新しい油注ぎを持つ者は誰か
ジュリア・ローレン 私が「Shifting Shadows of Supernatural Anointing(これは私が人々のために祈るときに見た新しい油注ぎ、またこれから台頭してくる油注がれた人たちを見分けることに関する本です)」を執筆していたとき、私は主に「新しい油注ぎを受けているのは誰ですか?」と訊ねました。 「彼らはわたしのあわれみを具現する」 すると主は私の前に立たれ、次のように答えてくださいました。 「彼らはわたしのあわれみを具現するものであり、わたしのめぐみを世に顕していく者たちです。多く赦されたものは多く愛します。そして彼らは信仰と希望と愛の新しい次元を歩み始めます。彼らはわたしのこころにぴったりと寄り添って歩み生きているので、人々にそれらを分与することができるのです。彼らの中に人を裁く心はありません。彼らはわたしの愛が裁きを停めることを知っており、わたしが彼らを完全に受容していること (それは自分の力では決して得ることができない受容です)、即ち、決して彼らを拒んだり否んだりしないわたしの愛を感じているので、彼らも人を裁くことをしないのです。 「彼らのへりくだりは力を受ける管 である」 「 人々を尊び、チームの一員として働くという彼らのこころは、彼らの権威を増し加え、 彼らを危険から守ります。それはわたしが願うことです。」 「彼らは 証しする事を恐れない。」 「彼らは 証しする事を恐れません。それは彼らがキリストの福音を恥とはしないからです。彼らはそれが救いを得させる神の力だと知っているからです。様々な文化の中に存在する敵の支配を打ち破る油注ぎとは、即ち救いに至らせる神の力であり、その力は彼らの証と わたしの血潮についての更に深まる啓示の言葉を通して解き放たれるのです。 「彼らは洞窟の中にかくれているレムナントではありません。彼らは地域、民族、国々を獲得していくリーダ−です。彼らはわたしが選んだ者、わたしが愛する者、わたしの名でよばれたもの、国々を受け継ぐために生まれた者、歴史の中で今この時のために特別に生まれた者である故に、聖なる大胆さで満ちているのです。 「彼らは肉の戦いの武器を捨て、それに代わる究極的な愛の啓示を受けるための武器を持つ」 「彼らは、わたしがこの世に今あらわしつつある新しい解放の神学そのものなのです。彼らは恵みとあわれみを人々に再び思い起こさせるために遣わされ、肉の戦いの武器を捨てて、究極の愛の啓示を受取ろうとしたのです。」 「そして彼らは、これからますますわたしの愛を知るようになります。一人ひとりが個人的に、ショックを受けるほどに、わたし以外のすべてのものからあきれられ、馬鹿にされ、見捨てられるものとなります。わたしの愛に一度でも触れるならば、どのように打ちのめされ孤児のようになっていたものも、わたしが大いに喜ぶ聖なる油注がれたものと変革されます。彼らは大群となってあらわれてきます。 「ノアの時代の洪水のように、彼らはわたしが今地上に 送っている愛の革命の先駆けと なるでしょう。彼らは破壊するのではなく、地を癒す洪水となるのです。」 「彼らはその身にキリストの焼き印ー彼らの魂に 刻まれた傷、彼らが苦しんだ心の傷や皮膚の傷あとのしるしーを帯びているので、ある人たちは彼らを喜んで受け入れますが、ある人たちは彼らを拒むでしょう。」 「彼らを受け入れない人たちには次のように告げなさい。『「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んできなさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにきたのです。』」マタイ9:13 (終わり) 〔訳者注〕:ジュリア・ローレン師の情熱は、人々とイエスとの関係をもっと深いものへと導き、より多くの力を受けることにあります。非常にダイナミックで預言的な語り手として、世界の多くの教会とか修養会に招かれミニストリーをしております。 彼女は多くの著書を出しており、ビル・ジョンソン師とかマーシュ・チャブダ師と共著の本も書いています。 トップへ戻る ▲
by walkwithgod
| 2010-10-18 15:18
| アメリカからのメッセージ
世界的預言ムーブメントのために祈る
ジェームス・ゴ-ル ニ倍のわざを行う 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネ14:12)」とイエスは預言されました。私はこれを「ニ倍のわざを行うこと」と呼んでいますが、私たちは「さらに大きなわざ」を行うようにと召されている時代に今生きていると私は信じます。聖霊の声に耳を傾け、聖霊が私たちに告げる場所に網を投げることによって、私たちは驚くほどの魚を獲ることができるでしょう。 今の世代のクリスチャンは、立ち上がって伝統という制限の箱を打ち破り、次のような性質をあらわします。 *へりくだりを伴った信仰 *チームで働く大切さを知っている(男女をとわずに) *人間関係を大切にし、傷ついたものを癒していく *父なる神を強調する(御子イエスの啓示だけではなく) *油注ぎの多様化、創造的な聖霊の働き(預言者、予見者)が放たれる *力、明瞭さ、正確さが増し加わる *目標を明確に見る能力が増し加わる 教会は 訓練の場であり、世界は私たちが実際に活動する場所です。 共に助け合って御霊の声に聞き従うならば、私たちはイエスが地上におられたときになされたわざよりも、さらに大きなわざをすることができるようになるでしょう。そして主のわざが何倍にもなって、さらに多くの領域が主の王国へと変えられていくのです。 御国が天にあるようにこの地にも来るようにしようではありませんか! 預言的(御霊の指示を聞いて行う)伝道 「舟の反対側に網をおろしなさい。」というシンプルな言葉が、即ち預言的な伝道です。それはただ御霊に聞いてそれに従って行動することにより、あなたのまわりの世界に御国を来らすことなのです。 600年以上前に起こった宗教改革の時から伝道が強調されてきましたが、預言的伝道はその流れの中で起こっています。 1904年に ペンテコステのような御霊の傾注が起こって以来、100年以上も預言ということが強調されてきたのです。初期のホーリネス・ムーブメントがペンテコステ・ムーブメントに移行し 、やがてそれがカリスマッテック・ムーブメントへと移行して行き、現在の使徒的ムーブメントの基礎を作ったのでした。 すべてのクリスチャンが祭司である(万人祭司)という考えは、キリストのからだ全体が神とともに未踏の新領域へ探検に乗り出すことを可能にしました。 教会が 花嫁として成熟し 花婿なるイエスとまことの 親密さを持つことと、神の民が持つ統治力(花嫁の統治)をもっとはっきりと理解することが出来たことによって、預言的伝道はますます力を増し加えられました。 私たちは皆、預言的な伝道者であるべきです。それはメガチャーチや大きなスタジアムの大会の中にいる時も、あるいはホームレスの人を裏路地で助けている時でも変りません。コンゴのジャングルで宣教師をしていても、あるいはスターバックスでコロンビアコヒーを飲んでいてもです。 私たちがどこへ行こうとも同じ聖霊が語りかけてくださるのです。聖霊は私たちを他の人々と繋ぎ合わせ調えて、お互いの賜物を合わせ用いる方法を教えてくださいます。それによって私たちを通してしるしと奇跡を行ってくださるのです。その時、神が実際に働いておられるのだということを人々は否定できないでしょう。私たちの力と愛と一致が、失われた世界に主を顕していくのです。 預言的祈りを激しく降らすあらし 預言的伝道と、それが前進する道を切り開くための土台となるものは、預言的とりなしの祈りです。私自身のミニストリーでしたもう一つのことは、「祈りのあらし」と私たちが呼ぶものです。 今から2世紀前、ドイツのへランフットにあったモラビアンというグループは24/7の祈りをしていました。そのモデルを私たちは現代化し、インターネットを使って世界的なとりなし手のグループを作りました。彼らとりなし手は、教会、若者の覚醒、イスラエル、そして危機への神の介入を、一週間に一時間祈ることをコミット(確約)するのです。今世界中で起こっている緊急事態に対して 聖霊は素早く詳細に教えてくださるので、私たちのヴァーチャルな(インターネットと言う虚像的連絡網によってつながる)祈りの家は力づけられ今も天を激しく襲っています。 常になされる情報の更新や、報告、ウェブキャスト等の方法によって、祈りの戦士たちは今までなされたことのない新たな試みのパイオニアになっています。それは世界を預言的とりなしで四六時中覆うことであり、一つの場所に限定されない祈りの家です。私たちは モラビアンの光を再び回復してこの世に放っているのです。それは「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせねばならない。消してはならない。(レビ記6:13)」という神の律法の言葉を土台としています。あなたも祈りのあらし−世界を変える時—に参加することができます。 私たちは共に過去の偉大なリバイバルの時のように世界に福音が広まるのを見ることができるのです。 私たちがとりなしをするときは(祈りのあらしのときだけではなく、常に)聖霊に聞かねばなりません。聖霊の絶え間ない導きなしには、私たちはすぐにつまずいてしまいます。聖霊に助けられ協調して、私たちは はっきりとした結果を見るまで祈り続ける 忍耐力とエネルギーと正確さを持つことができるのです。 世界的な預言のムーブメントにもっとインパクトを与えるように祈ろうではありませんか。 次の預言の波が放たれて様々な成果をもたらすように願おうではありませんか。預言的な伝道と預言的とりなしを願い求めることによって、主イエスがご自分の受難の報酬を受け取られるのを見ようではありませんか。 さあ、アドベンチャー(冒険)を始めましょう!(終わり) トップへ戻る ▲
by walkwithgod
| 2010-10-08 12:11
| アメリカからのメッセージ
まことの愛は私たちをあるべき姿に完成する
グラハム・クック まことの愛の真髄は、人々を自由に解放することにあります。愛と自由に関してのまことの知恵は「あなたが何かを愛するならば、それに自由を与えなさい。(開放しなさい)もしそれがあなたに戻ってこなかったならば、初めからそれはあなたのものではなかったのです。」ということです。愛は自由を求めます。また、信頼される必要があります。 私たちが恐れずオープンに愛することを学ばなければ、私たちの愛の対象は私たちとの関係に問題(プレッシャー等の)を感じ苦しむでしょう。 愛は人々が彼らの人生とそのアイデンティティーを見つけるための冒険、探検に出かける許可を与え、その途上で間違いを犯すことをも許可するのです。私たちが何かを初めてする時には、それをしたことがないのですから、失敗したとしてもそれは間違いではありません。私たちはすでに起こったことからしか学ぶことができないからです。失敗したとき、私たちはそれから学んだことを自分に適応させ、もう一度やって見るのです。 もし学んだことを自分に適応しないで、同じ事を繰り返し同じ結果になったとすれば、それは明らかに間違いを犯したことになります。もし同じ事をし続けるならば、そこに一つの行動パターンが出来てきます。そのパターンを繰り返すならば、私たちにはあがなわれなければならない歴史が出来上がってきます。その歴史と行動パターンとは違うものです。行動パターンは原因であり、歴史はその結果です。人間関係において、行動パターンは間違いを犯した者の責任ですが、それが作り出した歴史をどのように処理するかは被害者がコントロールすることができます。 人を赦すことは私たち自身のブレークスルーにとって大変重要な部分です。ですからまず第一に私たちは自分のために人を赦さねばなりません。しかし私たちは無理矢理その人を赦すように強要されるべきではありません。多くの場合、赦しはそれ自体が一つのプロセスとしてやってきます。赦しなくしては信頼関係もなく真の愛の表現も不可能です。 しかし赦さなければ恥となると云ってまでその人に赦しを強要するべきではありません。もし赦すことがすぐに出来ないならば、それは傷ついた側に癒される必要があり、それを目的とした(そのための)プロセスであるということです。愛はその人のすべてが癒され、あるべき完全な姿に回復することを望むからです。 時には(間違いが積み重なる)その歴史は比較的簡単に赦すことができるかもしれませんが、私たちはその人の行動パターンが変るまではそれにつきあって暮さねばなりません。もしそれが変らなければ、歴史は繰り返され、その人との人間関係はまた振り出しにもどります。人がその行動パターンを変えるためのステップを確かに踏み出さないならば、信頼関係が失われます。 信頼には、「与えられる信頼」と「 自ら取得する(勝ち取る)信頼」とがあります。「与えられる信頼」とは傷つけられた人が傷つけた人に与える(ことができる)信頼です。「取得する信頼」とは傷つけた者が、良心の呵責の重荷により(悔い改めに導かれ)その後の行動を変えることによって自ら勝ち取る信頼です。どちらが先かは問題ではありません。その状況の中で「自分はどのような人間になりたいか」ということは両者に委ねられていて、それに対してはそれぞれが自分で責任を負わねばなりません。両者が同じ時点から出発する必要はありませんが、両者がそれぞれに成長したあかつきには、やがてもう一度結びつくことが可能です。 すべて人間の状況は一つとして同じということはありません。 私たちが自分の行動パターンを変えるのは、ただ誰かを取り戻すためだけのためではありません。それは私たち自身が変えられた人間になることを選びとるからです。つまりこの変化は先ず第一に自分自身のためでなければなりません。そうでなければ長続きはしませんし、よい態度とその継続が試されるテストに合格することもできないでしょう。すべての人間関係は、様々な出来事によってテストされますが、それこそ私たちが 愛、忍耐、慈しみ、忠実、信頼において成長する道なのです。 私たちが自分の行動を改めていくためには、 次のような愛をもってなされる質問が助けになります。ですからこれは自分にも又、他の人にも聞いてみるべき質問です。 あなたの中の何がこのような行動をあなたに取らせると思いますか? 私(彼、彼女、彼ら)の中の何があなたにこのように行動してもよいのだと思わせるのですか? あなたに自分の行動は正当だと感じさせるのは、私(彼、彼女、彼ら)をどのような人間だと思っているからなのですか? この関係においてあなたはどうやって信頼関係を回復しようと考えているのですか? ある人が自分自身を破滅させ、又、他人を傷つけるような言動を深く考えもしないでする場合、私たちはそれを止めさせ回復させるために動き始めねばなりません。 森の木を伐採して空き地を作るように適切な質問をすることによって一息つけるスペースを与え、その人が新しい方向、道を見出す可能性を与えることができます。 勿論、私たちもこのような言動に陥らないように気をつけねばなりませんし、同時に、そのような行動パターンが止められることを望みます。愛は自由を求めます。もし私たちが誰かの行動パターンの被害者であるならば、私たちは正しく愛される自由を求めねばなりませんし、又、その時の私たちの態度も愛に基づくものでなければなりません。その時に作られる「息の出来るスペース」で、私たちは愛が(初めからではなくてもいずれは)回復されるのを許す空間を確立させねばなりません。それは感情という銀行口座にどのくらい「信頼」が貯蓄されていたかがポイントとなるでしょう。 私たちはその人の行動は是認しなくてもその人を受け入れることはできます。神は始終そうされています。神でさえ私たちを変革させるためにプロセス、段階を用いられます。第一段階は 神のみこころにかなった自分に対する嘆きの心を持つことであり、それが私たちを悔い改めに導きます。自分の考え方を変え、その新しい考えに添って行動すること、それが悔い改めの始まりです。そして悔い改めの完成は、信頼が回復され、変革が達成されたときに起こります。これはかなり長いプロセスであり、和解(与えられる信頼)と、関係の回復(勝ち取られた信頼 )とが含まれるのです。 悔い改めには結末が必要です。そうでなければ完全ではありません。悔い改めの初めはただの出発点にすぎません。最後まで到達しなければブレークスルーは起こりません。多くの人は最終的結果や悔い改めへの願いは持っていますが、それを確かなものとするプロセスを大切にしていません。「希望」と「達成」との間にあるギャップは、一歩ずつの進展によってしか埋めることはできません。「与えられる信頼」は和解への道の一端を担うことはできます。しかし、「勝ち取られた信頼」だけが、回復に不可欠な悔い改めを完成することができるのです。 あなたがその人の行動いかんに拘わらず彼を愛していることを告げることは、時として彼が向きを変えるきっかけとなります。(絶対にそうなるという保証はありませんが。)愛は人に踏みつけられるだけのドアマットでは決してありません。愛のゆえに犠牲になることを私たちが選んだとしても、それによって私たちが「犠牲者」となっては絶対いけません。私たちを完全なものにしない愛は、愛ではないのです。(終わり) トップへ戻る ▲
by walkwithgod
| 2010-09-29 16:21
| アメリカからのメッセージ
自己憐憫(2)
チャック・ピヤース 自己憐憫は自分の権利を主張する! 自己憐憫は自分の権利を主張します!私たちの自我が支配してしまうとき、 自分のやり方と権利を要求してそれによって何かを確保しようとします! 自分に与えられた分を感謝して受けることが出来ないと、自分が受けるべきでない分まで受けるべきであるかのように私たちは感じてしまうのです。「権利がある(entitle))とは、即ち「タイトルを付ける」ということです。タイトルとは「それは自分の所有である」という証拠ですから、「 entitle」とは「所有する権利を主張する」という意味になります。私たちの肉の性質に同調する悪魔によって、多くの家族やミニストリーが分裂させられてきました。権利の主張は自己憐憫と共に働いて「それは私のものであるはずだ」と要求するのです。 ヒューストンに私たちは親しい友人がおります。彼女は非常に多くの賜物を持っている人ですが、また、自分自身を深く知るために力を尽くす人です。彼女は自分自身を知ろうと願うばかりではなく、どうして神は自分を造られ、神が一見黙しておられるときに自分が神に対して不満を持つのは何故なのかを知りたいと思っています。彼女は自分の反射的な行動(リアクト)は何故起こるのか、そして神が彼女にどのようにリアクトするのかをキチンと理解することが、彼女が求める人生の探求のすべてなのです。彼女は「自分には権利がある」と感じることに関しての理解を求めているとき、次のような手紙をくれました。 最近、私は自分が「権利主張」という言葉をよく言っているのに気がつきました。(それは勿論自分に関することではなく、他の人に関してですが..)私はこの問題で悩んでいる人たちのことを心配していたのです。ですが勿論、主は私自身にもその問題があることを示してくださいました。 この問題が私の人生の中で醜い頭をもたげてきたのを感じていたので、このことに興味を持っていた事も確かです。いつも私をいらつかせる食べ過ぎの問題をどう対処すればよいのかを友人と話していた時に、彼が「それは、自分は食べる権利があると思う感情と関係があるのだ」と言いました。全くその通り! 彼がその言葉を口に出した途端に彼がこの問題の的を射ていたことがわかりました。 また、昨日はいろいろな請求書の支払いをする日でしたが、お金を管理するのが私にとってどうしてこんなに難しいのかを考えていました。するとまた「権利 」という言葉が心に響きました。私は、自分はお金を使う権利があると思っているのです。そのことを私は心の隅ではわかっていたと思いますが、それを正面から見つめたことはありませんでした。一体私は何の権利があるというのでしょうか? それは私の人生で当然起こるべきことが起きなかったこと)に対する払い戻しです。 何と悪魔的なことでしょうか! 払い戻し? 私は生ける神の子、キリストの花嫁、契約の子、神の友なのです。そして私に払い戻しを受ける権利があるですって? 勿論、そんなことはありません。実際、私は何が起こってもすべてのことに「主よ、感謝します」と感謝に満ちた人生を送るべきです。キリストと共に生きる人生では、以前のようには出来なくなったことが多くあります。例えば、以前楽しんでいた事が、今はしずらくなり、昔していた事や昔の習慣をむさぼるかわりに、 本当には悪くないことー食べることとかーということをするようになります。 昔していた事がもう出来ないので、食べることくらいはする権利が自分にはあると感じるのです。そして過度に自分を甘やかす結果、ほどほどにすべきという一線を越えてしまうことになるのです。 律法によってではなく、恵みによって生きなさい! 愛は自分の利益を求めません!豊かに受けたのだから豊かに与えなさい! 「私のものだ! 私のものだ!」 社会における問題の根! 最近、 孫のクローが一週間泊まりにきたので、 ずっと2つのものだけを見ていました。「自動車」と「ファインディング・ニモ」の映画です。12回目に見たときでも私は両方とも大変楽しみました。 「ファインディング・ニモ」 では、ニモがお父さんに従わなかったので危険な目に会います。彼は海から出てしまってオーストラリアのシドニーの歯医者の水槽に入ってしまいます。お父さんと友達は彼を探しに出かけます。彼らはニモを見つけ、住んでいた家に戻ろうとします。しかしカモメがいたのです。カモメは魚が好物です!映画の中では、カモメ達が獲物を見つけるたびに「私のだ!私のだ!私のだ!」と叫んで争奪戦を繰り広げます。‘ 肉的、物質的な世界において、私たちはそれと同じことをしています。 賞を取るために努力をするのではなく、ただ賞の取り合い競い合いをするのです! 自分が欲しいものを手にいれる権利 があると思うので、互いに闘争し戦うのです。ペニー・ジャクソンさんが「権利」ということに関して次のことを話してくれました。 お金の使い方に関しては私の状況はよく似ています。私が一線を越えてしまって借金ができてしまわなければ、お金を使うこと自体は別に悪いことではありません。しかし ショッピングをしているとき、私は自分が欲しいものを買うことは全く正当だと感じます。それは自分が当然 持っているべきだと思うもの(人生における権利として)を持っていないのだから、欲しいものを買う権利はあると思うからです。そこで、この自分の権利主張の問題をよく見極めて、その中の偽りを見つけることが私の重大な課題となりました。実にこれ(権利主張)は地獄の臭いがする「考え方」です。 それでは 私たちに権利を主張させるものは何なのでしょうか? アメリカ人は生まれたときから自分の権利を主張するのが当然なこととして育っていると思いますが、そのことがこういう考えの入口になっているのかもしれません。 アメリカに住んでいるのだから、私たちの人生はこうあるべきだ、というある期待を持っているのです。そしてそのうちに私たちアメリカ人は、自分は優しい夫、又は妻を持ち、言う事をよく聞く子供たちと木立のある住宅地に素敵な家をもつ権利があるという考えを持ってしまっているのではないでしょうか。 どうでしょうか。もしかしたら、テレビが白黒だったときにやっていたホームドラマの遺産でしょうか。「パパは何でも知っている」とか「ビーバーにおまかせ」を考えてください。自分の親がドラマの中のような人物ではなかったので、私はがっかりしたものでした。親はあのように完全なはずではなかったのでしょうか?しかし、そのようなロマンチックで非現実的な親に誰がなれるというのでしょうか。 今、私は50歳になっていますが、夫は今のところ現れる様子はなく、子供も(いい子は勿論のこと悪い子さえ)ありません。両親はドラマの親とは違っていたし、使い放題できるお金もありません(世界で一番豊かに国に住んでいるのに)。私は当然持つべきものを持っていないのだから、私がしたいことは何でもして良いはずだ、と私の奥深くにあるものが私を説得し納得させるのです。「子供時代に恵まれなかったかのだから、私は食べたければ食べたいものを食べてもいいのだ。持つべきはずだった夫や子供がいないのだから、自分で買えるものは買ってもいいし、お金を無責任に浪費していい。みんな私に借りがあるのだ!」と言う風に。本当に馬鹿みたいです。でも私の奥底にはそのような思いがあるのです。それが非現実的な考えであることは分かっていてもです。世界は完全ではありません。多分あなたは「まさか、そんな風に考える人なんかいないでしょう。」と思われるかもしれません。でもあなたの心の奥底を探ってみてごらんなさい。「自分はカクカクシカジカの人生を送っているはずだった」(自分が成した事の故ではなく、だた地球に人間として存在しているというだけで)とあなたが思っていることが多かれ少なかれあるのではないでしょうか。 私たちは神を賛美して人生を送るように造られたのですが、この「自分の権利を主張する」という思いが、期待に胸を膨らまして生きるのではなく、当然起こるべきものとして予期する思いで生きるように私たちをさせてしまいます(期待と予期は全く違うことです)。 そればかりか、私たちを感謝の気持ちの正反対、即ち、感謝をしない不満だらけの心、という結果へと 連れていくのです。そして私たちの内に「どうしてあの人たちだけもらって、私にはもらえないの? 不公平だわ!」という子供じみた叫びを起こさせるのです。 使徒パウロは貧しさの中でも豊かさの中でも、どのような境遇のなかでも満ち足りることを学んだと言っています。(ピリピ4:12)私たちはすべてのことにおいて感謝をするべきなのです。私たちはクリスチャンとしてそうしたいと本当に願い、そうしようと努力していると思います。しかし、限りなく恵み深い主は、 いくら感謝したいと思ってもそれをとても難しくする「偽り」に私たちが落ち込むことを、時として許されます。 それは、私たちが自分でも理解できないような衝動的な行動を取るときのいらだちや不満の原因を私たちがはっきり見るようにと、主は考えておられるためではないかと私は思うのです。 私たちが権利を主張することを正面から見据えて、それが何であるのかを知ることなしには、それに対処することはできません。権利を主張する思いと非現実的な考えに同調するところから私たちが抜け出し、自分が持つべきであると感じている人生よりも優れた計画が私たちのために実は用意されていることを知るまでは、私たちは自分の境遇を歪んだフィルターを通して見てしまうでしょう。 しかし、私たちがこれが偽りであることを正直に見つめてみれば、 素晴らしい喜びと感謝の念が内側からふつふつと涌き上がり、私たちの人生は変えられるのです。なぜならば、私たちは慈しみ深い神に 仕えているのであり、主は私たちの心の願いをかなえてくださる方だからです。主は私たちに豊かな命を与えるために来られたのであり、それは私たちが望む以上、また想像する以上に豊かであるからです。 辞書に「entitle 権利がある」のもう一つ別の定義がありました。それは「資格がある、適当な資格を持って要求する」というものです。イエスの血潮により、主を自分の主であり救い主であると信じることにより、私たちは 主が下さっているすばらしい約束を要求する資格があるのです。そしてこの約束とは「はい、その通りです。 Yes and amen」なのです。その(信仰による)権利を私たちは確かに持っています。神を賛美します!(終わり) トップへ戻る ▲
by walkwithgod
| 2010-09-20 15:39
| アメリカからのメッセージ
自己憐憫(1)
チャック・ピアス 確信を持ち自分の価値を認めることの反対は自己憐憫です。自己憐憫 は、本来自分が受けるべきものが与えられなかったときに起こる感情です。これは日常の生活の中でも、また霊的な分野でも起こることです。自己憐憫はその時の自分のあり方を決めていき、それはつまり大切な「自分の時」を見過ごしてしまうことになります。自分は祝福を権利があり当然受けるべきだと私たちが感じると、 自分の人生に祝福がこない場合に私たちは信仰をなくしてしまうのです。 最もよい自己憐憫の例の一つは、ベテスダの池にいた病気の男です。(ヨハネ5章参照)イエスは彼の状態をすべてご存知でしたが、彼に良くなりたいかと聞かれました。すると男はどうして自分は癒されないのかを説明し始めました。イエスは彼の自己憐憫の言葉を聞くのをやめられて、 彼を癒されました。 私たちは困難な状況に陥ると、すぐに神の約束を忘れてしまいます。私たちに与えられた預言的デスティニーを神が成就してくださるのを、私たちがしばしば見逃してしまうのはこのためです。キリストのからだが大きな試煉を通されるときでも、私たちは恐れたり希望を失ってはなりません。私たちが試煉の中にあるとき、敵はそれを用いて私たちを落胆させるという策略を使います。落胆は期待を長引かせ、期待が長引くとこころが病むのです。私たちの内に一定の失望がたまると、私たちは神に対する期待を失います。 「未来」と「期待」とは同義語です。私たちの未来は神が働いてくださるという期待と繫がっています。教会は今、神に期待するというレベルを新たな一段上のレベルへと上げる時に来ています。イザヤ59章、60章は、私たちの人生の中にこのことが起こるのを見るための素晴らしい祈りのガイドです。希望はそこから信仰へと進んでいかねばなりません。信仰は克服を生み出します。克服は神の力を顕し、神の約束を現実のものとします。 自己憐憫のサイクル 預言は私たちの未来の鍵を開けます。けれども ひとたび傷ついたり何かを失うと、私たちは未来への視野をなくしてしまいます。私たちが戦わねばならない最大の敵は自己憐憫です。自己憐憫は自分の損失にばかり気をとられるので、自分の人生に神の栄光が顕れるのを見る事ができなくなります。 損失がある時も私たちの人生のために神がずっと変らずに下さっている完全なご計画に目を向けるのではなくて、内なる自己がむくむくと起き上がって「私が失ったもののために私を哀れんでくれ。」という言葉を私たちに言わせるのです。 私たちが損失とか、トラウマ、傷、不公平等を被るときは、神は癒し、赦すことが出来ると信じる信仰によって生きるか、もしくは自分の思いが拒絶、自己防衛、自己憐憫になることを許してしまうかのどちらかの選択が常にできるのです。 傷つき損失を被ったとき、私たちは自分が経験しているトラウマに対して神を非難してしまいがちです。この非難、責めの力は一種の「父を失うみなしご」の霊へと私たちを陥れ、私たちは神の子どもになったという信仰の代わりに、見捨てられ失われた者のように感じるのです。 自己防衛は、権威に対する反抗心を生み出していきます。又、私たちは教えを聞かない、受け入れない者となっていきます。私たちの思いは「 私がどんなに辛いかを誰も理解してくれない」というようになるのです。 又、私たちは自分の抱えている問題を解決する道はない、と考えはじめます。 「もうどうしようもない。」と考えながら毎朝目をさますのです。そして癒しや回復の望みを失って無感動、無関心に落ち込みます。しかし私たちは神に従う人生を送るべきであると思っているので 、宗教的メカニズムが私たちにとっての慰めとなります。私たちは殉教者的心理になって「ああ、嘆かわしい。これが私の負うべき十字架だ。このひどく重い十字架を見てくれ。」と言うようになることさえあるのです。このような考えは、 私たちを戦うべきであるときに戦わせないようにします。戦って勝ち取り前進していく 代わりに、安逸と現状維持の奴隷となるのです。私たちはキリストの苦しみに与るようにと(それによって私たちの内に主の復活の力が顕れるのですが)召されていること忘れてしまいます。 神の愛が見えなくなると私たちは自分を見るようになってしまいます。神の愛は私たちの自己憐憫から出てくるこれらの考えを取り扱うようにと私たちを促します。私は今までの人生で十分に自由を経験したので、自由でない時は直ぐにわかります。信仰は愛によって働きます。ひとたび神の自由と愛を私たちが経験すると、自己が「憐れんでくれ」と叫ぶ声に負けることなく、期待が後退するのを打ち破ることができます。(続く) トップへ戻る ▲
by walkwithgod
| 2010-09-17 16:57
| アメリカからのメッセージ
あなたはラッパだ!
ジョン・ベルト 神は御霊を通して 戦うための強い武器を私たちに与えていてくださいます。暗やみの力を打ち砕くことができるように、神は私たちが言葉を話し、大声で叫び、音を出す能力を持つものとして創られました。私たちが神の臨在の中で清い心をもって生きるならば、神の栄光が私たちを通して顕されることを阻むものは何もないのです。 創造する力 神が創造されたものはすべてオリジナルであり、それぞれユニークなものです。私たちは神が創られものすべてを見るとき、全体としても、また一つ一つを見てもそこに美しさがあることがわかります。もし神が創られたものがすべて同じだったなら、どんなにつまらないことでしょうか。しかし神はすべてをご存知なのです。神は命の創始者、且つ創造者であられ、声を発することによってすべてを良きものに創られました。主の御声には すべてのものを目に見えるように実体化する力があるのです。 私たちは神に似せて創られているので、私たちも又、創造する力を持っています。私たちは私たちの内におられる聖霊の力によって、回りの霊的空気を変革し、言葉によって物事を実体化し、命を生みだす能力を持っているのです。私たちの舌は人間の身体の中で最も強い力をもっているものの一つです。 ヤコブ3:6「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」 人間の舌は「不義iniquityの世界」です。しかしイエスに関してはそうではなかったことを私たちは知っています。イエスが語られると「栄光の世界」が解き放たれました。イエスが語られると、神の栄光の世界が解き放たれ、いのちが輝き出たのでした。私たちの舌は強い力であり、サタンもそれをくつがえす力を持っていません。ヨハネが言っているように「神が話すと光が解き放たれ、やみはこれに打ち勝たなかった」のです。神の御国のためにすべてをささげきった器を通して放たれる「栄光の世界」に対抗して戦うことは、やみの勢力にはできないのです! 神の栄光の力はすべてそれに抵抗するものを払いのけるので、敵はくずおれて泣くしかなくなるのです。 清いClean器 私たちの舌が持つ力を本当に理解すると、私たちが義の御国と一致していることがどれほど重要かということを知る必要が出てきます。もし神の民が、愚かなことやゴシップ、陰口などを話すならば、それはやみの勢力に力を与えているのであり、罪を犯しているのであり、罪に縛られていることになるのです。敵の目指すことは、キリストのからだの中に分裂を起こすことです。他人のことを否定的に話すことは決して許されることではありません。私たちは人を敬うように召されているのです。これは私たちがすべての点においていつも他人と同意するということではありませんが、その場合でも私たちは口を閉じて何も言わない程のわきまえは持つべきです。 もし誰かがこのような罪を犯しているのがわかったならば、その解決法は「すぐに悔い改める」ということです。悔い改めは詫びるよりももっと力があります。私たちは「ごめんなさい」と一日中言っていることもできますが、それよりも 向きを変え生き方を変えるほうがよいのです。それが悔い改めの実です。イエスはいつも生きていてすべての聖徒のためにとりなしをしていてくださるのですから、私たちもそれに習うべきです。 ヘブル7:25「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」 祭司としての生活 主の御前で、妥協せずに清さを保ことは私たちの祭司としての責任です。私たちは王である祭司ですから、心に「主のための聖なる者」という金の帯をつけねばなりません。この献身、決意、誠実が主の力の実体を私たちの内に、また私たちを通して世に解き放つのです。 私たちが主の祭司になれるのは、主の恵みによります。私たちが主の栄光を持ち運び、主の臨在の栄光を絶えず解き放つことを可能にするのは、私たちが清いpurityということです。私たちはもっと高くもっと深く進んでいかねばなりません。根が浅いままで高くなると、樹木は長く立っていられません。その木は倒れて枯れます。主の栄光も同じです。もし私たちが天に上るような経験をしたとしても、私たちの根が主の中に深く伸びていなければ、私たちは倒れてしまうのです。誠実Integrity、清さ、無私selflessの献身は私たちが気ままに選択することではありません。それは絶対に必要不可欠なことです。イエスは父を離れては何もできませんでした。イエスの父にたいする献身は清く全きものでした。 あなたはラッパだ! 民数記10:8−9「祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、主の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。」 祭司たちは戦いにおいてラッパを吹くようにと命じられました。それによって主は彼らに勝利を与えられたのです。私たちがラッパのように声を上げ、主が敵をぬぐい去るのを見るという祭司としての人生には力があります。私たちの身体はスピーカーとよく似たように造られています。ベース高声器(ウーファー)もあり、高音用スピーカー(ツイーター)もあります。声の力はウーファー、即ち腹部と胸部から出ます。ツイーターは鼻のところです。鼻には力はあまりありません。しかし、小さくても大切で必要なものです。私たちは霊の奥深いところから 闇の力を打ち破る響きを出すことができるのです。 詩編149:6「彼らの口には、神への称賛、彼らの手にはもろ刃の剣があるように。」 声を高く上げて神を称賛することは、あなたの存在そのものであるラッパを吹くようなものです。私たちの心と動機が清いとき、私たちがラッパのように声を高く上げるならば、栄光に満ちたものが解き放たれるのです!あなたの敵を、あなたを妨げていたものを、あなたが克服すべきものを、あなたが必要とするブレイクスルーを見なさい。あなたの声をラッパのように高くあげてこれらのものの上に神への賛美を降り注ぎなさい! 憚らずに、神のために大声を出して生きて行きましょう!(終わり) トップへ戻る ▲
by walkwithgod
| 2010-09-04 11:31
| アメリカからのメッセージ
主は実を探しておられる
マット・ソーガー イエスは神の民の人生、生活の中の実を探しておられます。遠くから良く見えるだけでは十分ではありません。主は私たちの傍近くに来て、実を探されるのです。 マルコ11:13−14「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」 物事は遠くから見るとすばらしいように見えることがあります。いちじくの木は遠くからは立派に見えました。葉が茂っていました。しかしイエスが近づいて見ると、実が一つもなっていないのがわかったのです。 ここで、御霊の賜物と御霊の実との比較を少ししてみたいと思います。私たちの人生において神の賜物の働きは遠くからは素晴らしく見えるかもしれません。神の賜物は取り去られることはありません。 賜物を受けたあなたはミニストリーを正しく始めることができるでしょう。あなたは神とよい関係にあったので 、御霊の賜物を用い始めることができました。しかし出発が正しいだけではいけません。終りも正しくなければなりません。初めは神とのしっかりした関係の中で出発しても、だんだん神が与えて下さった賜物に乗じて、心の中で神から離れてしまうことが起こりうるのです。 遠くからでもはっきりわかるほどの力強い賜物を持つ事は可能です。しかし、その木にどのような実がなっているのかは、近づかねばわかりません。 季節はずれでも 私たちの本当の実は、自分に最も親しい人たちとの関係を通して明かにされます。 人を本当によく知るようになったときに始めて、その人がどのような実を持っているかを見ることができます。イエスは私たちが賜物を顕すだけの、葉だけ茂った木のようになることを望んではおられません。主は実を見つけたいのです。 主の私たちのためのデスティニーは、私たちが多くの実をみのらす木になることです。 イエスはこのことを大変重要だと思われたので、実のなる季節ではなかったにも拘わらず、いちじくの木に実がないことを責められました。実際のところ、どのような季節であっても、私たちの置かれた状況がどのようであっても、それが いい日であっても大変な日であっても、イエスは私たちに実を結ぶことを望んでおられるのです。常に良い実をみのらせるのは簡単ではないでしょう。それには自分の肉の望むところに死に、自己中心に死ぬことが必要です。しかし、神は実のなる季節でも季節はずれでも、私たちにその用意ができていることを望まれているのです。 第二テモテ4:2−5「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために呼び集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分のつとめを十分に果たしなさい。」 神は実のなる教会を必ずつくられる ヨエルは2:22−24で預言しています。「野の獣たちよ。恐れるな。荒野の牧草はもえ出る。木はその実をみのらせ、いちじくの木と、ぶどうの木とは豊かにみのる。シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主はあなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。」 神はこれからも御民のうちに働かれ、荒野が緑の牧場になるようにされます。乾ききって死んだような場所を再びよみがえらせます。木は実をみのらせ、ぶどうも豊かにみのるようにされます。神はご自分の民に力を与えられるので、私たちは神の望まれるような実をみのらせる者となります。神は御民を御霊にあって強くされるのです。 打ち場は成熟と収穫で満ちる 神は御民の上に後の雨を激しく降らせるので、今までに蒔かれていたすべての種は萌え出て豊かにみのり、収穫することができるようになります。私たちの内に蒔かれたすべての神の言葉は、芽を出し成熟します。即ち、神は御民を成長させられるのです。神は神のからだである教会を大人に成熟されるのです。 あなたが成熟したことを示すしるしの一つは、以前は腹が立ったことが最早気にならなくなるということです。あなたはあまり腹を立てなくなるでしょう。また、自分の肉によって動かされること(肉の反応)が少なくなり、もっと御霊によって導かれるようになるでしょう。霊的成熟のもう一つのしるしは、誘惑に打ち勝ち、神を喜ばせるような歩き方、生き方を学ぶようになることです。霊的成熟はあなたの考え、態度、行動に映し出され、それは特にあなたの最も親しい人との間でそうなるでしょう。 私たちは今、本当に神の臨在と真実の光の中で自分を吟味するべきです。私たちに押し寄せる肉の罪を深く悔い改め、ふさわしくない態度や立腹を後にして、私たちの人生を取り扱ってくださる神の御手に完全に服従するべき時が今来ています。 打ち場は穀物で満ちあふれるでしょう。それは成熟した収穫のことを指しています。それは人々の魂の収穫だけではなく、あなたの中に育まれている神の言葉のみのりの収穫をも指しているのです。あなたは成熟した神の息子、娘になるということです。(人生という)打ち場に今までに置かれていた私たちの人生の中のすべての領域が、成熟と実りという収穫を生み出すでしょう。 満ちあふれて生きるとは 石がめは新しいぶどう酒と油であふれるでしょう。神は御民を、成熟と収穫という場所から、次に「溢れる」overflowと呼ばれる場所へと導かれます。私たちの人生に神の臨在と油注ぎがあふれ、その中で私たちは生きることができるようになるのです。新しいシーズンというだけではありません。それは新しい次元(dimension)に入ることです。神の御民たちは大いなる神の臨在と力を持ち運ぶので、私たちの人生からは神の臨在が溢れだし、それは私たちの回りの環境をも変えていくのです。この溢れるような新たな油注ぎは私たちを変革させるばかりでなく、私たちの回りの世界に深い影響を与えていきます。 神は「丁度足りるだけ」という神ではありません。神は常に「有り余る」神なのです。神はただあなたに「丁度足りるだけ」の油注ぎを与えたいとは思っておられません。神はご自分の臨在と力があなたからあなたの回りの世界に溢れ出て届くほどに、ご自分をあなたに与えたいと思っておられるのです。 一致の祈り 父よ、私は今日あなたの御前にへりくだります。私の人生の中にあなたの祭壇を築きます。自分をあなたに捧げます。罪と妥協のすべての領域を悔い改めます。私があなたに不快な思いを与えたすべての罪をお赦しください。私を清め、あなたの御目に義なるものとしてください。聖霊よ、あなたが喜んでくださるような生き方ができるように助けてください。私の人生にあなたの実がなるようにしてください。私のなすすべてにおいて成熟するように導いてください。新しい油注ぎをいただき、あなたの御霊でいつも溢れて生きられるような力を与えてください。あなたの力で私を満たし溢れさせてください。私がするすべての偽善と 罪を悔い改めます。私の霊、魂、身体を癒してください。私の人生の中にあなたの「常にやどる臨在」を回復させてください。父よ、私たちの国を癒してください。アメリカをあなたに再び立ち帰らせてください。イエスの御名において祈ります。アーメン(終わり) トップへ戻る ▲
by walkwithgod
| 2010-08-30 12:42
| アメリカからのメッセージ
「22:22」という鍵
ボブ&ボニー・ジョーンズ 「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」イザヤ22:22 最近、私と妻のボニーに「22−22」という数が示されましたが、イザヤ22:22はここ数年,何度も何度も私たちに示されてきました。しかし、イザヤ22:22とダビデの鍵に関して、今までは見えなかった何かを今示されていると私たちは信じます。 イザヤ22章では、一つの大きな変化が起こっています。それまで実権を握っていた者たちが、「父たち fathers」によって取って代わられているのです。現在キリストのからだに、多くの「教師」はいますが「父」はほとんど見当たりません。 第一コリント4:15「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」 父たちと母たちが息子たちや娘たちの霊の鍵を開ける イザヤ22:21「その日、わたしは、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、あなたの長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。」 古い権威であるシェブナ(イザヤ22:15)は、上記にあるように、新しい権威であるエリアキムによって取って代わられています。エリアキムは、「残りの者(レムナント)の父」という意味です。 この箇所は私たちに、残りの者の父たちが神の御国の鍵を与えられることを示しています。そして父や母たちが彼らの息子、娘の霊の鍵を開け、それによって息子、娘たちが神の御国を来らせることができるようにするのです。 息子、娘たちは霊のすべての賜物を持って現れ、主の栄光が訪れる道を備えるのです。宗教の霊が彼らを縛って来たところも、今や解放の霊が彼らを自由に解き放つのです。 私たちはかつてなかったような神の賜物の顕れを見ることでしょう。今まで「宗教」が統治して来た場所で宗教が終焉し、神の統治が始まろうとしています。この神の統治は、息子、娘たちの最も奥深い中から、キリストのからだに御国が訪れる道を備えるでしょう。 神の統治とは人民の、人民のための、人民によるものです。 「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」ルカ11:20(終わり) トップへ戻る ▲
by walkwithgod
| 2010-08-21 12:10
| アメリカからのメッセージ
神の息が家族の上に吹かれる時、国々は震える
ビル・ヨント 創世記2:18「人が、ひとりでいるのは良くない。」 私たちは、家族の中に秘められている素晴らしい力を見過ごしてきたか、あるいは過小評価してきたと私は信じます。神は私たちを生まれさせたとき、 家族の中に置かれました。 私たちが地球を治め、この世界に神の御国をもたらす力を生み出す何かが、家族という環境の中にはあるのです。 サタンは「女の子孫 the seed of the woman」を恐れていたと思います。なぜならば彼にはサタンを滅ぼす力が与えられていたからです。私たちの子供たちさえ、門でサタンと戦うことを彼はよく知っていました。(詩編127:5参照)孤独な者(寂しい者、やもめ、孤児、父のない者)を家族の中に入れることが、常に主の願いであった理由がそこにあると思います。(詩編68:5、6参照) 最高の「国宝」はあなたの家の中に 第二列王記4章に、エリシャが二人の息子のいるやもめを訪ねたことが書かれています。彼女にはほんの少しの油しか残っていませんでした。 負債のために彼女の息子たちは奴隷として取られようとしていました。当時の政府は彼女を助けることができなかったので、彼女はエリシャのところに助けを求めてきました。エリシャは「あなたの家には何があるのか?」と聞きました。彼女はいろんな所に助けを求めて出かけたのですが、自分の家だけは見ていなかったのです。つまり、エリシャは「あなたの家の中にあるすごい奇跡の力をあなたは知らないのです。」と彼女に言ったのです。 今日、多くの人たちは私たちの国を救うものを期待してホワイトハウスを見ています。しかし、神は今、神の民に「あなたの家には何がありますか? 最高の『国宝』はあなた自身の家にあることを悟らないのですか?」と言っておられるのです。この偉大な「国宝」は私たちの家族のなかにあるのだと私は信じます。多くの場合、まだ磨かれてないダイヤモンドに価値は見つけにくいものです。あなたの家族に今までに起こった様々な問題が、あなたを祝福する時がきました! 家族が国を救うように整える ヨシュア24:15「私と私の家とは、主に仕える。」 ヨシュアがイスラエルの国に向かって生か死かを選び取れと言ったとき、 彼は 自分が何を選択するかということだけでなく、 彼が家族に対して抱く思いの重要さも伝えようとしたのだと思います。 ヨシュアがすべての父親母親に願っていたことは、彼らが自分たちの家族も主に仕えると宣言することだった私は感じます。 家族が持つ「国全体が滅ぼされるのを免れる力」を彼は知っていたのでしょうか? もし神が彼を救うことが出来るなら、神はまた彼の家族をも救えると彼は信じていたのではないでしょうか。そして更に、神が彼の家族を救えるのならば、国全体をも救うことが出来るとヨシュアは信じていたのではないでしょうか。彼は「国宝」は自分の家の中にあることを信じていたのです! 使徒行伝16:31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 私たちは今までよりも更に家族全員の救いを宣言する必要性がある、と私は感じています。そしてアメリカに対しては「私たちの国家は、神のもとにある一つの国家!One Nation ,Our Nation, Under God!」と宣言し始めるときだと思います。天の父はあなたの家族だけではなく、国家全体が一日のうちに救われることができるという夢を心の中に持っておられます。 イザヤ66:8「だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」 エデンの園以来ずっと、敵であるサタンは、「家族」が彼の王国を滅ぼし、国家全体を救う秘めた力を有していることを良く知っていたのではないでしょうか。ですから彼が家族の上に様々な問題を起こして地獄をもたらすのは何の不思議もないのではないでしょうか。 ヨエル2:28「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」 これから起ころうとしている御霊の傾注は、まず私たちの家族に注がれると私は信じます。そうすればそれがすべての人類に広がるのを止めるものは何もないことを神は知っておられるのです。私はまた、家族のメンバーの一人ひとりが家族の健康と解放のためのある鍵を持っていて、それが究極的に私たちの国の解放という結果を生み出すとさえ私は感じています。もう一度見てください!この国の問題の答えは私たちの家の中にあるのだと私は信じます! 主の言葉。「アメリカよ、わたしの息をあなたの家庭の中に吹き込んでもいいですか?わたしの息を家族の一人ひとりの鼻に吹き込みたいのです。曾おじいさんからお腹の中の赤ちゃんまで。私は今この国の家を一軒ずつ訪れます。わたしは3Dの立体天然色で直接あなたの住んでいる場所に行きます。今あなたの家の住所が記された天使たちが出動態勢で整列しています。彼らはあなたの住まいの回りに陣を巡らし、遠くや近くにいるあなたの家族のメンバーを救うために遣わされようとしているのです。今まで単なる家だったものが、暖かい家庭に変えられるでしょう。 「わたしの息をあなたの家庭に吹き込んでもいいですか? 放蕩息子たちが電話をしてくるでしょう。何年も行方不明だった子供がわたしの霊の息によって救われるでしょう。今までわたしはあなたの家族のメンバーがわたしに抵抗するのを我慢してきました。これまではわたしは彼らの家や心の戸をやさしく叩いてきました。しかし今わたしは強く息を吹きかけて入口の戸を吹き飛ばします。わたしは入っていきます!」 この国のための奇跡は私たちの家にある! 神ご自身の角笛が今、私たちの家庭に吹き鳴らされ始めると私は信じます。そして救い、癒し、解放の音を放ち、家族全部がこの国を勝ち取るために調えられます! 今それを受け取りなさい! 祈り「主よ、私たちは再び生きるために、あなたのいのちの息を家族の鼻に受けとります。私たちは家族全部が王である祭司、選ばれた世代であると叫びます。まだ顕れていない事を、すでに成就した事として叫びます。彼らは救われ、癒され、解放された者だと私たちは叫びます。彼らは「国宝」であると私たちは叫びます。私たちは家族のメンバ−をあるがままの姿で受け入れ、無条件に愛します。私たちは彼らがすでに救われているかのように接します。私と私の家は主に仕えます!」【終わり】 トップへ戻る ▲
by walkwithgod
| 2010-08-09 16:03
| アメリカからのメッセージ
ノアの時代のように
テレサ•フィリップス 私がワーシップをしている時、 主が語られました、「今はノアの時代です。このことを語りなさい。黙っていてはいけません。」と。私はびっくりしました。はっきりとした大きな御声だったのです。「はい、主よ。」と私はお答えしました。すると 私を通して主は預言を与え始められました。「今はノアの時代です。人々がノアのしていることを理解できなかったと同じように、わたしがあなたがたに願うことを人々は理解しないでしょう。」 主の御言葉が大変重要なことであることがわかりました。 主は再び言われました。「今はノアの時代です。箱舟が造られるとき、人々からの反応は嘲笑でした。今度もそうなるでしょう。わたしのために安息の場所を建てなさい。」と主なる神が言われました。「誰がわたしのために隠れ家を建てるでしょうか? 誰がわたしのために建てるでしょうか?」と主が訊かれました。 「今はノアの時代です。わたしは語っています。わたしは求めています。わたしはわたしの御国を建てる協力者を待っているのです。嵐を呼ぶ黒雲がわき起こってきています。わたしは一つの建物、即ち御国の改革、を打ち建てようとしています。それは直ぐそばまで近づいています。誰が建てるのでしょうか?」と主が言われました。私はその時、畏敬の念に打たれて震え始めました。 私たちは何を建てればよいのか? 神よ、ダビデの心を下さい! 第二サムエル7:13「彼はわたしの名のためにひとつの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」 「わたしは必要としています。」と主が言われます。「一つの家、家庭、安らぎの部屋、安息の場所を。わたしは常にノアとその家族たちと共にいました。」と主が言われます。「それと同じようにわたしはあなたと共にいるでしょう! わたしは 安全な新しい箱舟が出来る事を願っています。わたしは地上にわたしの永遠の御国が再建されることを願っています。わたしはわたしの教会がこの仕事のために立ち上がることを願っています。わたしのための家を建ててください。」 使徒行伝7:49「主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。」 私は主が何を指令しておられるのかがわかりました。主は幕屋—手で造られる幕屋ではなく、人々の心のなかに打ち立てられるものーを建て直すようにようにと言われているのです。この幕屋とは、神としもべたちとの間の絶え間ない交わりのことです。 「わたしの民よ、わたしの計画を阻もうとする誘惑に勝て」 主は更に語り始められました。「わたしは今、このために人々を召し出しています。わたしはわたしの民がわたしの計画を阻もうとする誘惑に打ち勝つようにと願います。それはノアの時代と同じように、 人々は、ノアがわたしとの間に持った親密な関係を持つ用意ができていないからです。彼らは怒鳴ったり文句を言って地上で打ち立てられつつあるものをあざ笑っていました。一人の人がわたしの声を聞き、わたしに従いました。その結果、彼とその家族は救われました。造られたものたちも安全な場所に来ました。わたしが箱舟に乗せたものたちは決して滅びないことを知っていますか? 決して滅びません!」と主は言われます。 「人は決して滅びません。わたしのかたちに造られたものは死にません!なぜならば、わたしは永遠の神であり死なないからです。わたしはあなたを決して離れず見捨てないと言いました。わたしを信じなさい。今わたしが進んでいる道は、人間が計画しているものと必ず衝突します。わたしはわたしの御国、わたしの領土、わたしの臨在、わたしの領域、わたしの環境を押し進めていきます。わたしはそれを突然にあなたのただ中にあらわすので、あなたはそれに気が付き畏れで立ちつくすことでしょう。」と主が言われます。 「あなたはシーズンがわかる」 「『何故?』という疑問がわたしの耳によく届きます。『いつ?』が次にきます。しかしわたしはあなたに言います。あなたにはシーズンがわかるでしょう。そのシーズンがやって来たときに種を蒔き刈り入れるのはあなたです。わたしはそれを見て満足するでしょう。わたしはあなたがたのただ中を進んでいきます。」と主が言われます。 エレミヤ8:7「空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。」 「ノアは聞いて従い、あざけられました。しかし彼はわたしの(ことばを聞く)耳を持っていたのです。わたしは今多くの人々に語っています。今この時にわたしは励ましの言葉を送っています。わたしはあなたに宣言します。『わたしは今建物を建てています。わたしはダビデの幕屋を再び建てているのです。』」と主は言われます。 使徒行伝15:16「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を立て直し、それを元どおりにする。」 「これは賛美の家です。そうです、賛美が安全な場所を造っているのです。なぜならばわたしはわたしを賛美するものの中に住むからです。彼らはわたしをさらに賛美するようになるでしょう。」と主は言われます。 詩編22:3「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」「わたしは建て直し、再び顕れ、再び確立しようとしています。わたしの御国がその王を見るときに、この国は変るでしょう!」 「わたしはいにしえの城壁を建て直しています。今も研究者たちはいにしえ人の地の廃墟を発見しています。わたしは見つけられています。そしてわたしは、あなたがもっと熱心にわたしを求めるようにします。」 「今わたしは建物—わたしの御国の建物—を願い求めています。わたしは賛美の家を再建しています。鎚音は海外でも聞かれるようになり、多くの者が「 一体何が起こっているのか?」と言って見に来ます! わたしは祈りの家を再建しています。そして多くの者が来て癒され、わたしの声を聞くことを学びます。わたしは王を愛する者たちの軍隊を再編成しています。そして多くの者が彼らの習慣を改めるでしょう。わたしに近づきなさい! 入ってきなさい! 王に近づきたくない者などいるでしょうか?」と主が訊かれました。 「わたしは王である祭司として再び現れているのです。多くの者たちがやって来て、希望という力ある祭壇の前にひれ伏すでしょう。わたしはわたしの定めた境界線—そうです、それはわたしの律法ですーを人々の心の中に再び確立しています。もう一度、ホーリネス(聖さ)のリバイバルがやって来ます。 わたしの御国がパンの家(ベツレヘム)にその王を見るときに、この国は変えられるでしょう。よく聞きなさい、わたしが王座に座るときこの国は変えられます。「わたしは、人間を通して、人々がわたし自身を『見ることができる』ようにします。それによって 政府のリーダーたちやネットワーク、ビジネス界のリーダーたちに、神のすることが分かるようにします。」 「今はノアの時代と同じように新しい事が起こる時です。目を覚ましてよく見張り、祈り、従いなさい。」 マタイ24:37−38「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」 「この警告をしっかり受け取りなさい、わたしの愛する者たちよ。なぜなら時が迫っているからです。わたしは大いなる変革をもたらすために近づいているからです。あなたはわたしの口から聞きました! わたしはそれをします! わたしを王座にすわらせなさい。あなたの報いは大きいでしょう。御国は近づいています。なぜならば、王が今も王として 認められねばならないからです。ノアの時代のように、わたしの道を学んでいない者は、わたしが語ることができ新しいことを指示できることを信じませんでした。もう一度いいます、『今はノアの時代のように新しいことが起こる時です!』」 「さあ、あなたはこのような時に生きているのです。わたしは今、あなたに言います、あなたの希望やヴィジョンをなくしてはなりません。進んでいきそれを達成しなさい! 今、わたしはリーダーであるあなたに言います、目をさまして見張り、祈り、従いなさい。この建物を実現させねばならないからです!」 第一ペテロ5:1「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。」 「そうです、互いに分かち合いなさい。なぜならばわたしの御国はチームで働かねばならないからです。働き人たち、一致しなさい! 教会は一致しなさい! 人々よ、あなたの知らない人からも主の言葉を受け取りなさい。なぜならばこの地でわたしの御国を建てているのはわたしだからです。わたしが呼んでいるのです。わたしが指示しているのです。わたしは永遠にあなたと共にいます!」と万能の主なる神が言われます。 共に祈りましょう。「愛するイエス様、わたしはあなたの御国のしもべとなりすべてをお捧げいたします。わたしは今日、あなたとあなたの御言葉、そしてあなたの御国の人々に従うことを選び取ります。私は今日、あなたはあなたを礼拝するすべての場所に来られることができ、またそうして下さることを信じます。わたしは彼らを自分の家族として受け入れ、彼らがあなたの御こころを行うように訓戒します。私は今日、あなたと契約を結び、あなたと共に宿り、人々との関係を建て直し、橋を修復してあなたに似たものとなることを選び取ります。これを読む人すべてを祝福してください。アーメン(終り) トップへ戻る ▲
by walkwithgod
| 2010-08-03 07:54
| アメリカからのメッセージ
|
カテゴリ
以前の記事
2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||