幻 (その1) ジェシカ•ジョーンズ 2009年10月4日

幻 (その1) 

ジェシカ•ジョーンズ

私の心は今にも破裂しそうにわくわくしていて、どこからお話したらいいのかわからないほどです。今私たちは本当にエクサイティングな時に生かされています。昨年神はすべての事柄をそれが本来あるべき場所に位置され、それによって私たちのこころとまわりの状況を整えられました。今年は主が今までに用意されていたものを実現される時です。 今年は私たちがずっと待っていたもの、ずっと祈っていたものの多くを見る年なのです。

でも私は待ちきれない気持ちです。今すべてが実現するのを見たいのです。待ちくたびれました。でも私にとって「一生の間」と思えることが主にとっては一瞬にすぎないのです。それをどうすれば私は悟ることができるのでしょうか? 私たちは主と同じように考えねばなりません。自分の人生の長さを計りの尺度にするのではなく永遠という時間の尺度で計るのです。そして神が一歩次のステップを踏み出されるためには、何億という人々をキチンと正しく整えねばならないことを思うとき、私は謙虚にされ畏れの念を持つのです。どうしてそのように多くの人々を整える必要があるのでしょうか? 

それは私たちが共同で働いているからです。私たち全員がキリストの花嫁であり、一つにつながれているのです。悲しいことに、ある人たち、いや人類の大部分は、花嫁としての座に着かないのですが、本来私たちはすべてその目的のために創造されたのです。私たちのまわりを見てみれば、神からの約束や相続を奪われて絶望という岩に乗り上げてしまっている破壊された人生を沢山見ることができます。それはサタンが花嫁に対して戦いを挑み、その成果上げてきたことの証拠に他なりません。

黙示録の中で花嫁はただ一つの声を持っています。私たちは今完全に一致して一つの声となるべきなのです。しかしまだ私たちはその一致に至ってはいません。

私たち皆が一致してはいません。クリスチャンはこの世と一致していません。この世の彼らもお互いに一致していません。私はクリスチャンがこの世と一致するべきだと言っているのではありません。しかし、この世もまた花嫁の一部となるようにと創造されているのです。ギャングやホームレス、麻薬を売買したり常用したりしている人たちも花嫁の一部となるようにと創造されたのです。しかし彼らは愚かな花嫁であり、十分な油を用意しなかったか、全く持っていなかったのです。

しかし、どのような考えであったとしても、すべての人は自分のいるべき位置についていなければなりません。私たち一人ひとりは自分が接触を持つ自分の周囲に影響を及ぼすだけではなく、間接的に世界にも影響を与え、また次の世代にも影響を与えます。私たちの世代は自分たちの将来だけではなく世界の将来も決めていくのです。今の世代が将来に影響を与えます。私たちは孤立しているどころか、決して一人で行動しているのではないのです。即ち私たちは自分が造り出している音(サウンド)のバイブレーション(振動)に責任を持たねばならないのです。

二人の人が合意するには(たとえうなずくだけであったとしても)、その問題を議論することによって言葉によって合意に達し、合意の条件を明確に宣言したわけです。それは音の力を必要とすることです。そうですね、 話合いをしなくても書かれた文章によって合意することも出来ます。しかし紙に書くとかコンピューターに打ち込むときにも音が出るのであり、やはり音を必要とします。私たちのすることはすべて音を発するのです。

「音の振動」Sound vibrationとは興味深い言葉です。 この言葉を書くや否や私はヴィジョンの中にいる自分を発見しました。それは私たちがみんな音を発するというヴィジョンです。すべてのものが音を出します。合唱をする人もしない人もいると思いますが、私の言う「音」とは私たちが音と普通考えるものとは本当はなんの関係もないものです。 

私は以前、音痴の人の横で歌うのはとても苦手でした。私は「人について歌う」人だったので音痴の人につられてしまうからでした。私は「嫌だなあ」と思いました。神様は彼らの歌をどうして我慢できるのかと思いました。とてもよい声の人もあるし、ひどい人もいます。神はすべてのものをとても美しく造られたのに、どうして音痴な人をそのままにしておかれるのでしょう? 「アメリカン•アイドル」(歌の勝ち抜きコンクール)という番組を見たことがありますか? 非常に下手な人たちの中には、自分はとても上手だと信じている人がいるのです。本当にそう信じているのです!しかし、神にとっては彼らの声は美しいのです。審査員のサイモン(厳しい批評をする人)がするように顔をしかめて「まったく聞くに耐えない!」とは神は言われないのです。違います、主は全く慈しみの笑みを浮かべて「あなたは本当に美しい、あなたの声は素晴らしい!もっと歌ってください。」と言われるのです。主にむかって愛を歌うすべての声を主は実際心から愛し喜ばれるのです。私たちが気にするように人々の歌声が上手か下手かは、主にとっては重要なことではないのです。

どうしてそうなのでしょうか? どうか怒らないでください。それは他のどのような技能・能力、絵を画くことやダンスや何であっても同じなのです。あるものは恐ろしく下手であり、あるものはまあまあであり(平均)、あるものは上手です。全員が上手ということはありませんし、全員が下手ということもありません。それは私たちと全くかかわりがないことであり、なぜならばそれは聖霊が思いのままに賜物をくださるからです。それによってある人が他より優れているとか劣っているとかではありません。ある人が他の人とは異なるということだけです。私の賜物を皆さんと分け合えば皆さんも豊かになります。皆さんの賜物を私に分けてくだされば、お互いがもっと完全になって神からの賜物の全部を楽しむことができます。

神は私たち一人ひとりをすべて同じように愛してくださいます。主の目には私たちはみんな素晴らしいのです。ある人によくない声を与えてその人が歌うのをお聞きになって辟易する、という主ではありません。又、ある人によくない耳を与えてその人がバイオリンを弾くのを聞くのが苦痛だと思われる主でもありません。私たちはそう思いますが、主はそうではありません。

私たちは本当にちっぽけな考え方をします。偏見と裁きの態度です。誰が格好いいか、誰が悪いかを決めます。 歌が巧いのは誰か、 下手なのは誰かを決めます。何がいいか悪いかを決めます。多分これが「善悪の知識の木」の最大の悪でしょう。つまり「神が創造したすべてのもの、すべての人は良い」ということを忘れて、何が良いか何が悪いかを決めるという性質です。それは 歪んだ偏見に満ちたものの見方、即ちすべてのものを自分の好みや意見に照らし合わせて見る見方を私たちにさせるので、世界を 数えきれないくらいのグループに分割し、それを各々の境界線の中に閉じ込めてしまったものなのです。
これが大虐殺やある民族を絶滅させようとする戦争が過去100年間に数多く起こった理由です。アルメニヤ、スレベナ、ボスニヤーヘルゼゴビナ、ルワンダ、ブルンデイ、カンボジア、バングラディッシュ等での戦いで、花嫁になるべきだった2千3百万人以上が死にました。それに付け加えたのですが、アメリカだけで花嫁の53、227、874人以上が堕胎によって1973年から殺されています。それも私たちが自ら何が良くて何が悪いかを決めたからなのです。


神がルシファーを創造されたとき、神は悪ではなく善を創られました。しかしながらルシファーが自らを醜く悪であるものに変えたのです。神がよき方であることを疑い始め、自分で善悪を決めたのはルシファーでした。実のところ悪こそが醜いのであり、才能や能力、見かけの美しさが無いことは醜いことではありません。

私は人と会ったときに最初に抱く直感的な思い(第一印象)―それは生まれつきのもの、あるいは生後に習得したものから来るものを含め―を常に点検する必要を持っています。昨日ショッピングセンターを歩いていたとき、かかとが11センチもある偽革のブーツをはいている若い女性とすれ違いました。すぐに私に頭に浮かんだことは、なんて格好悪いブーツなんだろうという思いでした。すると聖霊が私を直ぐにチェックし、いくつかのことを私に示されました。

まず、そのブーツをデザインした人はそれは最高のデザインだと思ったということです。次にこの若い女性はこのブーツは素晴らしいと思い、誇りをもってはいているのです。私が好きではないとか、絶対はくことはない(私は2センチのヒールでも転んでしまいますから)からといってそのブーツが不格好であるわけではないのです。神様は多くの種類を創られる神ですから、私たちはみんな違っていて好みも違うのです。私たちはそれぞれがユニークで違っていることを喜び、自分と違う人々や彼らがすることを批判することを止めなければなりません。

歌と音の振動に話を戻しましょう。最近ある学校のタレントショウで見たことに私は非常に怒りを覚えました。一人の女の子(多分16歳)が誇らしげに紹介されたのですが、彼女はすばらしい才能の持ち主で歌のチームにとっても彼女が入ったことは幸いということでした。司会者は数分間も彼女の音楽的才能を褒めそやしました。しかし、他の同年の子達と同じように無邪気であるべきこの少女は、官能をそそるような歌を歌い、声も身振りも非常に醜く人の心を乱させるものでした。確かに彼女の声はすばらしかったと思いますが、彼女の中の他のすべての声はそうではなく、それらの醜い音が私の耳に達したのです。
いい声か悪い声かは別にして、私たちは皆声を持っています。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったものなのです。この合わさった声が音の振動を作り、それが第一、第二、そして第三の天にまで届くのです。

この音の振動がすべての人、すべてのものから発せられているのが私には見えます。事実、創世記に書かれている創造の記事を信じるならば、すべてのものは物体ではなくて音なのです。そしてすべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、それは肉の目を通して見る色とは違います。私たちは普通皮膚の色とか目の色とかをみますが、音の色は見え方が違うのです。丁度様々な音が合わさって一つのメロディーとなるように、それは色が渦巻いて見えるのです。ヴァン•ゴッホは(彼は宣教師でした)この音を見る能力を持っていて、その音の「生きた」エネルギーで絵を描いたのです。友人が彼から去ったとき 絶望して自分の耳を半分きり落としたほどに彼を狂気においやった原因は多分それだと思います。彼はもう自分に聞こえてくる音を聞きたくなかったのでしょうか?

さて、この音の振動が発せられて、他の全ての人が発する音の振動と一緒になることを想像してみてください。その音の振動は(大きな)力 forceとなります。イエスは「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」と言われました。ふたりの人が一致するならば、言葉の大きな力 forceを生むのです。その音は神の御座にまでとどき、神はふたりの霊、心、思いの一致によって動いてくださいます。

一致の色は白です。白という色は実はすべての色が(一致して)合わさったものであり、反対に黒はすべての色が無い(一致した色の欠如)ものです。聖書でイエスが白い衣を着ておられ、全創造の御座に座しておられる父が白い衣を着ておられ、白い髪、白いひげであると描写しているわけはここにあります。白は私たちすべての心、魂、身体が三位一体の神と一致し調和している色なのです。白は義の衣の色です。それはこの世が見るような皮膚の色とは何の関係もありません。(今アフリカではしらこ(albino)の虐殺が行われています。それは人々はしらこの皮膚には大きな力が秘められていると信じられ彼らの骨が高額で売買されているからです。)

音があなたから発せられ他の人の音と一緒になって第三の天にまで上っていくのを想像してください。そしてこの力が何百、何千、何百万という人々の力と一緒になり、第三の天にまで広がってゆき、愛、崇拝、感謝、創造、、、の力となっていくのを思い描いてください。

全世界が一致した花嫁で満ちあふれ、すべての音の振動が第三の天まで届くことを想像してください。その効果はどんなに素晴らしいことでしょうか? 自然界のある第一の天ではいのちは幾倍にも豊富に増し加わるでしょう。第三の天では絶えることのない祈りと天使の働きにより平和があり、すべての民が絶えず喜んでいるので言葉で表すことが出来ないほどの喜びが満ちることでしょう。地獄のような第二の天では嘆きと歯がみがあるでしょう。深い穴では彼らは千年の投獄を終えて出てくるときに人類を攻撃するための計画を練っているでしょう。

この一致した音の振動はパワフルな力です。それは創造し、回復し、力を与えます。それは3つの天を通ってすごい力で駆け抜けるのです。
私たちは音によって創られました。すべての人は音から創られ、音により音から形創られました。創世記にはすべてのものが神の言葉によって創られたとあります。私たちが話したり歌ったりする言葉には力があるのです。しかし私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があるのです。(続く)

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# by walkwithgod | 2009-10-04 13:34 | アメリカからのメッセージ

天からの新しいサウンド(音) ダグ•アディソン 9月24日

天からの新しいサウンド(音)

ダグ•アディソン 


「新しいサウンド(音、音響)が天からすでに解き放たれている」と神が何度も言われるのが私に聞こえます。新しいサウンドが来るという預言はこれまでにも語られており、多くのミュージシャンやワーシップリーダーがそれはどんな音であるかを模索しています。まだどこの教会でも天からの新しい音を聞いたことはありませんが、私の霊の中でそれはいつも響いているのです。

音楽はすべてのもののペースをセットします。神は今地上で新しいことをされているのですが、それもやはり音楽を通して流れ出るのが適切であるのです。油注がれた音楽は私たち個人個人に対しても、又教会や地域、世代に対しても神のみこころやご計画を伝達することができます。ワーシップ音楽は、ただ単に神の御ことばを聞く前に私たちの心を整えるための歌だけを指すのではありません。(それも確かに大事な役目ではありますが。)ワーシップとは聖霊が ご自分の道やもっと高い目的に私たちを導かれるために叫ばれる叫びCRYなのです。

新しいサウンドは私たちを旋風(嵐)のように捕らえることでしょう。そしてそれは今の私たちのワーシップとは全く異なるものでしょう。私たちの多くが以前神を経験しましたが、まだそのようには神を経験していない今の若い世代の耳を新しい音(楽)は捕らえ彼らに神を経験させることでしょう。預言的音楽、過激的なダンス、新しい歌やアートなどが新しい音の主な要素major keysとなり、ついには教会史の中で最も偉大なリバイバルの一つを迎え入れることになるでしょう。過去の神のムーブメント の場合と同じように、新しい音を教会全員が受け入れるとか神からのものであると認めることは、残念ながら起こらないでしょう。 

轟々と音を立てて流れる川とか雷がとどろくような音が天から聞こえてきました。私が聞いた天からの音は、ちょうどハープ奏者が奏でるハープの音のようでした。天の御座とその周りを囲む四つの生き物と長老たちの前で新しい歌が歌われました。その歌は地上から贖われた144,000人にしか分からない歌(黙示録14:2-3)でした。

過去に起こった最後の新しいサウンドから学べ

1960年代に英国からの新しいサウンドがアメリカや世界に旋風を巻き起こしました。ビートルズが現れ、リズム&ブルースのエッセンスに早いビートを加えて楽しくわくわくさせるフィーリングを与えました。その歌詞は当時の若い世代に力を与えました。それだけではなく、彼らの音楽には「油注がれている」と言ってもいいくらいの何か特別なものがあったのです。ジェイムス•ライルは彼の著書“Sons of Thunder”の中で、ビートルズは神からの召しがあったにも拘わらず状況や間違った選択をしたために、自分たちに与えられていた神の御国のより偉大な ディスティニーを見つけ出すことが出来なかったのだと神から示されたことを述べています。その結果、彼らの賜物と音楽はアメリカ史上最も大きな中東の宗教のムーブメントを迎えるのに用いられてしまったのでした。神が彼らに新しい音と音楽の息吹を与えたにも拘わらず、敵がそれを歪めてしまったのです。

私はよく考えるのですが、今までに新しいサウンドの到来を預言的に認識した人があったでしょうか? いたとすれば、その人はビートルズが御国の賜物と召しを見いだすのをもしかして助けられたのではないでしょうか? 1960年代初めに天からの新しい音がドイツのハンブルグやイギリスのリバプールの居酒屋ですでに起こっていたことをもし教会が知っていたならば、人々はそのことを信じ受け入れたでしょうか?

私は預言的に宣言しますが、現在すでにこの地上に新しいサウンドが来ています。ビートルズが一つの世代を神から引き離してしまったと同じように、この新しい天からのサウンドは今の若い世代を大勢神へと引き寄せるのです。今度は敵に奪われることはないでしょう。

ロックンロールは年配の人たちには好まれませんでした。教会は、それを若い世代に福音を伝えようとする神の御心から出たものであるとして喜んで受け入れる代わりに、それを押しとどめようとしました。その結果敵が偽物を作り、ロックは堕落し濫用されました。ジーザス•ピープル•ムーブメントが起こったとき初めてロックが教会の中で使われるのが許されたのです。しかしそれは十年遅すぎたのでした。

1980年代の初めに、ヴィンヤード•チャーチの創始者であるジョン•ウィンバーは「ガレージ•バンド」が教会のワーシップをリードしている幻を見ました。ガレージ•バンドとは世には知られていない才能あるミュージシャンのバンドのことです。そして確かに現代のワーシップチームは昔ガレージ•バンドと呼ばれていたものと同類です。興味深いことに、ジョン•ウィンバー自身も、キリストに一生を捧げる前はRighteous Brothersというバンドのメンバーでした。

トーチを掲げるものの台頭

2009年7月16日に私は夢を見たのですが、夢というよりは霊的体験と言った方がいいでしょう。それは私がカリフォルニア州のベイカーズフィールドにミニストリーに出かける前の夜だったのですが、自分が出席しようとしていた集会へ私は霊で連れていかれました。その体験の中で、私は黒い手の平でつかめるような電気製品を組み立てるようにと言われました。それ電気のトーチのようでしたが電流を必要としないものでした。それは聖霊からエネルギーを受けて、全く新しいレベルでミニストリーをするために用いられるものでした。

トーチにハンドルをとり付けると、 それは地上で聞いたことのないサウンドを霊の中に(あるいは霊のサウンドを)創りだしました。それは電子のピッチelectronic pitchを持ち、いつまでも(永遠に)鳴り響いていました。そのサウンドは本当に変っていたので多くのクリスチャンは腹を立て、その新しい音を聞きたくない大勢の人から私は攻撃を受けました。次の日、夢ではなく現実で私はカンファレンス場に着いたのですが、そこは初めての場所だったにも拘わらず私が霊的体験で見たのと全く同じビルディングでした。

神が新しいサウンドと新しい油注ぎを解き放たれていること、そしてそれは非常に過激的であるので、クリスチャンの多くがそれを退けてしまうということを私は知っていました。このトーチとサウンドは、新しい世代がそれを掲げて かつてなかったような神の超自然的な栄光の新しいレベルへと走っていくためにとっておかれたものなのです。私がこの夢(体験)をしたのと丁度同じ週末に、ベイカーズフィールドで一番大きな油田が発見されたのは興味深いことです。霊的に新しく非常に大きなものを私たちが今まさに発見しようとしていることを、私たちに確認させるために神はこの油田の発見を起こされ用いられたのです。

ナッシュビルからのサウンド(音楽)を過激的に変えた1970年代のカントリー•ミュージックの革命的な「アウトロー」 ムーブメントにおいても、ベイカーズフィールドが重要な役割を果たしたことも又意義深いことです。神はベイカーズフィールドのように無名で小さな町を用いたいと思っておられるのです。それらの町は変革する備えが出来ていて、神の栄光をもたらすために自分の箱から出ることをいとわないからです。

数日後に私はカリフォルニア州のサンタマリアの家に戻り、私が経験したことを妻に話しながら街を車で走っていました。信号で止まったとき、二人のティーンエイジャーが喜びの叫びをあげながらトーチをもって走ってきました。それは丁度オリンピックのトーチのようで、本当に火が燃えていて現実に私たちの目前で起こっていることでした。その時神が私に語られました。「今は『トーチを掲げて走るもの』を解き放つ時であり、彼らは神の光と愛を今までなかったほどに世界にもたらすものだ。」と。

ラジオの音楽

1990年代の終わり頃、私たち夫婦はオハイオ州のケント州立大学の近くで最初の教会を始めました。神がこの町に「ラジオの音楽」"sounds of the radio"(ラジオから流れている音楽)で福音を伝えるようにと私に語られました。そこで様々なジャンルの音楽を試したのですが、16歳のワーシップチームのメンバーがヴィンヤードのワーシップの歌詞を、ブリンク182や、メタリカ、リットというロックバンドによって流行っていたいくつかの曲につけたものを持ってきました。その成果は驚くべきものでした! 今まで私たちが慣れ親しんだのとは違うスタイルでワーシップすると、若者たちを神に結びつかせることができたのです。それはチャールス•ウェスレイ、マルティン•ルター、ウィリアム•ブースというようなリバイバリストが、賛美歌の歌詞をその頃酒場で流行っていた曲につけて人々にイエスを伝えたのと似ていました。

それから何年も経ちましたが、私は今カンファレンスの講師や伝道者として働いています。2年前に神は私に、ラジオから流れる歌をあがなって、それらの歌を用いてワーシップする方法を人々に示すようにと言われました。私はいろいろな教会で私のiPodをサウンドシステムにつなぎ、私の言わんとするポイントを示すために話の途中で音楽を流すことを始めました。私は「I Can See Clearly Now」とか「 Don’t Worry, Be Happy」というような歌の一部を聞かせたのです。私は特にトム• ペティーの「I Won‘t Back Down 」はすばらしいワーシップ・ソングであると思っています。

教会の礼拝を終えて外に出ても、こういう歌が聞こえて来たらすぐに神を賛美してどのような場所や状況にも神の油注ぎをもたらすことができるようになります。教会の音楽やワーシップチームを持つことは良いことだと思いますが、それと共に、自分たちの箱の外に出て、神が私たちやまだ神を知らない人々のために用意しておられるもっと多くのものを発見しようと努めています。

新しい音楽を歓迎する

私が聞いた天からの新しいサウンドは電子音楽でしたが、それは私たちがいつも聞くelectronic musicとは違っていました。それは丁度1940年代のビッグバンド•ミュージックから50年代のロックンロールへの大きな転換を思いおこさせるほどのものでした。古い世代の人たちは新しいロックミュージックを好みませんでしたが、やがて遂にはロックが勝ちを得ました。それから50年が過ぎた今、再び変換が起こっていてロックはテクノ technoに座を譲ろうとしています。前の世代がしたと同じように、年寄りは古いものにしがみついて新しい音と戦おうとするでしょう。

私は本当はロックが好きなのですが、娘の世代が新しい音楽を喜んでいることの価値も認めていますので、それを受け入れようと努力しています。私は50歳ですが、「ワーシップ ミックス」を創り、新しいハンドヘルド•テクノロジーを使ってDJをすることを学んでいます。面白いことに、新しいテクノロジーは黒くて小さい手に持てるサイズのもので電子音楽を創りだすことが出来ます。これは私が夢で見た天からの音を解き放つ器具そのものでした。

この新しい音はすでに地上にあるのです!クリスチャンや教会がこの神の新しい動きを以前のように拒絶しないで受け入れるならば、素晴らしい可能性が生まれることを想像してみてください。聖霊が今語られ、しておられることを「聞く耳」を神が私たちに与えてくださることを祈っています。

神よ、教会史上最大のリバイバルのためにあなたのパートナーとして働けるように助けてください!(終わり)

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# by walkwithgod | 2009-09-24 09:07 | アメリカからのメッセージ

アメリカを憂う(2)   坂 達也   2009年9月22日

アメリカを憂う(2)

                                          坂 達也 


 今年になって、それも特に最近私は、今アメリカに起こりつつあることがあまりにも重要かつショッキングであるために、ニュースを聞くたびに直ぐにも日本の皆さんに伝えなければいけないと言う衝動に駆られて来ました。(そしてその都度ぐっと抑えて来たのですが)なぜなら、それをしていると、あたかも私が政治・経済評論家にでもなってしまって霊的メッセージを二の次にしていると誤解される恐れを持ったからです。実はそれ程、最近のアメリカの政治・経済と言うより、もっと根本的にアメリカの民主主義国家、ひいてはクリスチャン国家としての国の土台そのものが激しく揺さぶられております。 

 チャック・ピアース師は8月22日に当HPに掲載したメッセージで「経済的シフトが8月の終わりまでに起こるのに気をつけていてください。8月24日から10月17日の間に、金融システムに大いなる変化があるでしょう。銀行のシステムの変化はまだ全部完了していないことに注意してください。これから構造的なシフトが加速度を増して起こります。政府機関は人々の見ている前で再編成されて行きます。」と言いました。
 ここでご注目いただきたいのは彼が「政府機関は人々の見ている前で再編成されて行きます。」と云ったことです。この預言は今アメリカにおいて「まのあたりで」その通りのことが起こっています。

アメリカではこの春、昔起こった有名なボストン・ティー・パーティーに倣ってか、各地でティー・パーティーと称する主に国の税金政策への抗議集会が持たれました。その後夏に入り、オバマ大統領は千ページ以上と言う問題だらけの内容を持つヘルス・ケアー法案を突然提案しました。問題は、議員の誰にも法案をゆっくり読む暇すら与えないで8月の夏休み休暇前に上下院を通そうとした大統領の強引なやり方に保守派の国民が中心となって大反発が起きました。それによって休暇前の法案決議は阻止されたのですが、休暇に入った8月には各地でその地方の議員を呼び出し法案の内容を問いただす「タウンホール」集会が持たれ、これが国を挙げての大変な論争騒ぎを引き起こしました。

これに加熱された国民の政府と国会に対する不信の声は、Tea Party Expressと言う民衆の抗議集会に発展し、8月28日西海岸のサクラメント市を出発点に34都市、7千マイルにわたるバス・ツアーによる集会を終えて、9月12日には首都ワシントンに集結しました。これには全国から参加した少なくとも約7万の民衆(実際は何十万人とも言われ、官公庁からの公な数字は出されていない)がワシントン・モールを埋め尽くし平和裏で抗議集会が持たれたのです。(日本ではあまり取り上げられていなかったようですが?)

このアメリカに今起こっている民衆の「むしろ旗蜂起」は単に経済リセッションとか、失業者増加、急増する国の負債への不安、ヘルスケアだけの問題ではなく、あるいは、デモクラットとかリパブリカンと言う政党支持の問題でもなく、むしろ国全体の言論の自由が脅かされ、政府に権力を集中させようとしているオバマ政権の社会主義(マルキシズム・ファッシズムとさえ取沙汰されている)に移行するのではないかという恐れと反発に発展しつつあります。抗議集会に集まる民衆は政治集団というよりも「愛国者」の集まりと言うべき人たちで、アメリカ合衆国憲法を忘れるな!守れ!の声も多く聞かれました。

リック・ジョイナー師が「今、アメリカの将来が問われる国の生死の問題にまで立ち至っていることは疑う余地がない」と言っている通り、47年アメリカに住む私自身もこのような事態は未だかって経験したことがないことに驚愕しております。
私が知っている歴代の大統領は必ずしもクリスチャンとは言えないにしても、オバマ大統領のようにはっきり反クリスチャンの大統領はおりませんでした。そしてその違いがこれほど大きいとは思ってもみませんでした。しかしメディヤの大半は気がついていないようです。この「むしろ旗」現象は過去に起こったマッカーシーイズム、ジョンバーチ・ソサエティー、ケネディー大統領暗殺、ウオーターゲート事件、2001年のテロによるワールド・トレード・センター爆破事件等のパラノイド・ポリティック(偏執病的政治現象)の一つぐらいに扱っておりますが、いずれそんな問題ではなく、アメリカの命取りとなる可能性とその大きな危険性に気が付く時が来ると思います。あるいはその時は既に手遅れになっているかもしれないません。

さて、そこで本日ご紹介したいのは、「The CALL」を主催しているルー・インゲル師が9月20日に発した緊急の警告と祈りのお願いについてです。師は今「イスラムの大きな波が押寄せて来ている」ことを指摘し、アメリカの全クリスチャンが緊急に霊的戦いの準備に入ることを呼びかけました。それは数日後に迫っている9月25日にMuslim Day of Prayer in Washington DCと称して5万人のイスラム教徒がワシントン・モールに集結し、ホワイトハウスまで行進しようと言う歴史的企画をしているからです。彼らは「イスラム教徒はホワイトハウスに行進し、そこでアラーに祈り、ホワイト・ハウスがイスラム・ハウスになる勝利の宣言をする」と言っておりますから大変な事態になって来ました。

インゲル師は「これは単なる空な言葉ではない。それは闇の霊の敵が企てる目標と計画(の集中攻撃)を物語っており、今アメリカに大きなトラブルがもたらされつつある。」と言います。師は「第一、我々の大統領は、最近イスラムの聖なる断食祈祷の日Ramadanが来ることを称え、それにイスラム教徒が参加することを奨励した。一方この大統領は、春のアメリカの伝統的行事であるクリスチャン中心の「国民祈りの日」には何も言わず、完全に無視した。」と言います。通常「国民祈りの日」に大統領はワシントンDCに全国から主な人々を招待して自らの大きな祈祷集会を持って来ましたが、今年オバマ大統領はこれをしませんでした。


今アメリカは本当に急変しつつあります。数年前からアメリカに今後起こることへの預言を受けているジョン・ポール・ジャクソン師は、師の「パーフェクト・ストーム」と題するDVDメッセージの中で、

・オバマ大統領を暗殺する計画が立てられること、
・今後アメリカの学校ではクリスチャンの祈りは禁止されても回教徒の祈りは許される 
 時代が来ること、
・そして、イスラム教徒のアメリカ大統領が2024年までに実現する

と語っております。

このアメリカの現況を、多くのクリスチャンと共に、私は深刻に受け止めております。日本の皆様にとっても、このようなアメリカの事態は単に対岸の火事として済まされないと思いますので、ぜひ緊急にアメリカのためにお祈りいただきますよう、切にお願い申し上げる次第です。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-09-22 10:07 | 坂達也からの今月のメッセージ

霊の武器のための銃弾の緊急招集 ビル ヨント 2009年9月13日

霊の武器のための銃弾の緊急招集

ビル ヨント 


これまで私たちは 様々な霊的武器を敵の攻撃に用いてきましたが、近頃私はそれに関して疑問を持ち始め、「主よ、私たちは適切な弾薬を用いているのでしょうか?」とお聞きするようになりました。武器に合っていない弾薬とは、自分が召されていない(もしくは、かつては召されていたが今はもう召されていない)ミニストリーの場所にしがみついていて、どうして自分の部隊は戦果をあげられないのだろうといぶかしく思っている人のようなものです。

より高い目的へ

時として神は私たちのミニストリーが人々から拒絶される(reject)ことを許され、それによって私たちが もっと高い主の目的にむかって飛び出せる(eject)ようにされるのです! 神は私たち(個人)が更に高くのぼるようにと常に計らってくださるのですが、必ずしも私たちのミニストリーが高くのぼるようにされるとは限りません。「拒絶される reject」という言葉は「捨てられる throw away」という意味です。「飛び出させる eject」という言葉は「勢いよく追い出す、強制的に追放する」という意味です。もしあなたのミニストリーが人々や状況によって拒絶されたと思うならば、それは、神の目から見れば、もっと高い召しに向かうために追い出されたのかもしれないのです。

最近のことですが、私はある牧師のために祈る機会がありました。彼は自分の進むべき方向に関して主からの言葉を求めていました。彼がおかれていた状況は何も聞きませんでしたが、それは私が主のみ心を正確に聞くためにはその方が良かったからです。祈っていると私はパンプ散弾銃Pump shotgunのヴィジョンを見ました。この型の銃は、パンプすると自動的に空の薬莢を吐き出し、次の弾丸を銃に詰めることが出来るのです。

この牧師のミニストリーは、本人の目から見ても、また多くの教会員の目から見ても、全く拒絶され捨てられた「空の薬莢」であると見えました。しかし、神の目には、彼のミニストリーは勢いよく放り出されて、それによって主がもっと素晴らしい方法で彼を用いられることが出来るようにされたのです。神は私たちがもっと高くのぼれるように常に計らって下さいますが、私たちのミニストリーに関してはそうとは限らないことを忘れないでください。

次に、主が牧師自身を銃に詰め彼がまだ行ったことの無いところ、使徒的な召し、に向けて発射しようとしておられるのが見えました。散弾銃の中には沢山のBB弾が入っていて広い範囲の的にあたるようにしてあるように、「ばらばらになっても増大するミニストリーもあるのだ!この牧師のミニストリーはこれから広がって行き、近くや遠くの多くの的に当たるであろう。」と主が語られました。

時として神は、私たちをもっと高い目的に用いるために,私たちの人生から現在のミニストリーを取り出してしまわねばならないのです 。現在、一見すると後退しているようなミニストリーが多くありますが、実のところそれらは違う方向に向かって前進しているのだと私は感じます! 私自身のミニストリーを始めとしていろいろなミニストリーでそれが起こっています。私が喜びを持ってしていたことが人々に受け入れないように見えたのですが、それは私のミニストリーのその部分を神が追い出されて"ejecting"、私がより素晴らしく用いられるようにしてくださったのです。私はそのミニストリーを非常に愛していたので、自分から 手放すことは決して出来なかったことでしょう。ですから神は他の人々を使って私にあきらめさせたのです! 

みんながあなたやあなたのミニストリーを拒絶しようとしている、という拒絶コンプレックスを持つのを私は勧めているわけではありません。あなたは正しいスピリットを持ち続け、神が人々の拒絶rejectionを用いてあなたを強く押し出すejectionまでは、反対する人々(あるいは反対されること)に忍耐せねばなりません。それが神の手によるものであり神のタイミングであるならば、あなたは今までの理解を遥かに超えた主の臨在と平安の「注入」"injection"を経験することでしょう。

あなたは銃弾

霊的な武器は何かと尋ね求めたときに、私はその銃弾を見つけたのでした。それは私たちです! 最近、栄光に満ちたワーシップをしている中で(にもかかわらず)、 敵を攻撃する武器の力が不足していることを感じ、それがなぜかを思い巡らしていました。すると主が「わたしの大砲にあなたを詰め込んでもいいか?」と言われているのを感じました。

これまで私たちは主の軍隊を立て上げるために、神にワーシップや祈りを捧げ、お金も出してきたように思えます。しかし、主は今、私たちが主の武器の銃弾になることを求めておられるのです。「この地上で敵を克服するためにわたしが持っているものはあなたたちだけなのだ!わたしを信頼しなさい、そしてわたしの武器にあなたを装填させなさい。」と主が言われているようです。主が必要とされるのは私たちが主に完全に服従し、主の霊的大砲や銃、戦艦に詰められ装備されることなのです。

主の銃弾になるという啓示は私を圧倒しました。弾丸は一度飛び出したら戻ってきません! 銃の中の弾は自分が撃たれた場所に戻ることはないことをよく知っているのです! 月日が経つうちに忘れてしまっていた大変重要な召しを私は思い出しました。それは神からの召しは引き返すことのない片道切符だということです。もしも引き返すことを少しでも考えるならば、私たちはきっと引き返してしまうでしょう。

神の召しを強く受けて世界の国々に宣教に出かけていった人々のことを以前読んだことがあるのですが、私はそれを思い出しました。神からの召しを真摯に受け取った人たちは、宣教地に向かう船に乗り込むときには自分の棺も一緒に積み込んだのです。彼らは自分がもう戻らないことを知っていました!もし戻ることを少しでも考えたならば、彼らは帰ってきていたことでしょう。彼らはイエスに従うことを選んだ日は、即自らに死ぬ日であることを知っていたのです。

「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしの言葉のゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」黙示録12:11

このように、主は私たちが 敵を攻撃するにあたって、片道切符しか持たないで主にどこまでも従って行くようにと召しておられます。霊の大砲、銃、戦艦が今、敵に狙いを定めて戦闘態勢に入りました。銃弾が今招集されつつあり、私たちが銃弾です!その召しに私たちは喜んで答えるでしょうか?(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-09-14 07:55 | アメリカからのメッセージ

まどろむ者よ、目を覚ませ! テレサ•フィリップス 2009年9月8日

まどろむ者よ、目を覚ませ!

テレサ•フィリップス
 


私はあるショッキングな夢を見ました。それは私をひざまずかせるのに十分でした、喜びで! その夢はこうです。私と主人が車をドライブして丘を下っていくと、私たちの横を数人の人たちが乗った車が走っていました。すると、その車がコントロールを失って橋のそばにあったコンクリートの柱にぶつかってしまったのです。彼らの車は大破しました。私たちの車もその衝撃を受け損傷を受けました。

私は直ぐに救急に電話してから、車の中の人を助けに向かいました。一人の子どもが血を流していたので、毛布でくるみ近くの病院に連れていきました。私はもう一度救急に電話をしてから、二人目の被害者を病院に運びました。病院にいるときにも又救急に電話しました。というのは、病院でも誰も私たちを助けにくる人がいなかったからです!

私は主人が意識を失っているのに気がつき、助けを呼びました!誰も助けに来てくれませんでした。私は接着テープがあるのを見つけて、腹部が大きく裂けている女性の手当をし始めました。彼女の傷口をテープでふさぎはじめたのですが、もう一度助けを呼びました、、、「イエス様」と私はささやいたのです。すると傷口からの出血が止まり彼女は身を起こしました。私はホッとしました。でもまだ誰も助けに来ません。主人が意識を取り戻したのがわかりました。子どもも目を開け息をしていることがわかりました。全員の出血はすべて止まっていました。私はもう一度救急に電話をしましたが誰も来ませんでした。

すると、私の前にカーキ色のズボンをはき、ぱりっとした白いシャツを着た男の人が立っていました。私が「ドクター、今までどこにいたんですか?」と聞くと、彼は「わたしはあなたのすることを見ていたのですよ。あなたは私がすることを許されていることよりもうまくやっていました。I was watching you … you did better than I was allowed to do.」と言いました。実のところ彼は患者を治療することを許されていない医者だったのです。病院の医療関係者たちが来てくれないので、夢の中の私は本当に腹を立てていました。

夢から覚めたとき、私の身体は震えていました。夢の意味が私にはわかっていました。何か劇的なことを神が考えておられることがわかったのです。私はもう一つの眠りから揺り起こされたのです。それは主が実にどのようなお方であるかを忘れている眠りです。今は多くの者がその眠りから目覚める時であり、私もその中の一人として入れられたいと思いました!

その時、私は主を、主の臨在を、私のまわりに感じ始めました。夢の中で私は主の名前を大声で叫びました。そうです、私は主の御名を用い、主はそれに答えてくださいました。夢の中でその結果を私は見ることができました! 私は目を覚ますときに、はっきりとそのことを意識していました。主の教会はものごとを変えることが出来る、又、変えていこうとしているのです。私は「私たちが変えるんだ!」と大声で叫びました。私たちが変えていくのであり、又、変えていかねばならないのです! シフトです!

夢の中の男性は実に私たちのよき医者である主イエスでした。主は手を出すことを許されていなかったのです。主が「わたしはある I AM」という方という明白な真理にも拘わらず、「I was」と言われたのです。聖霊が新しい啓示へと私たちを目覚めされておられることを私は知りました。私たちは「わたしはある」という方をその言葉通りに受け取っていいのであり、又、受け取らねばならないのです。


御言葉通りに主を受け取る

“モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」” 出エジプト3:13—14

神は、モーセに導くようにと託した 民のために「わたしはある」を遣わされました。それは「わたしはある」という現在形の言葉でした。即ち、今あるもの、活動しているもの、生きているもの、動いているものです。神はご自身の一部を与えられたのです。歴史を変え、時の流れを変えることになった啓示的な一瞬を神はモーセに与えたのです。神はアブラハム、イサク、ヤコブと契約を結ばれましたが、モーセにはご自分の名前を与えられたのです! 神は変わることのない神であられるのです!

聖書によれば、神はモーセに「あなたをパロに対して神(即ち、わたし)とする。」と言われました。どうしてでしょうか? それは「わたしはある」という方があなたと共におられるからです。それは主との交わりであり、パワフルであり、啓示的です! モーセは神がご自分を顕されるのを見ました。今日、多くの者が自分のための燃える柴の前に立っています。何故でしょうか? それは今多くの者は、「わたしはある」という方に働いていただく必要を見るからです 。

まさに今この時 、私たちは神がここに確かにおられることを知っています。これは非常に重要です。神は「わたしはあなたを決して見放さず、あなたを見捨てない。」と言われるからです。

「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたと共におられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」申命記31:8

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:20b


「わたしはある」という方が与えられている

「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。」出エジプト23:20−21

「わたしはある」というお方は、天の聖なる都から遣わされた天使にご自身の名前を与えられたのです!ここに「イスラエルを守るために主から遣わされた天使のミニストリー」を私たちは見ることができます。「わたしはある」というお方がご自分の名前を分け与えられたのですが、それはどうしてでしょうか? それはご自分の民を守るためでした。しかし、それだけではありません。

“神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、イサクの神、ヤコブの神、主が私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」”出エジプト3:15

代々にわたって、主なる神ご自身のパワフルな御名が私たちすべてに送られたのは、何をするためでしょうか? 神の御業を人々の中で告げ知らせるためです! 主の御名は私たちに与えられた最もパワフルなデモンストレーションです! 御名はパロの頭を下げさせます。膝をかがめさせます。癩病人を清め、病人をいやし、悪霊を追い出します。そして主の御名で願うものは何でも、主は与えてくださるのです!

主が言われます。「ああ、思い煩っている者よ、悪い知らせを聞く者よ、これに耳を傾けよ。ああ、わが子よ! 聞く耳のある者よ。

『わたしはある』が今あなたにあたえられる。『わたしはある』が今あなたに啓示される。あなたがたの中の『わたしは今ある』というお方の力と啓示をもって力ある業をするために出ていけ。病人をいやせ! 癩病人を清めよ! 悪霊を追い出せ! 心の傷ついた者をいやせ! 捕われ人を解放せよ! 『わたしはある』というお方があなたを遣わしたと彼らに告げよ! わたしはあなたがわたしの名を持つことを許す。わたしに御名を使いそれをデモンストレートする権利をあなた与える。そのことにあなたを召す!

まどろむ者たちよ、目を覚ませ! わたしが持つすべてのもの、わたしのすべてをあなたに与えよう、と『わたしはある』 は言う!」(終わり)

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# by walkwithgod | 2009-09-08 12:11 | アメリカからのメッセージ

<b>ハワイの八月</b>   坂 柚実子   9月7日

ハワイの八月

常夏といわれるハワイですが、やはり一番暑いのは8月です。しかし今年は9月に入っても暑い日が続きます。日中外を歩くのは暑く陽に焼けるので、極力避けるようにしています。

さて、このひと月ほど、主人は床をカーペットから板張りに替えるのに忙しくしていました。これは2年前にこのマンションに越してからの念願でしたので、やっとやり終えて大満足です。
部屋の半分の家具を動かしてカーペットをはがしたところと、完成したところの写真です。

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さて、遅れております日本旅行の報告を続けたいと思います。

重点的にご報告させていただきますが、奈良地区では、郡山希望チャペル(村山直樹牧師)と奈良ニューホープチャペル(木谷直也牧師)を訪れました。
私たちは木谷先生のお宅に二泊させていただき、ご夫妻から楽しく霊的なお話を沢山聞かせていただきました。木谷先生は神様から賛美の歌を沢山与えられる方で、「タンバリンと踊りで」等は神学校時代に与えられた曲で、本人も知らないうちに日本中の教会で歌われていたそうです。

郡山希望チャペルでの集会には、奈良ニューホープチャペルと奈良ベタニヤ教会(山田静男牧師)の方々も参加しての合同集会でした。この3つの教会はいつも協力しあっているそうです。ワーシップチームも合同で、木谷夫人のピアノや村山先生のドラム(ハワイのニューホープのワーシップチームでドラムをたたいておられたそうです。)等々で、素晴らしい賛美を主に捧げることができました。直也先生のドラム
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翌日は奈良ニューホープチャペルでの集会でした。この教会では近頃賛美の時に踊ることを始めたそうで、 自由に主の前で踊る人が増えているそうです。そのために前に広くスペースがあけてあります。写真
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私たちも大いに踊ったので、踊っているところに写真は撮れませんでした。(笑)
主人はメッセージの後で40歳以下の人たちのためにお祈りをさせていただきました。

今年は例年秋に訪問する沖縄を6月に訪ねました。いつものように宮里サレム教会の島袋先生、伊覇先生、兼城兄弟が出迎えてくださいました。私たちはいつも沖縄ではサレム教会の一階に滞在させていただきますが、今回も日曜礼拝や6回の集会( 家庭集会、祈祷会、聖書研究会)の奉仕を通じて、教会の皆様と素晴らしい交わりをさせていただきました。

サレム教会の砂川兄弟は高校教諭をされていた方ですが、教会での様々な奉仕に励んでおられます。家庭集会のリーダ−をはじめとして、教会の書はすべて兄弟の作品ですし、毎週のお花も彼の創作です。庭の花をたくみに使って大胆な生け花をされます。私たちはそれを見せていただくのを毎年楽しみにしております。
生け花と習字の間の砂川兄弟の写真
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又、沖縄滞在中、いつものようにジョイチャペルで集会を持たせていただきました。

大城節子先生と宮平満副牧師です。宮平先生はオレゴン州のポートランド•バイブル•カレッジを今年卒業された方で、私たちがポートランドで親しくしていた英語学校のブショア先生ご夫妻の消息などお聞きすることができました。先生のこれからの主にある沖縄でのご活躍を期待いたします。二人の写真

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金武バプテスト教会(横田盛永牧師、聖子副牧師)での礼拝は、父の日スペシャルとして横田先生が三線(さんしん)で琉球賛美を弾いてくださり、みんなで歌いました。主人のメッセージも無事にすんで礼拝が終ったときに沖縄の踊りで勝利の喜びを表すカチャーシーをみんなで踊ることになり、三人のおばあさんに続いて沢山の人が前に出てそれぞれの振りで踊りました。教会 がずっと祈ってきたことに対する答えが与えられて、皆さんが 喜びに満たされ、踊りたいという気持ちで一杯になったそうです。主人も一緒に踊っています。
先生の三線とみんなが踊っているところの写真
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(続く)


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# by walkwithgod | 2009-09-07 11:54 | 柚実子からのハワイ便り

勝利者となる霊 ポール•キース•デイビス  2009年9月1日

勝利者となる霊

ポール•キース•デイビス




この数週間、正しく2010年を迎えるためには、今年の後半が重要であることを主は強調されました。2009年の後半の六ヶ月に始めることが2010年に起こる多くのことを導き迎え入れることになるからです。

過去数年にわたって預言的に示されてきた真理を、私たちが本当に理解し実行することの大切さを御霊は繰り返し強調されました。御霊は新しい啓示を与えるかわりに、すでに私たちに与えられている預言的政策やアウトラインが実行され適用されるようにと、それらを改めて強調しておられるようです。自分が信じていることと実際にそれを実行して経験していることの間のギャップを縮める必要が私たちにはあるのです。

私は、現在の経済や霊的状況、アメリカの政治的チャレンジに関して主に訊ねましたが、どの質問に対しても「わたしの花嫁を整えなさい」という同じ答えを頂きました。もし花嫁が本当に主が召されているような花嫁になるならば、これらすべての状況に対して語っていく権威を委ねられるでしょう。そして霊的、経済的、政治的状態に影響力を及ぼし始めるでしょう。黙示録2:26—29には次のように宣言されています。

「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。 また、彼に明けの明星を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

今私たちは霊的に成長し勝利者として人生を歩むようにと召されています。私は今まで「勝利者overcomer」に関する記事を多く書いてきましたが、今もう一度私たちがこの召しに応答することに関して書きたいと思います。勝利者には恩恵と祝福が主から与えられ、それこそが私たちに繁栄をもたらし、 時代の必要に応じる能力を得させる奥義なのです。 

歴史上重要な人物というものは、ユニークにそして必要に合うようにその時代に生まれ、よってその時代の必要と問題に答えることができるようにされました。今の時代の目的のために生まれた者たちが勝利者として今こそ台頭し、この時代にその権威を用いる時です。

勝利者となる霊

今日、私たちが実際にこの世で王としての神の権威を示すことによって、神の御国を具体的にデモンストレーションできるという聖書の約束を成就する恵みが私たちに与えられ、現に実行されていることは 大きな励ましです。神のブループリントや計画の中には、 意味深い預言的約束がはっきり示されています。そしてそれらは預言者や聖書によってすでに語られています。何世代にもわたって多くの預言者や予見者が啓示の賜物を用い、聖別された人々によって神が約束されたことが完全に実現する日が来ることを預言してきました。

2000年の教会時代を通して、「時代の霊」と個人的な困難に打ち勝ち、御国に入れられ大いなる霊的祝福を受けた人々に命令と約束が与えれてきました。「勝利を得る者」という人たちは、私たちの敵(彼はしばしば神の計画と目的に似せた偽物を使う)に完全に打ち勝つという特別のデスティニーを持つ人々に与えられる注目すべき(名誉な)称号です。

ですから、「勝利する」という非常に重要な課題は、人が思うほど簡単ではないのです。人には正しいと見える道が最後には破壊に至ることがあります。主がマタイ24章ではっきりと警告されているように、真実なものに非常に似ている一つの宗教が起こり、出来れば選民をも惑わそうとするのです。

サタンの5つ目の「I will」である「いと高き者のようになろう」(イザヤ14章参照)という間違った願望と関連している微妙な偽りから端を発している偽の油注ぎがあります。熱心に宗教的活動をすることとか表面的な形とか美しさを追うこと(それはサタン自身の間違った願望であり、又方法なのですが)が大事であると思わせることによって、神が御民に約束された神のいのちを盗み取ろうという試みなのです。

歴史的に見て教会時代に起こった多くのリバイバルとか御霊の傾注はいつもこのようでした。しかし、今や「勝利者」への報いは、神の御民の「子としての特権」を盗もうとする敵の試みをはっきり見破って、サタンとその偽りに完全に勝利した者たちに与えられる時がきました。

隠されているマナ

私が個人的に特に重要だと思ってきたことは、ペルガモの教会の「勝利者」に与えられ下記の約束です。

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』(黙示2:17)

新しい名前を受け隠された秘密を知ることは、何か興味をそそられ惹かれるもの があります。それらは賢者や知恵のある者には隠されていますが、主がヨハネ15:15で約束されているように、主の友には自由に与えられるものです。

聖書の中で 新しい名前が与えられた時は、その人の性質が変わり、その人に与えられた特別の任務のために天からの徳が分与されたことを表しています。それと同じように、「隠されているマナ」はこの特権にあずかりたいと熱心に願う人々を霊的に養うために、特別にとっておかれているのです。

勝利者としての資格

今の世代に明らかにされる大いなる啓示の一つに、「勝利を得る者」とされる資格があります。ペンテコステの日以来、教会時代の各時代に託された真理のメッセージがあります。それは真理の御霊がその時代のために与えられるいのちのパンであり、人々は喜んで受けとり経験を通して理解されるべきものでした。

マルチン•ルターの時代におけるその世代へのマナは、信仰義認のメッセージでした。当時民衆は救い主と親しい関係というのではなく宗教の組織に属さねばならないという義務を課せられていたので、彼らにとってこのメッセージは 今まで聞いたことのなかった新鮮な真理でした。

その時代に続いて、ジョン•ウエスレイやジョージ•ホワイトフィールドをはじめてとして多くの者たちから聖化のメッセージがあらわれてきました。それは教会が相続人として持つ霊的特権を発展的に回復して行くのを助けるもう一つのマナが天から与えられたのでした。20世紀初頭には、異言や霊の満たしという聖霊の賜物が伴うカリズマの回復が起こりました。

各世代にいのちのパンが与えられ、そのメッシージを受け取るためにその時代の宗教的組織に打ち勝った者たちへ励ましや報酬が与えられました。これらの励ましの言葉は使徒ヨハネが天的な経験を通してアジアの教会に宛てた7つの書簡に見ることができます。これらの7つの書簡は過去2000年間の教会の歴史の霊的状態を適切な矯正、励まし、訓戒をもって鮮明に描き出しています。

御国をリアルに表す

私たちは今、ラオデキヤの教会の時代から御国がこの世に現れる時代へと移行する時代に生きています。人々が天の御国の領域と深く交わり、それによって地上に御国を実現することができるように人々を整えるためのすばらしい真理が、この時代のマナとして与えられています。

聖書が民衆の手に渡らなかった暗黒時代にあってさえ、生ける御ことばなる方 が真に純粋な心と正しい動機で主を求めた者たちに御自身をあらわされました。多くの歴史的記述がこの事実を証明しています。

使徒パウロは彼の時代のためにいのちのパンを与えるメッセンジャーとしての大いなる特権を与えられました。彼のリーダーシップと犠牲に対する報酬として、彼はその時代の「勝利者」を清純な処女として主にささげるという栄誉を受けました。第二コリント11:2に書かれています。

「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」

各時代において神の民にマナを与える使命と任務を受けたメッセンジャーたちに、これと同じ特権が与えられるのです。神が油注がれた指導的立場にあるリーダーたちにとって、今の時代のクリスチャンたちを 主が婚約されている清純な処女として整えることは、非常に素晴らしい栄誉となることでしょう。

各時代においてメッセンジャーたちは、神からの指令と真理を自分の骨の中の火のように抱き、それをどうしても伝え示さねばならないという思いをもって遣わされてきます。彼らは主の御手にある星のように、天からの啓示を教会に与えるのです。主のご性質を持つ主に似た者となるように人々を整えるための天のマナが、かつて無かったほど多くのメッセンジャーによって与えられるという約束が今の時代には与えられています。7つの教会の時代に与えられた光が何倍にも明るくされるときなのです。イザヤ30:26の預言にあります。

「主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光にようになる。」


アブラハムの忠実なしもべであったエリアザルは、これらの神のメッセンジャーを象徴していると言えるでしょう。彼は約束の相続人であるイサクのために清純な処女を得るためにメッセージと贈り物を携えて遣わされました。未来の花嫁はただの女性であってはならなかったのです。彼女はイサクの骨の骨、肉の肉となるために彼と同じ伝統と血統を持っていなければなりませんでした。

これは今も実行されねばならない完全なシナリオです。「エリアザルたち」が忠実で誠実なしもべ、神の奥義と力を持つ信頼できる管理者として現れ、輝く情熱のある花嫁を花婿なるキリストのために獲得するのです。彼らは真の「勝利者」として生き、聖書で約束されている恩恵を享受する人々なのです。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-09-01 15:51 | アメリカからのメッセージ

8月24日から10月17日の間に大変化が起こる チャック・ピアス 8月22日

8月24日から10月17日の間に大変化が起こる

チャック・ピアス



私はフロリダのオーランドで行われた「Let the Eagles Gather−預言者、使徒、とりなし手の国際的集い」というカンファレンスから戻ったばかりですが、集会の朝のワーシップの時に、主が天を開いて次のことを示してくださいました。

新しいアイデンティティーと経済的シフト

新しいシーズンにまさに入ろうとしている今、私たちは自分の新しいアイデンティティーを持つ必要があります。天から光が矢のように差しているのを私は見ます。それはあたかもあなたが歩むための光の道を主が用意されたようです。パワフルな啓示があなたの上にあり、それが動き始めています。信仰によって踏み出してください。そうすればあなたの歩む道が生き生きとしてきて、あなたは今までと違う歩き方をするようになるでしょう。ある人たちはどのように次の一歩を踏み出せばよいかわからないかもしれません。でも私ははっきり言いますが、あなたは新しい道を歩くことができ、人々はあなたが今までと違う歩き方で歩くのを見るようになるのです。

今、敵は、この世のブループリントに従って生きるようにとあなたを誘惑しています。今この世で起こっている様々な(経済的)試煉と不況のニュースに接すると、あなたの心は不信で一杯になるかもしれません。しかし、このような時でもあなたは神の恵みの中に入ることができ、それを見て世の人々があなたに助けを求めてくるほどになるのです。

経済的シフトが8月の終わりまでに起こるのに気をつけていてください。8月24日から10月17日の間に、金融システムに大いなる変化があるでしょう。銀行のシステムの変化はまだ全部完了していないことに注意してください。これから構造的なシフトが加速度を増して起こります。政府機関は人々の見ている前で再編成されて行きます。

あなたのともしびに常に油を用意せよ

主が言われます。「あなたはこの国に敵を入らせ、敵が自分の軍隊の多くを集結するのを許してしまった。あなたは敵が入ってきて、敵の哲学(やり方考え方)とか思考パターンで生きる大勢の人たちが出てくるのを許してきた。だから今、あなたは今までとは違った新しいやり方で活動し集まらねばならない。」

なぜならば、この国に対してのわたしの契約に基づく保護政策はもはや無くなったからだ。わたしの契約であった保護政策はもはや無いのだから、あなたは別の新しい方法で集まり始めねばならない。」(ピアス師注:これはもはやアメリカだけを指しているのではなく、神の御国の民への言葉だと私は思います。)

「わたし、主は、あなたを新しい方法で招集し、集めはじめる。あなたはわたしと共に前進せねばならない。この再編成に抵抗してはならない。今わたしはあなたをもっと高い所に引き上げねばならない。それはあなたがこの世的な目でしか物事を見ていないからだ。わたしはあなたをあたかも鷲が集まってくるように集め、あなたが新しい力とヴィジョンをもって進めるようにせねばならなくなったからだ。

わたしはあなたを河川よりもずっと高いところに引き上げねばならない。なぜならば河川は今どんどんと満ちてきていて、あなたが高いところに上って地球を新しい形で見始めなければ、あなたは自分がいるべきでない場所にいる自分を見いだす結果になってしまうであろう。

あなたが今いる場所に雨が降ってくる。それによって今あなたは高く上げられ、それによって自分の将来への境界線が変って行くのを見る事が出来る。わたしはあなたを流れ落ちる滝よりも高く引き上げる。御言葉の水による洗い清めは、あなたが知っている以上に高いところから流れてくる。

あなたはもっと(わたしに)近づき高く上ってこなければならない。それはあなたをわたしの軍勢とアライン(一致)させねばならないからだ。わたしはあなたを天の軍隊とアラインさせねばならない。天にはわたしの軍隊がいる。わたしがあなたを将来をつくる境界線に送り込む前に、まずあなたがその軍隊とアラインするのをわたしは待っているのだ。わたしはあなたを調え形づくってきた。わたしは将来に向けてあなたを備えるためにあなたを調えてきた。あなたのともしびの油を常に用意しておきなさい。」

これは神があなたを正しい側に(しんがりではなく先頭に)立てるように調える準備のための集会です。将来これが神の御国をあらわすものとなるでしょう。主はあなたの内の深いところに働いておられ、やがてそれをあなたがこの世に現すようにされます。主はご自分が働かれる方法(mode of operation)を今シフトされようとしています。それは、主の様々な知恵を今まで以上に多様に現わすことによって、ご自分の民がより効果的に働けるようにするためです。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-08-22 07:14 | アメリカからのメッセージ

水がワインに変えられる時  坂 達也  8月17日

水がワインに変えられる時

                                                       坂  達 也


イエスが最初になされた奇跡はカナでの婚礼の宴においてでした。その婚礼には当初からイエスの母が係わり合っていて、イエスとその弟子たちも招かれていました。宴会はたけなわとなりました。しかし用意されていたワインが無くなったのに気が付いたイエスの母はイエスの元に駆け寄り、ただ一言イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げました。(ヨハネ2:3)

このお話は色々に解釈出来ると思いますが、一つ私が確信することは、このお話は多分に預言的であることです。冒頭のヨハネ2:1で「三日目に」と言う言葉が書かれておりますが、これが二千年(二日)が過ぎて三千年目に入った今の時代を表していないでしょうか。

私はイエスがされたこの最初の奇跡のお話に昔から大変興味をいだいて参りました。私の著書「キリストの弟子」では、主の再臨の際に天で行われる「小羊の婚姻」のことを踏まえてイエスはこの奇跡をされたのではないかと云う解釈をご紹介しました。
イエスと共に婚礼に招かれたのはヨハネ、アンデレ、ペテロ、ヤコブ、ピリポ、ナタナエルと言う最初の六人の弟子たちであったと考えられますが、この六人の弟子が六つの石のかめとして登場し、彼らは私たち「キリストの花嫁」を代表していると解釈出来ます。つまり、このカナでの婚姻に弟子と共に招かれたイエスは、三千年目に入った時に実現するご自分と「キリストの花嫁」である弟子たちとの婚礼の宴会のことを考えておられたのです。

ですから、母から「ぶどう酒がなくなりました」と告げられた時、イエスは「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)と答えられと思うのです。確かにその当時は「イエスご自身の婚姻の時」ではありませんでした。しかし、三日目に入った今こそ「わたしの(婚姻の)時」が近づいて来て、そのためにイエスが弟子と言う水がめに入った水をいよいよワインに変える本番の時が満ちたように思えます。

興味があることに、その時用意された六つの石の水がめに就いては「ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった」(2:6)と説明されており、これは平均的な人間の身体の水分とほぼ同量なのだそうです。六と言う数字は人間を表すと言われますが、その人間の中でも特別に選ばれたキリストの弟子(六つのかめ)に先ず御言葉の水をフルに与えなさいとイエスは命令されました。そのように御言葉で詰まった「イエスの弟子たち」をイエスはワインに変えられるのです。この「新しいワイン」に変えられた人間たちこそが真の「キリストの花嫁」であり、彼らは「新しい皮袋」となって奇跡を起こす力に充満するのです。それは御国のためにイエスが用いられるからです。まさに「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(1コリント4:20)が実現します。

ここで、カナの婚礼で「用意されていたワインがなくなったこと」の意味について考えてみたいと思います。イエスがこの世に来られ、教会が始まって以来二千年が経ちました。この二千年間は、云ってみれば「人間文明の最盛期」でした。しかし今人間たちが用意し大いに楽しんで来た「この世の」ワインがついに底をついたのです。この世が今、政治・経済だけでなくモラルを含むあらゆる面で末期的症状を呈していることは明らかです。

一方、教会と言う見地から見た場合はどうでしょうか。今までの教会は時折聖霊の油注ぎを受ける(ワインを飲む)ことによって主の御業を行っては来ましたが、いつも油注ぎで満たされている訳ではありませんでした。こうして二千年間「教会」が用意して来たワインは必ずしもイエスによって醸造された純粋なものではなく「人間的要素が混じった」霊的に力の弱いワインであったと云うことが出来ないでしょうか。しかし、ここに至ってそのような未完成で薄められたワインもついに出尽くしたのです。言い換えれば、今までの教会のやって来たことをこれから幾ら努力し続けても、出るべき力が増さないことが明らかになって来たのです。
クリスチャンは自分たち教会のワインが美味しいと思って来たとすれば、本当のイエスのワインがどれだけ美味しいか、その味を知らないのです。

世の終わりに際しこの世を御国に変えるために必要な教会とは、人間的に薄められたワインを飲む弟子たちの集団では用が足りません。これからの教会は内側が完全に「イエスのワイン」のみで満たされる人たちでなければならないのです。


そのワインとは聖霊をあらわしています。イエスによって「水」が「新しいワイン」に変えられた人たちはものすごい爆発的な力を内蔵し、それは聖霊によるものです。「・・・・武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。大いなる山よ、お前は何者か/ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば/見事、見事と叫びがあがる。」(ゼカリヤ4:6、7新共同訳)

そしてそれは純粋に主の霊でなければならないのです。そのことがイザヤ11:2、3 で、「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、・・・」と書かれている通りです。私たちは、イエスの霊で完全に満たされる器、つまりイエスそのものに変えられなければなりません。

最近の一週間、このようなことに思いめぐらしている中で、数日前ですが8月14日の午前二時近くに私は主に起こされました。そしてひざまずくと主は既に上記に述べたことへの多くの確認を下さり、又、次のような啓示を受けました。今その時書いたノートのメモを見ますと、

「ワインは葡萄の実を潰して成熟させたもの。御言葉と言う水は私たちの体内でその葡萄の実の成熟したもののように変えられなければならない。・・・良いワインとは人のため、人が飲んで喜ぶもの、私たち花嫁は、キリストが賞味して喜ばれるものにならなければならない。」

「人間のやり方では最後は破綻する。唯一成功するのは神のキリストのやり方だけ。目標- 成熟 ―イエスによってイエスのようになること ―完成」

「真の婚姻の時は近づいているが今は未だその時ではない。しかし、イエスは自分の時でなくても、母から頼まれれば奇跡を起こされた。私たちは花嫁としてキリストと母の関係と同じぐらい親蜜な関係になれる。そうなる時、主の時でなくても(アウト・オブ・シーズンでも)必ず主は私たちの願いを聞かれ奇跡を起こして下さる。」


最後にヨハネ2:8-10で、イエスは自らワインに変えられた水がめのワインを「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と言い、手伝いの者たちに持って行かせると、その味の良さに驚いた世話役は花婿を呼んで、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」と言いました。
 
ここで云う「宴会の世話役」とはこの世を取り仕切る王たちに例えられると思いますので、御国の王であるイエスはイエスのなさること(イエスのワイン)がどれだけすばらしいものであるかを、新しいワインに満たされた弟子たちが実行してこの世の指導者たちに見せなさいと言われていると解釈出来るのではないでしょうか。
御国が来てイエスがこの世を治める王となる時、それがどんなにすばらしいものであるか、聖書はその王国が来ることを私たちに約束されておられますが、神はその最もすばらしい聖霊の実であるワインを最後の最後まで取って置かれるのです。そのために主は今、主に従順で忠実な者である「真の弟子」だけを求めておられます。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-08-17 14:56 | 坂達也からの今月のメッセージ

御霊により歩む   ジョアン・マクファッター 8月16日 

御霊により歩む

ジョアン・マクファッター 



どのくらい 御霊によって歩むことができるかどうかは、 何よりも私たちが主の御霊をどれほど知っているかによって決まります。黙想や交わりによって御霊をよく知る事により、私たちはますます御霊と一つとなり、御霊の方法や御声を知り、御霊が私たちの内において、又、私たちを通してどのように働かれるかがわかるようになります。
  
御霊にある自分の内なる人を建て上げる方法を理解するにしたがって、私たちは黙想、異言、ワーシップ、御言葉の学び等を通して、出来るだけ主の御霊と頻繁に接し、交わるようになります。主と同じ思いを常に持つためには、聖書全体や歴史の中で 主が人間とどのように関わってこられたかを調べて、 主がどのようなお方であるか、又、主が御自分をどのような形で表されるかを、十分に知ることが非常に大切です。

主の御霊について学ぶならば、御霊がある人に臨まれるとその人の力だけでは不可能だったことが出来るようになることがわかります。ゼカリヤと話した天使はこの真理をよく説明しています。

「すると彼は、私に答えてこう言った。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。「権力によらず、能力によらず、わたしに霊によって。」と万軍の主は仰せられる。』」ゼカリヤ4:6

その人に本来の賜物が何であれ、今までの力以上の能力が御霊により増し加えられます。聖書の中で主の御霊が多くの人たちに臨まれてどのような事が起きたかを見てみれば、それはギデオンからエゼキエル、ダビデ、イエスにいたるまでであり、主は人を偏り見る方ではないことがわかります。多くの者が御霊を受けましたが、今、そのうちの幾人かの例を見てみたいと思います。

主の御霊

主の宮の職人であったウリの子ベツアルエルに関して次のことが書かれています。

「(わたしは)彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。それは、彼が、金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」出エジプト31:3−5

これに続いて、知恵を授けられたすべての職人のことが述べられています。知恵はイザヤ11章に書かれている主の御霊が持つ特長 の一つであり、創造力と技術を 彼ら本来の力を超えて豊かに与えるものでした。

「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、、」
イザヤ11:2−3

肉の」目や耳で見聞きしたことで物事を判断しないという事と、主の御霊が私たちの上にとどまることとが並べられて同じこととして書かれているのは興味深いことです。勿論そのことはいつも言われていることですが、実際に実行することは私たちにとって非常に難しいことのようです。同じことを私が繰り返し繰り返し云うことは壊れたレコードのようで嫌なのですが、それはやはり私たちの中にしみ込んでしまっているギリシャ的(西洋的)思考パターンに由来しています。

聖書にはまた、モーセの上にあった主の霊が70人に分与されたことが書かれています。それはリーダーとしての能力に関するものであり、70人の長老たちには御霊が与えられる前には備わっていなかったものであることが明らかです。

「すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その70人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった。彼らは宿営の中で恍惚状態で預言した。」民数記11:25−26

これは、御霊の働きは時間と空間に制限されないこと示す驚くべき出来事です。長老として登録されていたにも拘わらず何らかの理由で天幕に来なかった二人の上にも、御霊が全く同じように臨まれたのです。私たちが往々にして 作り上げる物理的な壁を、御霊は飛び越えることを示すばかりではなく、「雲の中」即ち、礼拝の場である神殿、で与えられるものは、マーケットプレイスでも与えられることを意味していると私は思います。両方の場所において御霊は同じように与えられ、しかも同じ結果を生み出しました。他の長老たちには面白くないことだったかもしれませんが、御霊の思いは神の目的に適ったものだったのです。

明らかに彼らの上に御霊が与えられたのは、ある一つの能力、 リーダーシップの分与のためでした。しかしながら、それは彼らの心の動機を完全なものにすることはありませんでした。御霊がされたことに対する彼らの怒りは、「集会に来なかった」にも拘わらず同じ御霊を分与された二人に対する反応を見れば明白です。これこそが私たちが自分に死んで主のされる事を完全に受け入れるというプロセスによって訓練されることが非常に重要である理由です。御霊の油注ぎを受けても、その油注ぎを持つにふさわしい徳を持つ者になることは保証されていないのです。キリストに似た者になる努力をするのは私たちに与えられている責任です。

御霊によって歩む

御霊によって歩むとは、ただ単にしるしや不思議、奇跡、リーダーシップ、賜物、預言等ではなく、それを超えたものです。それは私たちが「 する事」ではなく、むしろ私たちが「 どのような者か」ということなのです。御霊によって歩むということが、能力だけではなくこころheartと関係していることが、最近やっと人々に理解されてきたように思われます。御霊によって歩むことは、今までは教会の中ではあまり見られなくなっていました。しかし、主が注ぎ込もうとしておられる油注ぎを持ち運ぶためには、主の御前に常に立つことがどれほど必要であるかを私たちがようやく理解するようになったのは、大変喜ばしいことです。

主の御霊を自分の上、又は内に受けた人々について聖書を調べることをお勧めします。それをすべて 書く事はできませんが、これから来ようとしている御霊の注ぎを受ける備えとして 自分を主にあって確立させるために考えるべきものをあなたはきっと与えられるでしょう 。今ここで、ダニエルにスッポトライトを当てたいと思います。

まず第一に、王が探していたのは「身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者」でした。(ダニエル1:4)

それから王は、彼らが当時の習慣にしたがって出来うる限り最高の食事を与えられ教育されることを望みました。しかしダニエルと三人の友人たちは、主の御こころはそれとは違うことがわかり、立ち上がり、彼らが生かされていた時代にあって御霊によって歩む道を選びとりました。聖書には、王の命令とは全く異なる主からの言葉をテストすることを許されるという恵みもダニエルは受けたと書かれています。私たちが御霊の声に従うときには、必ず恵みが伴うと私は信じます。

そして端的に言えば、「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢を解くことができた。」という結果になったのです。(ダニエル1:17)

ここで注目したいのは、彼らが持っていたものは「神がそれらを与えられた」ということです。権力や能力によるのではなく、主の御霊によって彼らは与えられたのです。他の者たちが人間の思いに従ったときに、彼らは聖書にあるように御霊の知恵に従い、その結果10倍もまさった者になりました。(20節)そればかりか、彼らが火の中に投げ込まれた時には物理の法則をも超越したのです。彼らはこころ、身体、霊に秀で、いわゆる「超自然」の領域に生きていました。それは御霊によって歩んでいた当然の結果にすぎないと思います。

その結果、ダニエルは すべてのものを備えました。身体、思い、魂、霊のすべてを備えていたことにおいて、彼は御霊によって歩んだ者の最高の手本となりました。

「あなたの王国には、聖なる神の霊の宿るひとりの人がいます。あなたの父上の時代、彼のうちに、光と理解力と神々の知恵のような知恵のあることがわかりました。ネブカデネザル王、あなたの父上、王は、彼を呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長とされました。王がベルテシャツアルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから、今、ダニエルを召してください。そうすれば、彼がその解き明かしをいたしましょう。」ダニエル5:11−12

すばらしいことは、神があなたを創造された目的が何であろうとも、あなたが御霊によって歩むことを選び取るならば、あなたは御霊によって生きる喜びに与りつつ、この世でのあなたの能力も増し加えられるということです。神は霊の世界とこの世の二つの領域が共に支え合うようにと始めから計画されましたし、私たちは二つの領域でフルに機能できるように造られていると思います。それは私たちの前に備えられたチャレンジであると同時に招きでもあります。今家庭で育児をしている人であっても、科学研究所で何かを発見している人であっても、また路傍伝道をしている人であっても、世界をあっと言わせるような芸術作品を造っている人であっても、すべての人にとってそうなのです。

最終的には多くの人々は権力や能力によってではなく、主の御霊によって捕らえられるのです!(終わり)

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# by walkwithgod | 2009-08-16 07:03 | アメリカからのメッセージ

クリスチャンのつとめ   グラハム・クック  2009年8月7日

クリスチャンのつとめ

グラハム・クック


クリスチャンとしての私たちのつとめは、この世で神の栄光を現していく者になることです。 神の満ち満ちた様をフルに受け取り、その慈しみと憐れみを人びとの中に具現していくことこそ、私たちに与えられている特権です。ヘブル1:3で「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、、」と教えています。又、ヨハネ14:9ではイエス御自身が「わたしを見た者は、父を見たのです。」と言っておられます。

キリストが私たちの内に形作られるにつれ、私たちは神のご性質を持つものとなっていきます。イエスの二つの偉大な言葉、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」は、ただ単に命令であるだけではありません。それは神が私たちをどのように愛されるかという神からの約束でもあるのです。神は私たちを、私たちが生きる限り、神の心と思いと知性と力を尽くして愛してくださるおつもりなのです。また、私たちがそれと同じ愛で神を愛する 能力を持つことをも神は保証してくださっているのです。神が心を尽くして私たちを愛してくださる時、私たちも心を尽くして神を愛することができます。神が思いを尽くして私たちを愛してくださる時、私たちも思いを尽くして神を愛することができるのです。

このような愛は私たちを変えます。私は静かに座って神について考える時、私は思いを尽くして神を愛することを心から楽しんでいます。私は一年のうち4ヶ月間、神を黙想してすごします。私の家には小部屋があるのですが、私はそこに入って黙想します。一日中その部屋を出ない日もあります。黙想とは、一つのことに関して深く考えることに他なりません。じっと座って、神とは誰か、どのようなお方であるかを考えるとき、神は自らを顕され、神が私をどのように思われているかを話さずにはおられなくなるのです。神も私たちをご自分の思いを尽くして愛してくださっているのです。神が私たちのことを思う思いは、すべてよきものであり純粋なものです。

第一ヨハネ4:16に、このような愛が私たちに与えるすばらしい結果について書かれています。「私たちは私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」神は私たちを救うために一人子を賜ったほどに私たちを愛されました。そして次に聖霊をくださり、聖霊の内にとどまることを会得すれば、私たちは聖霊により慰められ導かれることができるようになりました。

私たちのうちなるすべてのもので神を愛することの自然な結果は、私たちが回りの人びとをも同じように愛するようになることです。神が私たちに注いでくださる愛の豊かさは、この世への愛となって溢れ出るはずです。私たちは神から途方も無く愛されているので、他の人びとを愛することができるのです。私たちが身体、思い、魂、力を尽くして真に神を愛するならば、私たちの認識、感情、考えの中にブレイクスルーが起こるはずです。

私たちが大きな失敗者、敗北者であればあるほど、神の愛の中に生きるように変えられるシフトはダイナミックになります。父なる神がそういう私たちをご覧になると、その心は愛で一杯になります。神は私たちが持っている弱さを見ると、その弱さを克服するために必要なものを私たちにすぐさま与えてくださりたくなるのです。第一コリント1:27に「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」とある通りです。神は「わたしはあなたに欠けているものを知っている。それを完全なものにするギフトをわたしは持っているのだ。」と言われます。 

すべてのクリスチャンが、主がどれほど私たちを愛しておられるかという啓示を受けとり、その愛を実際に体験することが今緊急に必要とされています。神の愛はあなたが救われた時点で頂点に達したのではありません。救いは神の深い愛と憐れみを知る長い旅路の最初の一歩に過ぎないのです。神の過激的な愛は多くの罪を覆います。私たちの人生でうまくいかないあらゆることは、神の愛によって覆われるのです。聖霊はこれらのことを受けて私たちに示してくださいます。私たちが次に神の愛を必要とする領域が何であるかを聖霊は示してくださるのです。聖霊は私たちを真理へと導き、私たちのうちにキリストを顕すことを喜ばれます。 

私たち一人ひとりに対する神の愛は非常に深いので、すべての失敗を飲み込み、罪を覆い、弱さを克服し、私たちを「主に愛される者」としての驚くべき地位に着かせてくださいます。私たちは本当にパワフルに愛されていて、神は私たちを大喜びで受け入れてくださり、私たちを信頼してくださることは絶対に変ることはありません。神のご性格は非常に力強いので不可能なことは何もありません。敵を愛することさえも私たちには可能なのです。

マタイ5:16に「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と書かれています。神のご性質が私たちのうちに宿るとき、この経験のすばらしさを私たちは喜び分かち合うことができます。そして神の栄光が私たちの個性の中に輝くのです。

はっきり言わせてください。:神のDNAが私たちのうちにあることを証明する唯一の証拠は、私たちが自分自身をどれほど愛し、また、他の人々をどれほど愛するかというこの一点以外にはありえないのです。(終わり)

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# by walkwithgod | 2009-08-07 15:52 | アメリカからのメッセージ

反抗の根を取り除く祈り ポール・コックス  2009年7月31日

反抗rebellionの根を取り除く祈り

ポール/コックス



【はじめに:坂 達也から】
1サムエル15:22、23に「1サムエルは言った、『主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。 そむくことは占いwitchcraftの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』」とありますが、「主の御声に聞き従わずにそむくことrebellionがどうして占いの罪に等しい」のか、その意味について私は長い間疑問を持って来ました。それを今回コックス師がよく説明してくれています。

主の御声を聞いてそれにそむくことがどれ程大きな罪であるかはモーセ五書、特に申命記28:15に書かれていますが、これによって大変なのろいがかかることが明記されています。
罪とのろいが残る地をイエスの血潮できよめることが私たちの祈りの歩行の重要な任務ですが、同時にヘンリー・グルーバー師は自分と自分の家系の罪の赦しを乞い、それを宣言するという大変重要な祈りをクリスチャンの一人一人が行うことを強調しています。(私が編纂した「祈りの歩行の手引書」の最後のページに書いてあります。)
コックス師はそれを別の形で説明してくれていますので、この「そむく」こと=のろい=占いの罪=諸悪霊がクリスチャンであっても私たちを襲い、住まいとすることが許される、と言う恐ろしい図式が存在することをよくご理解いただきたいと思います。ついてはこのメッセージを読まれて、コックス師が作成した「反抗・反逆の根を取り除く祈り」をぜひ主の前でされることをお勧めします。(まえがき終わり)



その時、私はアメリカン航空で空中にいました。ドイツとスイスでのミニストリーからの帰途だったのですが、耳鳴りがしていました。内耳に問題がある症状かな、と私は思いましたが、耳鳴りは家に着いてからも続き、それから何日も止まらなかったのです。夜が一番ひどく、どうにか眠ることは出来ましたが、寝付くまでにかなり時間がかかりました。

耳鳴りが始まってから丁度40日目、私はフロリダのデイランドの教会で小さなグループを教えていました 。私は耳鳴りにずっと苦しんでいることを話し、これに対処する何かよい方策を知っていたら教えてほしいと頼みました。するとその中の幾人かが、近くの町で「魔術の要塞」に対して祈った経験を話してくれました。 お互いに詳しく話しをしてみたところ、驚いたことに、彼らが 敵と対決する祈りをしたのは、私の耳鳴りが始まったまさにその日だったのです。そして、 耳鳴りがしている日にちを数えたところ、きっちり40日経っていたことがわかったのです。

啓示がどんどんと与えられ始めました! 驚くべき事がわかりました。私は実は魔術 witchcraft.を聞いていたのです。私の耳鳴りは魔術だったのです!その啓示によって悟りが与えられはじめました。この敵と戦うための祈りを作り上げる時がきたのです。

占いと魔術

魔術とは何であるかをもっと理解せねばならないことは明らかでした。魔術あるいは占いの定義は、何かのしるしを解読したり、超自然な力によって 未来 を予知したり予言したりする技術、実践です。聖書でこの言葉は創世記44:5に最初に出てきます。ヨセフがベンジャミンの袋の中に入れた杯を家の管理者にとりに行かせたときのことです。管理者はこの杯は占い(divination)のために使われたものだと兄弟たちに言うようにヨセフから指示されました。

ニューバイブル辞典によれば、「占い divination」という言葉は、時間的空間的にかけ離れている事柄を知ろうとすることであり、故に一般の方法では知ることができないことであると定義されています。ですから預言者が予知の賜物をもっている場合のように「義なる正しい」ものもありえるわけです。しかしこのように特殊な場合を除いて、占いや魔術は聖書では厳しく禁じられています。

魔法や占いは、人間を超えたものから力や情報を得ようとすることです。もっとはっきりいえば、魔術は自分が願うことをある神(a god)にしてもらうために使うものであり、占いは人間には知ることができない事柄や情報を得ようとして使われるのです。魔法(magic)という言葉は、古代ペルシャの祭司職であったmagusに由来しています。魔術においては、人は神々(gods)と交信することができ、 魔術師や占い師は神々に働きかけて自分に益をもたらすようにしむけることができると信じられています。

占いは2種類に分類することができます。インターナル(内的)とメカニカル(物質・現象的)です。インターナルではシャーマンのようにトランス(夢見心地)状態が起こります。メカニカルの方は、砂や生け贄の内蔵、お茶の葉というような物体を用います。聖書の中には数種類の魔術や占いに関する記述があります。

棒うらない(Rhabdomancy)棒や矢を空中に投げて、それが落ちた場所によって吉凶を占う。ホセア4:12、エゼキエル21:21

肝うらない(Hepatoscopy) 生け贄の肝臓やその他の内蔵から占う。形や模様によって分類され、祭司がそれを解読する。エゼキエル21:21

家神像うらない(Teraphim)死んだ祖先の像を使って未来を予測する心霊術の一つ。第一サムエル15:23、エゼキエル21:21、ゼカリア10:2

巫術(Necromancy)死者から情報を得る。申命記18:11、レビ記19:31、20:6、第一サムエル28:8、第二列王記21:6、第一歴代誌10:13、イザヤ8:19−20

占星術(Astrology)太陽、月、惑星の星座に対する 位置関係や互いの位置関係により予測する。

水うらない(Hydromancy)水の中の模様で占う。 創世記44:5、15


背きと占い

次の注目すべき箇所で、サムエルは占いに関する深い理解を与えていてくれます。サウロはまたもや主の御こころに従いませんでした。彼は羊をすべて聖絶せよという主の命令に従わなかったので、サムエルは彼を叱責したのです!

「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。」第一サムエル15:22−23

即ち、魔術は反抗と同じだということになります。しかし、どのようになのでしょうか? 反抗あるいは反逆とは「権威のある者に反対・反抗すること」です。ヘブル語の mariy(背く)は「反抗する、論争好きな、制御できない、不従順な、逆らう」という意味を持つmarahの派生語です。この言葉は神の命令されたことに対して反抗するという意味で最も多く使われています。それでは魔術と反逆との関係は何でしょうか?  なぜ占いが背くことなのかという説明を長年にわたり私はいろいろと読んできました。正直なところ、それらの説明は興味深くはありましたが満足のいくものではありませんでした。 その日主は何か新しいことを教えてくださろうとしていたのです。

私はその時、ある人のために祈っていたのですが、私の手を彼の左の耳のそばにかざすように主から示されたと感じました。主の導きに従ったときに私に油が注がれたのを感じてびっくりしたのですが、それ以上に驚いたのは、手をもう少し耳から離したとき、 そこに魔術が働いていることを見分けることができたのです。そして突然、私は主から一つの啓示を受けとりました。代々家系に流れている(神への)反抗・反逆は、私たちから油注ぎを取り去る権利を敵に与え、そればかりかその油注ぎは魔術へと変換されるのです。そして更にその魔術は私たちに敵対するものとして送られてくるのです。魔術は実際に反逆・反抗と同じなのです!

更に啓示が与えられました。主が教えてくださった魔術の諸派を調べて、私は「もし何者かが私たちから油注ぎを盗んでそれを魔術に変えているとしたら、それは一体誰だろうか?」と考えました。魔術が働いている中で、実際に何かを感じて私は驚きました。 その存在の霊的アウトラインを感じ、私はそれが「霊的勢力spiritual force」であることがわかりました。

霊的な勢力に関しては、エペソ6:12に「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊(悪い霊的な勢力、the spiritual forces of wickedness in the heavenly places.)を相手にするものなのです。」と書かれています。(訳者注:Cox師の引用している英語の聖書では“spiritual forces”と書かれていて、一番それに近い日本語訳は新共同訳ですので、それを上記で使いました。)

これら は「空間を超えた」(天との中間的次元の)存在だと私は信じています。なぜならば、聖書には彼らが「天のいろいろな場所で」戦うと書かれているからです。これらの堕ちた「霊的勢力」は主の油注ぎを歪め悪用し、油注ぎを堕落させ魔術に変えてしまうのだと思います。

それから丸一日私たちは話合い、祈りを作成し、それをみんなで祈りました。私は自分に何か変化が起こるのを待ちましたが、何も起こりません。何かが間違っていたのでしょうか?その夜ベッドに入ったとき、私の耳鳴りはまだ続いていました。こんな状態で生きていけるのでしょうか?(しかし) 翌朝目覚めたとき、何か変化があるのに気がつきました。耳鳴りがないのです。祈りは効果があったのです!


「反抗・反逆の根を取り除く祈り」

これが 私たちが作成した祈りです。


主イエスキリストの御名により、私の家系、先祖代々からのすべてが犯した偶像礼拝の罪を悔い改めます。

私の人生や私の先祖の中で、魔術に寄与してきた私個人また、先祖のすべての反抗、頑迷さ、不従順を悔い改めます。

他の人々の知性、身体、性格を羨んだり妬んだことの一切を悔い改めます。

自分自身を崇拝したことや他人から認められたいと願ったことを悔い改めます。

他人の霊的賜物や能力を羨んだり妬んだことのすべをて悔い改めます。

私自身や私の家系の中で、霊的又は(五感を通しての)肉的感覚の門を守らなかった者のために悔い改めます。

主の御こころよりも自分の思いを選んだことを悔い改めます。

私は誰に対しても、互いに愛し合うこと以外は何の借りもつくらないことを選びます。

やみのわざを打ち捨てて、光の武具、即ちイエスキリストを身に着け、肉の欲を満たすためのいかなる言い訳もしないことを選びとります。

私は神が私に与えて下さった恵みと油注ぎに従ってのみ歩むことを選びます。

私は主にある兄弟姉妹と一致をもって歩むことを選びます。

私はキリストに従い、愛の人生を生き、自分よりも他人を尊ぶことを選びます。

私は主に真心から仕えるために自分の権利を放棄することを選びます。

兄弟愛をもって心から互いに愛しあい、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思うことを選びとります。

勤勉で怠らず、霊に燃え、主につかえます。望みを抱いて喜び、艱難に耐え、絶えず祈りに励みます。

私は聖徒の入用に協力し、旅人をもてなします。私を迫害する者を祝福します。喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しみます。信ずる者と一つ心になってハーモニーの中に生きます。

私は高ぶった思いを持たず、身分の低いものと交わります。私はうぬぼれません。悪をもって悪に報いません。すべての人が良いと思うことを図ります。すべての人と平和を保ちます。自分で復讐をしません。

そこで主よ、今まで私と私の先祖の偶像礼拝、反抗、ねたみによって力を得ていたすべての悪霊ども、策略をどうか取り去ってください。

主よ、どうかすべての悪の組織から私を切り離してください。私は敵と私が住まいを共にしていたすべての悪の関係を断ち切ります。

主よ、どうか先祖代々から受け継いできた善悪の知識の木を取り去ってください。

主よ、私にからみ巻きついてきた死のひも、私を溺れかけさせた滅びの急流、私に巻き付いたよみの綱、私にしかけた死のわなを断ち切ってください。

主よ、私自身と私の先祖の罪の故に取り去られ悪用されたすべての油注ぎ、エネルギー、権威、財政、健康を今私は取り返します。

主よ、私を封印(シール)のようにあなたの胸に、あなたの腕につけてください。あなたの愛は死よりも強いのですから。

主イエス/キリストはいっさいのものの上にたつかしらであり、すべてのものの主であることを、私は宣言いたします。

この祈りは次の聖書箇所を基礎としています。創世記2章、申命記4:15−20、第一サムエル15:23、詩編18章、エゼキエル8:1−6、ヨハネ17章、ローマ12:3、10-19、ローマ13章、エペソ1:22、エペソ4:12−13 (終わり)


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# by walkwithgod | 2009-07-31 12:05 | アメリカからのメッセージ

世界経済の行方と御国の教会   坂 達也  7月27日

世界経済の行方と御国の教会
                                             坂  達 也



今回の日本旅行で私はアメリカの経済の厳しい現況を報告しつつ、この世の経済と神の経済がどのように違うかに言及させていただきました。2007年秋に始まった世界的経済不況は未だに混沌としております。2009年の最初の四半期の深刻さに比べ、第二四半期のデータの幾つかがほんの僅か持ち直したのを見て、ある人たちは、今年の秋には回復の兆しが出ると言う楽観的な見方を表明していますが、私は今回の世界経済の「揺り動かし」はもっと抜本的なものであり、神はこれから終末に向けて、この世をもっと悪くされるご計画ではないかと申し上げました。
「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢」とヨエル書2:25に書かれていますから、この世を悪くするための経済不況を送られたのも主であっておかしくないはずです。

さて、マタイ5:13でイエスは、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と言われました。

 私たちクリスチャンはこの世において「地の塩」「世の光」でなければならないとイエスは強調されます。今ほどそれが重要な時代はないと思います。上記の御言葉は主が山上の垂訓として語られた一連の教えの一つですが、イエスは明らかにこれ等の教えを「御国」の観点から話されているのであって、単なる宗教的な戒めとしてだけ受け取ってはならないと思います。
箴言22:2に「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である。」とありますが、「富む者と貧しい者とは互いに出会う」は、まさにこの世の経済を表していないでしょうか。主はご自身が造られた人間が住む「この世全体の経済」において、クリスチャンが腐敗を防ぐ塩としての役割を務め、又この世の中の総ての面で「よい味を付ける」役目を果たさねばならないと戒めておられるのです。つまり、私たちクリスチャンはあくまでこの世における「神の国」の忠実なる番人であり、この世を御国に変えるために選ばれ立てられていると言うことです。


教会(クリスチャン)が御国の意識を明確に持つ時代が来た

そもそも、イエスは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)と言われて宣教を開始されました。それから二千年の月日が経過し、終末が刻々と迫って来ています。私たちがそれを認めようと認めまいとにかかわらず、本当に天の御国が待ったなしに近づいて来ているのです。そしてイエスは「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(マタイ5:20)と大変な警告をされています。
又イエスは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)とも言われました。

律法学者やパリサイ人は神の国を意識した民のリーダーであったでしょうか。そうではありませんでした。それでは、私たち教会は天の御国を常に意識して教会が積極的に地域社会に密接して来たでしょうか。ここにおいて主が言われる「御国」を意識しての布教活動をしているかどうかが問われていると思います。

アメリカは名ばかりのクリスチャン国ではあっても、一つ良いことを挙げれば、さすが年長の民主主義国家だけあって、国民の政治への関心が高いことです。クリスチャンとして「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」を意識しているのでしょうか「民の声」が政治に密着して国の政治を動かしていることを感じます。今特にそれを感じます。

選挙を通じ、又就任当時にあれほど人気のあったオバマ大統領の人気が、就任6ヶ月にしてこのところ陰りが出て来ました。まさに「ハネムーンは終わった」ようです。
ある世論調査によれば、今次の大統領選挙を行うとすれば、民主党はオバマ、それに対抗して共和党は前に候補の一人で経済に強いと見られていたロムニーが争うとすれば、あなたはどちらに投票するか―――結果は何と45%対45%、互角と言う数字が出たのです。あれだけ熱狂的に支持されたオバマ大統領がです。これには少々驚きました。そして今聞いたばかりのニュースですが、オバマ大統領への世論の評価が最高時68%だったものが、初めて過半数を割り、49%に落ちたと報道されました。

アメリカの国民は当然ながら自国の経済に関しては敏感です。オバマ大統領の景気刺激策が多大な税金を使うばかりで国民はその効果に疑問を持ち始めたこと、特に高い失業率が下がる気配がないことに国民は失望し始め、先行きに不安と焦りを感じ始めています。
特に国民医療保険制度の法案を両院で強引に可決しようとする大統領への反発は共和党だけでなく、民主党側の人たちの中にも少なからず出て来ております。
そもそもこの法案は1000ページ余りと言う膨大且つ複雑極まる内容で、この法案全部に眼を通した議員はいないと言われます。よく読むと問題だらけ疑問だらけであり、それを指摘する人たちの中には、数多くのクリスチャン(あるいはその団体)がいます。彼らの多くはTV、ラジオ、インターネット等を通じて「塩」としての声と警告を発しているのです。又、アメリカには一日中流しているニュース専門チャンネル(例えばCNN)、あるいはニュースとその解説だけをしているテレビ局(例えばFOX)がいくつもありますが、(そう云えば日本に来て気が付くことは、日本にはそのような専門チャンネルがほとんど見当たらないことです。)多くのアメリカ市民はそのような情報を得ることによって、本当に反対、あるいは危機を感じる時に、それぞれ自分の地区の議員に直接手紙とかメールを書いて抗議しますから政治に国民の声が如実に反映します。今は国民の緊張した切実な声が世論調査に跳ね返って表れ始めたのです。
これは蛇足ですが、アメリカはクリスチャンを無視して選挙には勝てません。大統領候補は、日曜日ともなれば聖書を持って夫婦そろって教会に行く姿を演出してメデイアのカメラに収まりたがり、自分は教会に行くことを強調します。クリントンもオバマも例外ではありませんでした。
 
さて、政治と経済は切っても切れない関係にあります。経済とは英語で「economy」ですが、その語源はギリシャ語の「oikonomia」であると言われ、その意味は「家をよく治め管理すること」つまり「家政」です。
私たちは神の財産、神の家の管理人と言われる通り、神の財産とは神の創造物総てを含む訳ですから、私たちクリスチャンは、たとえこの世の政治経済であろうと、あるいは環境問題であろうと、総ての面においては神の良き管理人として「塩」の機能を十分に発揮することを神は要求しておられます。

 イエスは会堂にも行きましたが、多くの時間を費やして町から町を歩き、人々と接し人々の悩みを聞かれました。従ってイエスの御国と言われる考え方には、私たちクリスチャンが社会の営みの総てに関心を示すだけでなく、積極的に町に出て行って王であるキリストの代表者として社会と深く関わり合って行くことが基本的な条件(姿勢)であるのです。

私たち御国の教会(クリスチャン)の目標は「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」(黙示録11:15)にあるのですから、クリスチャンはパリサイ人的宗教学者であるよりも、むしろ町の経済学者となり、その実践者/実業家であるべきです。そのためには教会は具体的にどうすればよいのでしょうか。

 
教会が光輝いて世を救う

 教会は社会の縮図ですから、色々な職業の人が集まります。中には新しく事業をしたいと言う人もいるでしょうし、子育て専業の人も大勢います。オバマ大統領は「チェンジ」と言う言葉をスローガンとしてよく使いましたが、私たちこそ考え方を御国のそれにチェンジすべきです。
「御国」とはイエス・キリストが王である国なのですから、総てのクリスチャンは自分の仕事に文字通り王が直接関わり合っていただくべきであると言うことが出来ます。
私は今回の旅行で、イエスと私たちが50/50の合弁会社を設立すべきであることを例を以って提案しました。よくよく考えてみれば、この共同経営の姿こそがこの世において主と私たちの正しい関係であると思います。

私たちは契約社会に住んでおりますが、実はクリスチャンこそ新約と言うれっきとした個人契約をキリストと結んでいることを忘れてはなりません。それを具体的に表したのが株の持合い50/50の共同経営契約です。そして社長CEOはイエス・キリストです。この契約においてはイエスも私たちも総ての経営計画と実行に先立って「合意」あるいは「上司(主)の命令に従う」ことが必要です。そのためには毎日密接な「打ち合わせ」と「話し合い」をすることも一般の会社とか公官庁組織と同じです。

新しく事業をしたい人は主に共同経営の社長になってもらい、何を、どのように事業とするかを話し合わねばなりません。必要な資本金とか「コネ」は社長に任せます。そして毎日、すべきことをあなたが社長と打ち合わせしながら実行して行けば、必ず事業は成功し「儲かり」ます。そしてその「利益」は社長と折半出来るのです。

このやり方は既に教会が従事して来た各種の学校経営にも当てはめることが出来るはずです。保育・幼稚園とか学校経営は財政的に苦しいところが多いと聞きますが、その苦しい経営状態に、最も優れた経営者であられる主イエスに直接参加していただくことによって経営の健全化と豊かな「利潤」を得て、クリスチャン教育の一層の充実・拡大を目指して何も悪いことはないはずです。
教会の総ての人が、クリスチャン個人として、あるいは教会(法人)としてこの主との「合弁会社方式」を取り入れるならば、地方教会の経済は大いに祝福され「御国」の発展に大きく貢献することが聖書で見事に保証されています。

「もし、あなたがあなたの神、主の(社長の)声に聞き従うならば、このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。 あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。 またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。 またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。 敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。…… 主は命じて祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。…… 主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。 主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。」(申命記28:2-13)[アンダーラインの部分は私が強調したいところです。主の「御声を聞く」ことの重要性がよくご理解いただけると思います。]

私たちが主とこの共同経営方式を取り入れて実践するなら、先ずあなたの地域社会があなたの「成功ぶり(実り)」とその輝きに気が付いて皆が寄って来るようになるでしょう。そしてあなたのしていることが社会にすばらしい「モデル・ケース」を提供し、主の栄光をより輝かすことになります。

ちなみに、この世の中の職種を政治、経済(ビジネス)、社会福祉、教育、娯楽の五つに大別するとすれば、今回の旅行を通して各地で、政治を除いた少なくとも四つの分野で牧師/教会が社会に今本格的に出て行こうとしている動きを見聞きすることが出来ました。

*クリスチャン企業が数は少ないながら全国的に出て来つつある。
*教育面で従来からあった幼稚園、小中学校(ホーム・スクールを含め)学童保育、聖書学校等のクリスチャン教育の拡張に教会が積極的に乗り出している。
*地域社会での家族の問題へのカウンセリング活動:例えば青森市にあるジョイフル・チャペル教会と渋谷牧師は、教会活動とは別に「ファミリー・リカバリー・センター」と言う家族の問題への深いカウンセリングに乗り出しており、その活動が地域の人々に知られ始めている。
*社会福祉関係で教会がナーシング・ホーム(老人)とかデイケア・センターの経営に乗り出した。
*冠婚葬祭を通して社会に進出。特に結婚式の司式をする牧師は多いが、中に司式をした総てのカップルを信仰に導いたと言う牧師もいた。これからは司式時だけでなく、結婚生活に入った後の息の長いカンセリングに力を入れたいと言う牧師も出て来ており、今までのどちらかと言えば牧師の内職から、本格的なミニストリーに移行する兆しが見えた。
*特に若者を対象にクリスチャンの音楽グループの活動が各地で台頭しており、それが各地の未信者の若者を惹き付け楽しませ始めた。このような若者ミニストリーが全国的な「教会の一致」に貢献し、重要なミニストリーに発展しつつある。

このように社会に溶け込み、社会を積極的に変えて行く働きをすることによって、教会は「地の塩」である以上に「世の光」になります。主は言われます。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(
マタイ5:14-16)

私たち教会がイエスの光を輝かす時に、社会の人々は神のすばらしさを見て寄って来ます。そして黙っていてもどんどん救われて行くでしょう。これが御国の大きなリバイバルでなくて何でありましょうか。
この世の経済がこれから益々暗くなり、世界が闇で覆われる時に、人々は希望を失い、生活に困り、助けを求めます。その時に御国の教会は手を差し伸べねばなりません。「神の経済」を信仰で実行する「御国の教会」は、日頃からそのための豊かな蓄えを主からいただいていてこそ、この世を救うことが出来るのです。

そのような終末における主のすばらしい御国のご計画が主の再臨を通して完全に成就することが、次のようにイザヤによって預言されております。

「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。 見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。 もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。 あなたの目をあげて見まわせ、彼らはみな集まってあなたに来る。あなたの子らは遠くから来、あなたの娘らは、かいなにいだかれて来る。 その時あなたは見て、喜びに輝き、あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。海の富が移ってあなたに来、もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。」(イザヤ60:1-5)
                     
本当にすばらしいではありませんか。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-07-27 12:43 | 坂達也からの今月のメッセージ

非常に狭い道が今週から始まる チャック・ピアス 7月24日

非常に狭い道が今週から始まる

チャック・ピアス 



情熱を持っておられる方たちへ

皆様のことを私は神に感謝し、祝福いたします。火曜日の早朝の祈りの集会において、非常に狭い道が私たちのために来ようとしているという預言を私はしました。ノーマ・サーヴィスさんがその時にイスラエルでその預言を聞いておられたのですが、彼女は驚いて、早速次のメールをくださいました 。

「伝統的なユダヤ教では、タムーズの17日からアブの9日の期間は、『ベイン ハ メツアリム』と呼ばれ、狭い 場所に追い込まれるとか、 苦境に立たされるという意味であり、哀歌1:3の『ユダは悩みと多くの労役のうちに捕えられ移された。彼女は異邦の民の中に住み、いこうこともできない。苦しみのうちにあるときに、彼女に追い迫る者たちがみな、彼女に追いついた。』という箇所に由来しています。

この『苦しみのうちにあるときに』という句は『海峡又は、狭い場所の間』と訳すこともできます。これは伝統的ユダヤ教において、タムーズの17日にエルサレムの城壁が崩され、アブの9日に神殿が破壊されたことを憶えて、3週間の喪に服する期間なのです。他の喪の期間と同じく、この期間は結婚式も行われません。

火曜日にあなたに与えられた言葉(狭い所を歩きもっと高く登るという)について今朝私が祈っていた時、タムーズの17日は7月9日に当たり、それがユダヤ教においても狭い場所を示すことに気づきました。今私たちは城壁に破れがないか、よくよく注意せねばなりません。私たちは恐れや悲しみのうちではなく、信仰に立って歩まねばなりません。しかし狭く険しい場所に注意を払い、また、そこにある神の慈しみを見逃さないようにしなければなりません。」

新しい通路ができている

私が火曜日に預言として与えられたものの一部をここに記します。主の言われていることが聞こえてきます。

「狭い通路が今作られつつある。わたしはあなたの道を狭くする。あなたはあなたの願望を狭くせねばならない。わたしは願望を清め、あなたが歩く通路を狭くしている。あなたは新しいアライメント(関係/一致)とアサイメント(仕事/課題)の中に入り、そこからあなたは今まで知らなかった領域へと導かれるであろう。暗い場所から出て光へとあなたは進むであろう。しかし、あなたが歩いて来た通路はだんだんに狭くなり、あなたを新たなものへと押し出すであろう。

今は『神のギデオン軍の招集』の時だ。ラッパが鳴り響き、ギデオン軍の招集が地上に解き放たれる。ギデオン軍の招集は耳を傾けるべき緊急の知らせだ。わたしの民が持つ願望を選別せよとの命令が、今地上に起ころうとしている。わたしの民の願望は、自分らの欲望と入り混じってしまっている。今からの三ヶ月間、わたしはわたしの民の願望を選別し、それによって彼らがわたしに従えるようにする。

新しい地に入ろうとして出発した時には、あなたはわたしからの願望を持っていた。しかし、あなたが以前持っていたあなた自身の欲望が再び膨らんで来て、わたしがあなたに与えた召命は混乱してしまった。今すぐあなたは自分自身の欲望を(わたしのあなたにしてもらいたい欲望から)引き離さねばならない。そうすることによって、わたしがあなたを引き寄せてその地に入れるようにするからである。

狭まる時

わたしのチームと軍隊は、狭められ小さくされる。なぜなら今は狭められる(狭くする)時だからだ。今この言葉を話しているうちにも道は狭まっている。聞け!よく聞け!ラッパの音が鳴り響き招集が今始まっている。ギデオンの時代のようになる。わたしが与えようとしている油注ぎはギデオンの油注ぎであり、『ミデヤン人』を征服するであろう。彼らは今までの7年間、収穫のときに襲ってきて収穫を盗んだ。

敵はいつも収穫の時期にやってきて略奪していく。その敵に勝利するためには、大いなる分離が起こらねばならないことを知れ。わたしはわたしの民の召命を配置し直し、彼らが自分のチャンスを別の角度から見ることができるようにせねばならない。今日招集のラッパが鳴り響くのを聞き、ギデオンの時が来たことを知れ!

ラッパの音を聞いたなら、今日立ち上がり、狭い道である通路を通って入っていけ。あなたのためにわたしが備えた場所に入るために、これからの三ヶ月間、 いろいろなものがあなたからそぎ落とされる。それによってあなたの身体さえ変化するであろう。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-07-24 12:37 | アメリカからのメッセージ

日本からもどりました  坂柚実子 7月23日


日本からもどりました(2009年夏の日本旅行報告)

6月3日から7月10日までの日本旅行を終えてハワイに無事もどりました。その後の10日間は旅の疲れを癒しておりましたが、ようやく元気になってきました。旅行中私は疲れることもあまりないのですが、帰宅するとどうしてもほっとして疲れがでます。主人などは、帰宅してすぐにベッドにゴロっとした(玄関からベッドまで8歩くらい)と思ったら、その30秒後にはグーグーと寝ておりました。靴もはいたまま、眼鏡もかけたままで、そのまま寝ること数時間。少し食べて、また寝ること数時間、というような具合でした。

とはいえ、この38日間、皆様のお祈りに支えられて無事過ごすことができましたことを先ずは心から主に感謝いたします。特にこの旅行中、私たちのホームベージを読んでいてくださる方や、各地で主人の本を読んで神との関係が親密になったと言われる方々にお会いできたことは、私たちにとって大きな励ましとなりました。それでは旅の報告をこれからぼつぼつとさせていただきます。

6月3日 ホノルル空港にて。前日の夜から何の理由もなく突然痛くなった主人の左足がもっと痛くなって歩けないというので、空港で車いすを頼む。午後5時に飛行機出発。この足の痛みは以前にもあったこと。

6月4日 夜8時半、関西空港に到着。主人は車いすで、そのまま直ぐ前の日航ホテルへ。チェックイン後ホテルの車いすに乗り換えて部屋まで行く。サービスがよくて感謝。
車椅子に乗った主人
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6月5日 朝になって主人の足は何とかびっこを引いて歩けるほどまでには良くなったので、車いすのサービスは断る。
昼過ぎに私たちは親しくさせていただいている吉本ご夫妻が最近始められた高畑コイノニヤ教会へいく。家の教会としてこれからの発展を期待する。そこには親しい 関西地区の方々が 来てくださり、最初の短い集会のあと近くの岩清水八幡宮(京都)に祈りの歩行に出掛けた。そしてそこに入った途端に主人の足がぴたっと癒された。緊張感があった。夕食後に皆さんと踊ったイスラエル・ダンスの時も主人は自由に踊ることが出来た。ハレルヤ!最近は日本を訪れる度に敵の嫌がらせ的な攻撃が来ることは「よいしるし」なのだろうか。
祈りの歩行をした神社の前で皆さんと。
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九州旅行6月6-9日 

6月7日は永野誠治先生の別府フルゴスペル・イエスキリスト教会にて聖日礼拝。牧師夫人のワーシップリードでのすばらしい賛美。彼女の頭上を霊の鳩が舞うヴィジョンを見た方が以前あったそう。この教会は自由に踊る方もおられて解放されている。

午後は大分カルバリ・チャーチ 橋本 守先生の教会へ移動。三時から「あなたのビジネスを励ます会」と銘打っての集会。ノンクリスチャンのビジネルマンの方々にお知らせをしたとのことだが、来られたのは予想した人とは別の人たちだったとか。すべて神様のご計画の内である。
主人はこの日のためにアメリカの経済の動向についてかなりの準備をして来た。これが今回の旅行のメイン・テーマである「この世の経済と神の経済」の基調メッセージとなる。折からの経済恐慌で他地区に比べ打撃が大きいと言われる大分にこの教会を通して御国の大いなる祝福がもたらせるように祈る。

別府の永野先生と大分の橋本先生、同じく大分の釘宮先生は、年に二回、合同の集会をしておられるとのこと。三人の牧師がそれぞれの賜物を生かしての集会で、三つの教会からの参加者はみんな非常に恵まれるとのことであった。五役者が一つの教会にはそろっていないのがほとんどである現在、このような合同の集会は大変意義が深いと思った。
写真は、橋本邦光伝道師、橋本夫妻、私たち、 永野夫妻。
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6月8日 福岡県八女市八女フロンティア・チャーチに近藤雅子先生を訪ねる。ここでのハイライトの一つは、前回も訪ねた野田国義氏の選挙事務所に行くと、幸いにも野田夫妻にそろって会うことができたこと。主人は夫妻と政治の話をした。いよいよ選挙が近づいてきている。古賀氏との対戦も話題になっている。クリスチャンの政治家が大勢出ることを祈ってやまない。
写真は近藤先生、野田氏、主人。
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翌日は近藤先生と共に、最澄の開基と伝えられる天台宗の大寺院清水寺を訪問。この寺は雪舟が造ったといわれる庭園があることでも有名。この寺の鍋島住職夫妻と会うことができた。数年前グルーバー先生と一緒にお会いしている。住職は非常に博識な方で、キリスト教への理解も持ち、主人とアメリカの霊的、経済的現状について話が弾んだ。お土産に住職から高価な御香をいただき感謝する。
写真は私たち夫婦と近藤先生、清水寺住職鍋島さん
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主人は、八女で政治家やお寺の住職の方とお話ができたことを、主からの特別のお計らいとして非常に喜んでいる。近藤先生は町中で主が示される人々なら、市長であろうと、お寺の住職であろうと、又、仏壇屋さんから、眼鏡屋、薬屋、花屋さんに至るまで親しくイエスの話を何度でも伝えにゆく、立派な地域をトランスフォーメーションする御国の担い手だ。(続く)


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# by walkwithgod | 2009-07-23 16:52 | 柚実子からのハワイ便り

悲しみ、けれど勝利 グラハム・クック  7月18日

悲しみ、けれど勝利

グラハム/クック 


それはいつもと変らない土曜日のことでした。ランチを食べながらラグビーの試合でニュージーランドがフランスをやっつけるのを見ていたとき、私の携帯電話が鳴り悲劇の知らせが入ってきたのです。ミニストリーのチームリーダーであり親しい友人であるデイヴィッド・クローンのお嬢さんであるエイミーが、心臓発作で死んだというのです。

妻のテレサと私が病院に駆けつけ、救急室にいるエイミーの家族と友人たちに会いました。 ブリリアントブックハウスという私の出版社で働いている娘のソフィーと友人のケリーもやってきて、泣きながらハグしていました。みんな打ちのめされました。非常に愉快で、創造的で、パーティーを盛り上げ、二人の子どもの母親でもあるあのエイミーが死んでしまったって?

私はエイミーが横たわっている部屋にそっと入りました。母親のデボラはベッドに伏して泣いていました。父親のデイヴィッドはエイミーの足もとに座ってうな垂れていました。親しい友人であるマークとタミーが二人を慰め支えていました。検死官が来て死体を運びだすまで、私たちはハグし、祈ったり慰めたりしていました。

それから、デイヴィッドとデボラは病室から弱々しく出て来て、みんなにお礼を言いハグしました。私はデイヴィッドが「何か必要なものはないですか?何かお手伝いしましょうか?」というのではないかと一瞬思ってしまいました。というのは、彼は会うと最後にそう訊くのが常だったからです。二人が手をつないで駐車場を横切って行く姿を見るのは胸のつぶれる思いでした。

それから少しして、私の携帯が鳴りました。「一緒にエイミーの復活のために祈って欲しい」というデイヴィッドからの電話でした。勿論ですよ、祈りましょう、、、実際になんと言ったかは覚えていませんが、この時ほど死に対して戦いたいと感じたことは今までありませんでした。その晩、ボブ/ブック夫妻と私たち夫婦は、翌朝のミッションでの集会を計画しました。

クローン家の人たちは彼らの家で集まり、そこで戦いをすることになっていました。遺族が戦いの場の出てくると人びとが集中できなかったり、悲しみやショックを与えるかもしれないという配慮からでした。この戦いの知らせは世界中に発信されました。親しい友であるレディングにあるベテル教会のビル/ジョンソン夫妻もデイヴィッドとデボラへの愛のためにすべてを置いてこれを優先してくれました。アメリカや多くの国々の人たちが一つになって祈ったのです。

翌朝、ミッションでもたれたその集会はずっと長く私の記憶に残ることでしょう。一致の霊がこのような熱心さと喜びをもって顕わされたのを私は見たことがありません。ワーシップは本当にすごいものでした。それはイエスの素晴らしさをたたえる真実なすばらしいセレブレーションでした。私たちはみな我らの神、主をほめたたえ喜びました。ワーシップの中で人びとは、自分の体験から真理だと知る神の麗しいご性質を喜びたたえました。神の慈しみを完全に信頼していることを表現するものとして、賛美と感謝を捧げたのです。

嘆きの祈り(ラメンテイション)は地上に存在する賛美の中で最高のものです。それは地上特有のものです。天国でそれをまねることはできません。なぜならば天国には涙も悲しみもないからです。嘆きの祈りは天ができない何かを私たちにさせるのです。それは即ち、私たちが苦しみの極みにいるときにさえ主をワーシップすることなのです。

嘆きの祈りは「そうではあっても though」と「しかしやはり yet」を常に伴います。(ハバクク3:17−19、ヨブ13:15参照) 担いきれない悲しみを負い 苦しみの極限の中にいる私たちが、「そうではあっても」「しかしやはり」主をほめたたえるのです。 

主をほめたたえるとは、高揚し、興奮し、大喜びで楽しいという状態でセレブレーションをすることです。しかし、神は私たちに嘆きや重荷を忘れなさいという要求はされません。主はそれを捧げものとしなさいと言っておられるのです。主の偉大さと麗しさの中に嘆きを携えて入っていくのです。それを使うのです。主を喜ぶことが出来ないという正当な理由は、絶対どこにも見つからないのです。嘆きの祈りは、父なる神の慈しみ(愛)の中に私たちを招き入れ、そこで私たちの涙は熱い崇拝の祈りと一つに溶け合い、私たちに先立って苦しみ・悲しまれた主が既に占めておられるその場所にゆくのです。このときまさにワーシップが栄光の領域に入っていきます。

霊的なコミュニティーとして私たちは今、開かれた天の下で生きること、主と同じ姿に造り変えられること、イエスがされたと同じことを行うこと、天から地にむかって生きることを学んでいます。私たちは「天になるごとく地でもなるように」という事を、学び、 訓練を受け、成長しようとしています。まだまだ道は遠いですが、みんな情熱的にリアルなクリスチャニティーを追い求めているのです。

雲のような多くの証人に取り巻かれているというように私は感じました。ある時点で、私たちの賛美は天を突き通しました。何百人もが喜びながら、一つの心、一つの思い、一つの声と霊をもっていました。ワーシップが一段と高まり、私たちは天の賛美と合流したのです。その歌声は本当にものすごいものでした。その日はバンドのメンバーの半分は旅行中だったので、バンドの演奏はしないことになっていました。ですからその時いたのは、ギターのボブとピアノのバイロン、ジェンベのネドだけでした。しかし、突然私たちは全員、聞いたことのない音楽を聞いたのです。それはほんのつかの間の間で消えていきましたが、私たちはあっけに取られ、びっくり仰天し、そしてもっと広い心を与えられてそこに立っていました。

私が手短かにヨハネ11章とマルコ5章から話しました。ラザロとヤイロの娘の話です。イエスは人の死を、そこから覚めることのできる眠りとして話されました。私たちのミッションでは神が私たちのためにどのようなお方であられるか、また何がお出来になるかを全面的にすべて信じています。主の慈しみを喜び、主の力と御心を信じる信仰に堅く立っています。荒廃と退廃と絶望の中で苦しむ世界に、神の慈しみと憐れみを持ち運ぶことを学んでいます。私たちの願いは奇跡、しるし、不思議をもってこの地に天をもたらすことです。命の主の権威を持ちたいのです。ですから私たちはどんな状況の中にあっても喜びをもって戦うことを選びとっているのです。

私たちは一つ心で祈りました。声を一つにして命に戻るようにと命じました。丁度父の日だったのですが、それは何とふさわしい日だったことでしょう。それからの数日、私たちは小さなグループごとに復活の力を信じる喜びの宣言を続けたのでした。

エイミーは私たちのもとへは戻ってきませんでした。かわいくて、楽しいことが好きで、みんなを笑わすのが好きで、宗教的でない(教会中心の宗教的なキリスト教を嫌っていました)エイミーは、喜びに満ちあふれた素晴らしい天から戻ってはこなかったのです。

葬儀は型破りでした。全くクローン家らしいもので、預言的先駆者的スピリットの傑作とも言うべきものでした。教会での記念礼拝はありませんでした。(エイミーはそんなものはきっと嫌だったでしょう。)そのかわりに家族友人が少数墓地に集まりました。普段の服装で、という指示をみんな受けていたので、ジーンズや明るい色の服装が多く、フォーマルな装いの人はいませんでした。大きなリモジンが二台が到着し、そこからクローン家の人たちが出てきました。 バグパイパーがアメイジンググレイスを吹く中、彼らは車のトランクからクーラーを二つ取り出しました。

私たちはエイミーの棺の回りに集まり、デイヴィッドとデボラがエイミーの人生を感動をもって語りました。人びとが次々にエイミーの思い出を語り、みんなは笑ったり泣いたりしました。エイミーの神への情熱は、人生にどんなに辛いことが起こっても失われることはなかったのです。みんなは大声で笑ったり、同時に涙を拭いたりしていました。一人ひとりにピンクの花が渡され、棺の上にそれを置いて最後のお別れをしました。

クーラーからシャンペンとサイダーが取り出され、誠実で、独立心があり、自由な精神をもったエイミーのために、みんなで乾杯をしました。(彼女が今ダビデ王に、主の前で踊る本当のやり方を教えていることは間違いないところです。)ビル/ジョンソンが、人の死を正しく悼むことの重要さについて短い、しかし感動的な話をしました。それは心に中に喜びと悲しみの両方を自由に働かせることが大切であり、どちらかを抑えるのは害になること、けれども一日の終わりには常に喜びが勝つようにするということでした。彼はまた、神に対して私たちが真実であり続けるように、そしていのちのために常に戦うようにという励ましを与えてくれました。 アーメンです。

翌日私は中心的なリーダーであるボブ/ブックスとダン/マコラムと共に、デイヴィドとデボラに会い、次の日曜の集会について話し合いました。私たちは又笑ったり泣いたり、おいしいクッキーを食べたりしました。

日曜日の礼拝は満員でした。エイミーの人生を祝うために世界中から人びとが集まりました。それは感動的であり、また、楽しさ、悲しさ、素晴らしさを混ぜ合わせたものでした。大いなる喜び、大いなる家族、大いなるコミュティー、大いなる一致。

私たちは復活を勝ち取ることはできませんでした。それは私たちが信じるものから一歩敗退したことでしょうか? もうリスクはとらずに最大限の安全圏に留まるほうが賢明ということでしょうか? それとも一段進んで「御国が来ること、御こころがなること」を見る決意を新たにする時なのでしょうか?

私たちこそがその信念を決して失わせないのです。 私たちは、イエスと常に共にいることによって敵を倦み疲れさせる計画を持っているのです。 決して絶えることのないリアルな神の御国に対する私たちの喜びと情熱は、ついには敵を疲労困憊させるのです。神がエイミーを取り去られたのではありません。 彼女は敵に盗み取られたのであり、私たちはその代価を敵に支払わせるのです。

私たちの信仰宣言はダニエル3:13−18に書かれています。バビロンに連れていかれた3人が、王の金の像を拝まなければ酷い死を遂げると言われた話です。彼らの返答は正面からの宣言でした。
「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

これは自分たちの決意を予め表した言葉です。彼らは王の前に出る前に自分たちの決意がどのような結果をもたらすかを知っていました。どのような代価を払うことになっても、彼らは自分たちの信念を崩すことはありませんでした。彼らがヘブル人であるという心からの全面的な表明でした。

私たちのコミュニティーは、この悲劇を通して一つとされ、どのように進んでいくべきかを定められました。私たちは新しい地へと呼びい出され、霊的に引き上げられたのです。これから私たちは次のことを求めていきます。

地上の天国
主と同じ姿に造り変えられること、
イエスがされたと同じことを行うこと
さらに大きなわざを行う

私たちは神の栄光を求め続けます。神の御性質、愛、憐れみ、恵み、親切、喜びを抱きしめ受け取ります。人生を神の慈しみの目で見ることを選びとります。復活、癒し、奇跡、力、豊かさを私たちが見るところとなり、しっかりと捕まえ、それが日常茶飯事となるまで追い求めます。

今私たちは一つのコミュニティーとして定義されるための新しい決意を形作るプロセスを通っているのです。もう引き返すことはありません。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-07-18 14:58 | アメリカからのメッセージ

奥義を孕む ビル・ジョンソン 7月18日

奥義を孕む

ビル・ジョンソン




歴史はしばしば神と劇的な出会いをした人たちによって造られていきます。もしあなたがそのような出会いを経験したことがあるならば、それを人に説明するのはとても難しいことがお分かりだと思います。人が理解してくれなかったり、信じてくれない事があるままで生きていくことをあなたは学ぶのです。

あなたは主の臨在が満ちる中で説明のつかない不思議な体験をしたことがあるかもしれません。しかし、聖書や歴史上にそれと同じ体験をした人物を見つけることは可能です。私たちは皆程度の差こそあれ、神との邂逅を経験しています。しかし、マリアのような経験をしたものは誰もいないのです。

聖書は神と出会った人びとの話で満ちていますが、私のヒーローはイエスの母マリヤです。彼女が経験したことは、聖書にも前例がありません。神によって子を宿した人は初めてだったからです。 恐らく彼女は聖書の中で最も偉大なリバイバリストではないかと私は思うのです。彼女に投げかけられた質問を想像できますか?彼女は一生の間、私生児の母と呼ばれたのです。夫となる人も彼女を信じませんでした。天使が彼を訪れて神のご計画を啓示するまでは、ヨセフはマリヤとの婚約を内密に破棄しようとしていました。マリヤはリバイバリストとしての条件を備えていました。彼女が世界を変える何かをお腹に孕んでいたからです。

主の御使いがマリヤに現れたとき、彼女は「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と答えました。

「御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。、、神にとって不可能なことは一つもありません。』マリヤは言った。『私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」ルカ1:35、37—38

彼女の応答がどうしてそんなに深遠なのでしょうか?それはこのような答えは聖書の中にも全くと云ってよいほど見あたらないからです。彼女は御使いの言葉を理解できなかったにも拘わらず信じたのです。

マリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう?」と尋ねました。御使いは「聖霊があなたの上に臨みあなたをおおいます。」と答えました。これはマリヤの質問に答えているでしょうか?答えていません。しかし彼女の神に対する答えは「あなたがそう言われるなら、私はお受けします。」というものでした。マリヤは神が宣言されたことを、すべて心にたくわえ思い巡らしていました。安全な場所にしまったのです。人は神が言われることに驚嘆することはできます。しかし、この物語の中では大勢の中で一人だけが神の言葉を宝物として心にしまったのです。これこそが歴史を形造ることに寄与した人達の人生に見られる共通の特徴です。マリヤは神が語られたことを理解できなかったにも拘わらず信じ、大事に胸にしまったのです。

マリヤと神の御言葉との関係は、彼女が自分の息子、受肉されたみことば、に出会う以前からあったのです。神の言われたことを、たとえそれが理解できなくてもお腹に孕む者は、「神にとって不可能なことは一つもありません。」という神からの啓示の実を孕むのです。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ1:45  (終わり)


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# by walkwithgod | 2009-07-18 04:22 | アメリカからのメッセージ

占領から拡大へ ビル・ジョンソン 2009年7月8日

占領から拡大へ

ビル・ジョンソン



あるいにしえの戦士が「戦いは勝利するためであり、勝利は占領するためである。」と言いましたが、神の御国に関しては、私たちはもう一つ付け加えます。それは「占領は拡大するためである。」という言葉です。

主はイスラエルに約束の地を一度に全部は与えられませんでした。それは全領域を占領する力が彼らにはなかったからです。彼らの力で占領できる土地だけをまず与え、そこを基盤にして拡大していけるようにされたのです。拡大は天の御国を前進させるためには不可欠です。1タラントをもらってそれを地に埋めた男は、確かにそれだけは 守り通しましたが、主人から叱責されさんざんな目にあいました。というのは、彼は自分の持っているものを増やすために活用しなかったからです。(マタイ25:15—28)

拡大し前進するという見地で人生を見ることは大変重要です。この見方に立つときに、増え広がり昇格するための体勢が整うのです。ただ単に自分が占領して留まりたい場所を見つけるだけでは健全ではありません。あなたが前進しなくなった途端に、あなたは後退し始めるのです。


あなたの内の情熱が薄れてくるとき、あなたはすでに死に始めているのです。あなたは燃えるために生まれたのです。エリシャは王のところに来て、「矢で地面を打ちなさい。」と言いました。王は3度だけ打ちました。エリシャは非常に王に腹を立て「5回か6回打ったならば、敵を討ち滅ぼすことができたのに、今やあなたは3回の勝利しかえられない。」と言いました。王は情熱を持っていなかったので、神が彼に与えようとしていた油注ぎを受け続けることが出来なかったのです。そしてそれによって国も滅びました。リーダーに情熱が無い時、従う者たちの総てが犠牲になるのです。

情熱と油注ぎとは比例するのです。情熱のある人はリスクを取ります。御国の領域であなたが望むものは、リスクのある領域に踏み込み、困難という幕を突き抜けて行かなければ、一つも見つけることができません。過去のブレークスルーに惰性で頼っているだけでは、決して手に入れることはできません。あなたは拡大していくために生まれたのです。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-07-08 14:57 | アメリカからのメッセージ

神の約束を祈る--ダニエルの不動の信仰  ビル・ジョンソン 6月29日 

神の約束を祈る--ダニエルの不動の信仰

ビル・ジョンソン



ダニエルは特別大きな好意を受けた人でした。ダリヨス王は彼を自分の右腕にしたいと思いました。他の者たちもその地位を狙っていましたが、彼らにはダニエルを誹謗するものは何も見つけられないことがわかりました。何か欠点があったとすれば、それはダニエルの神への愛ということになるでしょう。それはすばらしい欠点ではないですか、ただ完全にイエス中毒になっていることだけというのは。ダリヨス王は隙をつかれて、ある特定の偽りの神以外のものに祈る者は死刑に処するという布告を出してしまいました。

「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。彼はいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」ダニエル6:10

プレッシャーが掛かると、多くの人びとは自分のライフスタイルを変えてしまいます。ダニエルは布告が出されるまで待ちましたが、布告されると家に帰り、寝室の窓をあけ、そのそばでひざまずき、「ああ、神よ。またもやとんでもない布告が出されました。でも私はあなたとの関係を誰のためでも決して変えたりはしません。」と言ったのです。そして、人びとから見えるように窓の真ん前で主の前に日に三度ひざまずいたのです。彼は若いときから一日に三度主の前にひざまずき、感謝と祈りをささげることを習慣としていたのでした。

ダニエルの人生は厳しいものでした。人間的にいえば、地上で一番苦々しい思いを抱く男になっていてもおかしくありませんでした。彼はおよそ15歳のときにユダヤ人の中から連れ去られました。おそらく自分の家族はもう全部失っていたでしょう。彼は宦官にされ、王に仕える者とされました。ダニエルは最も劣悪な帝王を助けるための職を任ぜられましたが、神がすべてのことを回復されると約束された日のために祈りに専念したのでした。

幼い日から老人になるまでの長い年月、一日も欠かさずダニエルを祈りに駆り立てたのは何だったのでしょうか?それは彼が一つの約束によって捕らえれていたからです。それはエレミヤに与えられていた一つの預言であり、神は捕囚の期間が過ぎたらイスラエルを回復されるというものでした。ダニエルはその約束を信じて「とりこ」となり、毎日エルサレムに顔を向けてひざまづいて感謝を捧げていたのです。

イザヤ62:7に「主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。」とあります。ダニエルは購われた者たちが癒されるというヴィジョンにしっかり捕らえられていたのです。彼が子どものときから大人になるまでずっと実行してきたまさにそのことが、非常に困難な状況の中でも彼を安全に守ったのではないかと私は思うのです。彼の命が狙われたときでさえも、約束を信じて祈ることが彼の生活のルーティーンになっていたので、彼は神が言われた約束が成就するのを見るために、必要ならば命をも喜んで投げ出そうとしたのです。(終わり)


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# by walkwithgod | 2009-06-29 12:10 | アメリカからのメッセージ

すばらしい驚き  グラハム  クック    6月27日

すばらしい驚き

グラハム クック



イエスが感嘆の叫びをあげられたのは、無心で純粋な心で生きている人に主が出会ったときでした。イエスは「見なさい!」(私たちなら「ワー、すごい!」と言うところです)と数回言われましたが、その一つは主がナタナエルに初めて会ったときでした。彼は後に主の弟子の一人となりました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」とイエスはヨハネ1:47で叫ばれました。
イエスはナタナエルの内に何を見られたのでしょうか?主は偽りのない人を見られたのです。主はナタナエルの純心さを見てそれを愛されました。


純粋さは私たちが生まれたときに持っていたものですが、人生の経験を重ねるにしたがって少しずつ失っていきます。「苦い経験」と私たちが呼ぶものを一回するたびに、私たちは純粋さを少しずつ無くしていきます。霊的考え方や物の見方は、私たちが 用心深くなり、うんざりして、不信になり、疑い深くなるにつれてしぼんで来てしまいます。そして更に苦い経験をすると、私たちの「感嘆」という感覚の上にはもう一重ほこりがかぶさってしまうのです。やがて時が過ぎて行き、私たちは自分が純粋かどうかもわからなくなってしまうのです。そして私たちは回りの人たちの悪いところだけをみるようになります。

ナタナエルの内にある純粋さを見てそれを愛されたイエスは、また、イスカリオテのユダが近くにくるのを許されました。イエスご自身の神というお方への新鮮な感嘆の感覚が、イエスがご自分に正直であることや愛しにくい人をも愛すことを可能にしたのです。主は罪人の友となられましたが、罪人によって汚されることは決してありませんでした。

純粋さは常に攻撃にさらされています。しかし、「純粋さ」は私たちが他人に何かされはしないかと心配するのではなく、自分がどう言う人になりたいかを考えるのです。私たちは自分の心を清く保つことに努めると同時に 、不道徳で不謹慎な人びとに注意するのです。

私たちの感嘆の感覚をコントロールするのは自分です。イエスはこのことをマルコ7:6で語っておられます。
主は偽善を次のように定義しておられます。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」
 私たちの心が苦々しく、かたくなで、無感覚になり、皮肉で、疑い深く、嘲笑的で、軽蔑的で、悲観的で、不信で、あざけるようであるときには、私たちは自分自身を傷つけます。これらは純粋さを腐食させていきます。自分自身の純粋さを傷つける度合いは、他人を傷つけるようにもずっと大きいのです。純粋さを失うことは、神の御霊を悲しませます。他人や状況から自分を守ろうとするときに、私たちはもっとかたくなになります。私たちは傷つけられると、次のように聖くない誓いをしてしまうのです。「もう絶対こんな目にあうようなことはしない。」と。そして他人や何かから傷を受けることのないように、直ちに自分の心をまわりから断絶して守ろうとするのです。

ルカ9:46−48にあるように、イエスは常に人びとが何を感じているかを知っておられました。

「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかし、イエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせて、彼らに言われた。『だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。』

私たちは子どものように無邪気で純粋にならなければ、神が見せようとしておられるすばらしい不思議を見る事はできません。イエスは私たちがプライドと自己防御をすてて、真の霊的生活をすることを望んでおられます。(終わり)

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# by walkwithgod | 2009-06-27 03:57 | アメリカからのメッセージ