストの心と一致しております。

主の心、思いと一致する

今の私たちに最も必要な「主の御前に立つ祈り」とは、私たちの心と思いが主の心と同じになる、主の思いと一つになることにあると思います。そうなってこそ心が通じ合い、主の心の思いと「静かな小さな声」が伝わってきます。これが主と親しい間柄になるということです。

私たちの身体の総ての細胞が声を持っている

心が一つになるとはどう言うことでしょうか。ジェシカ・ジョーンズ師は次のように言っています。
「私たちは皆声を持っています。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったものです。・・・すべてのものが音を出します。この音の振動がすべての人、すべてのものから発せられているのが私には見えます。すべてのものは物体ではなくて音なのです。・・・創世記にはすべてのものが神の言葉によって創られたとあります。・・・私たちが話したり歌ったりする言葉には力があるのです。しかし私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があります。・・・私たちは自分が造り出している音(サウンド)のバイブレーション(振動)に責任を持たねばなりません。・・・すべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、それは肉の目を通して見る色とは違います。・・・この音の振動が発せられて、他の全ての人が発する音の振動と一緒になることを想像してみてください。その音の振動は(大きな)力 forceとなります。ふたりの人が一致するならば、言葉の大きな力 forceを生むのです。その音は神の御座にまでとどき、神はふたりの霊、心、思いの一致によって動いてくださいます。・・・ 一致の色は白です。白という色は実はすべての色が(一致して)合わさったものであり、反対に黒はすべての色が無い(一致した色の欠如)ものです。白は義の衣の色です。 この一致した音の振動はパワフルな力です。それは創造し、回復し、力を与えます。それは3つの天を通ってすごい力で駆け抜けるのです。」(本HP、昨年10月4日ジェシカ・ジョーンズ師のメッセージより一部要約)

私たちのゴールは主の花嫁として、主と心と思いが一致することです。そうでなければ私たちがキリストの身体となることは出来ません。
実はそのためにこそ、私たちは出来るだけ多くの時間を主の御前で過ごす必要があるのですが、私たちが多くの時間を過ごせば過ごす程、内なる聖霊との親しさが増し、聖霊に満たされて、その御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22)が私たちの霊と魂に増し加えられます。これが「主を見つめて待つ」祈りの目的であり、私たちのライフスタイルそのものの根底とならねばなりません。

この御霊の実に満たされて毎日を過ごすようになれば、私たちの身体の細胞も良い音の振動を発するようになり、そのようなクリスチャンが増えれば増えるほど、皆キリストの霊により一致してキリストの身体に形成されていきます。

皆さんはいつも、心そのものが愛と平安で満たされているでしょうか。この霊に満たされている状態になるのを阻むものが肉の思いです。
不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、等が肉の思いと行いであるとガラテヤ5:19-21に書かれていますが、これらの一つ一つを今心に思い浮かべてみてください。それを思ったとたんに何か異物・汚物感を持ち、好ましくない音色サウンドを感じませんか。

肉の思いが心に多くある場合、これらが不協和音を奏で、その異なったそぐわない音が自分の中(細胞)から発信されているというのです。私たちの祈りも賛美の歌も、皆こうして私たちの身体全体の音と共に主に届いているのですから、私たちが口で何を言い、何を歌おうと、あるいは何も言わなくても、私たちの身体と心と行い全体が主に「ものを言っている」ことになります。その意味では、私たち身体全体が放つ振動音、サウンドは正直であり決して神にうそはつけません。

 私たちクリスチャンが心を一つにして同じ歌を大きな声で歌うとき、それは大変パワフルな賛美・礼拝となって天に届くでしょう。しかし、その一致した合唱の賛美を神が最大限喜んでいただくためには、歌う人たち全員の心が、いやその人たちの身体の細胞の総てが発するサウンドも大切です。全細胞が愛、喜び、平安という御霊の実で満たされているなら、さらに最高の礼拝になるからです。

 ところでこのことと関連しますが、私は長い間「神を礼拝するには音楽付でなければならないのか」という疑問を密かに持っていました。というのはクリスチャンの教会で通常ワーシップ(礼拝)といえば、即「音楽を奏でる、歌う」ことを意味するように言われるからです。
私は「主を見つめて待つ」祈りをするときにバックグラウンド・ミュージック無しで静かに「神と時を過ごす」ことに毎日慣れ過ぎて来たせいか、音楽がなくても礼拝できるどころか、かえって音楽が無い方がよくなりました。と言っても誤解していただきたくないのですが、音楽を聴きながら祈るのが悪いとは決して思っておりません。

又、声を出して礼拝すること、あるいは祈ることには確かに力がありますから、それは絶対に不可欠であることを強調します。しかし同時に、身体全体の細胞の声、サウンドも非常に大切であることを強調したいのです。パウロがエペソ5:18,19で指摘しているように先ず「・・・御霊に満たされなさい。」がベースにならねばなりません。そして「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」と言われる通りであると思います。
ある方は、礼拝とは内面におけるデボーションである、と言いましたが、黙って主の御前に出て、ただただ主を熱心に思い見上げることは立派な礼拝であると思うのです。
 
先程引用したガラテヤ5章の最後、24-25節で「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」と書かれています。クリスチャンは自分の肉の思いを総て十字架につけなければなりません。これはクリスチャンとしての絶対的な条件です。そうしなければ御霊によって生き、御霊と共に歩けないのです。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。」(17節)。

私たちはそのために主の御前に立ちます。へりくだって主を見上げる人は、主が私たちのために先ずついてくださった十字架を見上げるのと同じです。やさしい主は、静かに私たちの内にある、肉による不協和音を思い起こさせ、それを悔い改めさせてくださいます。こうして私たちは聖くされキリストに似た者に変えられていきます。

最後にロマ書12:1にあるパウロの私たちへの懇願を心して聞いてください。 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
そうです。私たちが主の御前に立つときは、私たちのからだを聖い生きた供え物として主にささげる姿であるのです。どうぞ、今年こそは毎日、ぜひこの「主を見つめて待つ」祈りを実行していただきたいと願っております。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-01-18 06:30 | 坂達也からの今月のメッセージ

新しい年に期待する 坂  達 也 2010年1月10日

新しい年に期待する
                            坂  達 也



2010年はどんな年になるのでしょうか。新年を迎えて早々にアメリカでの良いニュースをお伝えします。
昨日のモーニング・スターのインターネットの番組でリック・ジョイナー師がトッド・ベントレー師と共に映像に現れ、この5日MSU(モーニングスター大学)の授業が開始された日の若者中心の集会で予期しなかったアウト・ブレークが起こり、これが12時間続いた後、翌日の夜も同じような癒しと奇跡を伴うアウト・ポアリングが起こったそうです。従って、急遽これから少なくとも2週間は火曜日から土曜日まで毎夜集会を持つと発表しました。

既に謹慎の身から解かれて、モーニングスターでの集会にミニスターとして参加し始めていたトッド・ベントレー師のところへ、年明けにボッブ・ジョーンズ師が訪れました。その目的はジョーンズ師が主からの特別の「訪れ」を受け、トッド師の上にあるのろいを打ち破るように指示を受けたからでした。そこで師は3日のモーニングスターでの日曜礼拝において、トッド師に按手して祈りました。その時彼の上にあったのろいが解かれ、フロリダのアウトポアリング時に受けていた癒しと奇跡の霊に立ち返ったような「天が開いた状態になった」とトッド師は語っています。
尚、ジョイナー師は、今回のアウト・ブレークはベントレー師だけによるものではなく、モーニングスターのリーダーチームと学生たちの中からも主に立てられた人たちが出て来ていることを強調しています。これをリバイバルと名づけるのは早すぎるが、何か大変なことが起きる始まりであることをひしひしと感じていると言い、二人とも大変興奮しておりました。

それ以前に、既にご存知の方も多くおられると思いますが、昨年から同じような学生(IHOP大学)中心のアウトブレークがマイク・ビクル師のIHOPでも既に起こっております。ここでは既に毎週水曜日から日曜日の夜まで午後6時から12時までの集会が持たれており、顕著な癒し、救い、開放が起こっております。最近IHOPを訪ねたヘンリー・グルバー師によれば、「すばらしいことが起こっている、会場には多くの日本人・東洋人(多分韓国人)が来ていた」と言っておりました。詳しくはIHOPのインターネットHPをご覧ください。

さて日本では、2010年はどのような年になるのでしょうか。既に日本でもあちらこちらでリバイバルの兆しが起こり始めていることを昨年来聞いて参りましたので、私たちも大いに期待しております。
新年はブレイクスルーの年であると多くの方が言っておりますが、たまたま私個人がジェシカ・ジョーンズ師から受けた預言においても、今年日本に大きなブレイクスルーが起こり、日本を被う頑固なサムライ・スピリットが打ち破られ、そのサムライ軍団の刀は地に落とされること、そのためのブレイクスルーという言葉が何度も何度も強調されておりました。期待します。


一方2010年への政治情勢への不安もこのところ一気につのって来ております。昨年末クリスマスの日にデトロイトで未遂に終わったアルカイダの飛行機爆破事件と、12月30日にアフガニスタンの米軍基地で起きたCIA工作人による自爆テロ事件が世界中を再び2001年の9/11当事のテロへの恐怖に引き戻し、特にアメリカでは緊張した年明けとなりました。
テロとの戦いはこれから益々激しくなると予想されますが、昨年12月初めにキム・クレメント師が今年の中頃に米国大統領暗殺事件が起こると預言しています。(この預言はジャンポール・ジャクソン師も預言しておりました。)これにより大統領自身と共に、アメリカの情勢は一変すると預言されていますが,良い方向に変革されることを切に望んで止みません。ぜひ大統領とその救いのためにお祈りください。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-01-10 12:11 | 坂達也からの今月のメッセージ

2010年は豊かな実と増加の年 パトリシア・キング 2010年1月9日

2010年は豊かな実と増加の年

パトリシア・キング



私たちは主にあって常に増加、拡大 するように定められていることはずっと理解していましたが、 それは単に足し算的な増加ではなくかけ算的な増加であることに、私は最近まで気がつきませんでした。ある日祈りの中で 、かけ算的な収穫の増加を期待するようにとのチャレンジを 私は主から与えられました。かけ算の中で最も低いレベルは2倍ですが、あなたが今すぐ2倍の収穫を得ることを想像してみてください。どのようなことになると思われますか?

創世記1:28で、主は人類を祝福して 「生めよ、ふえよ。」と命じられました。(訳者注:英語ではBe fruitful and multiply.と訳されており、Multiplyは原語においても、倍数的にものすごく増えるという意味です。)あなたの人生の上には「生めよ、ふえよ」という主の御ことばが置かれているのです。この祝福を信じて自分のものとして 受け取るとすれば、あなたの人生に神が与えておられる目的にあなたは間違いなく従っていることになるのです。

申命記1:11でモーセは、イスラエルの人々が今の千倍になるようにと祈りました。人生に神の祝福が千倍にも増えるということは、すばらしいことであり、このことは私たちがしっかりと心にとめて、自分のものとすべきことだと思います。

主は私に「豊かな収穫を得る秘訣の鍵」を教えてくださいましたので、お分ちしたいと思います。それはとどまる、剪定、種まき、刈り取りの4つです。


とどまるAbiding

イエスは、このように素晴らしい祝福と増加の中で生きるための鍵を私たちに教えていてくださいます。それは即ち、とどまる、剪定、種まき、刈り取りです。私たちが実を結ぶのは「主にとどまる」ことからきます。(ヨハネ15:1−8)私たちがボーンアゲインするとき、キリストの霊が私たちの内に来て下さり、私たちは新しく造られた者とされます。また私たちも主の内に入ります。私たちはボーンアゲインするときに「キリストの内に生きる者」になるのです。主は私たちの内に宿り、私たちは主の内に宿ります。

あなたのディボーションのとき、意識的にイエスが「宿っておられる臨在」abiding presence of Jesusを経験し活性化することができます。あなたは自分で集中することによって力を得ることができるのです。もし内なるキリストの臨在に集中するならば、主の命の力が与えられます。あなたは自分だけで実を結ぶことはできません。枝であるあなたが実を結ぶのは、木にとどまるからです。イエスが木です。樹液のように、あるいは身体の中を循環する血液のように、主のいのちはあなたの中を流れるのです。

私はディボーションのとき、イエスをお招きするために時間をとることを好んでします。目を閉じて 主が私にとって素晴らしい方であることを 感謝します。そして「イエス様、私はあなたの内にいます。あなたは私の命です。私の力です。私の健やかさであり活力です。私の知恵、私のきよさです。私の義であり必要な備えです、、、。」と真理を宣言します。

私の内にあるキリストの命を5分ほど黙想meditatingすると、私は主の臨在の力を感じ始めます。そして 主とのもっと深い交わりの中に入っていきます。私は自分の思いと必要を主にお話しします。 主を待ち望み、主が語られるのを聞きます。主がご自分の思いと願いを語られるのを 聞きます。私は主に尋ね、主が私の心に語っておられると 信じることを日記として書きとめます。 

ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」で、もし私が主にとどまるならば、主の御言葉(主の臨在の中で私が受け取る言葉)は私にとどまり、私が願うもの(主が語られたことに沿うもの)を求めることができ、それは必ずかなえられるとイエスは約束されています。 このようにして実は成るのです。 結実と増加はキリストのうちにとどまることによって生み出されます。

剪定

増加は又、人生の剪定のシーズンを通して起こります。イエスは実を結ぶ枝はすべて、もっと実を結ぶように剪定すると言われました。(ヨハネ15:2参照)多くの場合剪定は、 現在のシーズンに対する主の目的に私たちが一致するように施されます。主は私たちにもっと聖くなることや、時には縮小し、余分なものを取り除くことを求められます。私たちが縮小したり余分なものを取り除いたりするのは恐れからするのではなく、主に対する信仰と従順からするのです。剪定によって 実りが減少するのではなく、それはやがては偉大な増加をもたらし、多くの場合私たちを新しい任務に着くようにと招くものであることを知っているからです。

私たちのミニストリーセンタ−の前に、夫のロンが毎年一回剪定していた木がありました。ある日私がセンタ−に車で行くと、その木がほんの少しの枝を残すだけで、あとはすっかり剪定されてしまっているのを見つけてショックを受けました。夫がこの木を駄目にしてしまったと思って私はびっくりしたのです。その木は本当にあわれな姿になっていました。剪定のし過ぎだ、と私は思いました。ロンは一生懸命に大丈夫だと私に説明しましたが、信じられませんでした。ほとんど切り株だけになってしまっている木が、どうやってまた育つのでしょうか?しかし数ヶ月後にはその木は盛り返しました。葉っぱは豊かに茂り、まったく見事で多くの人たちが賞賛してくれました。

種蒔きと刈り取り

豊かに結実するためのもう一つの鍵は、御国の種蒔きと刈り取りの法則の中に見いだすことができます。創世記8:22で、神は 変ることのない約束を人間にしておられます。神は「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、、、はやむことはない。」と言われました。地はまだ続いていますね。ということは、種を蒔く時があり、それにともなう収穫を刈り取るときがあるということです。

マルコ4章で、イエスは蒔くことと刈り取ることについて教えておられ、種を蒔く土地の質の大切さを強調されています。もし良質な地に種を蒔けば、それは育ち多くの実を結びます。収穫は常に種よりも多く、収穫の中にもっと種があります。もし一粒の豆を蒔いたならば、それが豆の木に育ち沢山の豆をあなたは収穫することになります。蒔いたものより必ず多くのものをあなたは刈り取るのです。刈り取ったその多くの豆を蒔けば、次のシーズンにはもっと沢山の豆を収穫することが出来ます。

少しだけ蒔けば、少しだけ刈り取ります。豊かに蒔けば豊かに刈り取るのです。(第二コリント9:6参照)もし人生の中で かけ算的に実を実らせたいと願うならば、あなたは主に豊かにしていただきたいものを主に捧げねばなりません。自分が収穫したいと願うものに従ってあなたは種を蒔く必要があるのです。もしあなたが友達をもっと増やしたいと願うならば、友情を蒔くのです。癒しの油注ぎがもっと欲しいならば、癒しの祈りと病人へのミニストリーを蒔いてください。もし経済的な豊かさを刈り取りたいならば、御国の良質な土地に経済の種を蒔いてください。

イサクは飢饉の時に種を蒔き、その年に百倍の収穫を得ました。(創世記26:12参照)私たちは、 この世に何が起こっていようと、主の忠実な約束という良い地に種を蒔けば、豊かに刈り取ることができるのです。私たちはこの世のシステムや方法によって生きているのではありません。御国に生きているのです。


倍増のファクター

御言葉が「私たちは増大する」と言っているのならば、私たちは増え広がるのです。主の約束はすべて信仰によって自分に適応することができます。もし何倍にもなりたいのならば、それを信仰によって受け取りなさい。あなたの種と実は何倍にもなるでしょう。

あなたの種や実は悪いものですか、良いものですか、あるいは両方が混じっていますか? もしもあなたの人生に神の御国の価値から外れているものがあるならば、それをすべて取り除くことは大変重要です。例えば、もしゴシップという罪を犯しているのならば、その実の収穫はないことをあなたは祈ることでしょう。今は汚れていない手ときよい心で生きることが極めて重大です。すべての罪を悔い改めてください。聖霊があなたの心の奥深くまで取り扱い罪を告発するように願ってください。良質できよい種を蒔いて、良い、きよい実を成らせてください。

あなたは実を豊かに結ぶようにと召されているのです。これが真理です! 今は縮小する時ではありません。きよい種を蒔き信仰にとどまるならば、あなたはすべての良き事において増大するのです。目標を見つめ続けてください!


イエスの心からあなたへの言葉 — 実を豊かにならせて増大しなさい

主は言われます。「今は種まきのシーズンであると同時に刈り取りのシーズンです。過去に蒔いたものをあなたは収穫するであろうし、将来のためにあなたは種蒔きをするでしょう。わたしの約束は真実であり、あなたがわたしの言葉を少しのくもりもない信仰で信じ、それがあなたの心に蒔かれることを願うならば、あなたは必ずその実を豊かにならせ増え広げることになるのです。あなたはわたしの慈愛が幾倍にも増すのを見るでしょう。それはあなたが想像するよりもはるかに大きなものなのです。

あなたの心と思いをわたしの約束で満たしなさい。昼も夜もわたしの約束を思い巡らし、わたしの約束の言葉を信仰の宣言をもって蒔きなさい。あなたは自分の蒔いたものを豊かに刈り取るでしょう。

あなたはすべての事において実を実らすように召されているのです。あなたがわたしにとどまるならば、あなたは実りある人生を経験するでしょう。あなたは旱魃にあうことはありません。それはあなたの根が生ける水の川に届いているからです。天国に旱魃はありません。天国に実りのない季節などはないのです。わたしの栄光の中では木々は毎月実を実らすのです。あなたがわたしにとどまるならば、あなたも常に実を実らすでしょう。

わたしがあなたの人生を剪定するときも、あなたは実を実らすであろう。わたしは剪定ばさみを持ってあなたの枝に近づき、あなたが成長し続けるのを阻むものは何でも切り取るであろう。するとあなたはわたしの慈愛において急速に多くの実りを経験するであろう。

今すべてのことにおいてわたしを信頼しなさい。この世には艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。 すべてのものを失う者が多くなるでしょう。しかしあなたはわたしを心から信頼しているので、損失と見えることさえ思いがけない祝福と増加に変るでしょう。

あなたがわたしにとどまりわたしに従うならば、あなたはすべてにおいて増え広がるであろう。あなたはこの目的のために造られたのです。実を実らせ大きく増え広がりなさい!」(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-01-09 11:47 | アメリカからのメッセージ

過去を癒し未来をつくる主 ルーク・ホルター 2010年1月4日

過去を癒し未来をつくる主

ルーク・ホルター


私は最近 、 希望、アイデンティティー、ブレイクスルーへと教会を召して導くようにという命令を主から受けたと感じております。キリストの身体なる教会に属する 人々の多くが深い悲しみの中にいます。彼らは自分の過去の苦痛、失敗、間違いを眺めて、それらによって自分の未来が決められると思ってしまっています。 しかし神は、私たちが 神の子としての真のアイデンティティーをもてるように必ず助けてくださるのです。神は私たちによい賜物を与えたい、祝福したい、よい未来を与えたいと願っておられるのです。 

神は私たちが苦渋に満ちた過去から癒され、イエスの中に自分のアイデンティティーを見つけることを願っておられます。私たちがどのような人間となり、どのように生きていくかを決める種々のポイントは、「私たちが 自分の過去をどのように取り扱うか 、イエスをどのように捉えるか」という点にあるのです。私たちが過去を克服するために神の恵みを見いだすことこそ、私たちの心が解放されて 健全な心で2010年にむかって前進して行くための鍵となります。聖霊は、私たちが苦々しい思いや怒り、恥によって捕らえられている原因が何であるかを示してくださいます。

先ず、私たちのアイデンティティーは神との関係、神との親密さの中で確立されねばなりません。 神との関係は、 神の私たちへの思いと愛情を私たちが真に知り味わうときに基盤が築かれます。まずあなたが現在置かれている状況は、あなたが神を失望させた故に受けている罰ではないことを、はっきり知らねばなりません。もしあなたが天のパパとの関係に確信を持っているならば、きっとまた悪いことが起こるに違いないとあきらめるのではなく、 過去に起こった問題を克服し自信をもって目標を目指してあなたは歩き始めるでしょう。私たちが天と一致し、自分が神の御前でどのような者であるかという聖書の真理を語り出すならば、私たちの心は柔軟になり、癒しを受ける備えができるのです。

過去の癒しのヴィジョン


私がこのヴィジョンを見たとき、聖霊が私を伴ってくださいました。 ヴィジョンの中で大勢の人が私の前に並んでいました。聖霊は彼ら一人ひとりの過去の中にご自分がどのように入っていくかを実際に見せてくださいました。

ある時には聖霊は私の前に立っている女の人の目を通って 入って行かれ、彼女がまだ子どもだったときの寝室に私を連れて行ってくれました。女の子は横向きにベッドに横たわり泣いていました。聖霊は彼女の足を両手で包むように抱え、その手の中に息を吹きかけられました。すると、まるでこの少女の内面から光が出てきて肌を通して輝いているかのように、彼女は次第に暖かい光を放ちはじめました。

次の瞬間、私は大人になっているこの女性の前に引き戻されました。彼女の目から涙があふれ「お父さん、あなたを赦します。」と言いました。聖霊は彼女が虐待されていた少女の時までさかのぼり、彼女の心のまさにその所を癒されたのでした。

次に私の前に老人が立っているのが見えました。私は又聖霊と共に時をさかのぼり、この人がずっと若い時にソファに座ってすすり泣いているのを見ました。彼の妻がもう彼を愛してはいず、別の男の所に出て行くことを彼に告げていました。妻が出て行くと、 ソファに一人残された彼はすすり泣いていました。

すると聖霊が彼のそばに素早く行き、両手でこの若者の心を包み息を吹きかけました。前と同じことが起こり、若者が暖かい光に包まれるのを私は見ました。すると又私は引き戻され、私の前にいる老人が涙を流しているのを見ました。老人はまっすぐ前を見て「妻よ、私はおまえを赦すよ。」と言いました。

並んでいた人たちすべてにこれと同じ事が起こったのです。 すべての人は聖霊が彼らの深い痛み、傷、失望にまで 届いて彼らを癒してくださることを、聖霊にお委ねしたのです。神が言われました。「私はあなたの未来を造るために過去にさかのぼっていくのだ。」と。

列に並んでいる人達は全員が手に荷物を持っていました。列の前方には飛行機が見えました。 その飛行機の胴体には「2010年への加速」と書かれていました。私は 「もしあなたが神の約束というこの飛行機に乗りたいのなら、荷物をチェックインしなければなりません。」という天からの声を聞きました。「加速の飛行機」に乗るには荷物は大きすぎ重すぎるので、乗り込む前にイエスに渡さねばならなかったのです。人々は荷物を預けることを選び、イエスがそれを受け取ってくださいました。

私たちは人生の重い荷物を主に渡し主とともに前進せねばなりません。神は私たちが癒され回復し未来へと進んでいくように力を尽くしてくださいます。キリスト・イエスにおいて私たちが成長するとき、沢山のすばらしい事が私たちの未来のために用意されます。そして 自分が傷つけられた事柄に私たちの心がどのように対応するかによって、私たちの未来への旅が大きく左右されるのです。

勇気を出して聖霊に自分の過去にさかのぼっていただくことを選びとり、それによって私たちが癒されて健全な者となり、未来へと解き放たれるようにしようではありませんか!今日、過去の傷や失敗をいつまでも自分の心の牢獄に閉じ込めたままにしないで、私たちの過去、現在、未来をイエスに委ねることを決意しようではありませんか。今日天の父は、私たちが赦すことを選んで欲しいと願っておられるのです。

宣言の祈り:天の父よ、あなたを信頼し、あなたが私の人生の歴史の奥深くに入られ、癒しの業をしてくださることをお願いいたします。イエス様、知らずに、また悪意からであっても、私たちを傷つけた人々を赦します。そして彼らをあなたにお渡しし、お委ねすることを選びます。

「イエス様、私はあなたに(その人の名前を入れる)を委ねます。そしてこの人が私にしたすべてのことを赦します。主よ、どうか彼をお赦しください。」と口に出して宣言することを皆様にお勧めします。聖霊様、 毎日人を赦せるように私たちの心を取り扱ってください。私たちは私たちの未来のために過去の痛みを捨て去ることを選びとります。イエスの名によって祈ります。アーメン(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-01-04 05:12 | アメリカからのメッセージ

「Torah律法に帰れ」   坂  達 也  2009年12月28日

「Torah律法に帰れ」
                           坂  達 也


 私たちは現在ホノルルで、メシアニック・ジューのミニストリーに参加しておりますが、今世界的な出来事として云われていることは、ユダヤ人の間で「Torah律法に帰れ」という呼びかけの声が高まっていて、それが現実に起こり始めているそうです。しかしここで重要なことは、救世主イエスを信じる異邦人クリスチャンもそれに無関係ではないことです。このことはモーセが終わりの時代に起こることとして次のように預言しております。

「あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。 あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。」【申命記30:8-10、新共同訳】

 上記にある「この律法の書に記されている戒めと掟」の律法の原語がTorahです。皆さんは律法と聞くと今更なんで律法が持ち出されねばならないのか?と訝しく思われるかもしれません。事実ロマ書10:4に「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」【新改訳】又ガラテヤ3:13には「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。・・・」とあり、加えて2コリント3:6には「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」【新共同訳】と書いてあり、この文字とは書かれた律法を意味しますから、新約のクリスチャンはキリストさえ信じていれば律法は守らなくてよいと誤解される方がおられてもやむを得ないかもしれません。

イエスとTorah

 しかし、これが誤解であることは、イエスご自身が、マタイ5:17-18で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われていることから明白です。
 イエスという方は律法を生涯を通じて完全に守りきりました。そうすることによって律法の本来の趣旨・目的を完全に成就し実現した唯一の人間であることにご注目ください。律法を守りきったことによってイエスの人格が完成され、守りきったがゆえに彼が唯一「罪のない人間」となり、私たち全ての罪人の身代わりとして十字架上で人間の罪の贖罪ができたのです。

 罪とは何でしょうか。罪とは「…律法に逆らうことなのです。」と1ヨハネ3:4に書かれています。罪のギリシャ語はNOMOSですが、ヘブル語ではkhaw•tawが主な語源です。それは元々「ミスする、逸する」という意味であるそうです。「罪とは的を外すこと」と言う定義をお聞きになったことはありませんか。標的に向って矢を放って、的に外れることが元々の由来であると云はれます。この的、標的が神の律法Torahであるのです。つまり、人間の言動において一つも的を外れないことが「罪のない」人です。Torahは、狭い意味で神の律法の書、一般的にモーセ五書を指しますが、広い意味では神のことばである聖書全体の教え、契約、いましめを含みます。

 神が元々造られた人間は、罪を犯す前のアダムでした。しかしアダムが罪を犯して以来、神はその罪だらけの人間を元々意図した罪のない人間に返すことを願われ、ご自身の一人子をこの世に人間として生まれさせました。これが第二のアダムと云われるキリスト・イエスです。イエスはこの世においては全くの人間でした。その人間になった神の子が一つも罪を犯さない人間として一生を通すことが出来るかどうかが神の全創造にとっての最大の課題でありました。何故なら、イエスが一つでも罪を犯す(律法に反する)ならば、十字架で死んで人間を救うことが出来なくなるからです。イエスはイスラエル人として唯一人このテストに合格しました。イエスは神の律法のすべてを守ることによって罪の全くない人間・第二のアダムになられたのであって、これは大変重要なことです。

 私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じ、その後を追い、この方をモデルとしてキリストに似た者になることが最大の目標です。と言うことは、私たちも厳密な意味ではTorah律法を守らなければならないことになります。さもなければ罪を犯すことになるからです。又、律法を守ろうとしたのはユダヤ人のイエスだけではありませんでした。イエスを信じる弟子たちは皆、ペテロもパウロもユダヤ人として律法を守り、彼らにとって律法を捨てることは思いもよらないことでした。ですから、将来においてもモーセはユダヤ人が律法に返る日が来ると上記のように預言しました。

 一方、異邦人の私たちは聖書ではユダヤ人とは違う取り扱いを受けることは確かです。そのことの一例が使徒行伝15:28章に書かれています。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな(律法を守る)重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」その他、異邦人は肉の割礼を受けなくてよいとも言われています。
 しかし、それはあくまで異邦人が「救われるための条件」としては「全ての律法を守らなくてよい」と言う意味であって、異邦人であっても救われた後の「聖化」のためには、と言うより、「聖化のためにこそ」律法に親しみ、神のみことばを注意深く何度も紐解いて確認する必要があると思います。

 勿論クリスチャンになった以上、基本的には「 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ2:6)、そして「 霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)が原則ですから、律法に縛られることはありません。そして、聖霊に導かれた生活をしている限り、実際には適用されるべき律法のほとんどを守っていることになるはずです。しかし私たちはイエスのように「罪のない」人間に
なることが目標であることを忘れてはならないのです。これで「Torahに返る」ことの大切さがご理解いただけると思います。

聖なる者となれ

 このところモラルの退廃、罪意識の欠落が嘆かれています。特にクリスチャン国アメリカではそれが目に余るほど顕著になって来ました。昔のアメリカでは、学校とか公共施設にモーセの十戒が掲げられていても全く問題ありませんでした。それは丁度社会全体が吸っている空気のようなものでした。その中に「罪意識と規律」がただよい浸透していて、社会がその空気を当然のように吸って育ち、その中で暮らすことに何の違和感もなかったのです。それが今では十戒どころか集まって祈ることすら違法と云われる国になり、モラルの基準が全く不在の世の中になってしまったのです。

 最近リック・ジョイナー師がしきりに嘆いています。それは、アメリカ人の65%が、尋ねられれば「私はボーンアゲイン・クリスチャンです」と答えるにも拘らず、実際にクリスチャンの世界観で生きている人は僅か3%に過ぎないと言うのです。これはまさに国民の中にモラルの原点、即ち罪の原点がはっきり把握されていない証拠です。日本でも同じことが言えないでしょうか。 
 ガラテヤ 5:19―21に「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。・・・」とありますが、今の時代はここに書かれた一つひとつにうなずかざるを得ないような、大変な不品行が横行している時代です。

 私はここで「昔はよかった」式の老人のぐちをこぼすつもりは毛頭ありません。今は主が私たちを用いるための訓練の総仕上げの時代に入らんとしており、訓練にいよいよ激しさが増し加わるでしょう。世界は年毎に厳しい情勢を迎えています。その中で2010年は、準備の出来た人たちの先陣部隊がいよいよ主の用意されたポジションに着く年になるか、あるいは一層その時期に近づく年でありましょう。主はそのような人たちに必要な多くのブレイク・スルーを起こされると期待します。
 
 さてそこで、今こそ、主が言われる「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した【主】であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ記11:45、新共同訳)に真剣に耳を貸す時であると申し上げたいのです。
 そのことをパウロは1テサロニケ4:3―8で「 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、・・・ 神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」と厳しく諭しています。

 新しい年は、主の御心に生きる人、「主の御声に聞き従う人」だけが主に用いられることがより鮮明にされ、いつまでも肉で生きているクリスチャンは脱落して行くことがますます顕著になる年であると私は信じています。それはクリスチャンがふるいにかけられ、全てに明暗がはっきりする時代に既に入っているからです。

 人間として真に「聖なる者」になるために、聖霊に満たされて聖霊に徹底的に従われたイエスですら神から与えられた律法を常に心にかけて口にされ、一つとして罪を犯さないことに細心の注意を払われました。私たちクリスチャンにとってはこの点こそイエスに見習うべきではないでしょうか。この際本当にへりくだって、常に罪を犯さないことへの霊的な決意を持つことが必要です。(イエスがなさったことは、ヨハネ5:19-30に書かれていますので改めてお読み下さることをお勧めします。)

 繰り返しますが、罪とは主の御心という標的に外れることです。その標的である「律法」は元々神が口(御声)で語られた御言葉であることを思い出してください。つまり聖書全体が主の御声と云っても間違いではありません。私たちはその御言葉の全てを霊に導かれて忠実に聞き従わないとすれば、それが罪であることをこの際再認識していただきたいのです。

 但し、ここが最も「肝心かなめ」なことなのですが、律法は守らねばならないから守るとか、聖書は読むべきだと言われるから読むのであってはならないことです。それでは単に肉で守り、肉で読むことになりかねません。それでは実行できないのです。

ダビデとダニエル

 私はここで旧約聖書の中で本当の信仰を持って律法を愛した人たちをご紹介したいと思います。先ずその一例を詩篇119章に見ることができます。この最も長い詩篇を書いた人は不明となっていますが、ダビデやダニエル等が候補者に上がっております。私が最初に気づいたことはこれを書いた人は、既に救いの恵みに与かった人、心から主を慕っている人であると言うことです。
 
詩篇119は「 幸いなことよ。全き道を行く人々、【主】のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」で始まり、最後は「私のくちびるに賛美がわきあふれるようにしてください。あなたが私にみおきてを教えてくださるから。 私の舌はあなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいから。あなたの御手が私の助けとなりますように。私はあなたの戒めを選びました。私はあなたの救いを慕っています。【主】よ。あなたのみおしえは私の喜びです。
私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように。そしてあなたのさばきが私の助けとなりますように。 私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。」(
171-176節)で終わっています。

 この間129-136節では「 あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。 私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。
御名を愛する者たちのためにあなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。 あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし、あなたのおきてを教えてください。私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです。」
と心から主に懇願しております。

 又、159-160節で「ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。【主】よ。あなたの恵みによって、私を生かしてください。みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。」 164-167節では、「あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。私はあなたの救いを待ち望んでいます。【主】よ。私はあなたの仰せを行っています。私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。」と主に切実にうったえています。

 少々引用が長くなりましたが、私はこの詩の作者がダビデであってもダニエルであってもよいと思います。もしダビデとすれば、イエスを預言していることになるでしょうし、ダニエルであるとすれば、彼が熱烈な愛で主に従おうとした「聖なる者」であり、真のキリストの弟子の姿を思い起こさせます。
 ダニエルと言えば、彼の三人の友、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが火の燃える炉の中に投げ込まれても何も焦げず、火のにおいすら着かなかっただけでなく、ネブカネザル王が「火の中を歩いている四人の者が見える。第四の者の姿は神々の子のようだ。」と叫びました。(ダニエル書3章)これこそ終末に主が用いられる聖なる清い人の標本ではないでしょうか。 

 私たちは「とてもそれは無理!」と諦めてはいけません。主は私たちもこうなれると期待しておられるからです。勿論自分で努力してはとても無理です。しかし、主とみことばを熱烈に愛し、完全にへりくだって主と主の聖霊にお委ねすれば、主が私たちをも「律法の完成者」として下さると信じます。皆様、2010年に期待しましょう。(終わり)

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# by walkwithgod | 2009-12-28 06:58 | 坂達也からの今月のメッセージ

2010年ブレークスルーの鍵 ポール•キース•デイビス 12月25日

2010年ブレークスルーの鍵

ポール•キース•デイビス


今私たちは疑いもなく活発な霊の働きの時、そして敵との対決の時に突入しています。2010年は今までとはかなり違う年になると私たちは信じます。それはレムナントとなる資格のある人達-神の御前にへりくだり、砕かれた魂をもち、神から御言葉をいただいておそれおののく人達-によって大きなブレークスルーが起こると信じているからです。

最近私はニュージーランドの集会を導いていたとき、この真理を更に強く示されました。というのは、著名な癒しの伝道者であるスミス・ウイグルワースの人生上の一つのエピソードを私はその時思い起こしたのです。そのエピソードには彼が神と歩んだ秘訣と彼を通して顕された神の力の秘訣が語られています。

1922年にウィグルワースは一連の癒し集会のためにニュージーランドに出かけました。当時彼はニュージーランドのクリスチャンリーダーたちには知られておりませんでしたが、数人の牧師が集会の成功を確信してウェリングトン公会堂を借りて準備をしました。主は御力をもって彼の集会に臨まれ、多くの人たちが救われ癒されたので、みんな大層喜びました。集会が大成功だったので、予定外の集会も行われ、どの集会も満員となりました。神は最も困難と思われる病気や疾患の多くを癒されたのです。

 すべての集会が終ってから、受け入れ牧師の一人がウィグルワースと海辺を散歩していた時、ウィグルワースに神の力を大きく顕すことができる秘訣は何であるのかと尋ねました。ウィグルワースは、「その質問は出来ればしてほしくなかったのですが、お尋ねですからお答えしましょう。私は心砕かれた者です。私の妻は私にとってすべてだったのですが、11年前に亡くなりました。葬儀がすんで、私は妻の墓に行きそこに横たわりました。そこで死にたかったのです。しかし神が 語られ私に立ち上がって歩きなさいと言われました。私は神が私に2倍の御霊(妻と私の分です)をくださるならば、福音を語りますと申し上げました。神は恵み深く私の願いを聞いてくださったのです。しかし私は大海原を一人で航海しているのです。私は孤独な者です。そして多くの場合、私に出来るのはただ泣きに泣くことだけなのです。」

悔いて砕かれた心こそがウィグルワースが神に用いられた秘密だったのです。それは詩編51:17に書かれています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

ニュージーランドの海辺を散歩しながら、ウィグルワースは自分が神に用いられていることは決して羨むべきことではないことを強調しました。そして彼は終末時代の最後の世代が見るものを羨むと言ったのです。彼は主から3回オープンヴィジョンを見たことを説明してくれました。そのうちの2つは1922年の集会において既に成就していました。しかし3つ目のものは自分が死んでから起こることだと言いました。「ああ、それは本当に驚くべきことです!本当にすごいことです!私は神の秘密を告げることはできませんが、私が言うことをあなたは覚えていることでしょう。私たちが経験した今回のリバイバルは、神がこれからされることに較べれば小さなものなのです。」

彼と会話をしたこの牧師は、ウィグルワースは主の再臨の前の世代に起こる聖霊の大傾注のことをさして言っていることがはっきり理解できたと記録しています。彼は「主がこられて教会を取り去られる直前に前代未聞の聖霊の大傾注が起こるという特別なヴィジョンを、この伝道者が恵みによって与えられたことはまさに明らかである。」と書いています。

より高いレベルに

明らかにウィグルワースは、今の時代に対する神のご計画を垣間見させていただいたのです。また、1936年に彼が南アフリカに居たときウィグルワースは、私たちがカリズマのリニューアルとして 知るところとなった聖霊のムーブメントに関して正確な預言をしています。彼やその他多くの先駆的な霊的チャンピオンたちは、私たちの世代が神から享受できる事柄を預言的に見て予告することを許されたのです。

ウィグルワースが大事な妻ポリーを亡くしたことは非常に悲しいことです。しかしながら、それが 一つの世代を変えるために神が用いられる何かを彼の中に造り出したのです。私たちは彼と全く同じような損失は経験しないかもしれませんが、私たちの究極的なゴールは、現在の自分の状態を知り、神のような性格に全く欠けているという遜りと砕かれた心をもって 神の御前に立つことです。神は決してこのような心を さげすまれず、御霊の顕れの力ある油注ぎを与えてくださるでしょう。

ニュージーランドでの集会のあと、私の人生に重大なチャレンジが与えられたことを深く感じました。そのチャレンジとは、神ご自身が導いて、私たちの聖めと、神への献身をより一層高いレベルに引き上げられようとしておられることでした。それを強く感じたのです。神は今まで私たちが自らを神に捧げてきた度合いよりもっと大きな献身を受け取る価値のある方です。勿論教会には神の御国が顕れるのを見るために多くの犠牲を捧げてきた人が大勢いました。そうではあっても、多くの場合、全体的に見て、私たちはもっと高いレベルの献身を目指さねばならないのです。

真のリーダーシップの必要

今、物事をはっきりとさせ、人々に進むべき方向を示し、神の知恵を与え、信頼に足る預言の声が出現することが必要とされています。神が治める御国が出現することがますます強調されて来ている今、それと同じだけ 終末の時代の世代への神の約束を、聖書的に理解し把握することが要求されています。御国を治める責任をとるべく訓練され整えられた人たちに分与される特別な霊的能力があります。エペソ1:17−19に約束されている知恵と啓示の霊が今ほど必要とされている時代はかつてありませんでした。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目ははっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

バビロンにいたダニエルと三人の仲間たちのように、私たちはあらゆる書き物を理解するための知恵と知識と知性を天から分与されることを非常に必要としています。私たちは夢やヴィジョンを洞察し解釈する力をどうしても必要としているのです。(ダニエル1:17)

すべての真の霊的リーダーシップは、主との友情関係から生まれるというのが私の見解です。主は昔弟子たちに、もはや彼らをしもべとは呼ばないで友と呼ぶと言われました。そのような親密な関係intimacyの中から神の奥義、秘密、はかりごとは分与され、父なる神のこの世代に対する思いや計画が伝えられるのです。ですから、私たちが最も求めねばならないものは、必ずしも霊的職務を受けることではなく、主イエスとの友情関係なのです。私たちがどのような者であり何に召されているかということは、私たちが御国の権威を受けエノクのように神と共に歩くときに明瞭に認識されるようになるのです。 

超自然の能力

私はダニエルの生涯についてしばしば研究し執筆してきました。彼は天において高く評価され大いに愛されている人です。 何年も前に主が私に、 ダニエルは、彼がヴィジョンで見た世代のための模範となるひな型であると言われました。多くの点においてダニエルと三人の仲間たちは、 終末の時代の特別な仕事のために主がご自分の民を整えられる方法を預言的に示しています。肉のイスラエルがバビロニアに捕囚されたことは、私たちの現在の状態と私たちがやがて解放されるという主の約束を予表しています。

ダニエル書1:17は、忠実な若者たちに分与された天からの特別な能力についてです。
「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」

主はインスピレーションによって、彼らに色々な文書を理解するための知能と啓示による知識とを与えられました。 霊の理解と天の知恵を悟り言葉に表す特別の才能を、主は彼らのうちに起こさせたのです。ダニエルには、あらゆる種類のヴィジョンと夢を超自然的に解く賜物が特別に与えられていました。

このパターンは、 従順で忠実な献身的心を持つ者を主が見つけ出されることにおいても、今の時代に適用されるものです。聖書や創造、科学、芸術、その他多くの事柄に関する啓示的洞察と超自然的な知識が巨大な倉庫に蓄えられていて、ダニエルと三人の仲間によって築かれたモデルに倣う聖人たちに与えられ委ねられようとされているのです。

私は数年前に預言的経験の中で、 ダニエル1:17と エペソ1:17は霊的に連なっていると主から告げられました。この二つの箇所は同じ約束が違う時代の中で語られているのです。一つは旧約の艱難時に神がどのように取り扱われたかだけではなく、将来人間社会に神が超自然的に介入されることをも指し示しています。もう一つは新しい契約の中ですべての世代の聖徒たちが受け継ぐべきものを表しています。

私たちはそれぞれに個人的な限界を持っているにも拘わらず、主はいのちを与える御霊であられます。主は私たちの死ぬべき身体に主の御霊によっていのちを与え、私たちに主にあるものとして啓示の御霊を与え、奥義、秘密、啓示的知識を与えてくださると約束してくださいました。

過去からのしるし

20世紀初頭にマリア・ウッドワース・エッターの集会に出た者の多くは、霊に取り上げられ、主のヴィジョンや啓示を経験しました。このときの出来事は正確に記録され証明されています。この時主との邂逅の中である者は宣教師として国外に出て行くようにとの召しを受け、ヴィジョンから覚めたときには彼が遣わされる国の言葉をすらすらと話せるようになっていました。

私たちに御国を顕し、主にしかできないすばらしい御業を行われることは父の喜びです。主にとってはアブラハムとサラの身体を若返らせて力を与えることは少しも難しいことではありませんでした。サラの死後、100歳をずっと超えた アブラハムは、全能の神エル・シャダイとの出会いによって与えられた力に満たされ続けていたので、妻ケトラによって更に多くの息子たちを得たのです。

それと同じように、使徒パウロに与えられたような超自然的な賜物をもって私たちを調え、主のうちに隠された想像もできない素晴らしい宝を得られるようにしてくださるのは主にとって容易い事です。また聖書がはっきりと約束しているように、 「御霊は深くて測りしれないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自分に光を宿す」のです。(ダニエル2:22)

神の奥義と秘密

使徒時代の初期に、今までに無かったことが起こりました。弟子たちは彼らの経験していることに聖書的裏付けを与えるために預言者たちが書いた預言を調べました。ペンテコステの日にこのような預言の成就が起こるとは誰も予測しておりませんでした。ペンテコステを指し示す聖書箇所は沢山ありましたが、今彼らの体験そのものが初期の教会に与えられた御国の奥義への啓示的洞察を解き放ちました。

神のお心の中に大切な考え、計画が秘められており、それらはある決められたときまで封印され保存されていました。しかしその決められた日が今訪れているのです。そして、主は霊の分与を解き放たれつつあり、それらのご計画をダイナミックに実現させようとしておられるのです。聖書の真理と御国の奥義が今まさに私たちの前にあり、16世紀初め、ドイツのヴィッテンブルグでマルチン•ルターが95か条のご誓文を打ち付けた時ように、今日大きな影響を与えようとしているのです。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-12-25 07:07 | アメリカからのメッセージ

心に明けの明星が上るとき フランシス・フランジペン 12月18日2009年

心に明けの明星が上るとき

フランシス・フランジペン



国のために戦うことは尊いことであり、悪に立ち向かうことは雄々しいことです。しかし、その戦いの遅々とした成果に絶望しないためには、私たちはもっと大きな視野で物を見る必要があります。すべての者が膝をかがめ、すべての口がイエス・キリストは主であると告白する日が来るのです。愛する皆さん、キリストの再臨の前であっても、父なる神は勝利の教会のために多くの霊的ブレイクスルーを備えていてくださいます。父はご自分の一人子イエスに、キリストのご性格と力を帯びた光り輝く教会を与えられるのです。


明けの明星

他のすべての日がそうであるように、主の日は突然始まるのではありません。5時59分に真っ暗だったのが突然次の瞬間輝く朝になるのではないのです。近づく光の中で 夜空の暗闇が次第に薄れていきます。夜から朝に移り変わる途上で、もう一つの事が起こります。暁の光が差す前に、明けの明星が東の水平線状に輝き始めます。それは来るべき新たな日を告げる忠実な先ぶれです。

この明けの明星というユニークな星は、実は金星という惑星です。朝、東の水平線上に 太陽を「見る」のに丁度よい時間に丁度よい場所に現れ、まだ暗闇にいる者たちにもうすぐ夜が明けることを告げ知らせます。明けの明星はやがて来ようとしている光を指し示す、小さいけれども明るく輝く予告なのです。

明けの明星は、神が終末の真の教会に対して望むことを表す非常に適切な聖書的イメージです。終末に関するペテロの言葉をよく聞いてください。

「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心のなかに上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」第二ペテロ1:19

ペテロの言葉は、終末の出来事の 劇的な場面の一つである神からのヴィジョンに関するものであり、意味深いものです。主が帰ってこられる前に神の民の心の中に「明けの明星」が現れ上るとペテロは言っています。明けの明星の重要性は、まだ夜のうちに先ぶれとして現れることにあることを忘れないでください。昼間は見えません。ここでペテロは、 千年王国という主の「一日」が明ける前に、キリストの再臨を期待する私たちの心の中に明けの明星が上ると言っているのです!

皆さん、この終末の時代に勝利を得る者たちに栄光がもたらされるのです。私が「栄光」と言うのは、私たちの内なるキリストの生ける臨在が、私たちを通してより豊かに顕れ出ることを意味しています。パウロが「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」と言っている通りです。(第二コリント4:11)

私はイエスのいのちそのものが実際に現実的に「私たちの死ぬべき肉体に明らかに顕わされる」と言っているのです。 中には自分自身の人生上の問題で精一杯の者もおります。しかし 私たちは、神が私たちを導き用いたいと望んでおられる神のヴィジョン から決して目を 離してはなりません。曲解されること承知の上で率直に言いますが、終末の時代には神は敢えて神の民を通してご自分を顕そうとしておられるのです。

ですから私たちが明けの明星について話すのは、なにかニューエイジの教義を話しているのではなく、実際に 神の臨在の霊的「ワット数」が増大することを言っているのです。そのような輝きは我々自身からから発せられるものではないことを私たちは知っています。それは私たちが主イエスと一つになることによってのみ発せられます。そしてそれは私たちがキリストの言葉に従いそれと完全に合致するように成長するときに、聖霊によって私たちの中で形成されていくのです。

しかし、ここで気を付けるべきことがあります。何度も何度もイエスは弟子たちに、この世を愛し(飲まれ)てはいけないこと、また、この世での色々な戦いに倦み疲れてはいけないことを警告されました。イエスが「彼に明けの明星を与えよう」と言われたのは、世に打ち勝つ勝利者に対してであることを忘れないようにしましょう。(黙示録2:28)それから主はご自身が「明けの明星」であると言われました。(黙示録22:16)

携挙の前、 イエス・キリストの再臨の前に、キリストに従う者たちが明けの明星のように適切な時に適切な位置に置かれる日が来ます。そして彼らがキリストの再臨の先ぶれとなるのです。彼らはすべての国民、部族、民族、国語のうちから現れて来るにも拘わらず、 一つになる、一つであるのです。それはキリストが彼らに主の栄光の輝きをお与えになるからです。(ヨハネ17:22)

私は我々が罪を犯さなくなると言っているのではありません。誘惑は常にこの世にあるでしょう。しかし、もしキリストに忠実であるならば、もしこの時代の様々な問題や心配事に飲み込まれてしまわないならば、主イエスの臨在が明けの明星のように私たちの上にとどまり、その輝きが人々の目に明らかになる時がやってくるのです。その時に、預言者イザヤの言葉が成就します。イザヤはこう言っています。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」イザヤ60:1−3
(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-12-18 07:30 | アメリカからのメッセージ

誘惑からの脱出の道 ビル・ケラー 2009年12月12日

誘惑からの脱出の道

ビル・ケラー


第一コリント10:1「あなたがたの会った試煉はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試煉に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試煉とともに、脱出の道も備えてくださいます。」


先日私は、人生の中で出会う戦いに勝利するためには、神から戦略を頂く必要があることを話しましたが、今日は私たちが毎日直面する誘惑について話したいと思います。
日々誘惑に負けていると、ついにはその問題の中に私たちは陥り、それと戦わねばならぬ羽目になってしまうのです。ですから、 誘惑が最初に来たとき、どのようにそれに打ち勝つかを把握することが重要な鍵であり、それによって 人生の貴重な時間の多くを自分の問題と戦うために費やしてしまう無駄を回避することができます。もし自分の時間を無駄に使うならば、神が私たちに望んでいる働きをする主のしもべになる道が阻まれます。

このポイントをよく聞いてください。サタンがあなたの魂を奪うことに失敗したとき次に狙うことは、あなたを自分自身の問題との戦いでいつも精一杯にさせておくことです。あなたが個人的な戦いに時間を費やせば費やすほど、神に仕える時間は少なくなります。これこそが誘惑に打ち勝つことがいかに重要であるかの理由なのです。

「邪悪」は私たちの心heartから出てくる事を聖書ははっきり教えています。邪悪さの 進み方は、まず私たちの心から出発し、次に思いmindへと移っていき、そして遂には行動に具現されます。「きよい心を造ること」がどれほど大切かという理由がここにあります。そのためには毎日主と 親密な深い交わりを持つことが大切です。きよい心を造れば、 心から出るものが純粋できよいものとなり、私たちの実際の言動もをそれによって決定されます。誘惑は私たちの心の中にある罪と邪悪さに端を発し、次に私たちの思いに入っていきます。

誘惑を成長させる肥沃な土地は私たちの思いの中にあります。私は「思いを一新する」ことの重要さ、自分の思いの中に毎日何を入れるかがいかに大切であるかを何度もお話ししてきました。誘惑が増大するのは私たちの思いの中であり、それが究極的には実際の行動として現れてくるのです。


今日の聖書箇所は、神からの特別な約束の一つです。神は常に私たちのために脱出の道を備えて下さると言っています。その脱出の道は、誘惑がまだ私たちの思いの中にある時に起こります。それが誘惑に打ち勝つべきタイミングなのです。もしそれが私たちの思いの中に巣食うのを許してしまうならば、その時さいはすでに投げられ、遂には反抗的な行動という結果を生むに至るのです。この記事を読んでおられる方のなかで、自分が誘惑されたとき神が脱出の道を備えて下さらなかったと言える人は一人もいないはずです。

問題は、あなたがそれを無視するところにあります。何度も主は私たちに逃れるチャンスを与えてくださるのですが、私たちは自分の前に置かれたストップサインや赤信号、柵を突きぬけて進んで行き、その結果、どうしてこんなにめちゃくちゃな事態になってしまったのだろうといぶかしく思うのです。誘惑に打ち勝つには、誘惑がまだあなたの思いの中にあるときに神が与えてくださる脱出の道を用いねばならないのです。誘惑から脱出する道を拒絶した途端、あなたが実際に反抗的行動をとってしまうのはもう時間の問題にすぎなくなるのです。


私はあなた方を心から愛しています。多くの人が毎日人生上の戦いを戦っておられることを知っています。大変困難な状況に置かれておられます 。私の目標は、あなた方がそのような困難な状況に打ち勝つのを助けるだけではなく、 これからはそのような状況に陥るのを避けられるようにすることです。
主イエスはあなたを大変愛しておられます。主は人としてこの地を歩まれたので、あなたの弱さを理解してくださり、人生の誘惑をあなたが避けられるように助けると約束してくださいました。日々主と親密な関係を持つことは、あなたを強めます。主への愛と主のために生きたいという願いを強く持つことによって、主が誘惑に打ち勝つために備えてくださる脱出の道をあなたは選び取ってゆくことが出来るのです。

毎日襲ってくる誘惑をあなたが認識し、勝利の生活をするために神が与えてくださっている道具を用いるようにと、私はあなたのために祈ります。絶えず自分の個人的な戦いだけに明け暮れるのではなく、私たちが主のために生き、主に仕えて生きるとき、どんなに素晴らしい平安、喜び、豊かさのあふれる人生になるかを考えてみてください。あなたが今度誘惑に直面するとき、あなたのために備えられた脱出の道を選び取り、キリストがカリバリ山で得た勝利の内に生きることを決意されますようにお祈りいたします。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-12-12 09:29 | アメリカからのメッセージ

神からの約束は護られ保管されている ダグ・アディソン 12月4日

神からの約束は護られ保管されている

ダグ・アディソン


2009年9月、10月から開始され次の年にずっと引きつがれて行く「 新しいシーズン」が多くの人々にもたらされるという 啓示を、 過去数ヶ月間に私は数多く受け取りました。「今は新しい始まりであり、新しいチャンスの時である。」という神の言葉を何度も繰り返し私は聞いたのです。

子を孕むのに似ている

私たちの人生の中に神が何か新しいことを始められるのは、胎児が生まれるまでに9ヶ月お腹の中にいるのに似ています。神からの新しいものが私たちの人生の中で発達し成長するには時間を要するのです。自分の人生を振り返ってみても、 私の人生に変化がやってくることを神がはっきり語られるのを聞いたことが何度もありますが、その変化が実際に起こるのは、多くの場合およそ9ヶ月後でした。

私はノースキャロライナのモラビアンフォールズに住んでいたのですが、2008年の4月にカリフォルニア州の海岸沿いにあるいくつかの教会を回って話をしていました。その時神が、私の家族はこの地方に移り住むこと、そこで神が始められる新しい働きに参加することを明瞭に私に語られました。自分からは何もしなかったのですが、一連の出来事の結果として私たちは9ヶ月後の2009年1月にカリフォルニアのサンタマリアに引っ越しました。サンタマリアに移ってから特に何も起こらないように見えました。しかし9ヶ月後の9月に、私は天使から2度の訪問を受け 、 それによって私たちが引っ越した理由である神のご計画と次にするべきことをもっと明確に知らされたのでした。9ヶ月の妊娠期間の間、赤ちゃんが隠されているように、 神は往々にしてある一つのシーズンの間、私たちを隠されることがあるのです。

神の新しい動きの前にサタンが来る

多くの人が見落としてしまうのですが、聖書に書かれている原則の一つに神が私たちの人生の中で何か新しいことをされようとする時、サタンがその寸前にやって来て、私たちを落胆させ、神からのブレイクスルーが起こる前にあきらめさせようとするのです。ダビデはイスラエルの王になるようにサムエルによって油注がれましたが、そのあとサウロに追われ殺されそうになりました。イエスは地上でのミニストリーを始めるにあたって聖霊を受けられましたが、その直後荒野に導かれサタンに誘惑されました。サウロ(使徒パウロ)はダマスカス途上で劇的な回心を遂げたあと、命を狙われるまでに迫害されました。このテーマは聖書全体を通してあらわされているのであって、これらはその中のほんの数例にすぎません。

神はしばしば私たちを何か新しい事に召されます。するとたちまち地獄の口が開いたかと思われるほどに、神が語られたこととは逆に見えることが起こり始めます。神があなたに語られたそもそもの理由は、私たちが嵐の中を通り抜けられるように私たちを強め、どのような状況の中にあっても主が共におられることを私たちが知るためなのです。

「今年の9月以降、 多くの人々に過激的に斬新なことが起こる」と神が語られました。私は9月中ずっと神からの素晴らしい啓示と訪れを受けました。ところが10月に入ると、すべてのことが全く逆の様相を呈してきました。私はこのようなパターンをずっと経験してきたので、ひどく驚くことはありませんでした。このような時に 対処する一番よい方法は、神があなたに最後に語られたことに忠実に従って歩み続け、サタンからの妨害には目を留めない事です。

新しい計画、作戦、ミニストリー、賜物、油注ぎ、奇跡、ビジネス、関係等、これらが今あなたに来ようとしています。大切なことは決してあきらめないことです。サタンや暗闇の勢力は、あなたにそれを手に入れてほしくないのです。あなたが求めているものをあなたは受けられるのです。もしあなたが「新しいものをください」と神に願い求め、嵐に耐え抜くならば、それは必ずあなたの人生に起こってきます。もしあなたが疑い始めて、神があなたに約束されたことをあきらめるならば、神が計画された高いレベル(次元)ではことが起こらなかったり、その実現が遅れたりすることになる可能性が高いでしょう。

イエスは私たちへの神の約束を護られる

私は11月17日に一つの夢を見ました。それは、神が私や他の多くの人々にされた約束を盗もうとして敵がやって来るという夢でした。私は海辺にむかって逃げましたが、そこに着いてみると、魚や海藻は生きているのですが水は干上がっていてありませんでした。どうしようと戸惑いながら私がそこに立っていると、紫と紅の衣をまとったイエスが私のほうに歩いて来られました。私は主に敵が神の約束を盗もうとしていることを 話しました。

主は何も言われずに、右手で私の内の深いところからあるものを取り出し、バスケットボールくらいの大きさの古びた丸い鉄の鳥かごのような物の中にそれを入れました。主は籠に鍵を掛け、鍵はご自分が持ち、籠を数メートル先の 砂の上に投げました。 せめてもう少しうまく隠せばいいのに、と私は心の中で思っていました。見ると、そこら中に ボール型の同じような籠が沢山転がっていました。それら一つ一つが人々に与えられている約束であり、主イエスがそれを護るために一番適切な場所に保管されているのだということを私は理解しました。


この夢は神が私たちに約束してくださったものは必ず実現するというコンファメーションです。海が干上がっているように見えたにも拘わらずそこには生命があったという事は、今はまだ来ていないけれど確実に近づいてきている神のムーブメントを象徴しているものであり、生命のない荒野ではなかったのです。

神から私たちに与えられている約束は安全な所に保管されていて、聖霊の次の波が来た時に実現化されるのです。それは丁度チェスのようです。神は次のシーズンへの準備としてご自分の戦術に従って私たちをそれぞれの適所に配置されるのです。

イザヤ41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-12-04 16:14 | アメリカからのメッセージ

何故先祖の罪(を赦す)ための祈りを祈るのか ポール・コックス 11月21日

何故先祖の罪(を赦す、悔い改める)ための祈りを祈るのか

ポール・コックス



私は 度々「先祖の罪を処理するための書いた祈りを祈る(コックス師のミニストリーの一つ)ことがどうしてそんなに重要なのだろうか?」と自分に問うことがあることを告白せねばなりません。つまるところ私たちが主イエス・キリストを全面的に信頼する時点で、私たちは救われるのです。それ以外に何かをすることが必要なのでしょうか。このように問うのは私だけではありません。長年にわたり多くの人が条文化された(書かれた)祈りをする必要はないと言っていますし、それどころかそのような祈りは聖書的ではないと言う人さえあります。 

又、ある人たちは先祖の犯した罪を悔い改めることに関して疑問を投げかけています。多くの人は「すべての業はキリストの十字架において完成されているのだから、他にすべきことは何もない。すべては解決している。私たちに必要なものはすべてある。先祖に関する祈りはもはや必要ではない。」と言うのです。

さて、ここにこの問題の難しさがあります。20年間にわたり、私は多くの人々にミニストリーをしてきました。 先祖のための祈りと文章にした祈りをするように導き、この祈りを通して多くのクリスチャンが主の力で大きく変えられるのを私は見てきました。この変化を通して人々はイエス・キリストとの親密さを増し、更に解放されました。ですから、 十字架において業は完成されたという事実と、 過去20年間の私のミニストリーにおいて見て来た事との間には明らかに矛盾があり、それをどのように一致させればいいのでしょうか。 究極的な権威は私たちの経験にはなく、それは常に聖書にあります。ですから私たちの経験と聖書が一致しないときは、それが何に関することであろうと聖書が勝利するのです。私はそれを信じ実行しています。ですから、聖書が何と言っているのか今見てみましょう。

行ないではなく恵みによって救われる

ここに基本があります。私たちは恵みによって救われるのです。

エペソ2:8—10「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

クリスチャン生活の中の行ないが 真の救いを証明する

ヤコブ2:17−20「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。』行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じていて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」

私たちは恵みによって救われ、 救われたことを証明するのが私たちの行ないであることがはっきりしましたが、このプロセスで私たちが果たすべき役割は何なのでしょうか? ある人たちは私たちの役割は何もないと言い張ります。確かに救いはキリストの業によってのみ存在します。私たちが信仰を持つに至ることさえ、聖霊が引き寄せてくださらなければ不可能です。ロ−マ人への手紙は私たちの聖化sanctificationはプロセスである(その工程にある)ことを明らかに示唆しています。それは私たちの内におられるキリストの働きによって達成され、聖霊の力によって私たちは変えられていきます。ですから次の質問を再びする必要があります。「私たちが栄光から栄光へと変えられていくために、私たちが果たすべき役割はあるのか?」と。(第二コリント3:18参照) 

答えは「はい、あります。」であると私は思います。栄光から栄光へと変えられるための責任を私たちは持っているのです。ピリピ2:12—13を見て下さい。

「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」

私たちが考えるべき重要な部分は「自分の救いを達成する」というところです。これはどういう意味なのでしょうか? これは救われるための行ないを意味しているのではないことは確かです。救いは行ないによるのではなく信仰によることは聖書に明らかです。ですから私たちは「自分の救いを達成する」とは何を意味するのかを理解する必要がでてきます。

ピリピ2:12「自分の救いを達成する」とはどういう意味か

この問題は私のミニストリーの基礎となるものであり、祈りに関する本を出版する理由でもあります。もしこのようなミニストリーが聖書に基づかないものならば、それを追い求めることは誤りです。このことを心に留めながら「ベイカー新約聖書注解書」から少し長く引用したいと思います。これは詳細な記述なので読者にかなり集中して読んでいただかねばならないことは承知しております。しかし、 クリスチャンが成熟のために課せられている「自分の救いを達成する」という役割の重要さが明らかにされないならば、この本の意義が全くなくなるのです! そういうわけですので、ピリピ2:12の神学的議論の部分をここに引用いたします。

「しかし、救いの聖書的定義は義認justificationだけに限りません。救われるために、クリスチャン生活の全てが神の購いの業であるのです。ですから、「私たちはすでに救われている」ことは重要な意味を持つことに間違いありませんが(エペソ2:5、8;テトス3:5)、しかし別の意味では、まだ救われていないのです(ローマ5:9—10;1コリント3:15;5:5;2テモテ4:18)。

カルビンは「救いは私たちの召しの全行程であり、神がその完全性perfectionを達成されるために用いられるすべてのことを含み、それは神の選びによって私たちに定められていることである。」と的確に述べています。救いが全うされるためにはそれが私たちの人生のなかで義として表されねばならないので、私たちの行ないは救いの行程の中に入っているのです。私たちはエペソ2章の9節(行ないではない)と10節(よい行ないをする)が並列されていることを決して忘れてはなりません。ピリピ2章の中で、信者の個人的救いの達成はキリスト教共同体の中の一員としての責任としての形を取ると言っています。即ち他の人のためになることを求める義務です。

この聖書箇所が「救い」の本質を教えていると認める人には、12節を13節によって(あるいは13節を12節によって)意義づけようとする傾向があります。つまり、「神の恵み」を強調することによって「人間の行い」の部分を小さくしてしまう(あるいはその反対)のです。例えば、私たちの意志に反することを神は無理にさせることはないという真理を大変強調し、その結果「神の恵み」というものをほんの些細な霊的助けにしか過ぎないものとしてしまい「神はいつも私たちを助けてくださるのであり、私たち自身が自分のしたいことをしなければならないのだ。」という考えでです。それと反対に、(行いを強調すると)律法主義(だと非難される)恐れが、私たちを多かれ少なかれ聖化sanctificationというものを受動的(消極的に)に理解させてしまい、「私たちの責任は単に神の恵みのうちに安息することであり、神に私たちのうちで働いていただければそれでよいのだ。」と考えます。聖書には、この二つの強調点が並列的に書かれていることから見て、このような結論を出すいかなる試みに対しても大きく反論を叫んでいます。聖書がここで言っていることは、単に人間側と神側の両面があることを強調しているばかりでなく、この一つの箇所で、私たちは両方の要素の重要性が多分もっとも強い聖書的表現で語られていることを見ることができるのです。


まず、パウロの人間的行ないに関する意見を見てください。新約聖書のいくつかの箇所で、救いにおける人間自身の責任がかなり強調されていることはたしかですが(特に2ペテロ1:10「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」)、ピリピ2:12ほどあからさまに言っている箇所はありません。彼がここで「katergazomai」という動詞を選んでいることがまさに注目に値します。クリソストムはこの言葉は「多大な努力をもって、多大な注意をはらって」という意味を持つと説明しています。この動詞自体にそのような意味合いを見つけることはできないのですが、 古代ギリシャの有数な話し手であるクリソストムが、この動詞を「強調されている表現」と受け取っているのを全く無視するべきではないでしょう。従ってバウアー(Bauer)の「到達する、達成する」という訳は、この動詞の意味合いをよく表していると思います。彼はピリピ2:12を「もたらす、生み出す、造り出す」と訳していますがそれは正しいといえます。私たちが聖化されるためには、自分で意識して行動に移らねばならないことをパウロがこの箇所で力説していることは疑う余地がありません。この考えは私たちを立ち止まらせるべきです。私たちの救いは、最初から最後まで神の働きだと私たちは告白するのですが、この箇所では、私たち自身がそれを実行してもたらさねばならないものとして書かれているのです。


聖化のためには全て神のみ業により頼むことをこの箇所ほどはっきり言っているところはありません。まず初めに、すべて神のみ業が発端となって私たちの業(行い)が起こると見ていることです。私たちの業は神の恵みあってこそ可能であるのです。次に、文の構成が非常に強調的であることです。パウロは単に「神が働かれる」といっているのではなく「働いておられるのは神であり、働きはすべて神である」と言っています。
第三に、神の影響力は私たちの業に及ぶだけではなく、私たちの意志にまで及ぶというユニークな言葉が使われています。この考え方は他の箇所でも暗に示されています。(ヨハネ1:13、ローマ9:16)カルビンは次のようにコメントしました。「すべての行動は二つの主な部分で成り立っている。それは意志と実施の力であり、パウロはこの両者を神に帰している。そうであれば私たちが誇るべき何かが残っているでしょうか?」 
第四に、パウロは 私たちが神の絶対的主権により頼んでいることを「主はみこころのままに全てを行われる='His good pleasure'」という言葉を遣うことによって強調しています。これは「神の恵み」を云い表すための神学的用語であると言えます。

ポイントは、聖化には意識的な努力とそれへの誠実な集中が要求されますが、私たちの行いは、神の恵みを受けとるためという見地から見て、(自分がするという)律法的なスピリットではなく、むしろへりくだりと感謝のスピリットで行われるのであり、そこにはキリストなしでは私たちは何もできない(ヨハネ15:5)、キリストだけが栄光を受ける方であることを認めるのです。

私たちの内に働かれる神のみ業は、私たちが働くことによって止められるのではなく、また私たちの働きも神が働かれるときに止められるのではありません。神の分担と私たちの分担があって両者が協力してよい結果を生み出すというものでもないのです。神も働かれ、私たちも働くのです。しかしその関係は、神が働かれるゆえに私たちは働くのです。私たちが救いを得るために働くのは、神が私たちの内に働いておられる結果です。ここに私たちがすべきすべての業の説明があるばかりではなく、私たちが喜んで働く誘因と動機があります。…私たちが固執して(意欲的に)働き続けば続けるほど、私たちに力と恵みを与えて下さるのは神であることをもっとはっきりと認識するようになるのです。」( Moises Silva, Philippians, Baker Exegetical Commentary on the New Testament, 2nd ed. (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2005).)

これまでの引用をまとめてみましょう。第一に、 救いのために私たちのうちに働いてくださるのはキリストであり、救われたあと私たちを造りかえてくださるのもキリストです。第二に、救いを完成させるためには私たちがするべきことがあります。第三に私たちの役割はあがなわれたキリストの身体なる教会の中の一員としてのものです。


救いのプロセスの聖書的な姿と筋道

ピリピ書で論理的に述べられていることが、ヨシュア記においては物語として描かれています。「イスラエルの地はイスラエルの人々に与えられた」と主ははっきりと言われました。

「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ヨシュア1:2−3

3節にはこのギフトを受けるための重要な条件が書かれています。彼らにすでに 与えられた土地は彼らによって取得されねばならないのです。ヨシュア1:3に「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」とあります。イスラエルの人々はその地を所有するために果たすべき役割があったのです。彼らは単にヨルダン川を渡り、天幕をはり、主が来られるのを待つだけではありませんでした。彼らは自分たちの所有物を獲得せねばならなかったのです。どのようにしてでしょうか? 彼らは自分たちに課せられた責任を「歩く」必要がありました。「あなたがたの足の裏で踏む所はことごとく、あなたがたに与えてある。」と主は言われたのです。

言葉を変えるならば、彼らはその地にあった敵の要塞を攻撃し、それを打ち壊し、その地を勝ち取らねばなりませんでした。これはクリスチャン生活の戦いを表しています。私たちはキリストの血潮により約束の地、即ち神の御国に入りました。「ヨルダン」という言葉は 「裁きをする」という意味があります。ヨルダン川の中を歩いていくとき、裁きは私たちに触れることはありません。主の力によって川がせき止められたからです。私たちは約束の地に入り神の力によって私たちの人生の中にある敵の要塞を打ち壊していきます。神はご自分の役割を果たされ、私たちは私たちの役割を果たします。
私たちの役割とは、霊的な鍛錬をすることであると同時に、自分の意志で出来る限り 古い性質から解放されることであるのです。 ここに先祖代々の罪の赦しのために祈ることが関係してきます。

神はすべての人が解放されるのを望まれる

私自身の経験から言うのですが、祖先の罪からの解放とか文章化した祈りを祈ることを信じない人たちは、どのような理由や証拠を示しても満足しない(聞く耳がない)ことを私は知っています。牧師として 解放のミニストリーを数ヶ月始めた時に、数人の教会の執事が私のところに来て、彼らが心配していることを話してくれました。その話し合いは時として激しいものとなりました! ついに一人の執事が言いました。「じゃ、もしそれが真実ならば、どこにそのミニストリーの実があるのですか?」 私は彼の要求を満たすことにしました。彼に実を見せるために、それまでに先祖代々の罪の赦しの祈りによって非常に助けられ解放された幾人かに、主がどのように彼らの人生に触れてくださったかを証してもらう礼拝を日曜の夜に計画しました。私がこれらの人々に解放のミニストリーをするようになったのは、私が彼らを牧会するようになってから9年ほども経ってからなので、彼らの証言は特に意味深いものでした。彼らがまさに解放のミニストリーによって変えられたことは明らかでした。

礼拝の後、例の執事が私のところに来て「この人たちが何と言おうと私には関係ない、私はこのミニストリーを信じません。」と言いました。次の執事の集りのときも議論は続きました。ついに私はいらいらして言いました。「私が人々を助けるのが嫌だというのなら、あなた方が彼らを助けてください!」それに対する彼らの応答は私を驚かせました。彼らはみんな手を上げて「私たちには出来ません」と言ったのです。ここにこの問題の核心があります。このミニストリーを信じない人たちは、それを信じないだけではなく、苦悩の中で苦しみ続けるクリスチャンを助ける他の解決法や答えを持っていないのです。彼らの応答はその時点までの彼ら自身の経験から出たものであると同時に、 人のために祈ることに関する彼らの聖書的神学的理解から出たものでした。

このような議論は、聖書を知っている人にとっては驚きではないはずです。イエスご自身もいやしや解放のミニストリーに反対する宗教的な人々に遭遇しました。聖書の中でもっとも驚くべき箇所の一つはラザロの復活です。

「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。『われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。』 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何もわかっていない。 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」(ヨハネ11:43-53)

驚くべきこととは何でしょうか。イエスが一人の人を死からよみがえらせました。ラザロや彼を愛する人々の喜びを考えてみてください。しかし宗教的な人々はそれを見ようとしませんでした。彼らは自分たちの関心事と信念 だけしか眼中になかったのです。真理が問題ではなかったのです! ラザロをよみがえらせたことに対する彼らの唯一の反応はイエスの死を企むことでした。

私と教会の執事との会合は、最終的に全会衆の会合に行き着きました。議論は果てしなく続きそうでした。ついに私はその教会を去らねばならないと決意しました。会合の直後の会話を思い出すのですが、私は一人の友人にこう言いました。「私はミニストリーでしたいと思ったのはただ人々を助けたいということだけです。そして今やっと人を本当に助けることが出来るようになったのに、執事たちは私にそれをさせてくれません。」私は失意のうちにその教会を去りました。しかし主は私をそのままにはされませんでしたし、解放のミニストリーもそこでおしまいにはされませんでした。主の御心は人々が解放されることを望んでおられるのです。私は主からの私の人生への召しに従順に従いました。何年も経って、解放のミニストリーの実ははっきりと顕れました。主は忠実であられました。確かに 反対はありますが、人々の人生は今も変えられているのです。(終わり)


【訳者注】
ポール・コックス師は祈りの歩行もされると思いますが、彼の主なミニストリーは、クリスチャンは誰でも先祖が犯した罪ののろいを継承していて、それを断ち切る祈りをすることによって開放されると言うミニストリーで、基本的にはヘンリー・グルーバー師のミニストリーと同じです。グルーバー師も、個人的にその人の家系の罪からの断ち切りの祈りを薦め、この祈りは誰でも自分で祈り・宣言することが出来ると教えます。坂 達也

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# by walkwithgod | 2009-11-21 08:59 | アメリカからのメッセージ

時は迫っている  坂  達 也   2009年11月7日

時は迫っている

                          坂  達 也


 「聖書が何を要求しているかを一言で要約せよ」と言われれば、私は躊躇することなく「創造者の父なる神の御声に聞き従え」であると申し上げます。「聞き従うなら祝福を、従わなければのろいを」(申命記11:27,28)が聖書の単純明快な中心テーマの一つであり、それをこの世で最も忠実に(死に至るまで)実行して私たちのために模範を示されたのがイエス・キリストでした。一方従わねばこうなると言う見せしめを、私たちはイスラエルの長い歴史を通して知ることが出来ます。

 そのことに気がついている人は本当に幸いです。今の時代、世の終わりが刻々と近づいて来ていますが、それは人間が自分の思いで自分のために生きた時代、云ってみれば「個人の野心の時代」が終焉すると言う意味です。このことは、当然ながら、自分のために生きるのが通常の未信者の世界に当てはめられますが、私はそれ以上にクリスチャンに向かってそれを申し上げたいのです。

真のクリスチャンとは

 クリスチャンが今最も厳しく反省しなければならないことは、「自分のしたいことをして、何となく自然体で生きている」姿勢です。クリスチャンと云えども放っておけば自然に流されて「個人プレーのかたまり」のまま人間的に生きてしまいます。そのような生き方の正反対が「主の御声に聞き従った毎日を生きる」生き方です。

 そのためには多くの場合人間が自然に生きる生き方に逆らって生きねばならず、それには大変な信仰による決意と努力が必要です。まさにヨシュア記1:8にある「この律法の書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。」の「律法の書」を「御心を知りたいと云う願いと祈り」に置き換えて実行することにあると思います。それは主のご計画にのみ従って生きることをとことん「思い詰める」ことです。

 そのような願いと思いで日夜を過ごせば、常に主に飢え乾き、主を求める生き方になるはずです。いや、逆に真に飢え乾く人でなければそのような願いと思いは持てないのかもしれません。いずれにせよ、それ以外の生き方をしている人は主イエスの後を追っている真のクリスチャンとは云えません。この生き方のためにこそ私たちはイエスの後を追って自分の(自分に死ぬ)十字架をかついて生きねばならないのです。そしてこれを実行し本当に主の御声を聞く人だけが主に助けていただいて「死ねる」のであると思います。とどのつまりは、人間関係において「自分に死んで主に生きてもらう」ことをどこまで実行するか、実行できるかの問題ではないでしょうか。 

 イスラエルの民は、自分たちが直接神の御声を聞いて死ぬといけないから、モーセが聞いて民に話してくれるように頼みましたが(出エジプト20:19)、これはある意味ではていのいい「逃げ」であり、現代のクリスチャンの多くも教会生活を通してそうしているのではないでしょうか。私たちクリスチャンは誰でも主の御声を直接親しく聞く特権があるだけではなく、それを実行する義務があり、重ねて申し上げますが、そうしなければ基本的にクリスチャンとは云えないのです。

 今「先を急いでおられる」主はそのような人だけを求めておられます。なぜならそうでない人は使いものにならないからです。主に用いられるかどうかは主の御声に忠実に聞き従うかどうかの一点にしぼられます。

 しかし「何かをする」ことがクリスチャンの究極の目的ではないと反論される方もおられるでしょう。その通りです。私たちは「イエスのようになる」あるいは「イエスを頭とした一つのからだの一部になる」、「イエスの花嫁になる」ことが最終目的です。つまり「すること」ではなく、「なること」です。
 しかし、その最終のゴールに達するためにこそ、主は私たちを召して修行させます。それが主の御用をすることであるわけです。その一番卑近な例が教会形成(あるいは特別な目的を持ったミニストリー)とその運営にあります。主は私たちそれぞれに役割や仕事を与え、それを私たちが逐次御心に従って忠実に実行する時に成果を挙げさせ、成し遂げさせます。実は「・・・になる」ためには「・・・をする」と言うドリルを通して訓練されるのです。

世の中が激しく変わる - ジャクソン師の預言

 オバマ大統領は、アメリカを変えるCHANGEを提唱し圧倒的人気で大統領になりました。そして、ノーベル賞選考委員会までが、彼がアメリカだけでなく世界を変えることを期待して、未だ全く実績のないオバマ大統領を本年度の平和賞受賞者に選んでしまいました。それほど世の中がCHANGEを期待し、むしろ焦っていることがこれでよく分かります。そのオバマ氏は今やっきとなって「世直し」をしようとしていますが、あの手この手と打つ手がほとんど総てうまくいっていないようです。
 それはなぜなのか?一言で言えば、彼はすべてを人間的に変えようとしているのであって「神の御声に聞き従う」ことを全くせず、それとは正反対のことをしているからであると云えます。

 先程神は「急いでおられる」と言いましたが、オバマ大統領もその中に含まれます。「アメリカ国民が神に頼る代りに、そんなに人智によるCHANGE を望むなら・・・」と、神は今国民が選んだオバマ氏にやらせて見て、人間の知恵がどんなに浅はかなものであるかを「急いで」世界に見せようとしておられるように思います。オバマ大統領の人気は急に落ち始めました。そして世の中はよくなるどころか、どんどん悪くなっております。

 先回私はチャック・ピアース師の預言をご紹介しましたが、師は8月22日に当HPに掲載したメッセージの中で「経済的シフトが8月の終わりまでに起こるのに気をつけていてください。8月24日から10月17日の間に、金融システムに大いなる変化があるでしょう。銀行のシステムの変化はまだ全部完了していないことに注意してください。これから構造的なシフトが加速度を増して起こります。政府機関は人々の見ている前で再編成されて行きます。」と言いました。この預言はその通りとなり、2009年10月末現在のアメリカの中小銀行の破産が106行に達し、その上破綻の可能性がある不良銀行が現在400以上もあるとのことです。昨年の主に大手銀行の破綻28行に続いて、金融界の膿みはまだまだ出ることがこれで暴露されました。それにも増して、国の財政赤字が急増していることや、失業率が遂に10月末で10%を超えたと発表されたことなど、不況の深刻さに米国民の不安と不満は募る一方です。

 さて、ここで「2012年が大変重要な年となるとくりかえし神から示された」と云われるジャン・ポール・ジャクソン師の預言をご紹介します。彼はこの数年来、神から夢・ビジョン・祈りの中での啓示を通して2008年からの10年間に起こることへの預言をDVDに収めて表しましたが、その中で彼は、これから世界は宗教、政治、経済、戦争、地球物理学的天然現象と言う五つの面で大いに変化が起こると言っております。要約しますと、

1.自然現象面: 上空のジェットストリームに変化が起き、気象天候が変わる。場所によっては水が貴重になりガソリンより高くなる。(アモス4:7)風速80メートルの巨大なハリケーンが起き、その範囲は直径800キロに及ぶ。処によって24時間に600ミリの雨量。ソフトボール大の雹、巨大な竜巻、又前代未聞な地震と火山活動が起こる。太陽の周りにバブルが現れ危険な太陽光線を浴びて人々は今までにない皮膚病で苦しむ。疫病が世界的に蔓延する。地球の磁場の異変によりサテライト、ケーブル・テレビの通信不能、飛行機の運航に支障が出る等大きな問題を起こす。

2.政治・戦争:米国の海岸都市に核爆弾が落ちるのを見た。アフガン、パキスタンを含め世界的にテロ活動がより激しくなり、イランとイスラエルの確執はロケット弾の打ち合いとなり、中東での反イスラエル活動が激増する。旧ソビエト・ロシアが再び台頭し、中東問題、世界政治を扇動し世界戦争への不安を画策する。それは自国の石油の値上がりを意図して経済回復を謀ろうとするため。オバマ大統領暗殺がアラブ人によって謀られる。アメリカは他国を助ける余裕はなくなり世界中から軍隊を撤退、救援救助が出来なくなる。2024年にはイスラムからアメリカの大統領が選ばれるか、その可能性がある。

3.経済:は悪くなるが、一時的に小康状態の期間がある。その時クリスチャンは出来るだけ借金等身辺整理をすべき。そして再びより深刻な経済破綻が来る。アメリカの大型ショッピング・モールの半分以上の店が閉じられ閑散とするのが見えた。深刻な食糧不足。失業者の増大が今までにないような市民暴動を起こす。都市部では生活できず多くが田舎に移動。自給自足を図るため、ある処では道路のアサファルトが掘り起こされて農地になるのを幻で見た。アメリカのドル価値は下がりカナダ・メキシコ貨幣と同等のユーロに似た新貨幣体制が出来る。政治・経済面での腐敗が増大、より大きな混乱。

4.宗教:真の信仰が問われる時が来た。既成の多くのクリスチャン教会が破産し、主を個人的に求める家の教会が増える。アメリカにおいてもイスラム教徒が増大、アメリカの学校はクリスチャンの祈りは禁止され、イスラム教の祈りが取って代わる。

 これは明らかに世の中が大きく変わり、いよいよ黙示録に書かれている終末の艱難時代に急速に移行してゆくことが示されております。主から2012年が特に示された理由はよく分からないとジャクソン師は言いますが、最近ボブ・ジョーンズ師も「2012年まで生き残りなさい。」と云い(リック・ジョイナー師の記事にありました。)、昨年ジョーンズ師は「2012年までには新しい(現代の)使徒たちが現れ、確立される」という意味のことを語っておりましたので、この年が特別の、大きな転機の年となることが預言的に示されているようです。

 そこで、艱難時代に突入するに当たってクリスチャンはどうなるのかと言う疑問が起きますが、それに対してジャクソン師を含めた多くの「パーフェクト・ストーム」の預言者たちは、真のクリスチャンは守られるだけでなく、主の特別の任務(ミッション)を受け、それを自覚し、主の命令に従う人たちは大いに主に用いられると言います。私は主の御声に従う人こそ「使徒的な人たち」であると信じます。そのような人たちを2012年には主が明らかにされると云う意味なのでしょうか。

ドアは閉ざされる

 そこで思い起こされるのはノアのお話です。創世記 7:1で 「主はノアに言われた。『さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。…』」(新共同訳)と言われました。そして16節で「入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」(新改訳)と書かれています。これは神が、今本当に神に従う人を「神の住まい」である箱舟(契約の箱に通じる)に迎え入れ、その後ドアが閉められると言われているのではないでしょうか。

 同じことがマタイ25章にも書かれております。十人の娘のうち、賢い油を十分用意していた五人だけが花婿と共に入り、その後戸が閉められました。
 
 このお話の意味するところを皆さんはどのように理解されておられるでしょうか。その「ドアが閉められる時」がもしかすればそれほど遠くない時期に来ているのかもしれません。(終わり)

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# by walkwithgod | 2009-11-07 07:35 | 坂達也からの今月のメッセージ

雲の柱は動き始めた ポール•キース•デイビス 11月4日

雲の柱は動き始めた

ポール•キース•デイビス 



神がご自分の言葉に更にコンファメーション(確認)を与えてくださるのは実にうれしいものです。9月11日頃非常にある鮮明な夢が与えられ、それ以来私はその夢によって励まされています。その夢の中で、 開いた聖書を持った手が私に向かって伸ばされ、聖書のある箇所を開いて読むように告げられました。私が数節読み進むと、「増加、増加、増加、増加、増加」と 書かれている“聖句”に行き当たりました。

勿論聖書にこの通りの箇所はないのですが、それはこれからの時代にどんどんと恵みを増し加えて与えたいという神の願いを象徴的に表しているものでした。私が読んでいたのは民数記10章でした。正直なところ、このところ私は民数記には焦点は当てていず、むしろ黙示録やダニエル書、ゼカリヤ書、ヨハネ福音者などを中心に読んでいました。ですから民数記を読んだのは偶然のようで、あまり意味がないようにも思えましたが、その夢が主からのものであることははっきりわかりました。

それで、もし何かコンファメーションが与えられれば、これが主からのものであるという確信を持つことが出来ると考えて、それまではこの聖書の箇所を誰にも告げないことに決めました。次の週はテネシー州ノックスビルでのカンファレンスに参加しましたが、預言者のボブ•ジョーンズも参加していました。私は主がボブの啓示的な賜物を用いて民数記10章から私に語ってくださるのではないかと期待しました。しかしこの箇所については何も語られないままカンファレンスは終了してしまいました。

私はノックスビルから直接テキサス州ダラスに行き、チャック•ピアスとグローリ−・オブ・ザイオン主催のロシュ・ハシャナ・カンファレンスに参加しました。私はこの集りに参加することにわくわくしていました。私が一年前にチャックに伝えた主からの預言を素早く成就してくださった聖霊への感謝の気持ちで一杯でした。その伝えた預言とは白い大きなテントの中で、50年代に起こったリバイバル にも匹敵するようないやしの油が注がれるというものでした。

この集会は預言が成就し、彼らがテキサス州デントンの郊外に取得した土地で開催した初めてのテント集会でした。到着してみると、それは私が一年前に霊的経験の中で見たものと全く同じテントでした。私は民数記10章が示唆するものを理解したいという願いをまだ持ってはいましたが、その夜礼拝が始まったときにはそれが一番の関心事ではなくなっていました。

けれども驚いたことに、ワーシップが終るとチャックはラッパの祭りとロシュ・ハシャナ(イスラエルの新年)を迎えるために銀のトランペットを持った二人の人を前に呼びました。勿論これは民数記10:1−3に書かれていることであり、イスラエルの聖なる会合を招集する時や移動を告知するときに吹き鳴らすものです。

「銀のラッパを二本つくりなさい。すなわち、打ち物造りとし、それで会衆を呼び集め、また宿営を進ませなさい。この二つを吹くときは、全会衆が会見の幕屋の入口に、あなたの所に集まってこなければならない。」

もっと驚いたことには、チャックが来るべき神のシーズンへの預言的告知として民数記10章から短い教えをすると言ったことです。それこそ私のためのコンファメーションでした!

神と共に動く

民数記10章は、神の民が主の臨在の雲と共に移動し、約束の地に入るための指示が書かれています。臨在の雲が次の場所に移るときの、非常に詳細な指示がモーセに与えられています。これを預言的に洞察すれば、 キリストの身体なる教会は聖なる会合へと招集されていて、主の臨在の動き(移動)に従う備えをするようにと言われていることが明らかです。雲の柱は動き始めたのです!

「増加、増加、増加、増加、増加。」と夢の中で私が読んだ箇所は民数記10:28で、そこには「以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序であって、彼らはそのように出発した。」と実際には書かれています。

これから起こる「増加」に関連して私がこの聖書の箇所から理解することは、私たちは聖霊を通して神から厳密に指示されている秩序に 完全に従う必要があるこということです。主の祝福と恵みが私たちに伴うためには、主は私たちが 従うべき主の望まれる秩序を定めておられ、私たちはそれに忠実に従って主と一致(アライン)する必要があるのです。そのときに増加がどんどんと進みます。主の秩序の多くはイザヤ66:1−2に見ることができます。

「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。−主の御告げ。— わたしが目に留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。』」

これからの時代に神と一致(アライン)するためには次の3つのことが役に立ちます。

1.へりくだりの霊
2.砕かれた悔いた心
3.神のことば(レーマとロゴス)を敬虔と畏れで震えるように謹んで受け取る

賛美、時とシーズン、主が住まわれるところ

イスラエルが宿営を出発するときに、幕屋に先立ってまずユダ族、イッサカル族、ゼブルン族が出発するようにと主は明確に指示されました。(民数記10:14—16)

ユダ族のシンボルは普通、獅子です。明らかに主はご自分をユダ族の獅子として表されています。主はまず飼葉おけに生まれて来られ、ご自分をほふられる小羊として捧げられました。しかし今度は、キリストの花嫁となった人々を通して圧倒的な勝利を収めるために復活の力をもって吠え威る獅子として主は来られるのです。「賛美(ユダ)」がまず私たちの先に行かねばならず、そしてイッサカルの祝福の中に示されている「時とシーズンをはっきり悟る」ことがそれに伴わなければなりません。

私たちは今、特に「失った相続財産」を取り戻すために前進する「定められた時」に入ろうとしているのです。ロシュ・ハシャナのあと行った南アフリカにいたとき、申命記33:18−19にあるモーセのゼブルンに対する祝福に関して非常にはっきりした啓示的洞察が与えられました。

「ゼブルンについては言った。『ゼブルンよ、あなたは外に出て行って楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。彼らは国々の民を山に招き、その所で正しい犠牲をささげるであろう。彼らは海の富を吸い、砂に隠れた宝を取るからである。』」(口語訳)

ゼブルンという名前は「住まい」を意味しますが、ゼブルンの地は暗黒と背信の故に排斥されていました。しかし主イエスが一旦訪れるや、そこは明るい地となり偉大な光の源として知られるようになりました。(マタイ4:15−16)この地が受けた祝福は、これから神のおとずれを受けようとしている多くの地に対する預言的な型だといえましょう。それはゼブルンの祝福を通して預言的約束を受けていたいくつかの海岸沿いの地域について特にそう言えると思います。勿論海岸沿いの地域に限ると言っているわけではありませんが、この言葉はそのような地方への約束を語っています。

新しいシーズン

この秋のイスラエルの祭りのシーズンは、最近では最も重要な意味を持っていたと思います。 聖霊の働きだけではなく、より顕著な主の臨在を解き放ちたいと神が願っておられるという非常に明瞭で的確な啓示が与えられました。私たちは将来収穫者になる者たちを今のシーズンに収穫するという召しを受けているのです。雲の柱はそちらに向かって動いています。伝道に重きをおくと同時に、人々を整え、導き、備えることにも力を入れねばなりません。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-11-04 10:32 | アメリカからのメッセージ

時のしるしを見きわめる(第53回) リック・ジョイナー 10月27日

時のしるしを見きわめる(第53回)

リック・ジョイナー


 最近行われたアメリカの教会に関する調査結果を見ると、アメリカ人の65%が自分はボーンアゲインしたクリスチャンだと言っているにもかかわらず、キリスト教的世界観、即ち聖書的世界観を持っている人はわずか3%に過ぎないというショッキングな事実がわかります。キリスト教的世界観を持つという意味は、イエス•キリストと同じ視点で世界を見ることであり、又キリストの教えを知りそれに従うということです。

 ボーンアゲインしたと自認する人の数とキリストの基本的なものを反映した生き方をしている人、即ちキリストの視点で世界を見る人とのギャップがこのように大きいということは、私たちがキリストの(宣教)大命令をほとんど果たしていないことを示しています。私たちはただ人々を回心させるだけではなく、弟子を作リ彼らの主が命じられたことをすべて 教えるようにと命じられているのです。

 アメリカのキリスト教のこの基本的な失敗を正すにはどうすればよいのでしょうか。まずこの問題があることを認識することが第一歩でしょう。人々をキリストを信じる決心に導きボーンアゲインさせてから、教会が 彼らを「キリストに似る者」へと成長させることに失敗しているのは明らかであり、それは 弟子を作れという主の命令を悲劇的なほどに割り引いたものにしてしまっています。これは回心者を起こす働きをする伝道者への批判ではなく、そのような伝道者の働きをフォローすべき教会がその役目を果たしてないということです。


 使徒行伝を見てみると、一つの地方でリバイバルが起こると、そこに使徒がリーダーによって遣わされ、新しい信者がキリストの弟子として確立するようにフォローアップする働きをしました。明らかに今この記事を読んでおられるあなたは、キリストの弟子であり、主から学び、自分も主と同じ視点で世界を見たいと望んでおられる方だと思います。けれども、今の教会の様子から考えると、そのように決心された皆さんのほとんどは教会からそのように導かれたのではなく、ご自分でそのような道を選ばれたのだと思います。それはそれで素晴らしいことに違いないのですが、新しい信者たちは自分の教会からもっと助けを受ける必要があるのです。

 新生児は自分ではほとんど何も出来ず、基本的なことが出来るようになるまでには長い間いつも誰かに世話をしてもらう必要があります。私たちがボーンアゲインしたとき、ほとんどの者が霊的には同じようなレベルにあります。 霊的に自分を養うために何をすればよいのかわかりません。
 
 今日アメリカではほとんどの人は小さい時に教会には行っておらず、聖書に関して無知ですから、特にそうといえます。彼らはキリスト教に関する書籍、CD、DVDとか他にどのような助けがあるのかも教えてもらわねばわかりません。そういうものがあるとわかったとしても、何かを推薦してもらわねばどれから始めればいいのかわかりません。
 
 又、生まれたばかりの者がまだ弱い内に食い殺してしまうのがサタンの常とう手段なので、新しい信者を脱落させるための絶え間ない誘惑と攻撃が彼らにむけられます。幼子が無防備であるように新しい信者もサタンの策略に対して無防備ですから、彼らはしばらくは絶え間ない世話を必要とするのです。そしてこのように他の信者から世話を受けることによって築く関係こそが、新しい信者がキリストの身体と絆を結ぶきっかけとなるのです。


 私がこれをお話する理由は、教会が次の大リバイバルに入る前にこのことを改めないと、リバイバルによる実の多くが失われてしまうことになるからなのです。この実とは単にりんごとかオレンジとかではなくて、神ご自身の民であり、 弟子にせよと主が私たちに命じられた人々です。 これが教会と教会のリーダーたちに与えられた基本的な責任です。ヘブル13:17でこう言われています。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。」

 私たちが自分に委ねられている人々のために弁明するとは大変重大なことです。もし誰かに自分の子どもたちの世話を頼んで出かけ、帰ってきてみるとキチンと世話をされていなかったことを発見したならば、信頼して任せた人たちに対して私はよい感情は持たないでしょう。

 1970 年代の「ディサイプルシップ 弟子訓練」や「シェパーディング」のムーブメントの中にいた者の多くは、リーダーへの服従やリーダーによるコントロールを強調し過ぎました。その反動として次世代は弟子訓練に対し疑いを持つに至りました。しかしながら、そうだからといって 私たちに与えられている最も基本的な命令であり責任が、教会から取り除かれるままにしておくことはできません。

 真の弟子訓練はリーダーの支配力を増大して人々を縛るものではなく、人々を真理によって自由にし、キリストにあって成熟するのを助け、 私たちの助けを必要としなくなるまでに彼らを成長させることです。真の弟子訓練は、肉の家族よりも強い霊の家族の絆を築きますが、それはコントロールや支配によるものではなく愛と奉仕によるものです。

 「シェパーディング ムーブメント」に関わっていたリーダーの中で非常に間違ってしまった人たちを私は知っています。彼らは人を支配するような人とは思えませんでしたし、真の牧者として弟子作りをするには最もふさわしい人たちのようでした。しかし、そのシステムが何層にもなってくるにしたがい、一番上のレベルで教えられたことが下のレベルに行くにしたがって崩れて行ったのです。
 
 全員が十分の一献金を自分のシェパード(牧者)にしたので、明らかに多くの者はお金のために弟子を作ろうという動機を持ってしまいました。それだけが彼らの動機ではなかったかもしれませんが、それが少しでも混じっていたならば、地獄の大きな門は腐敗への扉を開いたのです。

 キリストにあってはマルチ・レベルの関係は私たちにはありません。聖書に神の孫という言葉はないことに気がつかれましたか。私たちはみんな神の一代目の息子、娘なのです。また、十分の一献金がシェパード(牧者)にいくとは書いてはありません。それは倉に納められて、シェパードや教会の諸々のミニストリー はその中から収入を得るべきなのです。
 私たちは神と人とに兼仕えることはできませんから、何であれ経済的動機でミニストリーをすることは絶対に避けねばなりません。

 勿論この問題に関しては一冊の本が書けるほどのことですが、私が言いたいのは、 教会に与えられている基本的な指令と責任である聖書的な弟子訓練を、私たちは回復せねばならないということです。教会が 聖書的世界観を持ち強くなるためには、このことは絶対に必要です。しかしそれ以上にこのことが大切な理由は、第一に神が求めておられる霊的家族としての関係をクリスチャンが持つためであり、次にすべての神の息子、娘たちの成熟を促すためです。

 この理由の故に、今の重要な「時のしるし」の一つは、キリストの身体による真の弟子訓練の回復を見ることにありましょう。過去における「シェパーディング ムーブメント」で多くの貴重な教訓を学んだのですから、今度は同じ間違いをしなくて済むのではないでしょうか。しかしもし又間違う人があるとしても、真の霊的な弟子訓練は、私たちに課せられている重要な聖書の命令なのですから今こそ真剣に行わねばならないのです。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-10-27 09:42 | アメリカからのメッセージ

下って行くな、そこに留まれ キャシー•ウオルター 10月19日

下って行くな、そこに留まれ

キャシー•ウオルター


飢饉

私の友人が数週間前にポルトガルから一つのメッセージを送ってくれ、それをきっかけとして主は創世記26章のイサクとその地の飢饉の話を通じて私に語り始められました。

私は皆さんを力づける意味で「下って行かないで、、」と申し上げたいのです。御説明しましょう。イサクは自分の町ではなく他国に住んでいました。彼はカナンに住んでいましたが、そこに飢饉が起こりました。人々は皆カナンから出ていきました。生きるためには食料のあるところに行かねばなりませんから、それを責めるわけにはいきません。

イサクも自分の故郷、メソポタミアに帰りたかったのです。しかし神が彼に「下っていくな。そこに留まれ。」と語られたのです。それは聞く者にフラストレーションを起こさせる言葉でした。それは丁度モーセが目の前に紅海があり、後ろには迫り来るパロとその軍隊がいて、その間に挟まれた時に似ています。神はモーセに「じっとしていなさい。」と言われたのです。えっ、何ですって? 私なら「助かりたいなら逃げろ!」と神が言われると思ったことでしょう。そしてモーセもイスラエルの民にそう叫びたかったに違いないと思うのです。

神はイサクに「下っていくな、そこに留まれ。」と言われたばかりか、「種をまけ。わたしはあなたを祝福するであろう。」と言われたのです。それでイサクはそこに留まりましたが、何も起こらないようでした。飢饉だったのですからどんな実りもあたりには見当たりませんでした。飢饉とは「極度の食料不足」ということです。イサクは自分の目に映るすべてのものよりも主の言葉を信じることを選びとらねばなりませんでした。

何も起こらないように見えました。何の匂いもしませんでした。何の音もしませんでした。飢饉だったのですから、何もなかったのです。しかしイサクは種を蒔き、あたかも畑は麗しく育っているかのように振る舞ったのです。彼に投げかけられた色々な言葉が聞こえるようではありませんか。

「一体何をやってるんだい?」「どうしてここから出て行かないんだ?」「食料をどうにかして得ようとなんでしないんだ?」「どうして自分の国に帰らないのだ? 気でも違ったのか? ここにはおれないぞ。」

でも、イサクは何事もないように平常通り暮らしたのです。どうしてかお分かりになりますか? それは彼が回りの状況から情報を得たのではないからです。彼は究極の情報家である聖霊から情報を得たのです。

あなたはなにか困難な状況の中を通ったことがありますか? 人々から否定的な言葉を投げつけられたことがありますか? もしあなたが盗人や強盗がいる町の近くにいるならば、私は「そこには行かないように」と言うでしょう。

最近私はオーストリアのパースという町の近くにいったのですが、一緒にいた婦人が「この地域は昼間はよい所だけれど、夜は危険だから来ては駄目ですよ。いろんな事件が起こるのよ。」と注意してくれました。それを知らされてあなたはそこに散歩に行きますか? 訪ねていったりしますか? 勿論行きませんね。

でも、時々あなたは古傷を訪ね、自分の古い否定的な感情に相談したり、決して自分のためにならないと知っている考え方と連絡をとったりするのです。あなたがもはや解放されたのなら、あなたの思いの中の昔よく行って親しんだ場所を訪れてはいけません。絶対にあなたの益にはなりません。聖霊という情報家の言う事を聞いてください。

イサクはこの地で栄えました。それはこの土地が飢饉と神の人の両方を一度に受け入れることは出来なかったからです。ですから飢饉は去らねばなりませんでした!イサクはますます栄え、羊の群れや牛の群れを持つようになりました。12節にはイサクは「その年に百倍の収穫を得た」と書かれています。ペリシテ人たちはイサクがあまりにも富んだので立腹し、彼にこの地から出て行くように要求しました。イサクは従いました。彼はゲラルの谷に古い井戸を見つけ、それを再び掘りました。最初の二つはゲラルの羊飼いたちと争わねばなりませんでしたが、三つ目は大丈夫でした。その井戸はレホボテ(争いがない)と呼ばれました。

イサクが去ったあと、ペリシテ人たちは自分たちの祝福の源を失ったことを知り、イサクに戻ってほしいと思いました。28節「私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。」と彼らは言いました。あなたの敵でさえ、神の御手があなたの人生の上に置かれていることがわかるのです。敵があなたを嫌っていたとしても、あなたの持っているものを欲しいと彼らは願うのです。

主の御声があなたの鍵

あなたの鍵となるのは主の御声です。主はいつ移動するべきか、いつ留まるべきかをご存知です。祝福する方に耳を傾けるとき、あなたは祝福されます。自分で見たり聞いたり感じたものによって行動するようにはあなたは召されていません。天の父があなたにするように告げられることをするようにと召されているのです。私たちは状況や事情によってではなく、神の御霊、御声によって導かれるのです。信仰によって私たちは生きるのです。

何年も前のことですが、私たちはフロリダ州のオーランドに住んでいましたが、その町を出るようにとのはっきりした主からの言葉を受け取りました。問題はその天からの御声は次にどこへ行けとは言われなかったことです。でもあなたが耳を傾ければ主ははっきりと指示を与えてくださることをご存知ですか? 私たちは「わかりました。ではこの町を出る事にします。でもいくつかのことを助けてもらわねばなりません。」と主に申し上げたのです。

例えば「どうやって家を売れはいいでしょうか?」ということです。それは厄介なことだったのです。というのは当時その地域は新築の家が余っていて、建築業者達はそれを格安に売り出していたので、私たちの家のようなものは売りにくい状況でした。聖霊が 「パッと明るい色の花を200ドル分買って家の前に植えなさい。’For Sale by Owner’(不動産屋を通さないで持ち主が直接売る)という看板を立てなさい。」と言われました。

数週間後にある男の人から 家を見に来たいという電話がありました。彼らが着たとき奥さんが「この地域で家を探していたんではないんですけど、この辺りを車で走るたびにこの花が目に入ったのよ。」と言うのです。彼らは花に惹かれてこの家に興味を持ちました。この件に関しては他にも沢山超自然的なことが起こりました。今それらをお話はしませんが、大事なことは次のことです。

聞きなさい。主があなたに言われることがなんであってもそれに従って実行しなさい。主はあなたがはっきりわからないままにほってはおかれません。主はあなたのお父さまであり、ご自分の子どもたちに話されるのです。あなたは主の御声を聞くことができます。アンテナをいつも掲げていてください。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-10-19 14:20 | アメリカからのメッセージ

常に喜ぶ グラハム•クック    2009年10月17日

常に喜ぶ

グラハム•クック



キリストの内に生きると、私たちはよく笑うようになります。 笑ったり笑わなかったりすることは私たちが 決めることである以上に、ハッピーであることはクリスチャンとして必須条件です。私たちの人生に対する神のご計画には、私たちがキリストにある愛と喜びを見つけその愛と喜びの中で生きることも含まれています。神はすばらしい福音です! 主の愛と臨在は私たちの人生を元気づけるために不可欠且つ完璧なものなのです。

イエスはヨハネ15:11で「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」と言われました。神が私たちに語られたりご自分の性質を啓示されるときは、喜びが常に伴います。主を見つめ主の似姿に変えられていくのは、主のパーティーに招待され主と共に大いにお祝いをすることです。神が私たちに語られるすべての言葉は私たちを喜びの中に引き入れるようにデザインされているのです。天の御国のものはすべて、うれしさ、喜び、幸せ、笑いに関することなのです。神は私たちがにっこりと微笑むのを見たいのです。


神は次に何が起こるかをご存知なので、喜んでおられるのです。主は最終的な試合結果を知っておられます。初めから終わりを知っていると、敵の邪悪な計画や悪巧みを見ると笑わずにはおれないのです。 最終的には必ず勝利することを 知っていると、敵の策略は私たちにとって全く力を持たないものとなります。キリストの内にある喜びが絶えず私たちの心の深い所に流れていて、何者もそれに触れることは出来ません。しかし、そのような喜びを手に入れるためには、すべてのことを喜ぶ方法を会得する必要があります。

私にとって喜びは防衛手段です。敵に対する盾です。敵が攻めてきたとき、私たちは敵の面前で笑うことができるのです。それはまず神が敵を笑われるからです。

以前私は自分が戦場にいる夢を見ました。こちらの軍隊は敵をどうにか振り払ったところでしたが、多くの勇士を失いました。生き残ったものは多くはありませんでした。正直なところ私たちは少数であわれな状態でした。傷を負っていないものはありませんでした。私自身も少なくとも12カ所くらいの刀傷を腕に負っていました。出血もひどく、全く疲労困憊していました。

突然トランペットが鳴り響き、もう一つの敵軍が私たちの前に迫っているのがわかりました。あたりを見ると私たちのための援軍はありません。敵軍は力を増しています。刻一刻、彼らの軍列はふくれあがって行きます。勝ち目がない戦いでしたが、私たち憔悴した生き残りの者たちは集り戦闘態勢をとりました。


私が足場を固めて敵の襲撃に備えて歯を食いしばって立っているとき、私の横にレストランのウエイターのような格好をした男がいるのに気がつきました。折り目正しい黒いズボンに蝶ネクタイ、糊のきいたワイシャツを着て腕には白いタオルをかけていました。

「 一体何をしているんですか?」と私は信じられない思いで尋ねました。
「メロンとスープとどちらになさいますか?」と彼は答えました。
「えっ、何だって?」と私は聞き返しました。
「メロンですか、スープですか?」と彼は言いました。
「こんな時に食べ物の話なんかどうしてできるんだ?」と私は問いただしました。

ウエイターは私を無視して、一人ひとりに「メロンになさいますか?スープですか?」と聞いてまわりました。
「気でも違ったのか? 今起こっていることがわからないのか? 地面は血だらけなのが見えないのか?
 あそこにいる敵が見えないのか? こんなときになんでランチのことなんか話せるんだ。」と私は言いました。
「えーと、メロンですか、スープですか?」と彼は答えました。
私はすっかり腹を立ててしまいました。「おまえは馬鹿かなんかか? こんな時に食べ物の話をしたいのか?」と私は金切り声で叫びました。

突然私は目をさまし、自分のベッドルームで「食べ物の話なんて!」と叫んでいる自分に気がつきました。その瞬間、私はパワフルな啓示を受けたのです。それは詩編23:5「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ」という箇所です。

私たちが戦場で敵からの次の襲撃をどうにかして乗り切ろうと構えているとき、神はメニューを考えておられるのです。主はあたりを見回して、「ここはなんとピクニックに最適な場所なんだろう! ソーセージパンやミートパイ、チーズサンドイッチがいいだろう。本当に最高だ。」と言われるのです。神はどのような敵をも打ち破ることがおできになり、ご自分の力を完全に確信し平安をもっておられるので、 たとえ私たちが人生の最悪の戦いのただ中にあっても食事を与えてくださることが出来るのです。そして私たちがそれを確信することこそ、人生で全き喜びを持つ源となるはずなのです。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-10-17 07:47 | 主と個人的に深い交わりを持つ

幻 (その2) ジェシカ•ジョーンズ 2009年10月11日

幻 (その2)


ジェシカ•ジョーンズ


創世記にはアベルの血が地から叫び、神はそれを聞かれたと書かれています。それは血が声を持っていたことを示しています。血が叫ぶためには声が必要だからです。

神がこの声をどのように聞かれるのかを少し深く調べたいと思います。神は一体何を聞かれるのでしょうか? 箴言15:29に「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。」とあります。

しかし詩編66:18には「もし私の心にいだく不義(iniquity)があるなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。

「不義 iniquity」という言葉は、邪悪、堕落、犯罪、不道徳等を意味する「’avon」という言葉に由来し、その語幹である「’avah」は曲げる、よじる、歪めるという意味を持っています。

もしもあなたが祈るときの動機が不純であり正しくないならば、それは即ち主が真理や正義を曲げ、よじり、歪めることを主に願っているのですから、それが聞き入れられることはありません。私たちの言葉の色彩を変えるのは私たちの心(動機)にある邪悪さです。それが私たちの言葉を汚して白くない(不義、不正、聖くない)ものにしてしまうのです。

詩編145:18「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求めるすべてに主は近くにあられる。」

誠実さと忠実さを持って主のみこころを求め従おうとするすべての者の近く(s空間的にも時間的にも) に主はおられるのです。主のみこころは私たちにとって常に良いものです。主はすべてのものを私たちの益となるように創られました。 私たちが自分や人々のために必ず益となる主のみこころと一致して祈るとき、私たちは花嫁としての自分の役割を果たすことができ、主と共に働いて良いものを造りだすことができます。この場合、 主のみこころと一つになっている故に私たちの祈りは白いのです。

ヨハネ9:31「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」

ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」

罪は罪です。私たちすべてが犯してしまうものです。 しかし、もしも私があなたに対して罪を犯したならば、敵に侵略する法的権利を与えないために私はその罪を告白せねばなりません。言い換えれば、もし私があなたに対する罪を告白するならば、もはや敵が私たちの間にくさびを打ち込み私たちの仲を裂き、怒り(それは罪です)を起こさせようと侵入する扉を閉じることができるのです。

罪を告白し悔い改めることは、人と人との間や神との間に一致をもたらします。告白と悔い改めだけが私たちが義とされる唯一の道なのです。この世のすべての祈りや施し、またすべての善行もあなたを義人にすることはできません。私たちに赦し、いやし、義、不朽や不死をもたらすのは、告白と悔い改めだけなのです。

主はまことをもって主を呼び求めるすべての者の声を聞いてくださるのです。それが解放と自由のための鍵です。私たちは真実でなければなりません。真実は告白と悔い改めであり、自分自身と神と人に対して正直であることです。してしまったことが恥なのではなく、それをそのままにしておくことが恥なのです。


父なる神よ、あなたは私たちがあなたの御顔を拝しあなたの声を聞く力を与えてくださいました。イエスはこのようなキングダム•ライフをすべての者に回復するために死んでくださいました。あなたは私たちにそのための機会、力、憐れみ、恵みをくださいました。あなたはすべてのものを創られました。あなたは私たちすべてを御手の中に持っておられ、私たちを愛する故にいつもあなたの目が届くところに私たちをおいておられます。

あなたは私たちの近くにいつもおられます。それは私たちが正しく聖なる者となる方法をやっと学び始めたからです。どうかあなたをいつも私たちの目の近くに置く事を教えてください。おお主よ、私たちは何が必要であるのか、敵の手から完全に自由になるにはどうすればよいのかを教えてください。私を解放してください、主よ。私が知るべきことを教えてください。私が創られた目的であるあなたの花嫁になるために解放を与えてください。イエスの名によって祈ります。アーメン


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# by walkwithgod | 2009-10-11 16:58 | アメリカからのメッセージ