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BPのオイル流出に関する   ジョン•シールスキー   6月18日

BPのオイル流出に関する夢

ジョン•シールスキー


日曜日の早朝、主は私にメキシコ湾のオイル流出についての夢を見せてくださいました。主はそれを聖書の中の長血の女にたとえられたのです。興味深いことに、彼女は12年間長血をわずらっていました。12というのは神の使徒的完成の数であり、神の秩序、神の統治の数です。私たちは現在、 地上における神の統治の代理人であり、神の大使です。(私はこのオイル流出が12年間続くと言っているのでは決してありません。これはシンボルとしてのイメージです。)

長血の女と同じように、教会はその密やかな場所から今もなお血を流し続けているのです。しかし私たちは今までそれを認めようとはしてきませんでした。この「出血」を止めることができる唯一のものは祈りであり、それは即ち主との真の親密さ intimacy です。親密さの目的の一つは(人生のすべての面においてですが)産み出すこと、繁殖、再生、再現であるという事実を私たちは見失ってしまっています。
神は私たちのうちに 御子イエスの命を再生 reproduction することを願っておられます。ところが私たちは、他人にどう思われるかということを恐れてこの「重荷」を負って来ませんでした。その結果、責任を取らないが故に権威がなくなり、権威がなくなったが故に私たちには力がないのです!

どのように共に祈り、天から聞き、天にとどき、天と一致すればよいのか

 聖書には、この長血の女は手を伸ばしてイエスの衣のふさに触れたと書かれています。当時その衣は人が祈るときに頭から被るものでした。イエスが「祈るときは奥まった部屋に入り戸を閉めなさい」と言われたのはこのことでした。ラビ達が衣を被って祈る時、彼らは外の世界を遮断し、邪魔されずに祈ることができ、父なる神の臨在の「密やかな場所」である「祈りの衣」の下で一人になることができたのです。

 神の家は常に「祈りの家」としての役割を持っています。これは最も重要な中心的課題と取り扱われるべきであり、私たちが実際に実行すべきことです。これまで私たちはそれについて議論したり、神学的に取り扱ったりはしてきましたが、キリストの身体とし実際にそれを実践することはほとんどありませんでした。私たちは、祈りとは「そのような召しを受けた」とりなし手たちのグループだけがするものだと感じています。しかし、そうではないのです! 教会はこのような現状なので流れ出す血が止まらないのです。

長血の女がイエスの衣のふさに触れたとき、彼女は実際に永遠の命に触れ、それと一つになったのです。永遠の命とは、即ちイエスが持っておられた御父との個人的な霊的交わりであり親密な関係です。(ヨハネ17:3参照)その時、彼女の血の源はすぐに止まったのです。

同じように、祈りについてイエスは次にように教えておられます。「まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19、20)

 私たちが共に祈り天から聞くことを始め、天が語り天が願っていることに関して一致するならば、神は、メキシコ湾の現在の事態の当事者たちの心と思いの中に、超自然的な知恵と理解を解き放って、オイルの流出を止める方法がわかるようにしてくださる、と主が言われているように私は感じたのです。

見方を変える:神の慈しみと憐れみのうちの希望

 今まで私たちが感じてきた一つの大きなジレンマは、すべての出来事を地球に対する「神の裁き」であると解釈していたことにあります。起こっていることはすべて神の裁きだという見方をするならば 、祈ろうと考えることさえ神の御こころに反する非生産的なことのよう思えます。
 それは愛と信仰を相殺して(二つの電流を)ショートさせることになり、私たちを 弱く無力で希望のない気持ちにさせます。しかしよい知らせがあります! キリストが私やあなたの中に生きておられる限り、神の栄光を見る希望も私たち一人ひとりの中にあるのです!私たちを通して全世界が希望を見る事ができるように、この希望を解き放たねばなりません!

もし私たちがそうすれば、この事態に対処する力のある人たちに素早く解決策が与えられるばかりではなく、今後このような大事故を阻止する発明や技術に関する新しいアイデアが天から解放されると私は信じます。この問題を解決する創造的アイデアは、悪いものを良いものに変えるという意味において最高のものです。ですからそのように祈ろうではありませんか!

もう一つ皆さんに祈ってほしいことがあります。それはこの事故に関連したすべての人たちが適正に裁かれるだけでなく、主の光の前に導かれることです。皆さん、私たちにはこのような権威が与えられているのです! 今はつぶやいたり不平をいうのを止めて、権威の中に歩むときです! しかし先ず私たちはその中での自分の役割、或いは責任を負わねばなりません。そうです、私たちが御国の住人となったのは「この時のため(エステル4:14)」なのです!

私たちの「長血」とは?

私たちの長血の問題とは、つまるところイエスの血潮と、それによって表された御父の愛を私たちが本当に理解し受け取っているかどうかの問題であると私は思います。 このような大きな愛を、私たちは自分の心やおもいの中にまだ完全には受け入れることができないでいます。その結果、私たちの見るものはすべて曲がったり歪んだりしてしまうのです。それは 御父との真の交わり、親密さを私たちが経験することを望んでおられる御父の思いまでも歪めてしまっています。あわれみは常に裁きに打ち勝ち、最後に勝利するのです!

メキシコ湾のオイル流出は私たちの密やかな場所からの血の流出と平行しています。私たちは「初めの愛」から離れてしまったのです! 私たちみんなが 、祈りと一致により「イエスの衣のふさ」に手を伸ばして触れることを始めるならば、私たち自身の血の流出が止まるだけではなく、メキシコ湾の環境大惨事も解決されることでしょう。(終わり)


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# by walkwithgod | 2010-06-18 17:34 | アメリカからのメッセージ

主の言葉を聞くことの飢饉 ボブ・ジョーンズ 2010年6月8日

主の言葉を聞くことの飢饉

ボブ・ジョーンズ 2010年6月14日


「見よ。その日が来る。—神である主の御告げ。—その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見出させない。」アモス8:11−12

これは預言者アモスの言葉ですが、現在のアメリカの教会に直接当てはめることができるものです。教会は神に対して不従順を続けてきた結果として、知覚麻痺、無感覚の霊に支配されているのです。

この地の飢饉とは、御言葉を聞くことを妨げている霊がキリストのからだなる教会を毛布のように覆ってしまっていることです。 今の世はめまぐるしいスピードで動いていて、御言葉を聞くための手段も数多く提供されています。 テレビ、書籍、CD、DVDなどです。ですから御言葉の不足が問題なのではなく、御言葉をどのように聞くかということに問題があるのです。それは、御言葉があたかも聞こえない耳にむかって発せられているようで、 その結果、「語られる御言葉であるイエス」を人々が理解することに混乱を招いているようです。丁度エデンの園で蛇が 神の語られた御言葉をねじ曲げてエバに告げたようなものです。

「こう書いている通りです。『神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。』」ローマ11:8


メキシコ湾のオイルの流出は、この国がこれから迎えようとしている問題のほんの始まりにすぎません。アメリカのただ一つの希望(確信のある期待)は、現在の霊的麻痺あるいは無感覚状態から目を覚まして神に叫び求めることです。教会が膝まずいて祈り神に憐れみを乞い求める時、神は正しい者の祈りを聞いて地を(そして海も)癒してくださいます。

この国の救いは神をおいて他にはありません。私たちはメキシコ湾のオイルのパイプを塞いでくださいと神に叫び求めねばなりません。塞ぐことが出来るのは神お一人だからです!そして神は教会が叫び求めた時にその事をしてくださるのです。

神の民への約束

「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。(共同訳)」第二歴代誌7:14

これは 教会にとって(ノン・クリスチャンにとってではありません)力強い御言葉です。これは、「わたしの名をもって呼ばれているもの」、即ち神の民への約束なのです。クリスチャンはキリストの権威と力の中に歩む者です。私たちが叫び求めるとき神はそれを聞き、応答してくださるのです。

アメリカの教会が目を覚まして神に叫ぶならば、神が私たちに大きな裁きを与えないですむような選択を、私たちが神に与えることになるのです。私たちに今残されている唯一の解決方法は、神がご自分の民の祈りに答えて下さることだけです。人々が無感覚から目を覚まして、天からの声を聞き始めるように、どうか神に叫び求めてください。

この国を覆う無感覚、無関心、麻痺の霊が打ち破られるように祈ってください。御言葉が不足しているのではありません。人々が本当に霊で聞いていないのです。そして御言葉を聞いたならば、従ってください! 天は第二歴代誌7:14にある通りの応答をしようとして聖徒たちの祈りを待っているのです。聖徒たちは今ひざまずいて祈らねばなりません!

端的に言うならば、主にあがなわれた者がそういうのを神は待っておられるのです!(終わり)

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# by WALKWITHGOD | 2010-06-14 15:10 | アメリカからのメッセージ

新しいサウンドの到来  レイ・ヒュウズ  6月7日

新しいサウンドの到来

レイ・ヒュウズ


(2010年5月24日 モーニングスターミニストリ−ズでの話の一部 )


今日はダビデの幕屋について話したいと思います。この話は、いつもはワーシップに関わるミュージシャンたちに対して話すのですが、今日は牧会者、リーダーの立場にある人たちに対してお話したいと思います。というのは、私はリーダーたちがこのことを理解するのが今非常に重要だと感じるからです。それは現在御国 (キリストのからだなる教会)の中で劇的なシフトが起こっていて、今まで聞いたことのないサウンドが始まろうとしているからです。今は新しいサウンド、新しい歌へと移行する時です。

ダビデの時代には詩編は「150編」からなっていたのではありません。詩編全体がダビデの幕屋で32年間の間、24/7で、絶えることなく歌われていた一続きの音楽の表現だったのです。
詩編の番号というものは後の時代になって付けられたものです。番号以外にも多くのことが後になって付け加えられたのですが、それによってダビデの幕屋の時代にあった美しさと力、権威が取り去られてしまいました。

「 praise(賛美せよ)」という言葉は詩編には存在しません。「praise」という英語に訳されている言葉は、ヘブル語では7つの異なった言葉があります。私たちは英語の「praise」という言葉を見ると、みんな同じことを表しているのだと思ってしまうのですが、そうではないのです。まずこのことを知っていただきたいと思います。

7つのヘブル語はそれぞれ、私たちが主にむかって身体を用いて行う全く異なる行為を指しています。それは32年間のその時その時に、人々がどのように生き行動すればよいか指し示したのです。
24組の音楽隊が交代で絶えず仕えていました。そして 新しい理解、新しい預言的言葉、新しい言葉使いが、常に新しい音楽的表現が、新しい楽器、新しいリズム等によって表わされ、それが丁度映画音楽のように、神の御こころのサウンドトラックとして使われたのです。即ち、神がその瞬間に語って おられることを表現したのです。映画のサウンドトラックのように、その時の神の言葉、御思いを強調してその効果を高め、聞く人々や回りの霊的環境への影響力を非常に強めたのです。 今、神の御国に新しいサウンドが解放されようとしていますから、このことを学び、理解し、親しんでおくことが非常に大切なのです。

詩編33編を見てみたいと思います。
「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。」とあります。真に正しくないものが喜ぶということは出来ません。正しい者(righteous)な者だけが主にあって喜ぶことが出来るのです。即ち、人がもし父なる神と正しい関係にないならば、喜ぶことはできないのです。この「喜ぶ(rejoice)」という言葉は大変素晴らしい言葉で、実はコマ独楽のようにくるくる回るという意味なのです。

神は私たちのために喜んで独楽のようにくるくる回っていると言われます。ゼパニヤ3:17に「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎをあたえる。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」とあります。

それは神が激しい感情をもってくるくると 私たちの回りで回ることを表しています。神は私たちに歌を歌ってくださると共に、丁度地球が軸を中心にして回るようにくるくると回られるのです。 しかも情熱的な愛情に満ちあふれて神はご自分と正しく結ばれている者たちの回りでくるくると回られるのです。
勇士であられる神が、あなたがたのただ中でそうされるのです。

ちょっと言い換えてみますと、「私のただ中におられる主なる私の神は勇士だ。神は私に歌い、私を喜ばれる。」ということです。ですから私たちのうちからほとばしり出るサウンドは、神が私のただ中におられるのですから、神の権威と創造とに直接的に関与しているのです。詩編全体を通じて多次元的な表現があり、絶えず動きがあり、絶えずサウンドがあり、その日の神の言葉に対する応答があるのはそのためです。

ワーシップチームがステージに上がってダビデの幕屋式に演奏を始めるとしましょう。仮に私がダビデだとして、私が「さあ、この歌を土曜日の4時まで歌いましょう。」と言ったとします。今(月曜日)から土曜日の4時までこの詩によって歌い、それを回りの霊的環境に絶えず解き放っていきます。するとついには歌っていることがその時に現実となり、神が「事は完了した」と言われるのです。

第一歴代誌16:42に「へマンとエドトンの手には、歌う者たちのためにラッパとシンバルがあり」と書かれていますが、ラッパとシンバルの響きは今までの歌を止めてチェンジせよ、という合図でした。その合図があると、今までの歌を止めることが許可され、今新しく神が言われ、されていることに移るのです。これが即ち「新しい歌が解き放たれた」ということです。

次に「主を賛美せよ」と言う言葉があると、新たな賛美が神の民の中で起こり始めますが、それは今までしていた賛美の表現とは異なるものになるのです。それは新しい歌であり、神が新しく民のただ中で「今」しておられることに関する賛美になります。歌い手たちが賛美の召命と油注ぎを受けている人たちであり、これらの事をよく理解し、訓練された人たちだったということは明らかです。

彼らは自由で安全な環境の中で、思う存分に創造的に表現することを許されていたのです。それは治世に関わることであり、又、霊的なことでもありました。ですから彼らはギリシャ的な音楽(言ってみれば、それは数学、科学、幾何学と楽器とを絡ませていろんな音符、記号をつけたもの)という枠の中には閉じ込められていませんでした。彼らの音楽はギリシャ的な音楽を越えたものでした。それは彼らの心からほとばしる情熱であり、神の臨在の中で完全に表現されたのでした。

ダビデが「主を賛美せよ!」と言う時、その「賛美」という言葉はヘブル語の「ハラウ」だったかもしれません。ハラウとは、「馬鹿げた、気が違ったような、輝く、叫ぶ」というような意味を持っています。「ハラウ(賛美) ヤ(神)」は、即ち「ハレルヤ」です。又、ハラウは 澄んだはっきりした音であり、「輝く」とはそのことを指しています。それは音よりもむしろ光と関係があって、音と光の架け橋となるものと言えるでしょう。つまりハラウとは、音楽、サウンドによって神の栄光を人々の上に輝きださせるということなのです。

第一歴代誌15:22に「ケナヌヤはレビ人の楽長で、音楽(songs)に通じていたので、これを指揮した。(口語訳)」とあります。ここで「song」と言っているのは、今私たちが考える歌とは全く違うのです。「song」とは音楽隊に与えられるサウンドですが、それには神からの霊的な重み、神の油注ぎのマントルがあるのです。このサウンドが解き放たれると、今だけではなく過去にも未来にも影響を及ぼす力が放出されます。音楽隊はこのような油注ぎを担えるように訓練されています。

サムエル記上10:5で、サムエルはサウロ王が楽器を奏でる預言者の一団に出あうことを告げています。丘から下ってきた楽隊の奏でていた歌は、サウロを新しい人に変える力を持っていたのです。それは、早さとか高さで人々の気持ちを高揚させるような人工的なものではありませんでした。楽隊の奏でる音によって、神の力や栄光、濃厚な油注ぎをその時そこに顕すものであり、それは政治的空気や経済機構も変える力があったのです。新しい歌、新しいサウンドが解き放たれました。

7つのヘブル語の賛美という言葉(バラク、ヤダ、トダ、シャバ、ハラウ、ゼマー、タヒラ)は、一つ一つ違う賛美の仕方を示しているのであって、私たちから違う行動、違う行為をそれぞれ要求しています。ワーシップは私たちの神への霊的応答です。

「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。」とあるのを見たとき、これはダビデの幕屋式に喜び歌うことを言っていることを忘れてはなりません。次に「賛美は心のすぐな人たちにふさわしい(comely, beautiful)」とありますが、ここで使われているの「賛美」という言葉はヘブル語でタヒラという言葉です。これは多次元的な賛美の表現です。タヒラは即興的な霊の歌であり、詩編22:3で「イスラエルの賛美を住まいとされる」と言われた賛美はこの賛美(タヒラ)だけなのです。確かに主は私たちのすべての賛美に応答されて、王座に着いてくださいますが、「住まわれる」と言われたのはこのタヒラの賛美なのです。タヒラというヘブル語は 数々のうるわしいことを表しています。霊の歌、霊の祈りです。神はその中で王座に着かれ住まわれるだけではなく、その賛美の霊的環境と結婚されると言われています。

その意味は永遠の契約を神がされるということです。神が民の賛美のただ中で王座に着かれるならば、その影響は何代にもわたって続くのです。そのような霊的環境になったとき、ダビデは時として命令をくだしました。「主を賛美せよ!」と。そのときの賛美を表すヘブル語は「シャバ」という言葉だったかもしれません。これは「叫べ shout」ということです。

神が人々の賛美に中に住まわれるときの霊的環境、霊の油注ぎ、濃厚な主の臨在を、私たちは今非常に必要としています。新しい歌、新しいサウンドを解き放って、御国をシフトさせ、すべてのものを変えねばならないのです。

詩編33、96、98、149などに「新しい歌を主に歌え」という言葉があります。詩編33編を見ると、「賛美(タヒラ)は心の直ぐな人にふさわしい。立琴をもって主に感謝せよ。(ヤダ=手を上げて賛美せよ)」とあり、次に「十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。」と続き、そして「新しい歌を主に向かって歌え。」という重要な言葉があります。明らかに神は私たちに歌をチェンジしてほしいのです。

私が信じて口から出した言葉が私の歌になります。私が今までの人生で信じて口に出した私の歌は、必ずしも神がのぞまれた歌ではありませんでした。敵が私たちに関して言うことを信じるならば、それが私たちの歌になってしまうのです。私たちについて神が言われることに同意するならば(個人としても、共同体としても)それが私たちの歌となるのです。

朝起きたとき、ばかばかしい歌が頭の中で聞こえていることがありますか。あなたはその歌をお昼まで歌ってしまうことになったりします。それがどうしても頭から離れないのです。あなたはそれを午後2時までずっと歌っていたりするのです。その歌を忘れるためには、新しい歌を歌うしかありません。どうしてかお分かりでしょうか。それは新しい歌が古いサイクルを打ち破るからです。

教会の音楽システムもサイクルになってしまって、ぐるぐる同じことをするサイクルにはまってしまっています。それは打ち破られなければならないのです。そして新しい歌が入る余地をあたえなければなりません。そうでないと、私たちは古いサイクルを歩き続けることになって、新しい歌が霊の力をもって事をなしとげることを出来なくしてしまいます。神がかつて言われたことを繰り返すだけになってしまうのです。

確かに5年前には今のワーシップでうまく行っていたでしょう。しかしそのまま続けると、牧師はワーシップに携わる人たちにフラストレーションを与えることになります。彼らは古いサイクルにはまってしまって、制限され型を押し付けられて、いつものような日曜礼拝を続けることだけしか出来なくなるのです。

しかし彼らはそのようには造られていないのです。私たちは「今日の礼拝はよかったね。よい日曜日だった。ワーシップチームもよくやった」などと言うのです。でも私たちはただ「すてきな日曜日」であれは良いのではないはずです。

神様はそれ以上のことをなさりたいのです。神は御臨在の力を解き放つようなことをなされたいのです。人々の中の隔ての壁を取払い、境界のない恵み、無制限な創造性を望まれているのです。これこそ神が今、教会に解き放ちたいと思っておられる新しい歌が出来ることなのです。私たちの考えは同じところをぐるぐるまわるサイクルにはまってしまっています。

新しい人が来て、ちょっと変ったサウンド、ちょっと変ったメロディーを奏でるとそれを歓迎し、少しの間はそれで満足します。音楽に新しさを求める人々の必要性がそれで満たされるからです。けれども神はそのようなものをずっと越えたものを私たちに与えたのです。即ち霊の力の領域に入り、神の「今」の言葉を表すようなサウンドです。そういう新しい歌が歌われるようになると、私たちの間に真の解放が起こり始めます。 暗闇にいた人々も立ち上がってデスティニーにむかって進みはじめるのです。(終り)


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# by walkwithgod | 2010-06-07 13:11 | アメリカからのメッセージ

「神の子」と「人の子」  坂  達 也 6月3日

「神の子」と「人の子」

                坂  達 也


皆さんはクリスチャンとして、自分が「神の子ども」であると同時に「人の子」であることを、どれほどはっきり自覚しておられるでしょうか。
「神の子ども」であると言うことは、文字通り「全知全能の創造主の子ども」と言う意味であり、「自分はそのような力と権威がある神の家族の一員で後継者」であることをしっかりと自覚していると言うことです。

勿論、私がそのように「身構えた」質問をすれば、皆さんも「身構えて」 神学的な建前として「そうです」とお答えになる方も多くおられるでしょう。しかし実質的な話として本当にそれを自覚して毎日を生活しておられるでしょうか。
何故今更そんな質問をするかと言いますと、今、これが真剣に問われる時代に来ていると思うからです。

私たちクリスチャンは,既に神の御子イエス・キリストを信じ、霊に生まれ変わることによって神の子どもになりました。しかしそれはどう言う意味でしょうか。
 先ず「神の子」と言う名称についてですが、英語の場合は単数形の子(息子)である Son of God と書かれます。この単数形の「神の子」は三位一体の神【父と子と聖霊】の二人目の神としての「子」であるイエス・キリストを指しますが、新約聖書ではその意味で37回使われています。通常この呼び名は神としての「ご性質」を表し、父なる神と同等であることを意味すると言われます。

人間は元々アダムにおいて「神のかたちに神に似せて造られた」と書かれていますが、神は人間を少しだけ神に似るように造られたのか、それとも全部似るように造られたのでしょうか。創世記1:26 -27に下記のように書かれています。

「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身の形として創造された。」
 
神は元々人間を造るに際して、大真面目で本当に「自分の子供」を造る思いで造られました。ですからアダムを神に似せて造られたのは当然と言えば全く当然です。
アダムがどれほどの権威と力を持ち、どれほど創造者の神に似ていたか、生まれながらの罪人である今の我々には想像もつかないことであると思います。しかし、そのすばらしい力の一端を知る資料として創世記2:19、20があります。

「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが...」

動物とか鳥に「名前を付ける」と言うことがどれほど重要な仕事であるかご存知でしょうか。これこそ三位一体の創造者の神がなさった創造そのものに参加すると言っても差し支えないことであるのです。
被造物を創造するにあたって、神である「子」は、「父」の意図を汲み取り、造るものの全ての特性から遺伝形質とか性格に至まで、その動物の特質の全てを 言い表す言葉で命令し、それを受けて「聖霊」なる神が具体的に必要な細部の構成分子とか原子を組み立てて具体的な「創造」が行われました。

ヘブライ語で表されるユダヤ人の名前はその人の性格とか「人となり」を象徴的に表します。従って名前を付けると言うことは、その人なり動物の性質にぴったりの名前でなければなりません。名前によってどんな性質かが公表されるのです。

三位一体の神は恐らく固唾を飲んでアダムがどんな名前を付けるかを見守ったことでしょう。アダムは「子」であるキリストが創造した動物の性質そのものを象徴するような名前を付けねばなりません。これがうまく出来るかどうかは、最初の人間アダムの出来具合いをテストする重要な機会であったのです。

アダムは的確な名前を付けるために、創造者その人であるキリストがそれぞれの動物をどのような性質に造ったのかを聞いて知る必要がありました。そこでアダムは全てをうかがい、それに対して主キリストは的確に答えて教えられたことでしょう。この霊による質疑応答のコミュニケーションは心と心が密接に通じ合う親密な間柄の人間関係においてなされます。主とそのような関係にあったアダムは神の意向を全て理解した上で、それぞれに適切な名前を付けて発表しました。

父と子と聖霊の神は、恐らく顔を見合わせて満足され喜ばれたことでしょう。アダムはテストに合格したのです。それと同時に、総ての動物は最初の顔見せにおいて、アダムに従属する主従関係にあることを理解しました。この儀式によってアダムは地球上の全ての被造物の上に君臨する権威とリーダーシップを確立したことになります。

ここで非常に重要なことが分かります。それは、最初の人間であるアダムは確かに被造物ではありますが、むしろ創造者側に属する「創造者」でもあると言うことです。「名前を付けて見なさい」と言われ、それが出来たのですから、アダムは神の「仲間」に加えられたのです。名を付けると言うことは創造的行為です。つまりは、人間は創造者になるように造られた唯一の被造者であると言うことです。

それに関連してもう一つ重要なことがあります。それは三位一体の神は、三人で一人の神と言われますが、何故そうかと言えば、御三人の心と行動がものの見事にいつも一致しているからです。お互いの意志と思いがいつもピッタリ通じ合っているのです。私はこれが、神の神たる最も重要なご性質、あるいは特質であると思います。
従って神に属し、神に似る(仲間入りをする)ように造られている人間は、その心と行動において、何としてでも神と一致し、同じでなければならないと言うことになるのです。神が人間に対して徹底的に「神への従順」を要求する理由はここにあります。当然ではないでしょうか。

ところがそれ程神に似ていたアダムが、神に背いて罪を犯してしまいました。その結果として、神との関係が断たれてしまい、「神のかたちとして、神に似せて造られた」性質と特権を失ったのでした。

神学者のアーサー・カスタンス氏によれば「神のかたちに」の「かたち」は英語で image と訳されていますが、この言葉 image は主に同種・同族の「属する関係」を表すと言い、又「神に似る」の「似る」は、英語の likeness で、同じ性質を持つと言う意味であると言っております。

それはちょうどイエスがカイザルの肖像が付いたコインを持って来させ、「これはだれの肖像 image か、だれの銘か。」と聞きました。人々が「カイザルのです。」と答えると「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」と言われた通り、人間には元々神のイメージが付いたスタンプが押されていたのです。(マタイ22:19−21)

そうであるなら人間は神に属する「子ども」として造られ、しかも性質も似ていると言うのですから、人間は本当にただ者ではないのです。
それを今のように無力で、むしろ全く神に似つかわしくない悪い性格になり下がってしまったのは、アダムが罪を犯した後、総ての人間がサタンの言いなりになって来たからです。

ですから神は、初めから人間が罪を犯すことを見越して、創造の前から「子」であるイエス・キリストを十字架に付けて罪に堕ちた人間を救出ることを計画しておられたのです。そしてイエス・キリストは罪の無い人間「第二のアダム」としてこの世に来られ、十字架の御業によって人間と神との関係(押されたスタンプ)を回復されました。

そのイエスを信じることによって私たちは神の子どもとして復縁し、性質が神に似るようになるために、神から今厳しい愛の訓練を受けております。私たちには、神の子どもと呼ばれる権利とそうならねばならない責任が戻って来たのです。
まさに「私たちが神の子どもと呼ばれるために、———事実、いま私たちは神の子どもです。御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(1ヨハネ3:1)です。ハレルヤ! 

処で、救世主イエスは「神の子」Son of god であると共に「人の子」Son of Man とも呼ばれています。特に新約聖書では43回もイエスを指してこの「人の子」と言うタイトルが使われています。その意味は、主イエスの「ご性質」が、神の造られた最初の人間、罪を犯す前のアダムが持っていた「完全な人間」の性質であると言うことです。少なくとも私はイエスを「人の子」と呼ぶ意味をそのように解釈しております。

イエス・キリストは第二のアダムと言われますが(1コリント15:45−48) それを裏付ける聖書箇所としてルカ3:38があります。そこでは「アダムは神の子である」と、イエス以外の人間としてアダムだけが一度だけ単数形で「神の子」と書かれています。
罪を犯したアダムを救い出すために、キリストが第二のアダムとしてこの世に来られたのです。従って、第一と第二のアダム、つまり人間と人となられたキリスト・イエスは同族・同種であると言えます。

私たち人間は、今はまだまだ罪の影響が残る弱い人間でしかありませんが、元々意図されたパワフルな「神の子供たち」に本当になれるのです。いや、そうなるようにこの世に生まれて来たのですから、それが私たちのゴールです。

いつも主の御声を聞いて、主を見上げ、主に従う毎日を送ることは、私たちクリスチャンが名実共に「キリストの花嫁」となって、真の「神の一族」に加わると言うデスティニーであるのです。(終わり)

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# by walkwithgod | 2010-06-03 06:50 | 坂達也からの今月のメッセージ

デスティニーを選び取る ジョアン・マクファター 6月1日

デスティニーを選び取る

ジョアン・マクファター



「次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』」エレミヤ1:4、5

「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」詩編139:16

エレミヤとダビデは、彼らが母の胎内に入る前に神からの召命を受けていましたが、 すべて生まれてくる人間は、男も女も、彼らと全く同じなのです。しかし神は人間に自由意志を与えられることによって、その召しを実際に受けとって生きるかどうかという選択を私たち各自に委ねられたのです。イエスも次のように言っておられます。

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」マタイ22:14

私たちの選択は、自分が満ち満ちた主の栄光がとどまる器となるかどうかという決断によってなされます。私たちが主の栄光を持ち運ぶようにまだ調えられていないときに、主はそのような栄光を私たちの上に注がれる事はありません。そんなことをしたら私たちはそれによって滅びることになるからです。デスティニーは私たちすべてを招いていますが、その招きがどういう結果になるかは、私たちの自由意志の使い方によって決まります。

私たちの心が創造主の声に対して絶えず「私はあなたを選びとります!すべてのものにまさり私はあなたを選びとります!」と応答していくならば、私たちは自分のデスティ二—の道をつき進んで行っているのです。

デスティニーは目的地そのものではなく、そこに行き着くまでの旅である

主が私たちの始めであり、又 私たちのデスティニーです。私たちはこの世が始まる前から主の中にいました。そして又主の中に住まうために帰っていくのです。私たちは今すでに主の中にいるのです。それは、私たちが主の流された血潮の赦しの恵みを信じ、それを受け取っているならば、です。

主の書物の中に書かれた自分のためにあらかじめ定められた日々をそのように生きて行く(そのコースを走る)ことが私たちの旅です。それは一日ずつ忠実に生きて行くと言うレースであり、何よりも主を選びとって行くという決断を一つずつ続けるレースです。毎日の生活の中で出会うすべての分岐点で主を選びとって走り、意識的に「主を選びとる」という決断をしていくことによって、私たちは デスティニーの真ん中にいる事ができるのです。何故ならデスティニーとは主のうちにだけ見出すことができるものだからです。

「神はひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。」使徒17:26−28

私たちの西洋的考え方では、 自分が目指しているある目的や仕事、或いは地位に到達することがデスティニーを達成することだと考えます。それは自分が作り出した自分の希望の型であり、例えば歌手とか牧師、或いは銀行家になりたいとかいうものです。でも神が考えておられたのはそんなことではないように思います。自分でデスティニーだと思っていることに到達する望みが、毎年遠のいていくように思える人が多いのは、その所為かもしれません。私たちは一つの型(体制・環境)を自分のために作って、その中で自分を機能させようとします。まず型があり次に機能が来るという考え方は、私たちの文化に大きな影響を与えたギリシャ的思考の結果です。

私たちの真のデスティニーは、主が私たちのために造られた日々を「実際に日々生きる」ということの中に秘められているのであって、自分の肩書きとか職業のためにではないのです。それは「自分は預言者である」から預言をするということではなく、主の御声を聞き、 御父の心で愛をもってそれを預言する(人に伝える)ことを毎日学ぶ、その日々のプロセスそのものがデステイニーです。預言者としてそのように機能するとき、私たちは真に自分のデスティニーを見出すのであり、それは即ち主に似た者となるということです。

それはどのような仕事やミニストリーについていても同じことが言えます。主の書物には、私たちそれぞれが日々違う人生を生きるように書かれています。しかし、その中で私たちがどのように生きればよいかを学んで行くことが、自分のデスティニーを日々歩むことであり、それはすべての人にとって同じプロセスなのです。即ち、それは主のようになる事であり、主と一つとなるというプロセスです。

デスティニーは終りに達することではなく、そこに至るまでの「旅路」であり、主ご自身が主の書物に書かれた日々を私たちが忠実に生きていくことです。一日一日を主の中で生きるという人生こそが私たちの真のデスティニーであり、その中で私たちはもっと主と似るものとされていくのです。それが行われる型、つまり先生とか伝道者、あるいはパン屋とかいうことは、毎日のプロセスに較べれば二義的なことです。もしかして私たちは肩書きや名声を手に入れることに焦点を当ててしまっていて、この「旅路」の喜びを失っているのではないでしょうか。私たちが今日まで生きてきた日々、その中でしたすべての間違い、すべての失敗、すべての成功から私たちのデスティニーはなっているのです。


デスティニーは動詞であり、デスティニーは一人のお方である


私たちが「デスティニーは名詞である」と考えるのが 間違いのもとかもしれません。実は神にあってデスティニーは名詞であると同じくらいに動詞であるのです。 「それは一人のお方である」と言ったほうが或いはもっと正確かもしれません。即ち、それはイエス・キリストというお方と一つになるというプロセスです。何の仕事をしているかに拘わらず、このプロセスは全く同じです。自分の召命に応答しその中で成長して行くプロセスが、私たちの本当のデスティニーなのです。それは私たちすべての者にとって同じです。

ですから私たちは、人生の中を、良いこと、悪いこと、醜いこと、血みどろの戦いや栄光などすべてを通り抜けていくときに、「小さな始まりをさげすんではいけない」とか 「それをこの上もない喜びと思いなさい」と励まされているのです。気づいていてもいなくても、あなたは今デスティニーのただ中にいます。
人生の一日一日の集計が主にあって私たちがどのような者になるかを決めるのです。舞台裏で人目につかずに黙々と働いた人々の日々の重要性が、人々の前で目立って活躍した人たちの日々に比べて決して劣るとは言えないのです。

すべての事がデスティニーの成就のために相働いているということを知って、私はとても励まされます。失望や心痛、裏切られた時に私たちが何を選択するかということが、神との一致、愛 の場所へと私たちを連れて行くのです。

私たちは「自分はなんてかわいそうなんだろう」と思うことを選択することもできますし、自分の置かれた場所や、いつまでもそこに置かれていることに対して不平を言ったり、運の悪さ(実際にはそれが悪い方向に行くのを阻止してくれたのかもしれないのですが)を嘆いたりすることもできます。でももう一方の選択は、主を見つめて「私はあなたを選びとります!どんなに悪く見えようと、どんなに長くかかろうと、自分や他のものではなく私はあなたを選びとります!」と言うことです。

それは又、私たちがどのように自分の昇進、恩顧、繁栄を取り扱うかということでもあります。それらを得たというのが大切なのではなく、 その地位であなたがどのように人々を統率し治めるかということが重要なのです。自分のためにだけその地位を用いるのでしょか、それとも人々に尽くすために用いるのでしょうか?私たちは自分が受けた恩顧を、人々が彼らの召命の中で強められ引き上げられる(自分より上にさえも)ために用いるでしょうか?私たちに与えられたすべての特権の中にあっても、私たちの内からは常に「主よ、私はあなたを選びとります!あなたは私の受ける分、私のデスティニーです!」という叫びが起こっているでしょうか?
雅歌の中でそれが巧く表されています。

「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」雅歌8:6−7


主こそ デスティニー

私たちがこの世を去るときの質問とは次のようなものでしょう。「私たちは主に似ているでしょうか?」「愛することを学んだだろうか?」「日々自分に死んで、私が生きるのではなく私の中のキリストが生きてくださったか?」
私たちの真のデスティニーは、召命が何であろうと「主の中」であり、「主のようになること」です。どのような仕事や召命であっても、そのことにおいて私たちは主の御前で同じレベルに置かれているのです。私たちはキリストの花嫁として花婿と同じ性質を持つべきであり、主が生きられたように人生を生きるべきです。主に似る者となり、主のように行動し、主のように応答し、主の内に一つとなることこそ私たちのデスティニーであり、 型とは関係ありません。主が私たちのデスティニーです!

「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」エペソ1:10−11

「 ついに時が満ちる時」に近づいている今、この理解をもって働く人たちが集められています。私たちは主が愛されるように愛す者にならねばなりません。それはあたかも愛そのものが歩いているかのようになり、自分の命を捨てる用意が出来ていて、自分より他人を先にするということです。それは今という時の私たちのデスティニーです。私たちの人生がどのような形をとっていようとも、目的は私たちが主のようになり主と一つとなることであり、無私の愛で働くことなのです。このような高レベルの成熟、自分に死ぬ事が主の臨在をもたらします。(終わり)

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# by WALKWITHGOD | 2010-06-01 14:55 | アメリカからのメッセージ